カランカラン―― 「おや。いらっしゃい」 田舎村の酒場。扉の鈴を鳴らしたのは、旅人風の男性だった。影が薄いというか印象が薄いというか、目の前にいるのに次の瞬間には消えてしまいそうなほどに存在感が希薄な男。 男性は止まり木のひとつに腰掛け、マスターを見やる。 「軽食と酒をくれないか」 「はいはい」 珍客の注文に、マスターは嬉しそうに応えた。手早くできる簡単な料理を作り、それを酒と共に出す。 その日、他の客の姿はなかった。 男は軽い食事を始めながら、周囲を見渡した。 「この村では酒は流行らないのか?」 「いんえぇ。今日だけ特別です。いつもはもっと賑やかなんですけどね」 「特別? そういえば外もなにやら騒がしかったが、何かあるのか?」 「ええ。明日、年に一度のお祭があるんですよ。それで村中、準備で大忙しです。酒を飲む暇もありゃしませんよ」 「祭か。なるほど、それでか。実は友人にこの時期にここを訪れると楽しめると聞いたものでね」 「ええ。お客さんも楽しんでいってください。よそはどうだか知りませんが、うちの祭は誰でも自由に参加して、自由に楽しめるものですから」 男は杯を軽く傾け、 「その祭はなんと言うんだ?」 聞くと、マスターは実に楽しそうに、いたずらな笑みを浮かべた。 「ふふ、知りたいですか? 聞くと驚きますよ」 「なんだ、やけに焦らすな。そんなに大層なものなのか?」 「もちろん。この村にとっちゃ一大行事ですからね。それに他でもお祭はやっているでしょうけど、うちみたいな祭の仕方は、たぶん他にはないんじゃないですかねぇ」 「そう言われるとますます聞きたくなるな。教えてくれないか、マスター」 「へへ、いいでしょう」 言って、マスターはカウンターの下から一枚の仮面を取り出してみせた。 精巧な細工が施された仮面だ。全体的には黒いが、あちこちに赤い模様が走っている。その表情は、怒りとも笑顔とも取れる不思議なものだった。 「これはお祭に使う仮面です。明日は一日中、村中のみんながこの仮面をつけるんですよ。お客さんも宿屋のおかみさんに言うといいですよ、仮面を貸してくれると思いますから」 「ほほう? 仮面祭か」 「本当の名前はね、こう言うんですよ」 仮面をつけ、マスターは子供のような無邪気さで言った。 「死神祭。死神様を崇め奉るお祭ですよ」 「死神ぃ?」 「まま、詳しいことは明日のお楽しみ、というわけで」 仮面を外したマスターは口元に指を当て、それ以上は何も語ろうとはしなかった。 翌日。旅人の男は宿で借りた仮面をつけ、村の中を見て回った。 なるほど、マスターの言う通り、通りを歩く誰もが仮面をつけている。あちこちに出店が並び、町の広場では仮面をつけた者たちによる芸が盛んに披露されていた。 男が芸を眺めていると、ぽん、と肩を叩かれた。 「や、来ましたね」 男が振り返ると、昨日の仮面をつけたマスターがこちらを見ていた。 「マスターか。死神祭と聞いて大層な名前だと思ったが、実際、死神の影も形も見えないな」 「そりゃそうです。死神様に楽しんでもらうためのお祭りですからね」 「死神が、楽しむ」 見ると、芸も人を笑わせるようなものばかりだ。滑稽な動作で、面白おかしい話で、時にはびっくりするような曲芸で、眺めている人たちを楽しませている。 男も笑いを誘われながら、しかし疑問に思っていた。 「なあ、マスター。どうも気になる。このお祭の、どこに死神が関係するのかね」 「それはお祭が終わったら教えて差し上げますよ。まずは楽しんでください。お祭りとはそのためのものですからね」 問うてもマスターは応えてくれない。仕方なしに、男も祭を楽しむことにした。 次々と繰り広げられる芸に笑い、出店の料理を味わい、祭の空気に酔いしれる。 そのうち、男にもこの祭のルールがわかってきた。 まず、お互いに楽しませることが第一。それは芸を行う者だけでなく、ただ道端を歩む人もそう。常に軽い冗談を交え、いきなりひょうきんな踊りをする。そして、それを見て笑う。それが最も肝要らしい。 また、お互いに名前は呼ばない。さして大きい村でもない、お互いに仮面をつけたところで誰が誰であるかはわかっているだろうに、絶対に名前は呼ばない。どころか、まるで赤の他人のように振舞う。おかげで旅人も楽しめた。 そして、仮面は人前では外さない。これもルールらしい。人目につかない裏のような場所で小休止する人は仮面を外していたようだが、それ以外で面を外した人は見かけなかった。男も仮面は外さないようにした。幸いにも顔の下半分は出ているので、食事には困らない。 楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、早くも日が沈みかけてきた。すると、村のあちこちで火がたかれるようになり、炎がゆらゆらと町を照らすようになった。 今度は火を囲うようにして、踊りが始まる。酒も振舞われ、皆が呑んでは笑い、笑っては食べ、食べては踊るということを繰り返していた。 いつまで続くのだろうと思いながらも男は楽しむ。結局、祭は東の空が白み始めるまで続いていた。 その後、男は宿に戻り、疲れた体をベッドに横たえると、疑問を噛み締める間もなく深い眠りに落ちていった。 昼頃に起きた男は、夕刻になるのを待ち、例の酒場に向かった。今日も客の姿はなく、マスターが一人で店を開いていた。 「マスター、答えを聞きに来たよ」 「いらっしゃいませ。そろそろ来る頃だろうと思っていましたよ」 同じ止まり木に座り、男が同じように注文すると、マスターは手早く料理を作って出してくれた。さすがにメニューだけは違ったが。 「それで、マスター、あの祭とは一体どういうものなんだ? えらく不思議な祭だったが」 「言った通り、あれは死神様に楽しんでいただくためのお祭ですよ」 「けど、死神と言ったら、普通は人を殺す邪神じゃないのか?」 「世間様ではそうかもしれませんがね。この村では、ちょいとばかり事情が違うんですよ」 言って、マスターはあの仮面を取り出してみせた。 「これは死神様のお顔を模して作られたものです。本来なら怒りの表情なんですが、お祭のために笑い顔を混ぜてあります」 「死神を笑わせる、ということか」 「その通りです。ここみたいな小さな農村では、私みたいな商売している人の方が少なくて。大抵の人は農業をして生活しています。そんな農家にとっての大敵が、疫病なんですよ」 そういえば、と男は村に来る途中のことを思い出した。一面に広がる田畑には、青々とした草が植えられていた。 「我々は、疫病のことを『死神のため息』と呼ぶんです。これでおわかりですか?」 「つまり、死神にため息をついて欲しくない。だから、笑ってもらおうと?」 「そうですそうです」 マスターは嬉しそうに頷いた。 「仮面をつけるのは、死神様に我々と一緒に楽しんでもらうためです。名前を呼ばないのも同じ。お祭に死神様が紛れ込んでもいいように、我々は顔を隠し、お互いの素性を忘れて酒や料理、芸を楽しむんですよ」 「そうやって死神に嫌なことを忘れてもらい、また一年の間、ため息などつかなくて済むような気分になってもらおうというわけか」 「いやあ、お客さんは理解が早い」 面白い祭だ、と思った。 死神など忌み嫌われる存在だ。彼の見てきたどこでも、死神を楽しませようなどという概念を持つ場所はなかった。魂を刈り取り、人から大切なものを奪っていく邪神。それが彼の知る死神という存在だった。 「確かに死神様は人の命を奪っていきますけどねぇ、それはその人の寿命ってもんです。人間も植物もいずれは死にます。死神様はそうやって寿命を迎えた人の案内人ってところでしょう。それだけなのに、どこに行っても嫌われる。私はね、死神様がかわいそうでならないんですよ。だからこの村に住み着いたんです」 「ってことは、マスターもこの村の出身じゃないわけか」 聞くと、マスターは照れたような笑いを浮かべた。 「いや、実はお恥ずかしい話、昔は神官やってたんですよ。ただ、天使様も死神様も、私にはたいして違うようには思えなくてねぇ。それ言ったら破門にされちゃいました」 「そりゃそうだ。死神の肩を持つ神官なんて聞いたこともない」 「はは、当然ですね。けど、ま、私はこれでよかったと思ってるんですよ。この村もこの風習も大好きでね。ずっと続いて欲しいと思ってます」 「ああ、オレも気に入ったよ。是非とも来年も楽しみたいね」 「ええ、毎年でも来てください。そうだ、今度はお友達も一緒にどうですか」 「それはいいね。あいつも普段はため息ばかりついているような奴だ。今回は仕事で来れなかったけど、次の機会には連れてきてやりたいね」 「ふふ、またのお越しをお待ちしております」 食事を終えた旅人の男は、ゆったりと立ち上がる。 「いや、楽しかったよ、マスター。それじゃ、また来年」 「こちらこそ」 代金を置いて立ち去った男を見送り、マスターは首を傾げた。 「それにしても変なお客さんだ。目の前にいるというのに、気配らしい気配がない。まるで、それこそ死神のようなお人だ」 |