高層マンション『プレジデンス・フローラル』の十三階が現場だった。
「坂上警部」
 現場責任者の坂上は部下の顔を見やる。
「状況報告」
「はい。被害者はこの部屋の住人である高屋直樹、三十歳。港区にある会社の役員です」
「若手の役員、やり手ということか」
「いえ、その逆です。どうやら社長の甥らしく、単にコネクションだけで役員に就任したようですね」
「ぼんぼん息子か……。それで?」
「はい。第一発見者はマンションの管理人。今朝、八時前くらいに、階下の住人より水漏れがあるとの連絡を受けて確認したところ、天井より漏水を確認したそうです。そこで、上の階の住人を訪ねたところ、死亡しているのを発見したとか。
 漏水の原因は風呂の水ですね。どうやら昨夜から出しっぱなしだったようです」
「なるほど。道理で玄関が水浸しなわけだ」
 見たところ、風呂は玄関を入ってすぐの横扉の先にあるらしい。そこから溢れた風呂の水が階下や玄関を濡らしたということだろう。
 つまり、被害者は風呂にお湯を張っている途中で殺害された、ということになる。
「よほど親しい人間か、あるいは女か」
「その件でも報告はありますが、とりあえず先に被害者の状況を。
 被害者は心臓を包丁で一突きにされたあげく、全身をめった刺しにされています。このことからも、犯人は怨恨の線が濃厚です」
「物取りの線は」
「まだ被害状況が明らかではないので正確なことは言えませんが、可能性は低いですね」
「わかった。それで、さっきの別件てのは?」
「隣人からの情報なんですが、昨日、被害者宅を女性が訪れているそうです。外見年齢は二十歳前後、セミロングの、少し幼い顔立ちの人物だそうです」
「学生かな……。そいつが第一容疑者というわけか」
「はい。しかも、深夜零時頃、被害者が女とケンカをする声も耳にしています」
「そりゃ決まりだな」
 おおよそのあらましを聞いたところで、坂上は現場を改めて見た。
 2LDKの、ちょうどリビングにあたる部屋だ。彼には物の価値などわからないが、芸術品らしい絵画や壷などが飾られている。ぼんぼん息子の道楽ということか。
 しかし、今やそれも無惨なものだ。血に薄汚れ、中にはケンカのとばっちりを食らったのか、破かれた絵画もある。こうなってしまっては、一千万の価値があろうとゴミ同然だ。
 部屋の中は荒れている。確かにこれでは何かがなくなっていてもわかりはしないだろう。だが、物取りらしくないということも坂上は感じていた。
 物取りには物取りのやり方がある。荒らすのは居場所のしれぬ金目の物を探すための行為。こんな、無作為とさえ言える暴れ方をするものじゃない。
「一応、物取りの線でも捜査を進めておけ。本命の班は被害者と交友関係にあった人間を片っ端から洗うんだ。特に女性関係、それも隣人が見たっていう女は最優先で特定しろ」
「はい、了解しました」
「それとマンション住人、全員に聞き込み。および近隣の聞き込み。ま、そんなややこしい事件じゃないだろうけどな」
 どう見ても痴情のもつれ。坂上の目はそう語っていた。部下もその判断に疑問は持たなかったから、何も言わないでいた。

 程なく、隣人が目撃した女性の名前が判明した。
 佐伯加奈、二十歳。現場から少し離れたところにある大学に通う学生だった。
 佐伯は被害者である高屋と交際していたらしい。本人もそれを認め、また、遺体発見の前日に被害者宅を訪れていることも認めた。
「私は十時半くらいに帰りました……、翌日は朝から授業の予定だったので」
 佐伯は事情を聞きにいった捜査員にこう話した。実際、佐伯が翌日、つまり遺体発見日に授業に出席していることも確認が取れた。
 とはいえ、犯人の線がなくなったわけではない。いや、むしろ濃厚になったとさえ言える。何故なら、高屋は頻繁に歓楽街に赴いては、気が向くままに女性に声をかけていたことが確認できたからだ。
 叔父である社長は、そのことを黙認していたらしい。若い頃は遊んでいた方がいい、という考えだったようだ。だから高屋も存分に遊んでいたらしい。
 殺害に使用された凶器は被害者宅にあったものだった。このことからも、犯人が感情的になって殺害に及んだものと推察された。しかし、残念なことに、凶器からは明確な指紋を採取することができなかった。
 坂上は部下たちに指示し、特に佐伯を最重要容疑者として捜査を進めさせた。なんとかして彼女が犯人である証拠を見つけたかったのだが、それはどこにもなかった。
 こうなると、佐伯自身が被害者宅を訪れたことを認めているのは厄介だ。なにせ被害者の家から彼女の持ち物が発見されようが指紋が見つかろうが、当然のことだと突っぱねられてしまう。かといって、殺人に及んだ明確な証拠は、どうにも発見できそうにない。
 状況的には佐伯が犯人であることは間違いない。だが、それが証明できないのだ。
 困り果てた坂上は、顔なじみの検事に相談することにした。
 彼の名前は大岩サキ。まだ三十代だが、いくつかの難しい事件を解決に導いている敏腕検事だ。一般に検察と警察は仲が良くないと言われるが、彼と坂上はいくつかの事件を共に経験、お互いに意気投合し親しくなっていた。
 検察や警察で込み入った話をするわけにもいかない。坂上は大岩を行きつけの喫茶店に誘った。ここは奥まった席があり、店主も気をきかせてそっとしておいてくれるので、他人に聞かれたくない話をするにはもってこいの場所なのだ。
 坂上がコーヒーを飲みながら大岩を待っていると、彼は約束の時間に五分ほど遅れてやってきた。
「すまん、公判が長引いてな」
「呼んだのはこっちだからな、いいよ。それより、ちょっと相談に乗って欲しいんだ」
「お前が持ってくる事件ってのは厄介そうだからなぁ」
「いや、見た目には単純な事件なんだよ、一応」
 大岩の分のコーヒーが運ばれてきてから、坂上は話を切りだした。
 事件のあらましを説明し、
「とまあ、佐伯が犯人であることは間違いないと思うんだが、証拠がないんだ。隣人はケンカの声を聞いているけど、それが佐伯って証拠もないし、その後で殺人に及んだ確証もない。凶器からは証拠が見つからなかったし、それ以外に証拠らしい証拠もない。どうしたものかと思ってね」
「ふむ」
 大岩はゆっくりとコーヒーをすすり、
「つまり君は、佐伯加奈を逮捕するための切り札が欲しいわけだ」
「ああ、そういうことだ」
「そうなると、僕は手を貸せない」
「は? どうして?」
「僕は佐伯が犯人とは思わないからだよ」
「佐伯が犯人じゃない!?」
 思わず坂上は大きな声を出してしまった。あわてて誰も聞いていないことを確認してから、
「おい、大岩。お前は俺の話を聞いていたのか?」
「聞いていたよ」
「じゃあなんで佐伯が犯人じゃない、なんて結論に至るんだ? どう見ても犯人は佐伯加奈で、動機は痴情のもつれだろう」
「動機に関しては僕も異論の余地がない。だけど犯人に関しては君と見解が異なる」
「じゃあ、なにか、佐伯が帰った後に第三者がやってきて、そいつが高屋を殺したって?」
「理屈には合うだろう? 犯人、君が佐伯を犯人と言い張るなら、真犯人とでも呼ぼうか、その真犯人は、高屋と佐伯が逢い引きしていた事実を知り、逆上して高屋殺害に及んだ。噂の多い人物だから、第三者の真犯人がいてもおかしな話じゃない」
「ううむ」
 確かに大岩が言う線もないわけではない。少なくとも物取りなんかよりは可能性が高いだろう。
「だが、それは佐伯が犯人ではないという論拠にはならないはずだ」
「君もたいがい諦めが悪いね。さすがは警部殿だ」
「検察も似たようなものだろう。それよりも、佐伯が犯人ではないと判断した、その論拠を聞かせて欲しい」
「論拠というほど強いものじゃない。ただ、佐伯を犯人と断定するよりは自然に物語を作り上げる筋道があるんじゃないかな、と思うだけの話さ」
「はっきりしないな。つまり、どういうことなんだ?」
「そうだね、その質問に答えるためには、先に調べてもらわなきゃいけないことがある」
「どういうことだ」
「高屋の交際関係について、もう少し詳しいことが知りたい。特に同性との付き合い方だ」
「男ぉ? なんでまた。女を取られた男が刺し殺しにきたとでも言いたいのか?」
「そんなところ。どう? 調べてみるかい」
 挑発するように言うと、大岩はコーヒーをすすり出した。こうなった大岩は、もう何も話さないだろう。それは決して短くない付き合いの坂上にはわかっていた。
「うむむむ」
 大岩が何の根拠もなしに男を調べろなんて発言をするとは思えない。
 それに、今までの捜査は主に女性関係を調べており、男に関してはそれなりの捜査しかしていなかったはずだ。大岩が言うのであれば、捜査をしてみる価値くらいはあるだろう。
「よし、わかった。お前に乗ってやる。そのかわり、間違いだった時にはわかっているんだろうな」
「今度、おごってあげるよ」
「割には合わないが、まあいいだろう。その言葉、絶対に忘れるなよ!」
 釘を刺すようにい言い、坂上はコーヒーも飲まずに伝票をひっつかんで飛び出していった。大岩は友人の後ろ姿を見送り、
「少し働きすぎじゃないかな」
 そんなことを言っていた。

 男性を捜査する。それは捜査本部にとっても盲点だった。
 実際、佐伯をいくらつついたところで、証拠など出やしないのだ。それならばということで、坂上の意見は通り、捜査本部は高屋の交友関係を男女問わず再捜査することになった。
 そして、その課程でひとりの男性の名前が浮かび上がった。
 三宮敬一。売れていない画家志望の青年だ。彼は被害者の住んでいるマンションの近くで、よく路上販売をしていたらしい。写真を見る限りでは線の細い、いかにも文系という青白い青年だ。
 その三宮は、事件のあった翌日から一度も路上販売を行っていないことが判明した。もちろん警察の捜査があって商売はしにくくなっているだろうが、それにしたって警察が来る前に販売をやめているのは、いかにも怪しい。
 そこでより突っ込んで捜査を進めたところ、三宮には同性愛の傾向があることが判明した。その話をしてくれた三宮の女友達は、
「あたし、前に彼に告白したことがあるんです。そしたら、ごめん、ぼくは男の人しか……、ですって。失礼しちゃうと思わない!? あたしが男に負けるなんて! あたしもなんであんなヘンタイに告白しちゃったのかしらね!」
 と、捜査員に当たり散らしたらしい。
 ともかく、これで一挙に三宮が容疑者として浮上してきた。さらに高屋の部屋から採取した毛髪の中に三宮のDNAと一致するものを発見、隣人の証言により、三宮がたまに高屋の家に出入りしていたことなどが確認された。また、現場にあった破かれた絵は、三宮が描いたものであることが確認できた。
 そこで、時期尚早とは思いつつも、坂上は直接に三宮に当たってみることにした。しらばっくれたらそれまでだったのだが、意外にも、三宮はあっさりと自供した。
 いわく、事件当夜、三宮は日付が変わる直前に高屋の自宅を訪れたそうだ。訪問する時間が遅いのは彼らの間の決めごとで、特に高屋がバイセクシャルであることを知られたくないと言った結果だった。
 その日もいつものように訪れ、そしてそこで、三宮は部屋に女がいた形跡――香水を発見してしまった。
 逆上した三宮は高屋に詰め寄った。しかし、高屋は三宮に飽きていたのだろう、冷たく突き放した上、彼からプレゼントされた絵を目の前で破り捨ててしまった。
 その時、三宮の堪忍袋は限界を迎えた。
 三宮はその場にあった包丁で高屋を殺害、さらに感情に突き動かされるままにめった刺しにし、そのまま逃走した。
 三宮の自宅からは佐伯の香水が押収され、それが当日、三宮が深夜に被害者宅を訪れた確定的な証拠となった。三宮自身の自供とも一致、事件は解決との運びになった。

 すべての片がついた後、坂上はもう一度、大岩に会うことにした。
 例の喫茶店で、同じようにコーヒーをすすっていると、大岩はニコニコ顔で現れた。
「やあ、遅くなってすまないね」
「大岩。時間にルーズなのはどうにかならないのか」
 坂上はため息ひとつ、
「まあいい。それよりも、もうそろそろ聞かせてくれてもいいだろう。大岩、どうしてお前は佐伯が犯人じゃないと思ったんだ?」
「うん、根拠はいくつかあった。まず第一に、破られた絵だ」
「絵?」
「そう。もっと壊れやすい壷は無事だったのに、絵は破れていたというのが解せなかった。それじゃあケンカしたっていうより、故意に破り捨てたみたいじゃないか」
「ああ、なるほどな……」
「第二に、被害者が風呂を入れようとしていたこと。犯行時刻が零時前後ということは、被害者はどれほど早くとも二十三時半くらいに湯を張ろうと考えたってことになる」
「それが何か?」
「佐伯がその時間までいたってことは、宿泊するつもりってことだろ? 女性が男性の家に泊まるのに、何もないというのは不自然じゃないか。おまけに被害者は好色という話なんだから」
「別に佐伯が泊まろうが何しようが、関係ないじゃないか」
「君は女性を泊める前に湯を張るのか?」
「……む」
「その可能性がないとは言わない、だけど、普通はシャワーで済ませるんじゃないかな。けど、これは推測であり、根拠としては希薄すぎた。だから僕も、これだけなら何も言わなかったと思う」
「なるほどな。お前が言い渋っていたのはそれが理由か」
「頑固な君なら絶対に納得しないだろうと思ったからね」
 くすくすと笑い、
「もうひとつ、根拠がある。被害者の殺害方法だ」
「ああ、それは捜査会議でも出た。女性が行ったにしては、随分と暴力的な方法だってな」
「まあ佐伯加奈がそれだけの体力を持ち合わせていた可能性は否定できなかったんだけど、これはどちらかと言えば男性的な殺害法法と言えるんじゃないかな。こんなところで性差別するのも問題だけど、ね」
「ふむ。個々には小さな理由、だが、三つも重なると不自然さが増してくる、というわけか」
「そういうこと。だから男性を捜査してみてはどうだろう、って言ったのさ」
「はぁ、やっぱりお前はすごいな」
 坂上は改めて感心した目で大岩を見る。なんだかんだと言っても、やはりこの友人はとても聡い。
「だが、よく男との痴情のもつれなんて可能性を考えられたな。俺だったらとても無理だ」
「ああ、それは簡単なことだったよ」
「なんでだ?」
「僕もそういう点での性差別はしない主義だからね」
 ぞわっと逆立つ毛、坂上は反射的にぎりぎりまで大岩と距離を置く。
「……お前、そう、なのか?」
「冗談に決まっているだろう、警部殿」
 涼しい顔でコーヒーをすすっている大岩。その顔をまじまじと見つめ、
「お前は、冗談なのか本気なのか、よくわからん」
「そうかい。観察眼を養うべきだね、君は」
 ぐっ、と声も出せない坂上。やけに不自然な動作で立ち上がると、
「さ、さあ事件も解決したことだし、久しぶりに家に帰るかなぁ!」
「僕にごちそうするという話は?」
「そんな約束をした覚えはない。逆はあるけどな」
「おやおや……。みみっちい警部殿だよ」
「う、うるさい! いいからいくぞ!」
「はいはい。まったく君は、騒々しいね」
 ぐちぐちと言いながらも、大岩は坂上に寄り添うように付いていく。
 本当に、性別さえ違えばカップルにも見えるのだが。
 はてさて、真実とやらは、今日も迷宮の中にしかないらしい。



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