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命を助ける、それが私の仕事だ。 だが、全ての命は救えない。助けられない命も存在する。 そんな時。私は、どうすればいいのだろう。 「正直に言えば、まだ生きていられるのが不思議なくらいです」 私は彼女の両親を前に、そう言った。 誤魔化す意味などない。その後に告げる可能性に比べれば。 「治療は続けていますが、効果は薄いままです。このままでは、彼女が苦しむ時間を長引かせるだけと言えるでしょう」 「そんな……、何とかならないんですか、先生」 「どうにかなるようなら、すでに快方に向かっています。我々の持つ力では、これ以上は何もできないのです」 母親は、泣き崩れた。父親は顔を朱に染め、私に掴みかかろうとした。 「あんた、あんたそれでも医者か! 病気の人間を治すのがあんたらだろう!」 「その通りです。ですが、料理人が世界中の人に食べさせられないように、我々にも救えない命があるんです。そして、たまたまその『救えない命』に当たってしまったのが、あなた方のお子さんだった、という事です」 「あんた……たまたま、で済ませるつもりかッ!」 白衣の襟を掴む父親の腕を握り、私は答えた。 「済ませたくて済ませているわけじゃない! 助けられるものならとっくに助けている! 不可能なものは、不可能なんですよ!」 「不可能で済ませるのか! 何とかしてみせろよ! それが医者だろう!」 「医者は神様じゃあない! できない事はできないし、救えないものは救えないんですよ!」 力任せに父親の腕を引き剥がし、私は再び椅子に座った。 「もちろん、お子さんを苦しませるのが我々の仕事ではありません。ですから、可能性を示す事はできます」 「……可能性?」 父親はまだ顔を赤くしながらも、椅子に座った。母親は、まだ泣いていた。 「ただし、これは違法になる可能性も高い。知られれば責任は私が取りますが、ご両親も世間から好奇の目で見られ、後ろ指を覚悟してもらわねばなりません。そういう可能性です」 「何、なんですか。その、可能性というのは」 私が言わなくても、理解はしているのだろう。その、可能性を。ただ、現実に認めたくはない、それだけで。 「安楽死、です」 だから、私は言った。言葉にして、現実を前にして、逃げる道を断たなければ。決断は、下せない。 「もちろんお子さんの同意も必要ですが、ご両親にもご理解いただきたい。拒否なされば、現在と同じ治療を続けます。ただ、先ほども言った通り、今の治療は延命効果すらあるのかどうか、判然としていません。ですから、ある日になっていきなり死亡する恐れも、ゼロとは言い切れません」 彼女の現状は深刻だ。少なくても、治る見込みはない。 苦痛と悲哀だけがこの先に待つのなら。自我すら怪しくなるのであれば。 そんな生き方に、何の意味があると言うんだ。 「――少し、考えさせて下さい」 「ええ、じっくりと考えて下さい。結論は、お任せします」 それは、私の決める事ではない。 ……医者は、無力だ。 彼女の病室に行くと、彼女はベッドの上に起き上がり、窓の外を見つめていた。 「何か、見えるのかい」 私が聞くと、振り返った彼女は、言った。 「何も。でも、病室の中でも同じ事だもん」 そう言って、彼女はベッドに横になった。 彼女がこの部屋に来て、もう二年以上にもなる。ベッドから出る事さえ許されず、彼女が見つめるものと言えば、気持ち悪くなるほど白い部屋と、変化の乏しい窓辺の景色だけ。 この二年で。彼女の中から、感情は消えてしまった。 毎日、あるものと言えば痛みと苦しみくらいなもの。新しいもの、希望に満ちたものなど何もなく、ただ己をすり減らす日々。 生きていれば、などと言う輩はいるが、じゃあ、彼女はどうして生きなければいけないと言うんだ。ここまで苦しんで、悲しみすら忘れた人間が、どうして生きなければいけないと言うんだ? 「ご両親に、例の話をしたよ」 私が言うと、彼女は珍しく少しだけ明るい顔色で言った。 「本当? なんて言ってた?」 「考えさせて欲しい、だって。どういう答えを出すのかは、私にもわからないけどね」 「いいよって言ってくれるといいなぁ……」 遠い目で、呟く。 彼女の中に希望はひとつだけある。それは、死ぬ事。苦痛しかない生から解き放たれて、自由になる事。それが、そんな事が、彼女の希望だった。たった、それだけが。 「ねー、先生。どうしたらお父さんとお母さんは、いいよって言ってくれると思う?」 「難しいね。少なくても、私には思いつかないよ」 「むー、先生、駄目だねぇ」 軽々とした口調で、自分の死を望む少女。 私とて、医者になりたての新米ではない。様々な患者に出会ってきた。その中には、救えない命もいくらでもあった。 でも、こんな子はいなかった。皆、必死で生きようとしたり、必死に死のうとした。生を望むにしろ、死を望むにしろ、そこには必死な想いがあった。 だが、この子にはそれがない。もし安楽死が認められなければ、苦しむ時間が延びるだけ。この子にとっては、それだけの事らしい。 この子には、生きるも死ぬも、何の重みもない。 「ごめんね。私はどうにも、君には何もしてやれないらしい」 「いいよ。先生だけじゃないもん。誰も、あたしのためには何もできないんだから」 ――胸が、痛む。 どうしてこんな、まだ中学生にすらなっていない子供が、こんな事を言えてしまうんだ。どうしてもっと、必死になれないんだ。どうして、どうしてッ! 「先生はあたしより、他の人を助けてあげて。あたしはどうせ助からないし、お父さんたちが頷いたって死ぬのが早くなるだけ。それより、それまでの時間、でもってその後の時間を、他の誰かを救うために使ってあげて」 「うん、しかし……」 「ほらほら。こんなところで無駄話をしている暇があったら、手術のひとつでもしてきなさーい」 猫を追い払うように手を振り、彼女は布団の中に潜り込んでしまった。 私は仕方なく、病室を後にした。 夜の病院は寂しい。誰もが眠り、病院という独特な雰囲気に静寂が加わって、何とも言いがたい気分になる。 トイレから出た私は、身震いした。どうにも、この空気は好きになれそうもない。 薄暗い廊下を、宿直室に向かって歩く。窓から入る微かな月光が、幻想的と言えなくもない。 チリン―― 「……ん?」 誰か、いる? よくよく見れば、廊下の先、暗闇の中に、さらに黒い何かが見える。闇より深い、夜空色? 「こんばんは」 透き通るような声が聞こえた。 どうやら、女の子のようだ。感じはかなり大人びているが、背格好からして、まだ小学生だろう。夜空色のワンピースに綺麗な長い黒髪。深紅の瞳は、吸い込まれそうだ。 「こんばんは」 患者、だろうか? それにしては、服装がおかしい。少なくても、ベッドに横たわる者の服装ではない。 「貴方、彼女を殺すの?」 「……何の話、かな」 真っ先に、窓の向こうを見つめる彼女の姿が思い浮かんだ。 だが、安楽死の話は、彼女自身と彼女の両親にしか話していない。こんな子供が知っているはずはないだろう。すると、別の患者の事だろうか。 「彼女を殺しても、彼女はまだ死なないわ」 「どういう事かな?」 これは本当に意味が分からない。殺しても死なないとは、随分と哲学的だ。 「彼女の生は、まだ尽きていない。貴方が手を下せば、確かに彼女の心臓は鼓動を止め、彼女は死に至る。けれど、彼女の意思がそれで途切れるわけではないの。誰にも触れられず、誰にも気付かれないまま、ただこの世に在り続けねばならなくなる」 在り続ける、か。 この子供の話は、私にはよく理解できない。 だが。何故か、真実を言っている気がする。今、ここで私が彼女を安楽死させても、彼女を解放できないような気になってくる。 理由は、わからないが。 「死してなお逝く者たちは、悲哀と苦痛と、そして憎悪に満ちている。それでもなお、貴方は彼女を殺せると言うの?」 「――殺すなと、そう言いたいのかな?」 「いいえ。そうではないわ」 チリン―― 彼女が回る。鈴が鳴る。それだけで、気持ちが落ち着いた。 「彼女がそれを望むなら、それは彼女の生。貴方がそれを望むなら、それは貴方の生。彼女と貴方と、ふたりの結論が同じなら、それが貴方たちの生。私はそれに対して何もしないし、何を言う資格もない」 だから、と少女は続けた。 「これはただの忠告、言い換えれば事実の確認。殺すも生かすも、死ぬも生きるも、全ては生きとし生ける者だけが選べるものだから」 不思議な子、だ。 彼女はどうしろとは言っていない。そういう可能性、あるいは事実があると示しているだけ。その中身は私には理解できないが、ただそう言っているに過ぎない。 なのに、私の中で結論はひとつに収束していく。まるで最初から答えが決まっていたように、一点に。 「君、は――」 「あー! アンジェラ、よーやく見つけた!」 私の言葉は、素っ頓狂な声に遮られた。 と、私の後ろから、誰かが飛び出した。目を凝らして見れば、それは高校生くらいの女の子だった。 桜色の和服と白いミニスカートを組み合わせた服装。手には黒々とした、うごめく何かを持っていた。それが、きゅーきゅーとわめいている。 ……きゅーきゅー? 「もう、エルを置いてどっか行かないでよ! こいつ、あたしの言う事はぜんっぜん聞かないんだから!」 「それは、ごめんなさい。病院に入りたかったものだから」 謝りながら、夜空色の少女は黒い小動物を受け取った。 ――小動物? 「君たち。ここは、病院なんだが?」 「あ? ああ、煩い? 大丈夫、他の人には聞こえてないから」 ぱたぱたと手を振る女の子。煩いとか、そういう話ではなくて……え? 聞こえて、いない? 「ケイ。病院にエルは持ち込んではいけないものじゃないかしら」 「え? あ、そっか。そーいやそんな気がしないでも? あはは、ごめーんね。すぐ行くから」 「いや、その前に、君たちは――」 「じゃーね! ほら、アンジェラ!」 黒い少女を促す。少女はくるりと回り、 チリン―― 消えた。 「え?」 目をこすり、周囲を見渡してみた。だが、ふたりと一匹の姿は、どこにもなかった。 「何だった、んだ?」 おばけか何かだろうか。少なくても、超常現象であるのは間違いないだろう。非現実的も限度を超えていて、どうにも慌てる気力も起きないが。 「……彼女を殺せるか、か」 何でも構わない。彼女は、私に結論を出させてくれた。 私はもう、迷う必要などない。 「……やはり、そうですか」 両親の結論は予想の範囲内だ。自分たちの子供を、自分たちで殺す。それが子供の事を想った行為でも、そうそうできるものじゃない。 「――はい、今は、まだ。それに、治らないと決まったわけではないんでしょう?」 「全力は尽くします、としか言えませんね。医学的な見地から言えば、治らないだろうと予想できます。だからこそ、あんな提案をしたわけですからね」 見れば、両親はやつれている。かなり悩んだのだろう。 この両親は、どこまで悩んでも、どこまで苦しんでも、安楽死という結論は出せまい。それはこの両親が悪いわけではない。それが、普通だからだ。 だからこそ。私が、活きる。医者は無力じゃない。持っている力を、倫理と世間の目に阻まれて、完全には発揮できないだけなんだ。 「とにかく、娘をお願いします。治療費なら、払いますから」 「わかりました」 告げ、私は立ち上がった。それに習い、両親も立つ。 両親を部屋の外に出し、見送ったところで、私は足先を病室に向けた。 階段を登り、いつもの個室の前で立ち止まった。 「……ふう」 緊張は押し殺し、扉をノックした。 中から返事が来るのを待ち、私は扉を開いた。 いつもの場所で、いつものように、彼女は窓の外を眺めていた。 「何か、見えるのかい」 「何も」 すぐさま、彼女は返す。それでも彼女は、窓の外から目を離さなかった。 「ご両親に会ってきたよ」 くるりと振り向いた彼女の目は、久しぶりに輝いていた。 「どうだった?」 努めて冷静にしているのだろう。いつもとさして変わらぬ調子だった。 私は、首を横に振って答えた。 「……そう、なの」 彼女は残念そうに顔を伏せた。その横に座り、私は尋ねた。 「そんなに、死にたいのかい? 生きていないと何もできないのに?」 「うん、そんなのわかってるよ。でもさ、もう疲れちゃったもん。治療って言うけど、ただ痛いだけで何も治らない。自由にもなれないし、ずっとベッドの上。そんなの、死んでてもあんまし変わらないじゃない?」 「そう、か」 何度、聞いても。彼女の答えは変わらない。どれだけ尋ねようとも彼女の答えはひとつ。死を、望んでいる。 「なら、それでいいか」 「ん? 何を?」 「君の望みに関して、私ができる事をしようという事さ」 私は、笑えているだろうか? 病院の一室に、少女が横たわっている。その周囲には泣き崩れる母親と、ぐっと唇を噛んでいる父親がいた。 そして、白衣の男が立っていた。仮面を被ったように強い無表情で、じっと、もう動かない体を見つめていた。 その光景を、かたわらから見つめる少女たち。ひとりは桜色。ひとりは白色。そして、ひとりは夜空色。 「ねえ。あんた、本当に良かったの?」 桜色に問われ、白色は答えた。 「満足だよ。あたしは、あたしでいられる間に死ねたし。自分が誰かもわからなくなるくらいに苦しむなんて、あたし、嫌だから」 「……それは、ちょっとだけわかるかも」 過去の映像を思い出したのか、桜色はぶるりと震えた。 チリン―― 「己が己でいられない苦痛は、現実の痛みよりも遙かに苦しい。もちろん、人によるけれど」 「――うん、あたしは、そう思った」 「その想いが、何よりも大切。貴女が思うのであれば、貴女の世界において、それは絶対。他者が何を言おうと、それは他者の基準。貴女の基準ではないのだから」 人の想いを何よりも大切にする少女は、ふっと白い少女を見つめた。 チリン―― 「それで。貴女は、どうするの?」 「んー。もうしばらく、先生のそばにいたい。あたしは先生のために何もしてあげられないけど、でも、ちょっとだけそばにいたいの」 「アンジェラ。いいの?」 桜色の少女は不安と心配を内に秘め、夜空色の少女に問うた。漆黒の衣装を身にまとう少女は、頷いた。 「この子は、大丈夫。もしこの子が堕ちるのであれば、その時はその時。私が終わらせるわ。もっとも、そうはならないでしょうけれど」 桜色の少女は微笑んだ。優しく、暖かく。 「わかった。それじゃ、行こう、アンジェラ」 「ええ」 「もう、行っちゃうの?」 白色の少女はふたりを見つめた。黒色の少女は頷き、答えた。 「私たちは立ち止まるわけにはいかない。やらねばならない事、やるべき事がいくらでもあるのだから」 白色の少女はタイル張りの床を見つめ、そして、顔を上げた。その顔には、笑顔があった。 「そう、なの。うん、わかった。ありがとーね、ふたりとも」 「あたしらは何もしてないけどねー」 「ええ。全ては、彼と、貴女の意思だから」 ふたりの少女は横たわる死者と悲しむ生者を見つめ、振り返った。 「では、もう会わない事を願うわ」 「じゃーね」 チリン―― 夜空色の少女がくるりと回る。そして、ふたりの姿は消え去った。 白色の少女はふたりの立っていた床を見つめ、そして、両親を見た。 「……ごめん、ね」 誰に対しての呟きなのか。それは誰に届く事もなく、最初から何もなかったかのように消えてしまう。 少女はいつまでもその場に立ち尽くしていた。その部屋の時は、止まっていた。 その良し悪しはわからない。それはあくまでただの事実だから。 その善悪を決めるものは、ただ、人の心のみ。 チリン―― |