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この世界は下らない。 僕の世界はまっくらだ。何も見えない。何もない。 僕のなかはからっぽだ。僕のなかには何も見えない。何もない。 たった六畳の狭い部屋。ここだけが、僕だけの空間。でも、ここには何もない。 ベッドと机。本棚もあるけれど、何も入っていない。僕が子供の頃に父さんが買った辞書と教科書だけだ。 ドタドタドタ。廊下を歩く音がする。 やがて、足音は僕の部屋の前で止まった。間を置かず扉が叩かれる。ドンドンドン。 「ワタル! ここを開けなさい! ワタル!」 父さんの声がする。でも、従わない。僕にできる、小さな抵抗。 ドンドンドン。扉を叩く音だけが響く。 「ワタル! どうして学校を休んだんだ? 何が気に入らない!? 父さんに話してみろ。相談に乗るから!」 ふん。父さんに相談したって無駄さ。これは僕の問題なんだから。そして、誰にも解決なんかできない。もちろん、僕にも。 「ワタル……」 扉を叩く音が鳴り止む。続いて廊下を歩く音が聞こえてきた。ドタドタドタ。 「なんだ。もう諦めちゃったのか」 ベッドに座り、壁に背を預け、外の暗い闇を見る。 誰かが、死んだら何もない世界になるって言ってたな。だったら今の僕の世界と同じだ。それなら……死んでもいいかもしれない。 チリン―― 何だろ? 鈴の、音……? 「死にたいの?」 え……? 声の方向。そこには、少女がいた。 夜空色のワンピースを着た、長く美しい黒髪の少女。ただその肌だけが、雪のように白かった。 「だ、れ……? どうやってここに入った!?」 「私? 私は死導者。生を喰らい、死を導く者」 チリン―― 少女の手首には腕輪があった。小さな鈴がついた、簡素な腕輪。 「名前はない。同業者には死喰いって呼ばれてるけどね」 しどうしゃ? しくい? 何の事だ……? 「貴方たちの言葉で言えば……死神、かな」 「しにがみ? ……死神!?」 こいつ、イカレてるのか!? いや、でも部屋の扉は閉まっていた。窓は開いていたけど、僕がずっと見ていたんだから誰も入ってきてない事が分かってる。だったら、こいつは……? 「で、貴方は死にたいの?」 濁りのない瞳が、ものすごく近い。 「あんた、死神って言ったよな。だったら、僕を殺してくれるのか?」 「……どうして死にたいの?」 「簡単だよ。この世界が下らないからさ」 イジメ、窃盗、殺人、傷害。この世界は汚くて、悪意に満ちていて、そして……下らない。 「もうこんな世界にはうんざりなんだ。だったら、この世界じゃない世界に行きたくなって当然だろ?」 死神の少女は僕の答えに満足していないみたいだった。顔が不満の色に染まっている。 「……貴方には、見えないの?」 「見えない? 何が?」 少女は窓辺に近づき、外を眺めた。 「この世界はとっても美しい。確かに嫌な事も、汚い事もたくさんある。だけど、この世界はそんなのを吹き飛ばすくらいに美しいの。もっとも、目を閉じ耳を塞いだ貴方には分からないかもしれないけれど」 「美しい? この世界が?」 何を言ってるんだ。コイツ、やっぱ頭がどうにかなっちゃってるのかもしれないな。 「死にたければ死ねばいい。今、この窓から踊り出るだけで人間の貴方は死ぬ。何も迷う事はないわ。確かに貴方の思う通り、貴方には何もない。からっぽだから、死んでも何も残らない。それだけよ」 「死神なんだろ? だったら僕を殺してくれよ」 「……どうして自分で死なないの?」 馬鹿だ。やっぱこいつは馬鹿だ。 「自分で死んだら苦しいかもしれないだろ? お前、死神だったら僕が苦しまないように殺せるんじゃないのか?」 「……また、逃げるのね」 チリン―― 少女がくるりと回る。鈴が鳴る。切ない音色。 「人から逃げて、父母から逃げて、世界から逃げようとして。しかも刹那の苦痛すら耐えられない。情けない子。私は貴方を殺さない。あまりにも情けなくて、私が殺すのに値しない」 「……なんだ。やっぱ嘘か。だよな、死神なんているわけねーもん」 少女の眉根が寄った。単純なヤツ。 「殺そうと思えば、私は貴方が瞬きをしている間に貴方を殺せる」 「やってみろよ。でないと嘘かどうか判断できないだろ?」 少女の表情が一層、険しくなった。そして、僕が瞬きをした瞬間。本当に、少女の姿が消えた。 「あれ?」 「……これで分かった?」 少女は、僕の後ろにいた。その手に握られているのは、少女の姿にはあまりにも不釣合いな剣。豪華な模様が彫られた、まっすぐな剣。 「貴方が死に値する人間なら殺している。でも、貴方にはそれだけの価値すらない。本当に、何もない。何も得ていない貴方は、何も失うものがない。」 チリン―― 少女がくるりと回る。いつの間にか、剣は消えていた。 「本当は貴方自身が気付いていないだけ。貴方はたくさんのものを持っている。なのに、気付いていない。人間はいつもそう。本当に大切なものは失くさなければ気付かない。中には失くしたって気付かない奴もいる。だいたいそういう奴は、殺すにも値しない奴ばかり。そして、貴方もそのひとり」 たくさん持っている? 何を馬鹿な。本当にこいつの言う事はわけのわからない事ばかりだ。 「目を開いてみなさい。耳をすましてみなさい。勇気を持って踏み出してみなさい。貴方が変わらなければ貴方の世界は変わらない。貴方はすでにその事実に気付いている。気付いていながら、現実から逃げている。怖がらないで。貴方の目を、耳を塞いでいるものは取るに足らない恐怖心。そんなもの、貴方には必要ない」 「何なんだ? 何が言いたいんだよ? もっと具体的に言ってくれなきゃわかんないよ」 なんだ? どうして僕はこんなのと話してるんだ? ……理由はわからないけど、なんだかこいつには嘘を吐けない。どうして、だろう? 「それは貴方が考え、貴方自身が答えを出さねばならない。でも、ヒントくらいならあげられる。貴方はどうして学校に行きたくなくなったの?」 「……クラスメートが馬鹿ばっかりだから」 そう。あいつらは馬鹿ばっかりだ。僕を理解できない。理解しようともしない。そんな、下らない連中。 「本当に? 原因はもっと小さなもの。それはまるで坂道を転がる雪玉のように大きくなってしまった。でも、本当の種はとても小さい。それに、気付かなければいけない」 「種……?」 僕が、学校に行きたくないと思った本当の理由? 「それに気付くまで……私は何も言わない」 チリン―― 少女がくるりと回る。途端、その姿が消えた。 「……あれ?」 右。左。後ろ。上。下。どこにも、いない? 「何だったんだ……?」 ――本当の種はとても小さい。 「種、か……」 ゴロリとベッドに横になってみる。僕が学校を嫌うようになった理由。誰にも話していない、本当の理由。 「……種、か」 チュンチュン。 ん……いつの間にか寝てたのか。今、何時だろ? えーと、7時? なんだ。やけに早く目が覚めちゃったな。学校に行く時だって7時半に起きてたのに。 ……今日は、学校に行ってみようかな。 「よいしょっと」 ベッドがら降りる。壁に掛けてある制服に袖を通す。そして、部屋から出る。 「……ワタル!?」 「ん……」 お母さんが驚いた顔をしてる。お父さんは不機嫌のままだ。 「あんまり食欲ない。朝ごはんはいらないよ」 「……ワタル。食べていきなさい。力が入らないぞ」 「……じゃあ、ちょっとだけだよ」 それだけ言って、洗面所に行く。トイレを済まし、顔を洗い、寝癖を直す。 簡単な朝の準備を済ませて台所に戻ると、もう朝ごはんは出来ていた。食パンに牛乳、それに卵焼き。 さっさと食べて、いつもよりも早い時間に家を出た。 いつもよりも早い時間のせいか、学校には人がいなかった。教室に行っても誰も居ない。別に構わないけれど。どうせ、友達なんかいないんだ。 僕の机。窓際の一番、後ろの席。黙って座り、窓の外を見た。チラホラと生徒の姿が見える。こんな早くから来るなんて暇な連中。 「種、か……」 昨日の少女の言葉。それが未だに引っかかる。 思い当たる節がないわけじゃない。でも、信じられない。 そうだ。僕が悪いんじゃない。他の連中が悪いんだ。そうでなきゃ、僕が駄目なはずがない。 小学校ではいつも一番だった。勉強も運動も、誰にも負けなかった。 それが中学に入っておかしくなった。勉強でも運動でも一番になれなくなった。それでも、まだ頑張ろうって思ってた。負けたくないって思ってた。 自然と勉強をする時間が長くなった。その分、クラスメートと話さなくなった。みんなが僕を変な目で見るようになった。それでもまだ平気だった。人と話したりもした。 決定的だったのは……きっと文化祭の時だ。 初めての文化祭。でも、僕にはどうでもよくなっていた。何をやっても一番になれなくて、面白くなくなっていた。それで、つい……みんなが作った作品を、蹴っちゃった。 みんな怒った。釣られて僕も怒った。何がなんだか分からなくなった。 文化祭が終わってもみんな僕を嫌な目で見た。汚いものを見るような目。それが嫌で、学校に行きたくなくなった。 全ては僕から始まった。上手くいかなくて自棄になって、八つ当たりして。 みんなが馬鹿? 何を言ってるんだ、僕は。僕が馬鹿だったんじゃないか。僕がガキだっただけじゃないか。 ガラリ。 教室の扉が開き、何人かのクラスメートが入ってきた。僕を見つけて、嫌そうな顔をした。 僕は黙って席を立ち、頭を下げていた。 「……ごめん」 自然と言葉が口から出てた。僕が、悪かったんだから。僕が、謝らなきゃいけない。僕が、変わらなきゃいけない。 「本当はもっと早く言わなきゃいけなかったんだよね。でも、僕が馬鹿だったから。だから、気付かなかった。本当は僕だけが悪かったのに、それをみんなのせいにした。謝っても許してもらえないかもしれないけど……」 ドン! 誰かが僕の背中を叩いた。顔を上げたら、クラスメートの顔が目の前にあった。 「もう、いいや」 他のクラスメートも笑っていた。僕の前の顔も、笑っていた。 「面白くない事なんていくらでもあるもんな。八つ当たりしたくなる時だってあるわけだし。謝ってくれたし、ずっとギスギスすんのも嫌だからさ。もう、いいよ」 他のみんなも頷いている。 そうか。簡単な事なんだ。最初から謝れば済んだんだ。だって、悪いのは僕だから。 謝っても済まない事ならなおの事、僕が謝らなきゃいけなかった。謝っても済まないけど、謝らなきゃ始まらないんだ。 「みんなはすぐは無理だろうけどさ。まだ付き合いは長くなるんだし、仲良くしよーぜ?」 「……うん」 チリン―― 『やれば出来るじゃない』 少女の声が聞こえた。僕は、心の中で答えた。 うん、ありがとう。指導してくれて。 『……私は死導者。死を導き、生を知る者。貴方に死を導くのは、まだ早い』 チリン―― 頬を温かい何かが流れてる。クラスメートの女の子が、ハンカチを渡してくれた。 久しぶりだな。僕の中に、何かがある。それを感じる。 僕はもう、からっぽじゃない。こんなにも、温かい……。 白い壁の校舎の外。グラウンドを見下ろすように少女が浮いている。 「人間って、変わっている。あんな事で仲直りできるなんて……。あんな事で、仲違いできるなんて」 くすくすと少女は笑う。 「貴方は恵まれている。この世でも珍しいほどに。とても羨ましくて、妬ましいほどに」 少女のくすくす笑いは止まらない。 「さあ、次に行きましょうか。こんなところでいつまでもいられるほど、暇じゃないしね」 チリン―― 「分かってるわ。でも、この戯れは止めない。これを止めれば、私は戦う意味がなくなってしまう。私は私のために戦う。そして、この戦いの真の意味は、この戯れにこそある」 チリン―― 少女はふわりと空を舞い始めた。 「さあ、この喜劇を早々に終わらせましょう。もっとも、終わらないからこそ喜劇なのだけれど。この美しくも悲しい世界を覆う喜劇の幕に触れられるのは、私だけなのだから」 チリン―― 少女は青い空に溶け込んだ。小さな鈴の音を残して。 |