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軽く頭を振り、考えをたたき出す。そして、振り返ると、アンジェラはさっきと同じところに呆然と突っ立っていた。 「や、アンジェラ。終わったよ」 声をかけると、ビクリ、と肩を震わせる。小動物を連想させた。 「だーから、もう大丈夫だってば。何をそんなにビクビクしてんのよ? らしくないわよ」 できる限り優しい声になるように努めながら、手を伸ばす。しかし、アンジェラはそれを取ってくれる気配がない。 仕方なしに、強引に手を取り、アンジェラのおでこに額を重ねた。 「アンジェラ。苦しみはあたしが殺す。悲しみはあたしも背負う。あたしたちは、あまりにも負の感情ってのに晒されやすい場所にいる。だからこそ、ひとりだなんて思わないで。アンジェラには、あたしがいるから」 チリン―― 「おいおい。君だけじゃないだろ」 額を離すと、ルカがエルを頭に乗せてあたしを見ていた。 「あ。あんたいたの」 「君をここまで案内してきたのはだーれーだと、思っているのかな」 「エル」 「……いいだろう、ケイ。この空間の中でボクに逆らうという事の意味を全身に刻み込んであげるよ」 「冗談よ。あんたってそんなにキレやすいわけ?」 ルカは軽く嘆息すると、ひょいとアンジェラの前に立った。 「アンジェラ、だからいつも言ってるだろう? 深く関わっちゃいけないって」 「ちょっとぉ、それってどーゆー意味よ」 ルカは、ちらりとあたしを見た。少しだけ、冷たかった。 「言葉通りさ。触れ合うから心が痛む。近づくから心を傷つけられる。 ボクたちには無限の時間がある。人間とは比べられないほどの長い時間がね。その時間を、人間と同じか、それ以上に濃くしようとすれば、全体はとんでもなく黒くなってしまう。 ボクたちは、人間よりもずっとずっと薄い、死んだような生を得るべきなんだ。そうでもしなきゃ、心が耐えられない」 「なぁにを勝手に決めつけて、おまけに今までのアンジェラを全否定してるわけ」 腰に手を当て、ルカをにらむ。いつの間にか、その頭に乗っていたはずのエルまでもが、あたしの肩で毛を逆立てていた。 「わかってるわよ、あたしだって。生きている人は段々と老いて、死んでいく。消滅していく。そんな過程に付き合っても、悲しみがたくさん増えるだけって。 それでも、悲しみしか得られないわけじゃない。綺麗ばっかの世の中じゃないけど、綺麗なものだっていくらでもある。アンジェラは、それを守りたいって思ったから、こうして生きてきたんでしょ」 レティシアは、悲しみの象徴なんだろうか。アンジェラにとっての。 だとすれば。アンジェラが最も悲しむ事、それは……。 「守れない事。それが、アンジェラにとって何よりも辛い事よ」 あたしはアンジェラじゃない。だから、アンジェラの感情を断言するなんて、本当はできるはずもない。 だけど、これだけは間違っていない自信がある。もしも目の前に、自殺しそうな人とか、嘆き苦しんでいる人がいたとして。それを見過ごし、何もしない事は、アンジェラにとってこれ以上ないほどの苦痛になるはずだ。 「全員を守れるわけじゃない。だから、悲しみがなくならないって事もわかる。けど! 悲しみを放置なんてできるわけないでしょうが!」 あたしの言葉、そのひとつひとつに、ルカは震える。それでも気丈な眼差しは変わらない。それが、どことなくアンジェラを連想させた。 「んなどっかのババアみたいな死にかけの生活なんてアンジェラには似合わない。苦しくても悲しくても前に進む! 前がなければ横に進む! とにかく進む! 立ち止まってる暇なんてありゃあしないわよ!」 「しかしだね! ケイ、君はまだ歴史が浅いから知らないだろうが……」 「もう、いいわ。ルカ」 ルカの言葉を遮ったのは、あたしでもエルでもなかった。 ルカは驚いて振り返る。その顔に浮かんでいるのは、焦りの表情だ。 「よくないよ、アンジェラ! ボクにはアンジェラの悲しみが痛いほどに伝わってきている! 君は今までどれだけ苦しんだ!? どうしてこれ以上を望むんだ!」 「それが、私の選んだ道だもの」 今にも倒れそうなほどに儚げなアンジェラ。けれど、そんな外見とは裏腹に、足はしっかりと空を踏みしめている。 「ありがとう、ルカ。ありがとう、エル。ありがとう、ケイ。 私は、とても、幸せだわ」 突然、ぶわっと空の色が変わった。くすんだ色の曇り空は、抜けるような青空に変わる。眼下に広がるのは、あたしたちが生きる、日本の町並みだ。 「そうね。私たちはたくさんの苦痛に触れてきた」 ビルの屋上に、住宅街の通りに、交通量の多い道路の歩道橋に、暗い顔の人間が現われる。 アンジェラが今まで出会い、けれど、救えなかった人たち。 「でも、同じように、たくさんの幸福にも触れてきた」 高校の校庭に、団地の中の公園に、大きな川にかかる橋の上に、明るい顔の人間が現われる。 アンジェラが出会う事によって、救われ、希望を見出した人たち。 「世の中は必ずしもハッピーエンドになるとは決まっていないわ。逆に、バッドエンドになるとも決まっていない。もしもそうなら、私はとっくの昔に諦めていた」 アンジェラが戦っていた理由。一時期はそれさえ見失いかけていた、大切なモノ。 「この世には悲しいエンドがある。だから、私は守ろうと思えた。バッドエンドが溢れているからといって、それは、私が諦める理由にはなりえない」 「アンジェラ……」 ルカの、力を吐き出すような声が、風に渡る。 いつからか、空に風が吹いていた。 「ごめんなさいね、ルカ」 いたずらっぽい、子供のような笑みを浮かべ、アンジェラは言う。 「私、また貴女に従えないわ」 ルカは何かを言いかけ、口を閉ざす。ぱくぱくと、まるで金魚のように困った顔をしながら言葉を捜し、ようやく搾り出せた言葉は一言。 「バカ」 それだけ言って、ルカはそっぽを向いてしまった。その様子に、思わずくすりと笑ってしまう。 「それじゃ、アンジェラ、戻ろうか。あたしたちが生きる場所、あたしたちが必要とされる場所に」 「ええ。ルカ、お願い」 ルカはちらりと不満げな顔を見せながらも、くるりと回る。 景色が徐々にゆがみ、はっきりとしなくなってきた。それでも、淡い色に包まれた空間は、どこか優しげで、心が安らいだ。 「あ、そうそう。ケイ、たぶん勘違いしているだろうから最後に言っておくけど」 「ん? 何よ」 ルカは少し間を空け、思い切り笑ってみせた。 その顔は、ちょっと、可愛かった。 「ボク、女だよ?」 「――は?」 「正確に言えば雌性だけどね。要するに、女性的な人格って事。どうせ君、ボクの外見と一人称だけで男って思っていただろ?」 「いや、それだけじゃないけど……、あんた、そうなの、女なの」 溶け混ざっていく世界に残るルカを見ていたら、なんとなく、言いたい事がわかるような気がした。 「ケイ。君は眷属なんだ。アンジェラの事――頼むよ」 だから、あたしも返す。 「何を言ってるのよ。あんたなんかアンジェラの一部でしょうが。あんたこそ、アンジェラの事、頼むわよ?」 お互いに見つめ合い、お互いに、まったく同じタイミングで笑い出す。 世界が消えてなくなる直前。 あたしの耳に残っていたのは、笑い声だった。 目を開くと、土の匂いがした。 体を起こすと、あたしの隣ではアンジェラが寝ていた。アンジェラの寝顔は初めて見る。普通に可愛かった。 「おはよう、ケイ。よく眠れたかしら?」 アンジェラに見とれていると、マリアの声が聞こえた。マリアは龍穴の封印の上に座っていた。 「あんた、そんなところに座っていいわけ? バチとか当たらない?」 「私に天罰を下す事のできる者がいないわ」 「あー、そう……」 石の塊からひょいと飛び降りたマリアは、アンジェラの枕元まで来ると、そっと頬に手を寄せた。 「貴女が戻ってきたという事は、成功したのね?」 「ばっちり。レティシアは殺してきた」 「……レティシア。そう、彼女だったの」 マリアは目を伏せた。その瞳に、悔悟の色が揺れている。 「知ってるの?」 「ええ。彼女の死は、私も見届けたもの」 「――あんたが気に病む事じゃないわよ」 「かもしれないわね」 そっと立ち上がったマリアは、足を空に向けていた。 「もう行くの?」 「今は、貴女たちだけの方がいいでしょう?」 「ん、わかった。色々とありがとう。おかげで助かったわ」 「私は、償っただけよ」 マリアが空に消えた直後、うん、と小さな声が聞こえた。視線を下に戻すと、アンジェラが薄く目を開いていた。 「おはよ、アンジェラ」 さっきマリアがしてくれたのと同じように声をかける。アンジェラは、小さな笑みを口元に張りつけた。 「おはよう、ケイ。もう朝なのね」 「みたいね」 視線を上に向ければ、まぶしいほどの陽光が目に入る。 今日も、快晴だ。 チリン―― 揺れる鈴を眺めながら、桜色の眷属は首を傾げる。 「そういえばさ、ルカって名前、いつあげたの?」 「私が名前を貰った時よ?」 「アンジェラが? それって、もう何年も前じゃない?」 「そうね。それがどうかしたの?」 「いや……」 口の中で、眷属は言葉を漏らす。 ――あいつ、どういう時間感覚してるのよ。 チリン―― 反論は、聞こえなかったふりをしつつ。 抜けるような青空の中。漆黒の獣は楽しげに跳ね回り、夜空色の死導者は悠然と、桜色の眷属は泰然と歩みを進める。 彼女たちの後ろに敵はおらず、彼女たちの前にもまた、敵の姿はない。 少女たちの後ろに絶望は残らず、少女たちの前には混沌が横たわる。 「私たちの道は、どこまで続くと思う?」 いたずらっぽく見上げる死導者に、眷属は指を立てて答える。 「ずっと!」 「正解」 それが、彼女たちの逝き様。 死の先で、死を導く者。 彼女たちは、今日も迷える人のもとに向かって歩を進める。 チリン―― |