時に羽のように。時に鎖のように。
 時に光のように。時に闇のように。
 七変化する、人の想い。


 私には日課がある。
 夜の九時過ぎ。外は暗く、人影もあまり多くない。そんな時間帯に、私は家を出る。
 目的地は自宅の程近く。街灯が明るく照らす十字路だった。
 街灯の下では、白い花が花瓶の中で風に揺れている。その花を取り出し、私は持ってきた別の花と取り替える。
 これが、私の日課。それから何十分か、長い時は一時間以上もそこに佇む。
 私が祈っている間、人が通る事はあまりない。仮に通っても、街灯の下に佇む女を不気味に思うのか、声をかけてきた人はない。
 ここに佇んでいると、後悔が巡る。
 なぜ、あの日だけ帰りが遅かったんだろう。
 なぜ、あの日だけ街灯が壊れていたんだろう。
 なぜ、あの日だけ向こうの道が工事をしていたんだろう。
 その大半は、私にはどうしようもない事だった。私が悔やんでも仕方ない事だった。
 それでも。それでも、後悔が消えるはずがない。
 だって、私は――何の前触れもなく、大切なものを失ってしまったのだから。

 家に戻ると、息子の部屋に行く。
 まだ十歳だった息子。
 部屋にもそれほど多くの物はなく、閑散としている。私は小さな勉強机の椅子に座り、ランドセルや机をなでる。
 思い出すのは、息子の笑顔。
 本当に、よく笑う子だった。いつもニコニコしているような子だった。
「どうして、死ななきゃいけないのよ……」
 わかってる。理由はない。理屈もない。意思もない。何もない。
 私がその知らせを聞いたのは、家に帰る途中の電車の中だった。
 携帯電話にかかってきた見知らぬ電話番号。聞こえてきたのは聞いた事もない男性の声。
『お宅の息子さんが事故に遭いましてね』
 それは、警察からの電話。
 急いで駆けつけた病院。そこにいたのは、すでに瞳から光を失った息子だった。
 原因は、交通事故。
 道路工事のために迂回した車。ちょうど壊れた街灯の下を歩いていた息子。
 気づいた時にはすでに遅く、狭い道幅の道路では逃げ道さえなく。
 息子の体は宙を舞い、道路に叩きつけられ、そして、命を失った。
 全ては偶然だった。誰も望んでいなかったし、誰も悪くなかった。なのに、私は息子を失った。
 後悔は、先に立たない。そんなのは、わかってる。
 わかっていても、納得なんかできるわけない。
「ヒロコ、またここにいたのか」
 顔を上げると、いつの間にか夫が立っていた。
「前にも言っただろう。そんな事をしていても俊樹が生き返るわけじゃないって」
「わかってるわよ、そんな事」
「なら、どうして――」
「だって、まだ十歳だったのよ。何もかもがこれからで、これから楽しい事とか嬉しい事を学んで、大きくなって! 何もかも、これからだったのよッ!?」
 ふと我に返り、私は頭を抱えた。
「……ごめん」
「いや、いい。お前の気持ちも、わかるから」
 部屋を見渡す。
 空虚な部屋。持ち主を失っただけで、同じ部屋はここまで変わり果てるものなんだろうか。
 探しても、探しても。
 愛する息子の姿はどこにもない。

 いつものように事故現場となった十字路に行くと、今日は先客がいた。
「あら」
 花をじっと見下ろす女の子。俊樹とほとんど変わらない年頃に見える。夜空色のワンピースは印象的だった。
 女の子は私の存在に気づいたのか、顔を上げ、視線をこちらに向けた。
「こんばんは」
「こ、こんばんは。俊樹のお友達?」
「友人と言えるほど親しくはないわね。まあ、知り合いよ」
 女の子は、また花に視線を落とす。
「これ、貴女が毎日?」
「そうよ」
 今日も持ってきた白い花。古い花を取り出し、新しい花を入れる。そして、手を合わせた。
 短めに済ませると、女の子はまだそこにいた。
「貴女も俊樹のために?」
「ええ。彼の願いを聞いたから」
「そう……、ありがとう。あの子も浮かばれるわ」
「それは、どうかしらね」
「――!?」
 ふっと、女の子のまわりの空気が変わる。
 十かそこら。そんな、幼い子供なのに、こんなにも迫力があるなんて。
 まるで、人じゃないみたいに。
「想いは時に人を助けてくれる。その連鎖は私も素晴らしいものであると思うわ。けれど、想いは時に人を縛りつける鎖にもなるの」
「どういう、事?」
 聞き返した途端、鋭い視線が返る。
「貴女の想いは価値のあるものよ。疑い疑われる人の世では、これほど確かな存在も珍しい。そう、珍しいほどに、強すぎるの」
 強すぎる。
 つよ、すぎる。
「貴女の想いは魂を浮かび上がらせる羽ではないわ。縛り沈める鎖よ」
 それは、まさか、私が?
「死者への願いは返す事のできない一方的な想い。残るは苦しみ、生まれるは悲しみ。貴女が、貴女の大切な人を苦しめているのよ」
 私が、俊樹を、苦しめている?
「死者の事を忘れろとは言わない。けれど、死者は現在でもないの。今を生きる貴女は、過去に縛られてもいけないし、縛ってもいけないの」
「な、にが」
 そうだ。何を飲まれている。
 俊樹は、もう――。
「あんたに何がわかるってのよ! 悲しいだけじゃない、苦しいだけじゃないの! どうしょうもないのよ! 自分でわかってたってどうにもできないのよッ!」
「欠けた穴に固執しないで。最も大切なものを失って、貴女は何もかもを失ってしまったの?」
「――ッ!」
 なんで。
 なんで、こんな小さな女の子が、何もかもを見透かすようなをしているのッ!
 ふと、女の子は顔を上げた。つられて、私も見上げる。
 夜空は暗く、何も見えない。ただ、月が輝いていた。
「ねえ。貴女は覚悟がある?」
 脈絡なく、女の子は告げた。
「な、何の覚悟よ」
 答える声が震える。私は、何かを怖がっている。でも、何を?
「真実を目にする覚悟。少しばかりの寿命と引き換えに」
「で、できるもんならやりなさいよ! しっかりと見届けてあげるから」
「……言ったわね」
 チリン――
 女の子はくるんと回った。
 どこから出したのか、女の子は何かを握っている。それがあまりに不釣合いで、その存在をしっかりと認識する事ができない。
 そんな私を、女の子は妖艶に見つめる。
「なら、連れて行ってあげる。貴女の鎖が繋がる先に」
 女の子が、握っているそれを突き出す。
 私の胸に。
 剣が、突き刺さった。

 目を開くと、月が見えた。
 胸を触ってみる。特に変な感触はない。確かに剣で刺されたはずなのに、傷跡ひとつ見えない。
「目が覚めた?」
 振り返ると、さっきの女の子が私を見ていた。
「あな、た? 一体、何を――」
「言ってもわからないでしょうし、感じて。そして、自分が体験している事実をありのままに受け止めて」
 チリン――
 女の子は空を指す。揺れる腕輪の鈴。
 その先に視線を動かし、私は、その存在に気がついた。
「あ、あ……」
 ひとりは見知らぬ女の子。ひとりは見知った男の子。
 私を見下ろす位置に、人が浮かんでいた。
「見えてる、わよね。霊体なんだし」
 女の子は気まずそうに頬をかきながら、隣の男の子を前に押し出す。
 男の子は地面に降り立つと、私を見上げた。
「えっと、なんというか、久しぶり?」
「とし、き……!」
 最愛の息子が、私の目の前にいた。
 全身に力が入らない。立っていられるのが不思議なくらいに感覚がない。
 よたよたと、赤ん坊のような足取りで、私は俊樹に近づいていく。
 柔らかそうな髪。幼い顔立ち。フード付きの上着。膝丈の半ズボン。
 それは、間違いようのない、私の息子の姿だった。事故で死んだ、その日のままの息子が、私の前にいた。
「夢じゃ、ないのよね」
 俊樹の肩を、身体を、強く抱き締める。
 感じる。俊樹の存在を、全身で感じる。
「俊樹! 俊樹なのよね!」
「ん」
 短い答え。それで、十分だった。
「俊樹! ごめんね、ごめんね……! ママ、何もできなくて、俊樹が苦しいのに何もできなくって……! 本当に、ごめんね!」
 自然と、涙が溢れ出る。
 謝りたかったのか、もっと一緒にいたかっただけなのか、それはもう思い出せない。ただ、口から漏れ出る言葉は、謝罪だけだった。
「後悔してるのは、知ってた。でも、別にママが悪いわけじゃないから」
「それでも、何も、本当に、できなくって! それが、苦しくて、嫌で……」
「もう、いいから」
 俊樹はそっと私を押し返した。離れると、俊樹は笑っていた。
「ママにそんな風に泣かれたら、安心して死ねないじゃん。だから、もっとこう、笑っててよ」
「――!」
 私の想いは鎖。
 女の子の言葉を思い出す。
「想う事はいいのよ。けれど、それで生者が生きたままに死んでいては、死者も浮かばれようがないでしょう?」
 生きたままに、死んでいる。
 私は、死んでいた?
「私が、俊樹を?」
「ああ、だから、そんなに悩まないでってば。過ぎた事は過ぎた事なんだって」
 俊樹は慌てたように手を振る。そんな俊樹を見て、連れて来た女の子はカラカラと笑った。
「これじゃあどっちが親かわかんないわねぇ。しっかりした子じゃないの、まったく」
「きゅ」
 肩に動物を乗せた女の子を見返し、私も、無理に頬を歪ませる。
「当然でしょ。私の自慢の息子よ」
「おうおう。こりゃ本当に自慢できるわよ」
 微笑を返し、もう一度、俊樹を抱き締める。
「駄目な母親で、ごめんね」
「立派な母親だよ」
 未練は、残る。
 でも、断ち切らなきゃいけない。
 抱いていた身体を離し、数歩、後ろに下がる。
「それじゃ」
「……うん」
 動物を乗せた女の子と一緒に、俊樹は空に消えていく。
 その姿を見送りながら、ああ、月が綺麗だなぁ、なんて思った。

 日常は、穏やかに過ぎていく。
「なあ」
 そんな最中。夕食を一緒に食べている時、ふと、夫はテレビから私に視線を変えた。
「そういや最近、あそこに行かなくなったな」
「ちゃんと行ってるわよ? 週に一度」
「いや、前は毎日のように行ってただろ。もういいのか?」
 私は箸を止め、夫を正面から見返す。
「いつまでもこだわっても、俊樹も安心して眠れないだろうからね」
「…………そうか」
 長めの沈黙の後、夫はまたテレビに顔を向けた。
 私も箸を取り上げる。そんな私の耳に、夫の声が聞こえる。
「俺も、安心した」
 顔を上げても、夫は黙ってテレビを見ているだけだった。
「心配かけて、ごめんなさい」
 俊樹。
 私、ちゃんと生きているかな?
「うん、美味しい」
 今日の料理は、いつもより出来が良い感じがした。


 チリン――
 鈴の音色が秋風の中、虫の奏楽と交じり合う。
 ふたりの少女は当てもなく、夜闇の中をさまよい歩く。
「大切に想うだけじゃダメ、なのかなぁ」
「想う事がいけないわけじゃないの。生きている人間が生きている人間を想うなら、それは何かしらの存在を生み出すわ。けれど、死者を想う事は、何も生み出せない。生み出しようがない」
「そりゃ相手がいなきゃどうにもならないわよね」
「伝えられない想いを内に抱え、ただ苦しみ続ける。それは、生ける屍よ」
 死者を想い続ける生者。
 生きる事を放棄し、ただ死んでいないだけの死者。
 夜空色の衣をまとった少女が首を振ると、艶やかな黒髪が左右に揺れる。
「もちろん、生き方はそれぞれの自由よ。そういった生き方だって悪いとは言えない。ただ、生者が死者を縛り、死者に縛られて生きる生者は、見ていたくないの」
「言うなれば、究極的なジコチューね」
 頭をたれる上司を、桜色の部下はなでくりまわす。
「まー、そんな細かい事はどーでもいいわ。あたしはアンジェラが満足できる世界を作るために存在してるようなものなんだから」
「……いつも助かっているわ」
「きゅーうー!」
「もちろん、エルもね」
「きゅ!」
 チリン――
 小さな鈴の音を響かせて。
 今日も死者は死を導く。
 ただ、己のために。
 チリン――



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