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誰かのために。 綺麗な言葉を使って覆い隠しているけど、本当の意味は……。 もしかしたら、自分のため、なのかな。 人を救う。 言葉は大袈裟だけれど、内容はたいしたものじゃない。日々の生活で稼いだお金をほんの少しだけ分け与える、それだけの事だ。 一日にほんの百円。月にすればそれなりの金額だけど、一日だと硬貨一枚程度の金額でしかない。僕らが稼ぐお金の、ごくごく一部だ。 けど、こんなお金でも救える人はいる。死なないで済む人がいる。それは、とても幸せな事だ。 「おい、ヨシト」 パソコンのモニターから視線を上げると、リュータが僕を見下ろしていた。 「昼飯に行こうぜ。腹ぁ減った」 「ああ……、そういえば、そろそろお昼だね。じゃ、食堂に行こうか」 僕は学校のパソコンからログオフすると、身分証を手に立ち上がる。セキュリティの関係で、学校のパソコンは身分証がなければ使えないようになっている。 「まーた、例の『ぼらんちあ』ってヤツか?」 「まあね。放っておいても誰もやらないんだから、誰かがやるしかないじゃないか」 「その誰かはお前じゃなくても、もっと他のお節介野郎でいいだろうが。んなもん、それこそ何万人といるぞ」 「個人が立ち上がらなきゃ、何万もの数にはならないんだよ」 「ったく、口が減らない野郎だな」 「リュータもね」 リュータは口が悪いけど、根は良い人だ。良い人すぎる、とも言える。そのせいで彼女がいない。 食堂は、昼休みの時間を外したせいか、あまり混んでいなかった。リュータは定食を、僕はうどんを頼む。 お盆に載せたお昼ご飯を手に、僕らは向かい合って座った。 「ヨシトさぁ、ボランティアもいい加減にした方がいいぜ? だいたい、そんなもんじゃ何も変わんないって」 「変わるよ。少しずつだけどね」 募金は、まだ学生でしかない僕にできる数少ないボランティア活動だ。 もちろん、これも甘ったれた理論でしかない。世の中には僕の年齢ですでに海外まで奉仕活動のために行っている人もいる。僕には、そこまでの勇気はなかった。 そもそも、僕は大学に入るまで、こういった活動に興味はなかった。赤い羽根の募金くらいはなんとなくしていたけど、それも誰かを救おうなんていう崇高な気持ちじゃなくて、ただ知り合いに頼まれたからという簡単な理由でしかなかった。 もちろん、今も崇高な気持ちがあるわけじゃない。ただ、苦しんでいる人がいるという現実、そして、その実情を目の当たりにしてからは……、何かをしなければいけないと、そう思っているだけだから。 「お前みたいのが出るんなら、やっぱ留学とかいうのも意味があるんだろうなぁ。それとも、お前くらいか? こんな事をマジで始めるの」 「この学校ではあまり聞かないけど、他の学校ではよくあるよ。何も、僕だけが特別ってわけじゃない」 きっかけは、アメリカからの留学生と話をした事だった。 彼女はタンザニアの出身だった。あまりに貧しく、十人いれば一人くらいは幼児の間に死んでしまうような国。その中で、彼女は運よくアメリカ人の夫妻によって養子として育てられる事になり、日本に留学する事ができた。 そこで、僕はタンザニアという国の現状――さらに言えば、世界中の貧困というものを実際に目にする機会を得た。 そして、僕が選んだ選択肢は、募金をしつつ自らもお金を集めるという、単純なものだった。 「つってもなぁ……」 ハンバーグをかじりながら、リュータは言う。 「お前が救うのはいいけどさ、代わりに救えない奴だっているわけだろ? それを決めるのはお前なり、そのボランティア団体じゃん。それって偽善じゃね?」 「やらない善よりやる偽善さ。たしかに全員を救えるわけじゃない。けど、救える人はいるんだ。偽善だからって何もしなければ、その人さえ救えない。偽善でもいいじゃないか。それで人の命が救えるなら、安いものだよ」 「安いもの、ときたか。まったく、お前の脳みそをバラして中身を覗いてみたい気分だぜ」 「ハンバーグ食べながらよくそんな事が言えるよね」 「あ?」 かじりかけのハンバーグを口から離し、リュータはちょっと嫌そうな顔をした。 「気づいてなかったんだから言うなよ」 「ごめん」 動かなければ始まらない。 そう思う事は、変なのだろうか。 うどんをすすりながら、そんな事を考えていた。 リュータと食堂で別れ、僕はパソコンの前に戻った。 実際に足で動けない僕にとって、インターネットという環境はとても便利だ。世界中の人に呼びかける事も、世界中の状況を知る事もできる。 小さな僕でも、できる事がたくさんある。 「あれ」 パソコンの電源を入れるために学生証を出そうとポケットを探る。けれど、手にそれらしき感触がない。 「あれー……? 落としたのかな」 だとしたら、生活科あたりに落し物として届いているかもしれない。仕方ない、と思いながら腰をあげると、黒い顔と目が合った。 「あれ。テレシアさん」 例のタンザニア出身の留学生が、僕を無表情に見つめていた。 黒人らしい肌や髪に、女の子らしい明るい色合いの服がやけに似合う。 「ヨシト、ボランティアしてるんだってね」 「え? あ、ああ、うん」 テレシアさんは日本語もなかなか上手い。養父が日本人だとかで、僕らとの会話も基本的に日本語でする。 テレシアさんは、それ以上に口を開かなかった。いつもは明るい子なのに……、何かあったのかな。 「そうだ。テレシアさん、僕の学生証を見なかった?」 「――見たよ。向こう。案内するよ」 僕の返事も待たず、テレシアさんはスタスタと歩いていってしまう。 「あ、ちょっと、テレシアさん!」 呼び止めても足を緩める気配はない。仕方なく、僕はその後を追った。 テレシアさんは建物を抜け、裏側に入る。こんなところ、来た事もないはずなのに? 「テレシアさん、どこまで行くの?」 人の気配がまったくなくなったところで、テレシアさんは足を止めた。くるりと振り返ったその表情は、やはり色がない。 「テレシアさん。何があったの」 「昨日、電話があったの」 やっぱり、何かあったのか。 テレシアさんは不動の体勢で、口だけを動かす。 「私のお母さんが、死んだって」 「……それは、ご愁傷様」 「養母じゃない、タンザニアにいたお母さん。強盗に殺されたんだって。 ボランティアの人に貰ったお金を狙って強盗が家に入って、それに気がついたお母さんと揉めて、お母さんは殺されたって」 「犯人、は?」 「もう捕まった。でも、遅いの。もう、お母さんは死んじゃってるの」 そこで、初めてテレシアさんに表情が生まれた。 顔を歪ませ、必死に何かを堪える表情。見ている方が、心をかきむしられる、嫌な表情。 「ヨシトはボランティアしてるんだってね。ねえ、教えてくれない? なんで、お母さんが死ななきゃいけないの。ヨシトたちが私たちを救ってくれるんじゃないの? 貧しい人をなくしてくれるんじゃないの?」 「それ、は……」 「中途半端な優しさで! たくさんの人が傷つくって、なんでわかんないのよ!」 ――これが、リュータの言っていた『全てを救えない』という事なんだろうか。 どれほど募金でお金を集めても、どれほど多くの人間がボランティア活動に従事しても、全ての人を救うなんて事はできっこない。 救われる人間がいる一方で、救われない人間も必ずいる。僕は、それでも救われる人がいるならいいって思っていた。そのために活動もしていた。 けど、テレシアさんを見ていると……、本当にそれが正しいのか、という思いが沸いてくる。信念が、揺らぐ。 「どうして!? ねえ、どうしてこうなるのよ! ヨシト!」 バチン、と頬を叩かれた。鋭い痛みが走る。 「救うんでしょ!? 救ってくれるんでしょ! なんで救われない人がいるのよ! なんでお母さんが死ぬのよッ!」 痛みに、痛みが重なる。反抗さえできない。息が詰まるほどの悪意、悲しみ、強い感情が、僕の前に立ちはだかっている。 どうして。本当に、どうして、苦しまなきゃいけないんだろう。テレシアさんも、世界中の貧しい人たちも、それに――僕も。 「ふざけッ!?」 「まー、落ち着け」 聞き慣れた声に、薄く目を開いた。リュータが、テレシアさんを後ろから押さえていた。 「テレシア、別にヨシトが悪いわけじゃないだろ。ヨシトを殴っても痛いだけだぞ。世間の目が」 「……普通、手が痛いとか心が痛いとか言わない?」 「お前を殴っても俺は心が痛まないな」 リュータ、君には感謝しにくい。 「ヨシト、お前はもう行け」 「リュータは?」 よろよろと立ち上がりながら聞き返すと、リュータはちらりとテレシアさんに視線を送り、 「暴れ姫が落ち着いたらな」 「ごめん、ありがと」 傷む頬に手を当てながら、僕は足を医務室に向けた。 揉め事を嫌ったのか、医務室の先生は何も言わずに治療をしてくれた。 まだズキズキとした痛みが残る頬を抱え、僕は帰路を歩む。 ショック、だった。 最初から全ての人が救えるなんて思ってなかった。それでも、何もしないよりは幸せになるって信じていた。 何もしないより不幸になる人がいるなんて、思いもよらなかった。 「僕、どうすればいいんだろう……」 僕のちっぽけな行動は、実は世界の迷惑になっているんじゃなかろうか。 決して誰かを救っているのではなく、ただの自己満足に過ぎないんじゃなかろうか。 そう思うと、足取りも重くなってくる。 「はあ……」 ため息をつく僕の耳に、やけに凛とした音色が響いた。 チリン―― そっと視線だけで前を見ると、女の子たちが僕の行く手を遮るように立っていた。自然、足が止まる。 「こんにちは」 「こ、こんにちは」 挨拶をしてきたのは、動物を頭に乗せた変わり者の女の子。まだ小学生くらいだろうか。夜空色のワンピースが落ち着いた雰囲気を醸し出している。 その隣に立っているのは、保護者らしい女の子。保護者と言っても僕よりは年下だろう。桜色の着物と白いミニスカートを組み合わせた、これまた珍妙な格好をしている。 「私は、アンジェラ・ウェーバー。彼女は志野ケイ。こっちはエル」 「きゅう」 夜空色の女の子――アンジェラは、次々に紹介をした。そして、どこからともなく一枚のカードを取り出す。 「これは、貴方のものね?」 「あ……」 それは、僕がなくした学生証だった。 「ありがとう。拾ってくれたんだね」 学生証を受け取りながら、お礼を言う。それでも、アンジェラは離れようとしなかった。 「迷っているの?」 「へ?」 アンジェラの深紅の瞳がじっと僕を見上げている。吸い込まれそうなその瞳の前では、なんとなく嘘が通じないような、そんな気分になる。 「行動に正解も不正解もない。ある側面から見れば正解だし、同じものを別の側面から見れば不正解にもなりうる。当然の事ね」 「それは、そうだけど?」 「貴方の行動も、同じ。たまたま負の側面を見たからといって、それをそのまま額面通りに受け取る必要はないわ。貴方が考えていた通り、そこには救われる人間も確かにいるのだもの」 と、突然、何なんだ? この子は一体? それに、僕に何を伝えようとしている? 「良人。“全て”は難しい。でも、手が届く範囲まで見捨てる事も難しい。それでいいと思うのよ。人の器で可能な事には限りがあるわ。それでも、諦めないでいて欲しい」 まったく、意味がわからなかった。 突然、僕の前に現われた女の子たち。いきなり語り出した青臭いとも言える理屈。 こんなもの、普通は耳を貸す方がおかしい。変な連中に絡まれたと思って、リュータあたりは早々に逃げ出すだろう。 けど。僕には、なんとなく理解できた。 この女の子は、同類だって。 「ねえ。君は、今までどのくらい救えた?」 アンジェラは軽く首を傾げ、横に振った。 「もう忘れたわ」 「じゃあ、救えなかった人は?」 「――それも、数えられない。ただ、どちらかと言えば、救えなかった例の方が多いはずよ」 「それでも、諦めないんだ」 「ええ。貴方のような人間がいるから」 僕のような、か。 僕は特別なことなんて何もできない。そもそも、特別なことができる人なんてそうそういないんだから、当たり前だ。 ほんの少し救って、たくさん救えなくって。 悲しんで、苦しんで、絶望して。 それでも、僕は……。 「挑戦してみたくなるよね」 「でしょう?」 ふと見れば、志野さんが呆れた調子で僕を見ている。ニッと笑い返すと、そっぽを向いた。 「僕にもできるかな」 「できない人間はいないわ。誰にでもできる」 こんな小さな子供なのに、とても慰めてもらったような、そんな気がした。 翌日、学校に行くと、いの一番にリュータが寄ってきた。 「いよう、女泣かせ。よく生きてたな」 「リュータ。誤解を招くような言い方はやめてくれ」 口を尖らせると、リュータは悪いと言って手刀を切った。 「テレシアさんは、どうした?」 「昨日はあのまま帰した。今朝になって電話してみたけどよ、だいぶ落ち着いたらしい。明日の便で国に戻るから、今日はその準備をするんだと」 「そっか」 「ああ、それと」 ついでのように、リュータは付け足す。 「ごめん、だとよ」 「ん」 「ヨシト。まだ続けんのか?」 リュータの、割と真剣な目を、僕は軽く見返す。 「もちろん。やめるつもりはないよ」 「……そうかい。んじゃ、これ」 ぽん、とリュータに手渡されたのは封筒だった。何だろう、と中を見ると、千円札が数枚、入っていた。 「どういう心境の変化?」 「別に。ただ、昨日みたいのを見ちまうとなぁ。偽善でもやらなきゃいけないような気分になるじゃねーか」 「ん、その方がいいんじゃないかな」 なんて、偉そうな事は言えないけど。 迷いながら、苦しみながら。 それでも、やれる事はやらないと……。やらないで後悔するよりは、ずっとずっといいと思うから。 同じ空の下、苦しむ人の事を考えながら、空を見ていた。 チリン―― 好天の下、歩む両者の足取りは軽い。 「ケイ、何も言わなかったわね。どうかしたの?」 「……べっつにー」 頭の後ろで腕を組み、桜色の少女は空を見上げて口を尖らせる。 「ただ、あいつがなんとなく知り合いの顔をほーふつとさせてムカついただけ」 「紅葉の事かしら?」 「ふんだ」 ぽつりと、眷族の口から言葉が漏れる。 「どうしてこう、自分の事より他人を優先したり、顔も知らない誰かのために必死になったりできんのよ……。理解に苦しむわ」 「あら。貴女もそうだと思っていたけれど?」 チリン―― 眷属は上司をじろりとにらみ、 「あたしは、アンジェラが守るものを守るし、アンジェラが斬るものを斬るの。あたしの価値観はアンジェラであって、あたしじゃないわ」 「そうかしらね?」 「そうなのよ。そうと決めた」 くすりと笑う夜空色の少女もまた、空を見上げる。 この、同じ空の下には、苦しむ人間がいくらでもいる。彼女にさえ救えない、貧困という苦痛に捕らわれた人間が。 「千万人。何の数か、わかる?」 「さあ? 日本の人口?」 「幼児の間に死ぬ人間の数よ。日本の人口はもっと多いわ」 「……そんなに?」 「日本にいる限りでは、実感は沸かないかもしれないわね。けれど、世界のどこかで誰かは常に死んでいるわ。貴女よりもずっと年下で危険な仕事をしている人間なんて、日本の全人口よりも多いわよ?」 はあ、と夜空色の少女はため息をつく。 「それは、私にはどうにもできない問題だわ。人間が作り出した人間の格差だもの。生まれついての段階の差は埋めようがない」 「それを埋めるのがあいつらの仕事でしょ」 「ええ。人間の生み出した格差は、人間にしか手が施せないわ。あるいは、人間でさえ不可能なのかもしれない。 ――それでも」 続く言葉は飲み込み、少女は歩みを前に向ける。 「行きましょうか」 「はいさ」 「きゅ」 仲間の返事に力を得て。 今日も、少女は死の道を行く。 チリン―― |