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子供のために働いて。 生きるために仕事して。 忙しい日々は、矢のように過ぎ去っていく。 「陸、ほら、起きて!」 「んー……?」 陸は本当に寝起きが悪い。遅くまで起きているとかじゃなく、単純にねぼすけなだけなんだから始末に終えない。 「ほらほら、お母さん、今日は会議で早く行かなきゃいけないんだから。早くしないと朝ごはんも食べられないわよ」 「じゃあ寝る……」 「起きなさいっ!」 ベッドからむりやり起こし、台所に移動。さっさとトーストを焼きつつ、他の用意もする。朝の一分は昼間の一時間。それほどに貴重だ。 トーストの用意ができたところで、ようやく陸が起きてきた。 「じゃあ、これ食べて遅れないように学校に行きなさいね。途中で寝ちゃダメよ。お皿はお水につけといてね」 「ん、わかってるよ」 「そう。じゃ、行ってきます」 「行ってらっしゃい」 息子の元気のない挨拶を耳にしながら玄関の外に飛び出した。 「げ。もうこんな時間」 予想外に陸を起こすのに手間取ったせいか、予定の時間よりも三分ほど遅れていた。 そのぶんを取り戻すべく、マンションの階段を駆け足で降り、早足に駅まで向かう。 夫はとっくの昔にこの道を通った事だろう。都心から少し外れたところにある夫の会社までは、電車だけでも二時間以上かかる。 それに比べれば、私は楽な方だ。狭苦しいとはいえ、都心にあるから、徒歩を合わせても二時間にはならない。 本当はもう少し近くに引っ越したいけど、そもそもお金がないから共働きしているわけで、つまりはそんな贅沢は望めない。 「働けど働けど、ってところね」 天気は良くても、気分までは良くならないのは、どうにもならないわね。 ため息混じりに、足を進める。 足が重い。帰り道ともなると、やはり疲れが全身を覆う。これが楽しい事をしての帰りならこうもならないのに。仕事帰りともなれば、嫌でもこうなる。 大通りから路地に入ったところで、街灯の下に誰かが立っているのが見えた。 光の下に立つのは夜空色のワンピースを着た女の子。眠そうな、しっかりと覚醒しているような、不思議な瞳で私を見ていた。まるで、私を待っているかのように。 私がそのまま足を進め、前まで近づくと、女の子は小さく口を開いた。 「こんばんは」 「こ、こんばんは?」 声をかけられ、思わず足が止まる。 そのまま、女の子は私を見上げた。人の魂さえ吸い込むような深紅の目は、見ていると夢の中を泳いでいるような気持ちになってくる。 「私は、アンジェラ。貴女の事が気になったから、ここで待っていたの」 「気になる……?」 「ええ。貴女が、道を見失っているように見えたの」 変な子だ。どう見ても小学生なのに、まるで大人のような口調で話す。 「人間は大切なものが何かを知っているのに、それをたやすく見失う。現在に忙殺され、足元だけを見て前を歩き続けるうちに、違った道に入った事さえ気付かない。どうしてかしら?」 「何の、事?」 「さあ。なんでしょうね」 からかうように言い、女の子はくるんと回る。 チリン―― 「顔をあげて。そこはどこ? 目的地は? 始まりの地は? どこから来て、どこへ行く? 歩き続けたその先で、貴女が得たいものは何?」 相手にしなければいい。頭のどこかがそう語るけど、足は動かない。 それは、この女の子が持つ、力のようなもの。魅力とも少し違う、逆らう事ができない――本当に、純粋な意味での“力”を感じる。 「ねえ。貴女は何のために働いているのかしら。器に何もかもを入れる事はできないけれど、入れねばならないものを入れなければいかにも無意味よ」 チリン―― 言いたい事だけを言った女の子は、たたっと路地裏に消えてしまった。 「もう……、何なのよ」 私が、何をしたって言うの? 家に帰ると、夫が台所で私を待っていた。 「お帰り」 「ただいま。陸は?」 「もう寝た」 だいたい、朝は私の方が遅く家を出るぶん、帰りも遅い。そのため、陸の朝食は私が、夕食は夫が用意するのが日課になっている。 夕食の残りを片付けながらの時間が、夫婦が揃う唯一の時間と言ってよかった。 「そういえば今日、変わった女の子に会ってね」 「ロリコンは勘弁してくれる?」 「そんなんじゃないよ」 夫は苦笑を浮かべ、 「なんて言うかなぁ、その、強い子なんだよな」 「強い……?」 「そう。目とか雰囲気とか、とにかく強いって感じなんだよ。高校生くらいかな? 格好も着物のような洋服のような、不思議な服装でねぇ」 「ふーん……。そういえば、私もさっき、変な子に会ったのよね」 私はアンジェラの事を話した。夫はふんふんと頷き、 「まったく違うタイプだけど、なんとなく同じような感じだね」 「でしょ? なんなんだろ。というか、何が言いたかったのかな?」 「さあ?」 夫にも会いに来ていた、というのは少しだけ気になる。となると、あれは白昼夢でもなんでもない、現実の出来事というわけで。 でも、あの子が言いたかった意味は、やっぱりよくわからない。 「ねえ。その子になんて言われたの?」 「うーん、なんのために働いているんだ、って感じかな?」 「やっぱり」 「ということは、そっちも」 私は頷き、 「なんのためにって、お金を貰うために決まってるじゃないね」 「うん。お金がなくていいなら、働かなくてもいいわけだし」 我が家の家計は、夫の収入と私の収入を合わせてようやくといったところだ。もともと、私の給料も夫の給料もさほど高くない。ふたりの稼ぎを合わせなければ、生活する事もできやしない。 「ま、子供の言う事だからね。遊びか何かじゃないのかな」 「気持ち悪い遊びね」 スーパーの惣菜を口に運びつつ、感想を漏らした。 「ほーら、陸、起きなさいって」 「……うん」 今日の陸は、いつにも増して寝起きが悪かった。昨日、夜更かしでもしていたんだろうか。 「いい加減に起きないと朝ごはんを食べる時間がなくなるわよ」 「じゃあ、いい……」 「だーめ。朝ごはんを食べないと元気が出ないんだから」 「でも……」 「お母さんの言う事に反論するには六年ちょっと早い」 ベッドから体を起こした陸を横目で確認しつつ、台所に戻る。手早く朝食を用意したところで、這いずるように陸が起きてきた。 「もう、しゃんとしなさい。男の子でしょーが」 言いながら、私は黒いバッグを手に取った。よくよく考えてみれば、男は別に関係ないわね。 「それじゃあ、お母さんはもう行くからね。お皿はお水につけるのよ」 ちゃんと起きているかは不安だったけど、そろそろ出ないとまずい時間。あまり気を取られるわけにはいかなかった。 まあ一度くらいの遅刻はいいか、などと甘い事を考えつつ、家を出る。 今日はどんよりと曇っていた。これでは、気分も滅入る。 「っと、私がしゃんといないでどうするのよ」 頬を叩きながら気合を入れなおし、私は足早に歩みを進めた。 道を歩いていると、小学生とすれ違った。早起きな子だ。陸もあのくらいしっかりしてくれると助かるんだけど。 そんな子供を見ていると、ふと、アンジェラの事を思い出す。 あれから、あの女の子は姿を見せなかった。 夫の前に現われたという女の子も、一度きりらしい。なんだったのか、今もってわからない。夢ではない、と思うんだけど。 「ま、気にしても仕方ないわね」 声に出して考えを頭から叩き出し、私は前に向かって強く踏み出す。 「ん、いい感じ」 今日はたまたま仕事が少なくて、久しぶりにいつもより早く帰れることになった。といっても、すでに十時はまわってしまっているんだけど。 逆に夫は緊急の仕事が入ってしまったせいで、遅くなるらしい。ご苦労な事である。 「ただいまー、陸」 声をかけながら靴を脱ぐも、息子の声は聞こえない。 「陸? 寝ちゃった?」 廊下を抜けてリビングへ。 最初に目に入ったのはテレビだった。ニュース番組がやっている。その前のソファに、陸が座っていた。陸がこんなのを見るなんて珍しい。 「ただいま、陸」 これだけ間近で声をかけても、やはり陸は反応しなかった。 「んー、どうしたのよ、陸?」 回りこみ、正面に立ったところで、ようやく異変に気付いた。 「陸?」 顔が赤い。息が荒い。手を額に当てると、ものすごく熱かった。 「陸!? どうしたの、大丈夫?」 陸は弱々しく目を開くと、私をちらりと見て、 「だいじょう、ぶ――」 それだけを小さく言葉にすると、また気を失ってしまった。 「陸っ! ちょっと、どうしたのよ!? 何があったの!?」 まさか、インフルエンザ!? 最近は新しいタイプのウイルスが流行している、とニュースでもよくやっている。もしかしたら、それかもしれない。幼い子供には、死者も出ているという……。 「大変だわ!」 急いで立ち上がると、電話を手に取った。押す番号は、119。 『はい。消防ですか、救急ですか』 「救急! 息子がすごい熱で、あの、インフルエンザかもしれなくて――!」 『お母さん、落ち着いてください。住所をお願いします』 「ああ、はい、えっと……」 あれ? うちの住所って何だっけ? ああもう、何をバカな事を言ってるの! しどろもどろになりながらも、なんとか住所を伝えきる。 「早く救急車を寄越して!」 『わかりました。ただ、そちらの近くの道路でかなり大きな事故がありまして、救急病院の方は一杯になっていると思います。早く行かせますが、それまではお母さんの対処が大切です。いいですか、絶対に電話は切らないで下さい』 「事故!?」 なんて間の悪い……。事故を起こすタイミングくらい考えなさいよ! 「もう、じれったいわね! いいわよ、こっちから行くから!」 『あ、お母さん、駄目で――』 ぶつんと電話を切り、私は陸を抱きかかえた。 「陸、今から病院に行くからね。お母さんがいるから、大丈夫だからね」 それは、陸に聞かせるというよりむしろ、自分のための言葉なのかもしれない。 頭のどこかに残っていた冷静な部分が、そう告げていた。 うちのマンションは、大通りから少し外れたところにある。そのせいで、タクシーはなかなかつかまらない。 「そうよ、タクシー会社に電話すればいいのよ」 バッグから携帯電話を取り出そうとして、気付く。そういえば、今はバッグを持っていない。家に置いてきちゃったんだ。 「あーもう! 何をやってんのよ、私は!」 自分に呆れかえりながらも、大通りに出た。けれど、タクシーの姿はどこにもない。 「いつもはいらないくらいに走ってるくせに、どうしてこういう時だけいないのよっ!?」 気が狂いそうになりながらも、必死に走る。駅の方に行けば、タクシーくらいはいるはず。 私の腕の中で、陸は段々と弱っているように見えた。足にますます力がこもる。 「させない、から!」 走る、走る、走る。 走り続け、ようやく駅が見えてきた。 けれど。そこにも、駅前にも、やはりタクシーの姿はなかった。 「どうしていないのよ!」 遅い時間のせいか、タクシーはおろか、人の姿さえなかった。郊外の駅なんてこんなものかもしれない。けど、これじゃあ陸が助からない! 「どうしろって、言うのよ……」 思わず、膝から崩れ落ちた。もう、腕以外に力が入らなかった。 「私の、せいだ」 朝から陸の様子はおかしかった。それに気付かないで、私は家を出てしまった。 陸は、助けを呼んでいたのに。私を求めていたのに。なのに、私は何もできなかった。しなかった! これで、母親なんて、名乗れる? 「陸、陸……。誰か、助けて……」 頬を、涙が伝う。 冷たい秋風が体から熱を奪う。私は、寒風に逆らうように、ぎゅっと陸を抱き締めた。それしか、できなかった。 私は、無力だ。 チリン―― 絶望を心が感じる中、冷たい風が冷たい音を運んできた。 顔を上げたその先に、深紅の瞳があった。 「立ちなさい。貴女には絶望に打ちひしがれる資格さえないわ」 チリン―― アンジェラの強い視線が、私をふわりと立ち上がらせた。 見下ろす形になっても、まだアンジェラの強い目は変わらなかった。 思わず、私は視線をそらす。その先に、別の女の子がいた。 「はろはろー」 桜色の着物と白いミニスカートを組み合わせた、強い瞳の女の子。 ……夫の言っていた子だ。こんな格好の女の子がそうそういるわけもない。 「どうしてこんなところに来てしまったの。貴女が来るべき場所は、ここではなかったはずよ」 アンジェラの、冷水のような言葉が、私の首をねじ曲げる。アンジェラの方へ。 「自宅で救急車が来るまで待つべきだった。仮にここで車を調達できたとしても、入院できる病院がどこにあるかわからないでしょう? 彼にとって、頼る存在は貴女たちしかいなかったはずよ。それなのに、貴女がそんな調子でどうするの」 ぐっと前に迫り、さらにアンジェラは続ける。 「失いそうになって初めて気付く。そして、その時にはいつだって手遅れ。 人間はいつもそう。失って、亡くして、その時にならなければどれだけ大切だったのかという事に気がつかない。存在する事を当然とし、そのありがたみを忘れる」 「何よ……、今になってそんな嫌味を言いに来たわけ!?」 「嫌味? 何を勘違いしているの? 私は、事前に教えてあげたはずよ。貴女はまったく考えもしなかったようだけれど」 「……ッ!」 アンジェラが、私を見上げる。何もかもを見透かすような、いやらしい瞳で。 「子供を守るため? 守れていないじゃない。 貴女は子供のためになんて働いていない。自分のため、働くために働いていただけ。その結末として、こうなっても何もおかしな事はないわね」 「そんなの……、言われなくたって、わかってるわよぉ……」 私の胸の中で荒い息を吐く陸。こんな小さな体の中で、必死に戦っている。 なのに、私は何をしているんだろう。どうして、こんな事になっているんだろう。 そう。全て私が悪かったんだ。 陸の事を顧みず、仕事にかまけて。子供の小さな変化にさえ気付けなくって。 私が、全て。 「アンジェラ。そろそろ許してあげなよ。その子、マジで死ぬわよ」 アンジェラはちらりと後ろを見た。その目が非難がましく見える。 はあ、とため息をつき、アンジェラは私の手を取った。 「今回は特別。私が貴女を助けてあげる。ただし、代償は頂くわ」 「あげる、なんでもあげるわよ! だから、陸を助けてよ!」 「何もかもなんて要らないわ。なぜなら、私はそこまで大きな器を持っていないから」 くすっと、この小さな女の子は、こんな状況でも笑っていた。 「言ったでしょう? 自分の器を越えるものを望んでも、苦しいだけなのよ」 チリン―― ぐらりと、視界が揺れた。 思わず目をつむり、じっと身を縮める。固く強く抱き締めて、ただぬくもりだけを感じ取る。 「もういいわよ」 アンジェラの声に目をうっすらと開けると、目の前に白い建物があった。こうこうと明かりがついているそこは……。 「びょう、いん?」 パタパタと医者が駆けて来るのが見えた。扉を叩くように開き、医者と看護士らしい人が私を囲む。 「この子か!?」 「え、あ、はい」 陸を医者の手に渡す。医者は簡単な診察を行い、 「すぐに手術室へ。担架まだかぁ!」 「はい!」 陸を連れ、医者たちは慌しくその場を去っていく。 看護士と共に残された私も、立たされ、病院の中に足を向けていく。 まだ。まだ、何も現状は変わっていない。けど、なんとなく、助かったんだと思う。陸は、助かるんだと、思った。 振り返る。そこに、夜空色の女の子の姿はなかった。 「そんな事があったのか」 病室のパイプ椅子に座る夫は、重く頷いた。 「そういや、俺も陸の事、あんまり構ってやれなかったもんな」 眠る陸の髪をかきあげる夫は、薄っすらと後悔が垣間見える。 「教えられたな。子供に」 「親って、そういうものじゃないかしら。最初から親になれる人なんていなくて、子供に教えられながら、徐々に親らしくなっていくのかも」 「……ああ、そうだな」 すっと立ち上がった夫は、私を抱き締めた。 「頑張ったな。ありがとう」 「何を言ってるの。母が息子を守ろうとするのは、当然の事よ」 私も夫を抱き返しながら、心の中で呟く。 ――ありがとう。 その言葉を受け取ってくれる人は、どこにも見当たらない。だけど、なんだか近くにいるような、そんな気がしていた。 チリン―― 「おーおーあっついこって。なめとんのかこの夫婦は」 「きゅう」 病室の片隅にいる桜色の眷属は、やけにイライラした眼差しで夫婦を見つめている。かたわらの少女はそんな部下を見上げ、 「仲が良いのはいい事でしょう?」 「そりゃそうだけど。うーん、なんというか、ねえ?」 「……? 貴女もカップルに嫉妬するような気持ちがあったの?」 「そうじゃないけど、さぁ。なんかこう、もやもやする」 チリン―― 不満そうな桜色の少女。見上げていた死導者は、くすりと笑みを漏らす。 「そうね。私たちは、ああはなれない。それでも、幸福を求める事は悪い事ではないわよ?」 「あたしは男よりアンジェラがいい」 「それはそれで問題ね」 「きゅう」 「そこのオコジョ。あんたがなんで頷くのよ」 「きゅ?」 「カワイコぶってごーまーかーすーな!」 小動物とたわむれる眷属は、ある意味では危険でもある。 そんな仲間たちを見て、死導者は口にしない想いを感じていた。 ――ほんの小さな、幸せを。 チリン―― |