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天野さんの運転する車で辿り着いた場所は、ただの神社に見えた。 見上げるほどの緩やかな階段をのぼった先には狭い境内。がらんとした空間のあちこちに、犬の霊体が見て取れた。どれも似たような姿で、秋田犬や柴犬を彷彿とさせる。それが屋根の上やら砂利の上やら軒の下やらにいるもんだから、異様な光景だ。 僕は動物の霊というものをあまり見た事がない。前にアンジェラに聞いた話によると、そもそも動物の霊というのが少ないそうだ。だから、この空間は異常と言える。 「これが、犬頭?」 「そう。敵意を感じないでしょう? ただ、おかしいわね。犬頭は本来、人前に姿は見せない。退魔師にも」 確かに、犬たちはてんでバラバラに自由にしている。この空間はたまり場ではあるけど、何かしらをする必要はないって感じだ。 けど、それもアンジェラの言う通り隠れているはずなら、何かしらの意図があってたまっているって事になる。 「彼らは元来、神様と呼ばれる存在よ。動物の中でも特別な存在。人間など、元より相手にもしないはず」 なるほど。僕らよりはるかに神様に近い死導者は、人間を餌以外の何にも見てなかった。まして、本物の神様からすれば、人間は下等すぎて相手にするにも値しないのかもしれない。だから、襲ってくる事はない、と。 「おや。ぞろぞろと何用ですかな」 本殿の奥から声がしたかと思うと、白髪交じりの男性が姿を現わした。狩衣を着込んだ姿は、間違いない、写真で確認していた井守啓二その人だった。 こうして見ると、六十近いんじゃないかというほどに老けている。家族を亡くした悲しみが、彼をあそこまで追い詰めたんだろうか。 「たいした用件ではないわ」 代表するようにアンジェラが言い、きょときょと、境内を見回す。 と、その視線が本殿のさらに上に向いたところで止まった。 「……束縛の鎖」 素早く右腕を振るうと、アンジェラの左腕から鎖が伸びた。止める暇もない。その鋭い動きが、屋根の上で僕らを見ていた一匹の犬頭を捕らえる。 「来なさい」 くい、と鎖を引っ張ると、僕らと井守さんの間に犬頭が落ちた。 霊だから音はしない。けど、その瞳は確かに僕らを見ていた。怒り、憎しみ、殺意、そういった諸々の感情を込めて。 「何のつもりかな」 静かに降りてくる井守さんからは、穏やかながら強い気配を感じる。本気になれば、あるいは僕なんかじゃ相手にもならないのかもしれない。 それでも、負ける気はしないけど。 「あんたが半年前の殺人事件の犯人だって言いに来たの」 「殺人事件? そんなものがあったとは聞いていないが。だいたい、君たちは誰かね。名乗りもせずに。失礼だとは思わないのか?」 「志野ケイよ。こっから少し行ったところにある交差点でバイクに乗っていた暴走族が腹を喰いちぎられたの。霊にね」 ケイの視線が、アンジェラが縛った犬頭に向く。 「その犯人があんたで、実際に犯行を行ったのがこの犬頭ってわけね」 「そこまで言うからには、何かしらの強い根拠があっての事でしょうな。いかに我々が法律の届かない世界に住んでいようとも、何の根拠もなしに襲撃するなど認められるはずがない」 「そこらはアンジェラに任す」 パチンとタッチし、次に前に出るのは夜空色の女の子。 「犯行を行ったのはこの犬頭に間違いないわ。すでに犯されているもの。堕ちていると言ってもいいわね」 「犯されている、とは」 「犬頭は神社を守り人々を守る存在。彼らは悪霊を倒すためのものであって、人間同士の争いに使われるものではないわ。そんな存在に人殺しなんてさせるものだから、ほら。大変な事になっている」 それは、僕の目で見ても明らかだった。 他の犬頭たちはおとなしく僕らを見守るだけ。だけど、この犬頭は狂ったように鎖をちぎろうと暴れ、犬歯をむき出しにしている。その目も異様で、殺したいという強い意志に囚われているように見えた。 「それだけが根拠かな?」 「貴方が聞きたいというのであれば、彼の声を聞かせてあげるわよ?」 チリン―― アンジェラの腕から涼やかな音色が響く。鈴が鳴った途端、僕らの耳に、声が聞こえてきた。 『コロス……』 地獄の底から沸き立つような恐ろしげな声。この世のものとは思えない、人が出すとは思えない、胃の底に溜まるような苦しげな声。 『コロサセロ、ダレデモイイ、コロス、コロサセロ……』 そして。その声は、確かに僕らの前に横たわる犬頭から聞こえていた。 「これでもまだ反論が?」 アンジェラの問いかけに、井守さんはしばし沈黙。そして、いきなり手を挙げた。 「犬頭たちよ!」 その一声で、境内にいる犬頭たちの気配が変わる。のんびりとしたそれから、殺気立ったものへ。 「敵を食い殺せ!」 「山住の眷属ッ!」 びりびりと空気が震えた気がした。 井守さんの声さえ飲み込む勢いで、アンジェラの叫びが轟く。その声に、僕だけでなくケイや鯉田さんまでもが目を丸くしていた。 「貴方たちは何! その存在は何のためにある! その牙は何を喰らう! その爪は何を裂く!」 アンジェラの声に恐れたのか、それともその内容のせいか、犬頭たちは襲ってこない。どころか、耳を伏せ、じりじりと後退している。 「戦うならば闇を喰らいなさい! 人を喰うがその宿命なの!?」 すでに、何匹かは姿を消していた。残る犬頭たちをじろりと見回し、アンジェラは静かに紡ぐ。 「それでも向かうならば勝手になさい。その時、貴方たちは堕ちるだけなのだから」 最後の声は決して大きくなどなかった。鋭さもなかった。なのに、その声にひるんだように、残る犬頭たちもどこかに姿を消してしまった。 残されたのは、井守啓二、ただ一人。 「後は、貴方たちがすべき事よ、紅葉」 「うん。わかってる」 アンジェラは人間同士の争いには口を挟まない。だってそれは、人が生きる中で生まれるもの。アンジェラは、生きる人、その全ての味方なのだから。 だから、井守さんは……、僕たちが倒さなきゃいけない。 「じゃー、頑張りなさい」 ひらひらと手を振って、ケイはアンジェラと共に下がった。命の危険が迫れば助けてくれる可能性はあるけど、基本的に手助けしてはくれないだろう。それでいい。そうでなきゃ、僕も成長できない。 「井守さん。もう降参して下さい。犬頭はあなたの味方はしません」 「――それで?」 懐に手を突っ込み、白い札を取り出す。 「君らが証人だと言うのなら君らを殺せば済む話じゃないか」 「井守、さん……。そんなに、人が憎いんですか」 「ふん。こんなところまで来るだけあってきちんと調査はしているようだな」 「でも、奥さんや娘さんを死なせた人は捕まったんでしょう!? 死んだ人は関係ないじゃないですか!」 「関係なければ生きていていいのか」 ……え? 「連中は死ぬべきだ。死んでいい。他人を思えなんて言わないさ、そんな事も考えられないバカなんだからな。バカは揃って死ぬべきなんだよ!」 もう、手遅れなんだ。 今、初めて気がついた。この人は、すでに狂ってる。僕の言葉なんか、届かない。 「お前たちもそうか!? 邪魔するのか! 力があって、なぜ邪魔をするんだ! そんなものを人のために使ったって、あいつらは何も返さない! 感謝さえしない! ただどこまでも、奪っていくだけだというのに!」 「違う。僕たちの力は、そんな事のためにあるんじゃない」 言っても、届かないだろうけど。 腰の後ろに手を回す。そこにあるケースの蓋を開き、ナイフを引き抜く。 「いいから死ね!」 手から離れた札が、触れてもいないのに空中で固定される。それぞれが淡い光を放っているのが見える。 「鯉田さん、援護して。突っ込む」 「え?」 返事は、待たない。 構わず駆け出す。相手が何をしようとしているのかなんて知らない。そんなのはどうだっていい。 「解ッ!」 井守さんが――いや、井守が何かをした瞬間、僕もナイフを振るった。ほんの少し、ナイフに意識を向けながら。 けれど、効果はそれで十分だった。 「うわっ!?」 ボッ、と札が燃えた。 おそらくは何か術的な防護策を施していただろうに、そんなものはあっさりと打ち破って、ナイフが放った火の柱が横薙ぎに札を覆い尽くしていた。 「そ、れは!?」 「貰い物です」 そのまま懐に飛び込み、体当たりをかます。 よろめき倒れた井守にのしかかり、ナイフを突きつけた。 「まだ、やりますか」 ほんの短い間の出来事なのに、随分と息が切れていた。極端な緊張のせいか、すごく汗をかいている。喉がかわいた。 「甘く、見るなよ。ここは私のホームグラウンドなんだから」 シャン、と秘めやかな音が聞こえた。 振り返ると、鯉田さんが手に何かを持っていた。小さな、紙切れのついた棒? 神主さんが持っている道具によく似ているけど、なんだかとても小さかった。もしかして、携帯用だろうか。 「させないの」 シャン、と振る。 それだけで、なんとなく境内の空気が綺麗になっていくような気がした。 「私も巫女だから。自分で作るのは得意じゃないけど、人が作ったものがどういうものか知るのは難しくないの」 シャン。 もう一度、締めのように振って、鯉田さんは小さく頭を下げた。 「これで、もうこの神社の術式は正しく作動しないの」 「くそっ……、クソおおおおおおおおおおおおおおおお!!」 叫びは、さっきの犬頭の何倍も憎悪に満ちていた。 「ふざ、けるな!」 一瞬だった。 握ったナイフを弾かれ、次に自分の体も弾かれ、逆に馬乗りになられて。 直後、視界の隅を影のような何かが走って。 重みは、乗ったと思った時には消えていた。 「うちの従業員に何するの」 足を空中でぷらぷらさせながら、天野さんは呟くように言った。 体を持ち上げ、横を見る。井守は完全に気絶していた。 「所長、どっかで見ていたんですか?」 「そりゃそうでしょ。素人同然の君と半人前の女の子に任せられるわけないじゃない」 あっけらかんと言われると怒る気力も沸かない。 ただ、体を横たえ、息を整えるくらいしかできなかった。 「というわけでー、依頼は完了しました! おっつかれさま!」 天野さんの元気な声が事務所一杯に響く。 とはいえ僕らは、とてもそんな元気に暴れる気分にはなれなかった。 彼の、井守の言った事はそのまま真理ってわけじゃない。けど、真実の一側面ではある。 確かに、僕らがどんなに頑張ったって、誰かに褒められるわけじゃない。感謝されるわけでも、理解されるわけでもない。 真実が見える人は少ない。そんな人たちを守る僕らは、信じてもらえない事も多い。 僕はそれでもいい。けど、それでは辛い人もいるという事も事実だろう。 そして。そんな人こそ、闇に落ちる。井守のように。 「紅葉」 視線を上げると、アンジェラがまっすぐに僕を見ていた。深紅の瞳は、いつだって深い色合いで人の心を奪い去る。 「貴方の理念は間違っているとは思わないわ。その力は、力を持たない人を傷つけるためのものではない」 「うん」 「だから、貴方は貴方の正義を貫いていいと思うわ。もしも間違ったのなら、正してくれる人が貴方の周囲にはたくさんいるのだから」 見れば、ケイや鯉田さんや天野さんが、僕を見ながらにこにこと笑っていた。 「えっと……」 「何も言うな、少年。悩みはおおいに結構。そうやって一人前になっていくんだから」 「あの、所長。僕、成人しているので少年はちょっと」 「童顔なんだから少年でいいの」 「そんなぁ……」 今度こそ、ははは、と明るい笑い声が事務所に響いた。 「それに、悪い事ばかりじゃないんだからね」 天野さんは机の引き出しを開けると、何かを取り出した。 「これ、今回の依頼人がくれた菓子折り。せっかくだからみんなで食べましょ」 言って、天野さんはパチンとウインク。 わかってくれる人は、わかってくれる。 そういう人もいるから、頑張れるんだろうな。 饅頭の包みを開く天野さんを見ながら、そんな事を考えていた。 チリン―― 小さな動物を頭に乗せて、夜空色のワンピースに身を包んだ少女が空を歩いている。 その隣を歩く少女は思い返すように見上げながら、 「でもさー、アンジェラがおっきな声を出した時、あたしもビビッたわよ」 「あら。どうして?」 「だってアンジェラ、普段はあんなに大きな声なんか出さないじゃない」 「仕方なかったのよ。彼らに届けるには気迫で負けてはいけないもの」 「ふうん」 そこで足を止めた眷属は、くるんと振り返る。 「でも、カッコよかったわよ」 「そう。ありがとう」 「きゅうー、きゅ」 「……? なんて?」 「『そんなのは当然じゃないか』ですって」 ぱちんと火花が散る獣と眷属。 「あんた、今回は何もしてないじゃない」 「きゅ」 「あたしも、とか言いたいんだなこの黒オコジョ!」 「きゅうううう!」 「だから、やめなさい」 チリン―― 呆れるようにため息を漏らしながらも、死導者の口元には笑みが浮かんでいる。 満足そうな、楽しそうな、嬉しそうな笑みが。 「これだから、私は続けられるのかしらね」 チリン―― 背後で繰り広げられる戦いの気配に、死導者は喜びを隠さない。 なぜなら、その戦いは彼女が経験してきた、数多の殺し合いとはまったく異なるものだから。 「思うからこそ」 すっと、少女の姿がかき消える。 残されるのは、鈴の音のみ。 チリン―― |