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神様が叶えてくれる願いはそう多くない。 悲しいお願いや苦しいお願いは聞いてくれない。 私は、そう信じている。 新年に入っての三日間は、神社が最も忙しい時期。それはあまり大きくない地元密着型の神社であるうちでも同じだった。 なんとか忙しい三日間を過ごすと、途端に人影は少なくなる。やっぱり元旦が最高で、四日目以降は徐々に日常が戻ってくる。 そんな神社における五日目ともなると、人の気配は本当になくなって、神社にいつも通りの静寂が戻っていた。私は境内の掃除をしながら、ほんの数日前の忙しさを思い出して苦笑する。 忙しかった。でも、楽しかった。 色々な人が、年に一度だけとは言っても、神様にご挨拶に来る。その儀式が、私は好き。たとえ心底から神様の存在を信じていなくても、きちんと神様に会いに来るというだけ、やっぱりどこかで神様を信じているんだと思えるから。 なんて思いながら掃除をしていると、男の子が階段をあがってきた。高校生、かな? 黒縁の眼鏡をかけた、ちょっと暗い雰囲気の子だった。 男の子は黙って賽銭箱の前まで行くと、きちんとした手順で参拝を始めた。拍手を二回した後、じっと目を閉じ、しばらく動かない。 たぶん、五分くらいだろうか。本当に長くお参りしていた男の子は、やっと顔を上げると、改めて頭を下げた。 帰るのかな、と思っていたら、男の子は絵馬の方に歩いていった。絵馬はお正月に来た人たちがたくさん増やしていったから、なかなかの量がある。男の子はそれをひとつずつ眺め始めた。 私はなんとなく気になって、男の子に近寄っていった。間近で見ると、男の子はやっぱり真剣な顔をしている。ちょっとカッコよかった。 その顔を見ていて、私はなんとなく、この男の子がどんなお願いを神様にしたのか、わかった気がした。 「神様は」 私が声を出した事によって初めて存在を意識したように、男の子が振り向く。眼鏡の奥の瞳は、ほんの少し閉じられていた。 「神様は、そういうお願いは叶えてくれないの」 ぴくん、と男の子の頬が動いた。 「……まるでどんなお願いをしたか知っているような口振りですね」 「私は、巫女だから」 自分を指して言う。そのままじっと見つめていると、男の子はぷいっ、と視線をそらした。 「最近の巫女さんは神様とお話できるようになったんですか」 「大昔からそういうのができる人が巫女って呼ばれてたの」 たぶん。 私はできないけど。 「相談にも乗れるよ?」 「結構です。ボクは人生相談しに神社に来たわけじゃありませんから」 「遠慮しなくていいの」 「遠慮じゃなくてっ!」 「お姉さんがどーんと受け止めるの」 「そういう問題でもなく……、ああもうっ!」 男の子は私に背中を向けると、すたすたと歩き出した。玉砂利が鳴る。 「どこ行くの?」 「帰るんですよっ!」 「明日もまた来てね」 「もう来ません!」 強く言い切って、男の子は階段を降りていった。 うーん。話術って難しい。 「だけど」 なんとなく、明日も来る。 そんな気がした。 私の勘はよく当たる。 私が普通の人間と少し違うのは、そのくらいなもの。後はおばけが見えるって事。 とにかく、だからと言うべきなのか、男の子は今日も参拝に来た。 ばつの悪そうな表情でじゃりじゃりと石を鳴らす男の子を前に、私は頭を下げた。 「いらっしゃいませ」 「お店かよ……」 でも、来てくれた人に『いらっしゃいませ』は間違っていないと思うんだけどな。 「それなら、お帰りなさいませ?」 「メイド喫茶か」 これも不評。男の子の気に入る形ってどんなのなんだろう? 「あーもう、そういうのはどうだっていいんですよ」 「なら、本題に入るの?」 問い返すと、男の子はうっ、と呟いて言葉に詰まった。 私はしばらく待つ。今日は冬にしては暖かい日で、日の当たるところに立っていると寒さを感じなかった。待つにはちょうどいい日だと思う。 「えっと……、何から話せばいいのかな」 男の子は言葉を慎重に選んでいるらしかった。 私を信頼してくれたという事に感謝して。とにかく、待つ。 「あー、ボク、見ての通りの高校生なんです。受験生」 「私も去年は大変だったの」 そういえば、センター試験を受けてからもう一年になるんだ。時間が経つのは本当に早い。 「それで、最初は推薦狙いだったんですよ。けど、ボクともう一人、争ってる奴がいたんです。成績はどっこいで、内申もあんまり変わんなかったと思います」 「うん」 推薦の取り合い。良い学校とかになるとよくある話なのかもしれない。私は狙った学校がひとつだったし、他の選択肢は特に考えていなかったから、そういう問題は起きなかったけど。 「で、ボクは結局、譲ったんです。そいつに」 「どうして?」 「なんて言うんだろう。そいつ、友達だったんです。それで、なんて言うか……、争いたくなくて」 友達と争いたくない。その気持ちは、私にもわかる気がする。 親しい人と自分と。争った結果、どちらも勝てるなら問題ない。でも、推薦の枠はひとりだけ。争って、どちらかは泣かなければいけない。 そういうのは、苦しい。たとえ納得したとしても、後々、友達じゃなくなっちゃうかもしれない。それは、怖い。 段々と、男の子の顔が沈んでいく。視線が下を向く。 「それで、受験勉強に本腰を入れて、けど出遅れていたもんだからところどころに穴があって――。そうやって頑張っていたら、つい、思っちゃったんです」 「『なんであそこで譲っちゃったんだろう。あいつがいなければ苦しまずに済んだのに』」 男の子はびくんと顔を跳ね上げた。 「そのくらいなら、にぶい私でもなんとなくわかるの」 私も、色々な人を見たから。 死んで、後悔している人たちを色々と見たから。 「人間って、弱いから。苦しくなると、逃げたくなっちゃうの。それは誰にでもあると思うの。もし相手が譲って君が推薦を得ていたら、向こうがそう思うかもしれないね」 「それは、理屈は、わかるんです。けど、ボク、このままじゃ……、あいつを友達と呼べそうになくて」 それで、苦しんでいるんだ。 心の問題。それを救うためにこそ、神様はいる。 だから、神社に来たこの子は何も間違っていない。 だけど、神様は目に見えないから。私たちを直接に助けてくれるわけじゃないから。だから、お祈りするだけじゃ、ダメなんだ。 「その気持ちがある間は、大丈夫なの」 私は、私にできる事、私に言える事を言えばいい。 「人間は綺麗な部分も汚い部分もあるの。どっちもあって、それでひとりなの。君のそういう部分も切り捨てなくていい。それが君だから」 「……でも」 「吹っ切ったとか切り捨てたとか、たぶん大半は勘違いなの。人間はそんなに簡単に変われない。だから、自分の一部と一緒に生きていくしかないの」 私の言葉に納得したようには見えなかった。 ただ、何かは感じたらしい様子も見て取れた。それで、十分。 「抱え込むよりは話した方が楽になれるの。できるなら、本人に言ってもいいかもしれない」 「ほ、本人に?」 「怖い?」 聞くと、意外と素直に男の子は頷いた。 「なら、たまにここに来ればいいの」 私は指を下に向ける。 「神無月でなければ、神様はきちんとここにいて、みんなを見守ってくれるの。何かをしてくれるわけではないけど、神様は赦してくれるから」 だから、八百万いると言われる神様たちは、この現代にさえその名を残しているのだから。 しばらく、男の子は玉砂利を見つめていた。いや、目がそっちを向いているだけで、実際は何も見ていないのかもしれない。 「――わかりました」 小さな声は、けれどさらに静かな神社の中では、きちんと聞く事ができた。 「その時は、また相談に乗ってください」 「任せるの」 とん、と胸を叩いてみせた。 そんな様子に、男の子は苦笑を浮かべてくれた。 今は、大丈夫。なんとなく、そう思う。 一月は、私もそう暇でもなかった。特に普段から霊力の修行を欠かさずにしているものだから、普通の大学生よりは使える時間が少ないのだから。 そうこうしている間に、センター試験の話題がニュースでやるようになった。子供の数が減って大学そのものには入りやすくなったらしいけど、それは全体での話。一部の良いところには今まで以上に人が集まり、地方はむしろ減っているという話を聞く。 そんなニュースを見ながら、私はあの男の子の事を考えていた。 あれから、あの男の子が神社に姿を見せた事はない。私は常にいるわけではないけど、お母さんやお父さんに聞いても見たという話はないから、たぶん来ていないのだろう。 あの子は、きちんと自分の中の黒い感情と折り合いをつける事ができただろうか。 そう簡単にはいかないだろうな、と思う。そう簡単にできるのだったら、誰も苦労はしない。できないからこそ苦しむ。 ボーッとニュースを見ていると、外で玉砂利を踏む音が聞こえた。 私は思わず時計を見た。時刻は六時半。外はとうの昔に暗くなっていて、とても神社を訪れる時間じゃなかった。 私はなんとなく嫌な予感がして、外に出た。 暗い境内。明かりのようなものはあまりないし、今日は月も隠れているらしく、本当に暗かった。けど、その中を何かが動いているような、そんな気配がした。 「来たの?」 ごく何気ない風に声をかけると、暗闇がぴくりと動いた。私はそちらに向かって歩いていく。 と、向こうも意を決したように、玉砂利を踏みしめて歩いてきた。家屋から漏れる光が、その顔を照らす。 「どうしたの、こんな時間に」 ちょこん、と首を傾げてみせる。 男の子は、このそう長いとは言えない間に、少し痩せたような気がした。 「……彰が」 男の子の目は、涙に濡れていた。体が震えているのは、寒さのせいだろうか。 「彰が、死んじゃった」 その物言いは、この間よりもさらに幼く感じられて。 ああ、苦しんでいるんだな、とすぐにわかった。 「センター受けて、帰りに一緒にってんで、ボクは大学の近くのコンビニで待ってて……。そしたら彰がやって来て、雪が降ってて、それで、車が滑って――」 私はちょいと背伸びすると、男の子を抱き締めた。 「落ち着くの。君が悪いわけじゃないんだから」 「でも、ボク、ボクのせいだ。ボクが、神様に変な事をお願いするから、それが、そのせいで!」 「そんな事は、絶対にないの。神様はそういうお願いは聞こえないフリをするの。耳が遠いから」 「でも!」 「落ち着けって言ってるの!」 私の少し大きな声に、男の子は全身を震わせた。そして、そのまま涙をこぼす。 「中に入る?」 返事は待たなかった。 男の子を私の部屋で待たせ、私は携帯電話を握り締めていた。 「そう。お願い」 『それは構わないが、そんなもの、お前が相手してやる必要もないんじゃないか?』 「これも修行なの」 『いや。さすがにそこまで修行しなくても』 「私が目指す退魔師になるためには、生きて悩んでいる人を見捨てちゃ論外なの。本末転倒なの」 『……わかった。すぐに行くように伝える』 電話を切り、私は自室に戻る。 男の子は床の上に座って、じっと絨毯を見つめていた。その前に置いてあるお茶は、減った様子がない。 私は黙って男の子の向かいに座ると、居ずまいを正した。 「そういえば、まだ名前も聞いてなかったの」 ぴくん、と男の子の肩が震える。 「私はまみ。鯉田まみ。大学生と巫女さんの兼業なの。二束のわらじ」 あなたは、と聞いてみる。男の子はもごもごと口を動かす。 「蓮。千品蓮」 「せんしな、君」 千の品と書くのだろうか。変わった苗字だ。まあ私が言える事でもないけど。 「千品君。女の子の部屋に入った事は?」 「ない」 「じゃあ、初めてなの。どきどき」 なんでもいい。とにかく口を動かす。 「でも、えっちな事は期待しちゃいけないの。お姉さんをからかっちゃいけないの」 無言。まあ冗談を言う気になれないのは仕方ないにしても。 「ここに来た事は誰かに?」 「誰にも」 「じゃあ後で連絡するの。そうでないと、お母さんが心配しちゃうから」 本当は今すぐにでもした方がいいのかもしれない。お友達が亡くなって失踪したとなると、ちょっと冗談では済まないだろうし。警察とかに電話されちゃうと、話が大きくなってしまう。 「ちなみに、今日は修行じゃないから巫女服じゃないの。残念?」 沈黙。 「巫女さんも洋服を着るの。それどころか、普通の巫女さんってあんまりいないの。お正月に社務所にいるのはバイトさんだから」 静寂。 「私はバイトじゃない、本物の巫女さん。レアもの」 しーん。 千品君は口を開こうとしない。まるで魂の抜け殻のようにボーッとしている。それでいて大切な事にはきちんと答えられる。 ここから先は、きっと私には手出しできない。私は退魔師であって、神様でも魔法使いでもないから。霊を見る事はできても、霊を呼ぶ事も、ましてや死んだ人を生き返らせるなんてとてもできないから。 「千品君」 聞こえてはいるのだろう。反応はないけど。 聞こえているならそれでいい。構わず、話し出す。 「私は特別じゃないの。私たちの世界の中では、むしろ私は落ちこぼれなの」 何を言っているのか、理解できないだろう。普通の世界に生きる一般人であるなら、そんな世界がある事はきっと思いもよらないだろうから。 それでも、私は話す。なんでもいいんだ。話す内容は。 「それでも私にはやりたい事があって。普段からおっとりしていて抜けているから、苦労する事も多いけど。それでも私は、自分なりの目標があるの。敷かれたレールの上だけを走る必要はないって、自分でレールを作ってもいいし、レールの外を走ってもいいって、気がついたの」 そうして私は、見捨てぬ巫女を目指した。 苦しんでいる人。悩んでいる人。死者。生者。 誰でもいい。なんでもいい。とにかく、目の前にいる人が放っておけないって思ったら私はその人のために尽力すると決めたから。 私は千品君のために、できる事をする。この子が黒い感情に支配されつつあるなら、それを白く清浄な空気に変えるのが、巫女である私の役目だ。 「普通の巫女はここまでしないの。する必要がないから。でも私はしたいって思ったの。それが私たちの生きる意味だって思ったから。 私は私が助けたいって思う人のために尽力するし、自分だけの力じゃどうにもできないなら、人の力を借りる事もいとわないの」 私はとろいから。できる事には限度があるから。 だから、人の助けを借りなきゃいけない事は多いけど。 それでも。助けたい。 チリン―― 「もちろん、神様の力も」 すぐ後ろに気配が生まれる。ちらりと振り返ると、女の子と目が合った。 女の子はにやっと笑い、 「お待たせ」 「後は、任せるの」 こくんと頷き、私は立ち上がる。 「あ……」 「大丈夫。私はここにいるの」 千品君の隣に改めて座り、私は正面を見据える。 夜空色のワンピースを着た女の子と、桜色の着物を着た女の子。 ふたりの小さな神様。死導者。 「もう、大丈夫なの」 このふたりなら信頼できる。私ができない事をやってくれる。 ここまでが、私の物語。ここから先は、この子たちの物語。 不満はない。そうやって、人は生きていくのだと。 交わったり、離れたり。 寄り添ったり、重なったり。 それが、人間の生き方だから。 チリン―― ひとりの少年が神社から立ち去っていく。その後姿を眺めながら、巫女の少女は頭を下げた。 「ありがとう。助かったの」 「別にいいわよ。お互い様」 ひらひら手を振って、桜色の少女はなんでもないと言う。本当になんでもない。彼女たちにとってはこれが日常であり、生き甲斐であり、生き様なのだから。 「彼は」 夜空色の少女は、静かに口を開く。 「神に助けてもらったのかしら」 「私はそう思っているの」 「なら、神様というのは本当に人間想いなのね」 チリン―― 少女が空を見上げると、雲はどこかに消えていた。月が頼りない明かりを地上に投げかけている。 「気が合うわ」 「当たり前なの」 こくん、と頷く少女に、夜空色の死導者はくすりと笑う。 「ええ。そうね」 人がいるからこそ神が生まれたのだから。 この場に佇む、小さな神様のように。 チリン―― |