例の竹林に行っても、いつものように心が晴れる事はなかった。
 私は人間などと同じなのだろうか。
 それは、屈辱だ。
 嫌っている相手と同列。同質。そう言われる事がどれだけの屈辱になるか、アンジェラたちは理解して言っているのだろうか。
「くぅ……」
 ふと見ると、この間のハーフ犬が今日も来ていた。
「おいで」
 手を広げて見せると、犬はとことこと近づいてきた。
 ひょい、と抱き上げる。犬の瞳は純粋で、にごりがなかった。
「私は、お前たちとは違う」
 だけど。人間とも違う存在でありたい。
 もはや、切なる願いに近い。
「ねえ。あなたは人間を恨まないの?」
 犬は総じて賢い。私たちの言葉もきちんと理解している。ただ、人間と会話する事はできないから気付きにくいだけで。
 ハーフ犬は、なぜ、と問い返してきた。
「あなたは人間に捨てられたのでしょう? 命を身勝手に作り、身勝手に打ち捨てる人間が憎くはないの?」
 ――ううん、憎くはないよ。
 ハーフ犬の返答は、私が予想するところとは違っていた。
「どうして?」
 ――人間、好きだから。
「好き? あんな生物を?」
 うん、と頷く犬は、私の言わんとしている事が理解できていないようだった。
 本当に、綺麗。
 私はそっと犬を降ろした。ハーフ犬は不思議そうに私を見上げ、何もしない事がわかると、どこかに駆け去ってしまった。
「どうして、人を愛せるの」
 かさり、と音がした。
 振り向くと、ある種、予想通りの顔がそこにあった。
「お邪魔だったかな」
「まさにその通りなのでそのまま立ち去りませんか」
「断るよ」
 アルバートは茶に近い髪を揺らし、私の横にしゃがみこんだ。
「あなたにとって私は敵なのでしょう。いまさら何の用件ですか」
「少し誤解があるようだね」
 アルバートは肩をすくめ、
「第一に、ぼくは個人的に君たちが好きではないだけで、別に敵でもなんでもない。君たちが敵である時代は終わったんだからね。
 第二に、ぼくも元ではあるが、聖職者なんだ」
 その薄い瞳が、私を捉える。
「聖職者の最たる任務はね、迷える人を導き、その生に光明を与える事だ」
「それで大きなお世話を焼こうと言うのですか?」
「ぼくとしては君が生きようが死のうが、苦しもうが悲しもうが関係ないんだがね」
「ならば放っておいてください。あなたがたには関わりあいになりたくない」
「正直で結構。ぼくも嫌だ」
 ならば、なぜ去らない。
 無言で圧力をかけるが、アルバートが立ち去ろうとする気配は一向に感じられなかった。
「マリアは」
 静かな竹林に、アルバートの声が響く。
 ほんの小さな声なのに、はっきりと。
「今じゃ教会の誰も知らない存在だ。あれほど強大で、あれほど飛び抜けた力を持っていて、あれほど優秀な成果を出した人間が」
「それがどうしました。彼女はすでに人間ではありません。超越した存在……、死導者です」
 アルバートの言いたい事は、よくわからなかった。ただなんとなく、逆らい難い雰囲気がある。
「ぼくもいずれそうなる」
「……まだ言いますか」
「ぼくにとって、神の領域は生きる全てだった。もう捨てられないんだよ」
 目。顔つき。そういったものから読み解ける事は多いけれど、アルバートのそれからは何も見えてこない。
「けど、ぼくも超越したら、抹消されるんだろうな。教会や、人の歴史から」
「それでも、神を目指すと?」
 人でなくなろうとも。
 やっぱり、愚かしい。
「人は人と交わるべきです。神が神と交わるように。お互いの領分は侵さなくていい。関わる必要はない。そうでしょう?」
「間違いじゃないね。ただ、ぼくはマリアを尊敬している。神様になった人間。それはどれほどの才能だったんだろうな」
「随一ですよ。今もって人間で彼女を超えた者はいないはずです」
 なにせマリアは、独力で神の領域に達した。何の知識もないままに。
 そのせいで、苦しんだのだから。
「尊敬する者のようになりたいと願うのは人間の常でね。ぼくも同じさ。ぼくはマリアのようになりたい。人間の身においてそれを超越し、神と同列になる。素晴らしい力だ」
「そのような力をどうするつもりですか。あなたがたには過ぎたものだと思いますが」
「別に、どうとも。ただマリアに並びたいだけさ」
 一瞬、アルバートの顔に影が差した。
「飛び抜けるが故の孤独はぼくも知っている。これでも一応、イギリス教会ではぶっちぎりの一位だったんだからね。外れ者にもなるさ」
 ……人は、理解できないもの、上位のものを恐れる。獣と同じく。
 獣と違う点は、集団で迫害し、自分の輪から外してしまう事。
「それでもぼくはまだ人間だったから幸せだよ。外れたといっても認めてくれる人もいたわけだからね。けど、マリアは違う。マリアは人でさえなくなってしまった。その結果、認めてくれる人も同列の者もまともに悩みを相談できる相手さえいない」
 マリアがそういった悩みを持っていた事は知っていた。そのために本物の神になる事を目指し、ゲームを始めた事も。
「あなたがマリアと同列になって彼女の友人になりたいとでも言うつもりですか? それこそ身の程を知りなさい」
「彼女のためになんて言わないさ。ぼくはあくまでぼくのために上位になろうとしている。ただ、知りたいだけだよ。彼女が感じていたという孤独感を。君とて知らないはずだ。彼女に生み出された以上は」
「それは……」
「マリアは上位になるために君たちを作ったとされる。だけどぼくは、違う側面もあるんじゃないかと思う。
 すなわち、永遠の孤独に耐え切れず、また、外れてしまった自分をあっさりと見捨てた人間に対する復讐ではないか、と」
 ……マリアにも仲間はいたはずだ。
 元々、マリアは教会に所属していたという。その仲間たちならば、マリアの姿は見えたはず。
 だけど彼らは彼女をいないものとした。存在を認めなかった。
 そこに生まれるであろう怒り。悲しみ。
 私には、想像できない。
「ただ、知りたいだけさ」
 知識欲を、神は禁じなかった。
 知恵を持った人間が新たに知恵を得ようとする事、その努力そのものは否定しなかった。
 それは、人間が持つという可能性を信じたが故なのだろうか。
「別に君に認めてもらいたいとは思わない。やっぱりぼくは君や他の死導者たちは嫌いだ。命を奪った君たち、マリアの子である君たちは。ただ、誤解されているのは非常に不愉快だからね、特別に教えてあげただけだよ」
 それきり、アルバートは黙り込んでしまった。目も閉じ、瞑想している。
 その横顔を見つめながら、ふと思った。
 彼も私と同じなのだろう、と。
 私の本質は嫉妬。マリアに愛される者、マリアと並ぶ可能性を持つ者、そういったものに嫉妬しているんだ。
 そして、人間にも。
「わかっていて止まるならば苦労はありませんが……」
 少しだけ。
 嫉妬の神として、この人間は、少しだけ親近感のようなものを覚える。
「アルバート」
 目を開いたアルバートに、私は握っていたものを投げ渡した。
「……将棋の駒?」
「ルールを知っていますか」
「ぼくは日本のものならば大抵は知っているよ」
「ならば話は早い。私に教えてくれませんか、そのショーギとやらを」
 アルバートは目をぱちくりとさせ、
「なぜ」
「知りたいからですよ」
 歩むという事を。
 そうすれば、私もいずれは、マリアに並べるかもしれないから。
 アルバートは沈黙し、やがて、苦笑を漏らした。
「……いいだろう。相手してやる」
 マリアは誰にも渡さない。
 そのためならば、私はなんでもしよう。


 チリン――
「ねえ、アンジェラ。あれってどこをどうしたらああなるの」
「さあ?」
 竹林の中で駒遊びに興じる男女。なんとも奇怪な光景だ。
「しかも、なんかこう、どっちからも殺気が出ているんだけど。意味わかんない」
 肩をすくめる桜色の少女は、不思議そうに男女を見ていた。
「彼らは別に仲良くなった、というわけではなさそうね。けれど、お互いに認め合っているように見えるわ」
「……よくわかんないわねぇ。それって良いの、悪いの?」
 夜空色の死導者は、仲間の変わった姿を見て、くすりと笑う。
「私は、ああいう関係でも悪くないと思うわ。最初から、なんてできないもの。特に、人間と反目し合っていたリヴァイアのような存在は」
「いずれ人間と仲良しになれるってわけ?」
「今は過渡期なのよ。死導者は少しずつ変わってきている。けれど、本格的に変化するまではまだ何年もかかると思うわ」
「そーぞーできない」
「きゅう」
 部下たちの姿に、夜空色の死導者は苦笑い。
「未来は信じていいのでしょう?」
 獣と眷属は顔を見合わせ、笑顔で返す。
「あったりまえじゃない!」
「きゅ!」
 死導者は満足そうに頷き、
「だから、私は信じる。私たちは変わった。だから、これからも変われると。私の願う形になるよう、努力もするわ」
 チリン――
 死導者は手の中の駒を見る。
 一歩ずつ、前に進む事しかできない駒。それでもいつか、成長できると信じて。
 歩を、そっと握り締める。
 チリン――



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