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苦しんでいる人間を前にして、どんな言葉があるだろう。 励ましか。同情か。 どうして、そんな言葉が出せるんだ? 病院のにおいが嫌いだった。 まるで死そのものがにおいとなっているような気がして。 仙道が病室の戸をノックし、ボクたちは揃って中に入った。 「やほ、久しぶり」 澤田はベッドの上で軽く手を上げてみせた。 表情は明るい。普通に笑っていた。だけれども、それを見て安心する事なんてできなかった。むしろ、胸が苦しくなる。 澤田の頬は少しやせ、顔色も悪くなっていた。自慢にしていた髪もつやを失っている。澤田自身は気づいていないのかもしれない。それでもその顔には、病気の色が強く残っていた。 「なんだよ、案外と元気じゃねーか」 仙道はボクとは違って安心したような笑顔を見せた。ボクも、表面ばかりの笑顔を取り繕う。 「手術は来週なんだって?」 「そうそう。まったく嫌になっちゃうよねぇ。手術までは安静にしてなさいってさ」 「はは、たまにゃいいんじゃねーの? お前は無駄に暴れまくるんだから」 「無駄とは何かな。君らがだらしないからいけないんじゃないの?」 ああ、それは、言えているかも。 ボクらは、いや、少なくてもボクは、澤田や仙道と比べたらしっかりはしていない。頼りないだろう 「調子はどうなんだ」 「悪くないよ。たまに痛いけど」 「なら問題ねーな」 「痛くて問題ないわけないでしょ。もしかしたらあたし、死んじゃうかもよぉ?」 「そりゃない。お前は殺したって死なない。どうせ手術が終わったらけろっとした顔で『あれーどうしたのー』とか言うに決まってるんだからよ」 そんな姿はボクにも想像できた。 けど、もうひとつの方。澤田が言った未来も、想像できてしまった。 「元気になったらまたバスケしようぜ。やっぱ澤田がいなきゃ面白くねーよ」 「いいなーバスケ。あたしもやりたい」 「だめだよ、今は治療に専念しないと」 「わかってるわかってる。神原は心配性だねぇ」 「心配させているのは誰さ」 「そりゃそうだ。さっさと治さないからそういう事になるんだよな」 仙道も、澤田も、心のそこから笑っているように見える。 ボクも同じように笑いながら、けど、ふたりのように心の底から笑う事はできなかった。 つらい。 澤田の元気だった姿を思い出すほどに、つらい。 澤田はボクと比べるとはるかに活発だった。バスケの腕だってボクより上だ。 ほんの遊び程度ながら、ボクは澤田に負けた記憶しかない。 「神原は少しくらい上手になった? 今の間に練習しとかないと、あたしとの差は永遠に埋まらないよ」 「無理だよ、ボクじゃ澤田には追いつけないって」 「そんな事ないよ。神原もセンスはいいんだから。あたしほどじゃないけど」 言って、くふふ、と笑う。 本当に、よく笑う。病気だという事を感じさせないほどに。 あるいは、無理をしているんだろうか。ボクらに心配させないように? もしそうだったとしたら、無理をしないでいい、と伝えたい。強がらないで泣いていい、と伝えたい。 言葉にすれば伝わるだろうか。いや、伝わらないだろう。 澤田は絶対に意地を張る。ボクらに弱味は見せたくないだろうと思う。 澤田は、ボクたちの前じゃ涙は見せない。 ボクは、何もできない。 「……」 それからしばらく談笑を続け、ボクと仙道は病室を後にした。 「澤田、やせていたね」 「……ああ」 病院の中庭で、ボクと仙道は缶コーヒーを手に休んでいた。 とても、澤田の病室ではできない話題だった。 「治る、のかな」 「そりゃ治るだろ」 「だって、結構やばいんでしょ?」 仙道はコーヒーをすすり、視線を落とした。 「澤田のお袋さんに聞いたんだけどさ。よくわかんないんだけど、手術一回じゃダメらしい。何度かやって、それでようやく治るかもって話なんだと」 「じゃあ、最悪――」 「言うなよ、バカ」 「……ごめん」 仙道は何も考えていないように見えた。あんなに無責任に、治ったら、とか、大丈夫、なんて言っていたから。 ボクには、言えなかった。 そんな軽い言葉を吐いて、本当に治らなかったらって思うと、怖かった。 それで澤田が死んでしまうのはどうしょうもなく怖い。けどそれ以上に、澤田が生き残る方が怖い。 澤田が生き残って、いや、死に損なってしまったら。もう治る見込みはないのに苦痛だけが残されたとしたら。 そんな想像をしたら、むやみやたらに何かを言う事はできなかった。 ボクには、何の保障もできない。 「不思議だよな」 仙道は飲み終わったコーヒーの缶をゴミ箱に向かって放り投げた。缶は放物線を描き、見事にゴミ箱の中に収まる。相変わらず、コントロールだけはいい。 「俺たちの中で一番の元気屋がさ、病気で入院だぜ? それも、死ぬかもしれないっていう大病で。考えられるか?」 「ボクも入院したって聞くまでは何かの冗談だと思っていたよ」 何かの冗談ならよかった。現実は、いつだって非情で。 「神原。来週も来ようぜ。手術の前に。そうして、澤田を元気づけてやるんだ」 「……うん」 ボクらには、それくらいしかできないのだろう。 心が、自然と沈んでいく。 「なんだよ、元気ねーな。お前が手術するわけじゃないだろうが」 「自分でやる方が気持ちが楽だよ」 「お前って奴は……。本当におひとよしっつーかなんつーか。お前も澤田とは別の意味でバカだな」 ぐしゃ、と頭をなでられた。澤田なら払いのけて逆に蹴り飛ばすんだろうな、と思いつつも、ボクにはその大きな手を払う事はできなかった。 「神原。気に病んだって澤田が治るわけじゃない。むしろお前が病気になっちまうぞ。そんな事になったら、あいつにだって影響が出る。お前は笑ってろ。そうすりゃ、澤田も元気が出るんだから」 「笑えないよ。とても」 あんな、やつれた顔を見ちゃったら。 仙道は言葉をなくしたように沈黙した。 早春の風は、まだ冷たかった。 『大丈夫、助かるよ』 どうしてそう言える? 助からなかったらどうするの? 期待した反動の苦しみを受けるのは、ボクじゃないんだよ? 『安心しなよ、いつまでも治らないなんてないから』 そんなわけない。病気のまま死ぬ人だってたくさんいる。いつまでも治らない人は、確かにいるんだ。 『苦しいのは今だけだって』 そうだろうか? この先には、もっと耐え難い苦痛があるかもしれないよ? どの言葉も完全な嘘ではないかもしれない。本当に治ったら、まさに言葉通りになるだろう。 でも、もし……、治らなかったら? 病気のまま、苦しんで死んでいったとしたら? そうならない保障はない。誰も保障できない。 苦しんでいる澤田を前に、ボクは、そんな安易な保障ができなかった。 ボクは、どうすればよかったんだろう。 嘘だとわかっていても、それが何の意味もない言葉だけの言葉だったとしても、ボクが言えばよかったんだろうか。それで澤田は救われたんだろうか。 ボクには、そうは思えなかった。 いつだってもしもの時を考えてしまう。最悪の事態を想定してしまう。ボクの悪い癖だ。 「不器用、だよね」 吐いた息はそのまま地面まで落ちていきそうな勢いがあった。 仙道と別れた後。ひとりきりの帰路は、思った以上に重苦しい気分になった。 自分が不甲斐ない。仙道のように、気楽に言えたらどんなによかったろう。 きっと、それが普通なんだろう。大丈夫だよ、平気だよってお気軽な言葉をかけて、お互いに慰めあう。それが普通なんだ。それができないボクは、どこかしらが異常なのかもしれない。 歩いていると、いつの間にか公園の近くに来ていた。ふと顔を上げると、バスケゴールが目に入る。誰が置いて行ったのか、ボールまで転がっていた。 ボクは特に考える事もなくコートに入ると、ボールを手にした。 構え、ゴールを見据え、放り投げる。 ボールは綺麗な放物線を描き、見事に輪の中を通り抜けた。 「お見事。なかなかやるじゃない」 チリン―― 暗がりから声がした。じっと見つめると、向こうから街灯の下に出てくる。 女の子だった。小学生、だろうか。肩口に動物を乗せた、不思議な雰囲気の子供だった。 「これ、君のボール?」 投げたボールを手に取る。女の子は首を縦に振った。 「そうね、私が用意したものよ」 「そうか。勝手に使っちゃってごめんね」 「構わないわ。私、それの使い方を知らないもの」 言って、女の子は肩の動物をなでる。動物は、きゅう、と気持ちよさそうに鳴いた。 「……? 練習しようとしてたのかな」 「貴方はそれがあると落ち着きそうだったから、転がしておいたの」 「うん……?」 よくわからない。ボクのために持ってきてくれた、という事かな? 「それで。気持ちは少し落ち着いた?」 「え? まあ、そうだね」 そういえばそうだ。さっきまでの落ち込んだ気持ちが静まっている。ボールを持つと、いつもそうだった。 「貴方の友人、病気なのね」 「澤田の事? 君、澤田の知り合い?」 「そんなところね」 くすり、と笑い、女の子はボクを見上げる。 「それで、貴方は彼女に何も言う事ができなかった」 「み、見てたの?」 「貴方の顔に書いてあるわよ」 「――参ったな」 こんな子供に見抜かれるほどわかりやすいんだろうか。そういえば、嘘を貫き通せた事ってない気がする。 「どうして何も言わなかったの? 言ってしまえばいいじゃない。『大丈夫だよ』とか、『もう少し頑張って』とか。普通はそういうものでしょう?」 「うん、まあね」 それは、頭では理解してる。 「でも、さ。やっぱり、言えないよ。本当に病気の人を前にすると。 嘘や建前を言う事は簡単だよ。だけど、それが現実にならなかった時に傷つくのはボクじゃない。澤田なんだ。それが、ボクには何より辛い」 「別に彼女は貴方の言葉に信頼性なんて願っていないと思うけれど」 「あー、そうかもね。それでも安易に言う事はできなかった。その言葉の重みって言うのかな、そういうのを感じちゃって」 本当は、励ますべきだったんだと思う。 心を強く持てば結果も大きく変わる。もしボクが励まして、それが澤田の力になれば、それが理想の未来を引き寄せたかもしれない。 その一方で、ボクが励まして失敗したら、それは逆効果。悪い未来を加速させてしまう。 二者択一。澤田は強いから、きっと力にしちゃうんだろうと思う。思うのに、口は動いてくれない。 それは、ボクに勇気がないから、かもしれない。 「いいのではないかしら」 ぽつり、と零したような声が聞こえた。 「……え?」 「それでいいと思うわ。貴方は正しい」 女の子は迷いのない、きっぱりとした口調で言う。 「よく現実の問題に唯一の回答はない、なんて言うでしょう? これも同じ。貴方の行動もまた正解のひとつよ。 肝要なのは貴方が彼女を想ったという事。そして、それが彼女に伝わっているか、という事」 なん、だろう。 この子は、子供だ。ボクなんかよりずっと若い、ただの子供。そんな子供が言った言葉に力なんてあるわけない。子供が何を偉そうな、と言って切り捨ててしまえばいい。 なのに、なんでこの子の言葉は、こんなにも真実味を帯びているのだろう。 まるで、信じるような暗示をかけられているような、そんな気分だ。 女の子はボールを指差した。そして、 「貴方、言うよりずっと上手いじゃない。口先が当てにならない、なんて誰でもわかっているわ。本当に大切な事は中身、でしょう?」 それじゃあね、と告げて、女の子はそのまま夜闇の中に消えてしまった。 「――不思議な子」 だけど、勇気づけられた気がする。 今のままの自分を受け止め、肯定する事。そんなの、なかなかできる事じゃない。なのに、あの子は自然にそれができているんだろう。 大人でもできない事を平然とこなす子供。 「ありがとね」 ボールを適当に放る。 ゴールのリングに弾かれ、ボールは転がっていった。 翌週。澤田の手術が始まる直前、ボクと仙道は病室を訪れていた。 親御さんもいる中、澤田は先週よりも少しだけ痩せた気がした。 「いよいよ手術だな。緊張してんのか?」 「何を言ってんのよ。あたしがそんな事で緊張するわけないじゃない」 「本当にこの子は、こんな時くらい女の子らしくしてくれればいいのにねぇ」 「お母さんうるさい」 はは、と笑い合う皆。手術前だからだろうか、その笑いの中にも、どこか緊張が混じっている気がした。 「澤田」 「ん、何?」 その中で、ボクは、自然に笑えているだろうか。 「ボク、だいぶ上手くなってきたよ」 治せとは言えない。 治るとも言えない。 ボクが言えるのは、ボクの事だけだから。 それで、伝わったのだろうか。澤田は、さっきまでとは少し違った笑みを浮かべた気がした。 「じゃ、手術が終わったら軽くもんであげるわ」 「治ったら、の間違いじゃねーのか」 「うっさいわね。あたしが治すって言ったら治るのよ」 本当に、頼もしい。 病室の扉がノックされた。最も近くにいたボクが扉を開くと、先生や看護婦さんの姿があった。 「あ、仙道、そろそろ」 「おう。んじゃあ澤田、また今度な」 親御さんに頭を下げてから部屋を出て行こうとする。その時、澤田の声が部屋中に響いた。 「神原!」 振り向くと、ベッドの上で澤田はぐっと親指を立てた。 「任せて。あたしゃ強いよ!」 その笑顔に向けて、ボクも親指を返す。 「知ってるよ」 チリン―― 夜道を女の子が一人で歩いている。 人影のない道。その途中で、女の子は足を止め、空を見上げた。 「スーパー……」 空から声が聞こえる。 「ケイキィィィィィィック!!」 とん、と女の子が後ろに下がると、その直後を桜色の影が通り抜ける。 「……ケイ。すーぱー何たらというのは何?」 「あのね、アンジェラ! あたしを置いて行かないでって言うの何度目かな!?」 空中から文字通り飛んできた少女は、夜空色の死導者に迫る。死導者は表情を変える事なく、 「ごめんなさいね」 「甘いぞぉアンジェラ! あたしがそう何度もごめんなさいだけで許すと思ったら大間違いじゃないけどさッ!」 「やけに元気ね?」 「そりゃアンジェラ探してあちこち走ったからね!」 普通はむしろ疲れて元気がなくなるのではないか、と言いかけ、少女は口をつぐむ。 「で、今度は何をしてたの」 「別に何も。ね、エル?」 「きゅう」 「気のせいか今、エルは嘘をつくなと言った気がしたわ」 「気のせいよ。貴女はエルの言葉、解せないでしょう?」 「きゅー」 チリン―― 急に賑やかになった夜。 その中で、笑顔を持たない者は、一人も存在しなかった。 それが、彼女たちの関係を示すもの。 「だから、どっか行く前にはせめて一言だけでもいいから声かけて行きなさいって……!」 「前向きに努力するわ」 「政治家か!」 「きゅ」 ……本当に、賑やかなものである。 チリン―― |