不可抗力。その言葉ならば、なんでも許されるのだろうか。
 そんな事はない。意識していようとしていまいと、やってはいけない事がある。
 それは、不運の物語。


「ぼくは、世界に許されるのだろうか」
 言葉にすると安っぽく聞こえた。でも、今はちょうど、そんな気分だった。
「世界?」
 ぼくの言葉に応じたのは、空に浮かぶ女の子。
「そう、世界」
 ぼくは頷く。
 見上げた空には、月も星もなかった。
「……貴方は、世界を敵にまわすほどだいそれた何かをできるの?」
「はは、手厳しい」
 けどね、とぼくは続ける。
「ぼくにとっては、まさに世界そのものだった。そして、世界かのじょはもういない」
 馬鹿げている、と誰かは言うだろう。
 無理もない、と言う人もいるかもしれない。
 ぼく自身、心のどこかで馬鹿げていると思っていた。それでも、どうしようもなかった。
 心が、折れてしまっている。
「貴方に、何があったの?」
 夜空色のワンピースに身を包んだ女の子は、悲しげに問いかける。その顔にはあくまで表情を浮かべず、けれど、心の悲しみが言葉からにじみ出ている。
「そうだね。せっかくだから、聞いて行く?」
 たったの16年。絶望するにはあまりに短すぎる時間。
 大人は言うだろう。『そんな狭い世界で絶望していないで、もっと外の広い世界へ行け』と。
 でも、それは大人の理論だ。ぼくら子供にとって、外に出るというのは死に等しい。
 動物園のライオンがサバンナに放置されて生きていけるだろうか。無理に決まっている。
 そういう事。生まれながらに、庇護が受けられる立場にあったぼくらは、そうでない人と比べてひどく弱い。強く生きる事よりも、安易な死ぬ事を選ぶくらいには。
「ぼくの物語。小さな悲しみを」
 女の子は、無言で頷いた。

 出る杭は打たれると言うけど、ぼくはその心配がなかった。
 言うなれば、へこむ杭。目立つところはあまりない、周囲から見ればごく普通の生徒だったんだと思う。
 そんなぼくのクラスにも委員長がいた。
 ごく普通のぼくとは違う、まるで生まれながらの特別と言わんばかりの女子生徒。
 クラス中の誰より優れ、おまけに委員長まで務める、特別すぎる子。
 彼女は、ぼくの憧れだった。
 クラスのみんなが彼女の事を好いていた。少なくても、ぼくの知る限りで彼女を嫌う人はいなかった。
 いや、嫌えなかったんだと思う。
 好きも嫌いも、ある程度は対等でなければ浮かばない感情だと思う。けど、彼女は本当にぼくらの“上”で、そんな彼女に対して嫉妬したり憎んだり、そういう感情を抱く方が間違っていると言わんばかりだった。
 学校における期待の星。誰もが彼女に注目し、誰もが彼女に期待し、誰もが彼女を特別なものとして扱い。
 そして、彼女は自殺した。

「自殺?」
 女の子はいぶかしげに問い返す。
「そう、自殺。マンションのベランダから飛び降り。即死、だって」
 誰も、彼女が自殺した理由を思いつく人はいなかった。
 だって、あの子はなんでもできたから。不可能なんてなくて、望めばなんでも可能で。そんなみんなの憧れに、死ぬ理由があるなんて、誰も思わなかった。
 けど、ぼくは知っていた。彼女に死ぬ理由があることを。
 その原因。きっかけを作ってしまったのは、ぼくなんだから。
「続きを」
 女の子に促されるまま、ぼくは過去を見つめる。

 あれは、いつだったか。暑かったのを覚えているから、たぶん夏だったかな。
 その日、ぼくは部活も終えた後に、忘れ物をしていた事に気がついた。
 赤く染まる廊下をゆっくりと歩く。そして、教室の扉に手をかけた時、中から声が聞こえた。
 珍しい事だった。放課後、それも下校時刻ギリギリの教室。すでに鍵がかかっていてもおかしくない、そんなところに、誰かがいるなんて思っていなかった。
 その時、ぼくはなんとなく嫌な予感がしていた。それでも扉を開き、そして、ぼくはその姿を見つけてしまう。
 パッと目に入ったのは、夕陽に赤く染まった委員長だった。
『――!』
 委員長がぴたりと動きを止める。ぼくと視線が絡み合い、その顔がみるみる青ざめていった。
『い、いんちょう?』
 ぼくは、目の前の光景が理解できなかった。
 頭が理解を拒んでいたのかもしれない。それは、委員長の真面目で明るくて完璧なイメージとは、かけ離れた姿だったから。
 何をしていたのか。そんなのは見れば明白なのに、頭が理解を拒んでいた。
 委員長は体を隠す事もなく、湿った手を扉に向けた。
『出てって』
 声は、震えていた。
『あ、う……』
『お願い。出てって。今は、何も、聞かないで』
 ぼくは、頷く事しかできなかった。
 目をぎゅっと閉じ、扉を閉める。それでも、まぶたの裏に焼きついた委員長の姿は消えやしなかった。

「それが、きっかけ」
 なぜ、あの日に限ってぼくは忘れ物をしたのだろう。
 なぜ、ぼくは戻ってしまったのだろう。
 なぜ、ぼくは嫌な予感がしつつも扉を開いてしまったのだろう。
「後悔する事は山のようにある。どれかひとつでも違えば、違う結果になったんだろうなって。偶然の積み重ね、その先にある必然の中で、委員長は死んでしまった」
 言って、ぼくはくすっと笑った。
「でもね、必ずしも委員長が死ななきゃいけないわけじゃ、なかったんだよ?」
「どういう事?」
 何が言いたいのか、この敏感な女の子が気がついていないはずがない。それでいて、あえて聞いているんだろう。そう思った。
「彼女は誰にも見られたくない姿を見られてしまった。それは、確かに死ぬほど辛い事なんだと思う」
 でも。
「委員長が死ななければいけない理由とは、言いきれない」
 死ななきゃいけないのは、委員長とは限らない。
 ぼくは自分を指し、
「ぼくが死ねばよかったんだ。そうすれば秘密を知る人はいない。委員長は多少なりとも辛いかもしれないけど、自殺するほど思いつめる事はきっとなかった」
 あの時、ぼくはそのまま死ねばよかったんだ。
 そうすれば、委員長は死ぬ事はなかった。
 ぼくの、いや、みんなの憧れである彼女が。

 次の日、委員長は学校を休んだ。
 ぼくが委員長に会えたのは、土日を挟んだ月曜日の事だった。
 朝、学校に行くとすぐに携帯が震えた。メールの送り主は、委員長だった。
【放課後、教室で】
 それだけしか書いてなかった。
 ぼくは教室を見まわしたけど、委員長は来てなかった。実際、その後も委員長は授業に姿を見せなかった。
 本当に来るのだろうか。そんな思いを抱えつつ、あの時と同じ頃に、ぼくは教室に戻った。
 そこに、いた。
 真っ赤な夕陽を浴びて、そのまま燃え尽きてしまいそうな女の子。
『委員長』
 声をかけても、彼女は振り向かなかった。
 ぼくは彼女の隣に立つ。その顔には、ほんの少しだけ、笑みが浮かんでいた。
『あたしね』
 委員長が、呟くように言う。
『重荷だったんだ、結構』
 何が、などと、聞くまでもなかった。
『そりゃ、やれば色々とできるよ。でも、それはやるから。頑張るから。別に、あたしはそこまで頑張りたいわけじゃなかった。特別になりたいわけでもなんでもない。ただ、あたしはあたしのままでいたかった』
 誰も、そうはさせてくれなかった。
 それは、言外に非難しているように聞こえた。
『完璧。完全。超人。かっこいい。なんでもできる。頼りになる。
 そんなの、ひとつもいらない。あたしは、そんなに凄い人間じゃない』
 委員長はそっと自分の胸に触れる。
『少しずつ、少しずつ。どんどんとたまっていってね。その発散がうまくできなくて、あんな形でしか、解消できなかった』
 彼女は足元の鞄に手を入れると、そこから鈍く光る刃を取りだした。
 包丁。
『本当はね、君を殺そうかなって考えたの』
 そうすれば秘密は保たれる。委員長のイメージも守られる。
 何より、彼女が必死になって繕ってきた表層を壊すものは、いなくなる。
『でも、さ』
 委員長は包丁の先端を自分に向け、ぼくに向かって差し出した。
『できない、やっぱり。あたしは委員長で、真面目で優秀な生徒だから』
 その笑顔は、今までに見た事がないほど魅力的で。
 そして、悲しかった。
 ぼくが包丁を受け取ると、委員長はバイバイ、と手を振った。
 それが、ぼくが委員長を見た、最後の姿だった。

「今でも後悔する。あの時に何かを言えば委員長を止められたのだろうか。それより前にぼくが何かをしていれば、あるいは……、なんて。変えられない過去ばかりを見つめて、前を見つめる事を忘れて。そして、ぼくはつまづいた」
 嫌でも前を見なければいけないんだ。そうしないと人間は倒れてしまう。
 立ち上がる力があるなら、手を貸してくれる誰かがいるなら、それでも立ち直れるだろう。けど、ぼくにはそんなものがなかった。
「これが、その包丁」
 ぼくは女の子に形見の包丁を見せた。
 どうという事のない、ありふれた包丁だ。どこか、自分の影を感じる。
 彼女を殺す、ありふれた凶器。
「ぼくの墓にさ、これを……、おそなえしてくれないかな」
 包丁を渡す。と、女の子は素直に受け取ってくれた。
 チリン――
「どうしても、死ななければいけないの?」
「死ななきゃいけないって事はないんだと思う。実際、ぼくに責任のある話とは限らない。けどさ、駄目なんだ」
 誰が許してくれても、意味がない。
「「世界ぼく自分ぼくを許せない」
 人は自分の目を通してしか世界と繋がる事ができない。
 ぼくは、そんな繋がりが、許せない。
 彼女の繋がりを断った包丁なんて、壊れてしまえばいい。
 いや、あるいは、もう壊れているのだろうか。
「じゃ、バイバイ」
 あの時、あの子がしたように手を振って。
 ぼくは手すりに手をかける。
 女の子は止めるでもなく、包丁を手にしたまま、じっとぼくを見つめていた。
 そんな姿を見つめながら、ぼくは体を後ろに倒す。
 一瞬の浮遊感。いつも好きになれなかったそれが、今は心地よく感じられた。
「いつだって」
 下までは刹那だと思ったのに、なかなか到達しない。女の子の口が動くのが見えるほどだった。
「希望は残されている」
 ――衝撃が、ぼくの全身を駆け抜ける。

 夢のようだった。
 ふわふわとした空間。頼りない足元。それは、現実のぼくとどこか似ている。
 そんな、不思議な空間で、ぼくは委員長に逢った。
「どうしたの」
 委員長に問いかける。けれど彼女は首を横に振るばかり。何も言わず、黙ってぼくの後ろを指す。
「嫌、だよ」
 ふるふる、と。
 首を振る。
 口が動く。音は聞こえない。でも、何を言いたいのかが伝わってくる。
 さ。
 よ。
 な。
 ら。
 ――さよなら。
「委員長ッ!」
 その姿も消えていき、やがて、ぼくの眼には見えなくなってしまった。

「しっかりしろッ! おい!」
 野太い声に、叩き起こされた。
 途端、全身がずきりと痛む。
「ッ……!」
「よかった、ようやく目を覚ましたか」
 ぼくを知らないおじさんが覗き込んでいた。いや、ぼくはどこかでこの人に会った事があるような気がする。
「今、救急車を呼んでもらった。すぐに来るぞ」
「……生き、てる?」
 死んで、いない?
 おじさんは、安心させるように笑んだ。
「もちろんだ」
「……そう、ですか」
 ぼくは、死ぬ事さえできないのか。
 それなら、あの時、委員長に殺してもらえばよかった。委員長が死ぬにしても、その方がよかった。
 ぼくは、ひとりじゃ死ぬ事さえできないのか。
 おじさんは、じっとぼくを見つめていた。自殺者がそんなに珍しいんだろうか。いや、そう見られるものでもないか。
 などと思っていると、おじさんは重いため息を吐いた。
「皮肉なものだな。実の娘が死んだ時はその近くにさえいてやれなかったというのに、その原因となった男の子が死のうとした時は助ける事さえできてしまったのだから」
 そうだ。
 この人は、委員長に似ているんだ。
「どう、し、て」
 ぼくの疑問をどう解釈したのか。おじさんは、語り出す。
「あの子は、日記をつけていた。隠していて、あの子の母親は見つけられなかったようだけどね。俺が見つけたのも偶然だ。そして、その中身を読んだ。そこに君の名前があった」
 ふるふると、首を振る。
「あの子が自殺したと聞いた時、俺は愕然とした。あの子が死ぬほどの悩みを抱えているなんて知らなかった。同時、その原因となった君は、殺してやりたいと思ったよ」
 一瞬。おじさんの目の中に、怒りが点ったような気がした。その色を強引にかき消すように、言葉を継ぐ。
「何度も悩んだ。苦しんだ。だけど、君もまた、苦しんでいるのだな」
 言葉とは裏腹に、おじさんは瞳で語っていた。
 お前の苦しみなど俺の苦しみに比べれば取るに足りない、と。
 そんな気持ちが伝わって来るのに。
「君には生きてもらいたい。あの子は君を殺すのではなく、自ら命を絶つ道を選んだ。あの子は、それほどまでに君に生きて欲しいと願っていたのだから」
 それでもおじさんは、口からは優しい言葉しか吐き出さない。それは、顔だけでなく、ぼくの憧れの人を思い起こさせた。
「うぐっ……」
 逢いたい、な。
 委員長。ぼくは、君に、逢いたいよ。
 叶わない願い。
「うあああああああああああああああああああああああああああああ!!」
 その日。ぼくは生まれて初めて、大きな声で泣いた。


 チリン――
「世界が自分を許せない」
 少年の言葉を、少女は繰り返す。
「なるほど、それでは生きられないのも無理はないわね」
 こくり、と頷く。
「でも、よかったわね」
 少女は手の中にある包丁に視線を落とした。
「貴女の愛した人間は、まだ生きられるみたい」
 チリン――
 少女が鈴をかき鳴らすと、包丁は泡露となって消えていった。
「残念だけれど、生者の墓に形見は供えられないわ」
 死して変わらぬ事よりも。
 生きて変わる事を望む少女。
 その姿もまた消え去る。生きる者の目から逃れるように、生の裏側に。
 チリン――



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