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意気地がない者。 気力がなく、品性が卑しい者。 それを、卑屈という。 たとえば。小さな態度が人を不快にさせたのではないか、と思う。挨拶の声が小さかった、年上に対して敬語を使えていない、笑顔がない、など。 たとえば。人の言葉を額面通りに受け取らない。ありがとうと言われても、迷惑しているのに言えないんじゃないか、波風を立てないようにしているだけではないか、と思いこむ。 根拠などいらない。自分が好かれていると、愛されていると考える事ができなくて、マイナスの発想、思考、そういったものが頭を占めるようになる。 そんな言葉は次第に暗闇の中で増幅され、肥大化し、その人物の大半を占めるようにまでなる。そこまでいけば、もう救いようがない。 人を信じられない。全てが悪意に彩られているように感じられる。実際にはそうでなくても、その人にとっては確かに悪意しか存在しない状況。 自ら作り出した四面楚歌は、解決の方法がない。人間の思想の中にまでもぐりこめる医療器具は存在しない。 こうして僕は緩慢に精神を殺していった。 それぞれは些細な傷にしかならない。けど、擦り傷でも全身にあれば動けなくなるように、まるでやすりか何かで削るがごとき勢いで、僕は心の死を迎えていった。 時間はかかった。そこに至るまでの間に救出してもらえれば、あるいは助かったかもしれない。 だけど、それは無駄だった。そんなものは望んでも得られるはずもなく、結局、僕は自らの手で自らを殺し続けた。 そして、僕はこの朝日を迎える。 「意外と眩しいな。だからあいつは夜の間に飛んだのか?」 マンションの一室から飛び降りた友人の事を考えながら、景色を眺める。 高みから見る景色は格別であると思う。全てが小さくなり、世界を自分の手に収めたような錯覚さえ感じてしまう。 そのさなかで、最も強く残る感情が、僕にはあった。 それが、いらないんだ、という自覚。 普通、高いところから見下ろせば、自分の悩みはなんてちっぽけなんだろう、と思うところだろう。 けど、僕の場合は逆だった。 高いところから見下ろした時、僕は自分の小ささを感じた。同時、自分などいなくても関係がないという事も肌で感じてしまった。 そうなってしまっては、もう手遅れだった。 いらない。迷惑。いらない。邪魔。いらない。 ――僕ハイラナイ。 実際にはそんな事、ないのかもしれない。この広い世界のどこかには僕を必要としてくれる場所が存在するだろう。それは厳然たる事実であると同時、叶わない夢でもある。 たとえば、たいていの人間はアフリカでボランティアをするだけで感謝される。 たとえば、たいていの人間は献血車で横になるだけでも感謝される。 たとえば、たいていの人間は誰かに親切にするだけで感謝される。 必要とされるための方法など無限にある。けれど、それでは駄目だった。僕は満足できそうになかった。 僕が満足するために必要なもの。僕のわがままを受け入れるための器。その条件。 それは、簡潔にして明瞭。 「貴方が欲しい、貴方でなければいけない」 チリン―― ゆっくりと振り返る。そこに、見知らぬ女の子がいた。夜空色のワンピースを着た、およそ子供らしくない子供。 「誰」 「私が何者であるのか、今の貴方に関係がある?」 「ないね」 不自然なほど、僕の気持ちは穏やかだった。 マンションの踊り場で出会った少女。こんな時間に、こんな恰好をした女の子が、こんな口調で語りかけてくる。それは、どれもがおかしく、何一つとして正しいものはないように見える。 そんな、あまりに不自然な光景が、かえって当然のものであるかのように見えた。 「確かに、それは貴方のわがままね。自分だけを望んで欲しい、何も言わないけれど心配して欲しい、小さな態度を垣間見せて声をかけて欲しい。 何も言わないから心配さえできないし、声の届かない場所にいるから声をかけようもない。そして、そんな人間を欲する人など、そうそういるはずもない」 「まったく、君が正しい。だけど、君が僕の本質的な部分を見抜いたからといって、僕の望みが変わるわけでも満たされるわけでもない」 そう、駄目なんだ。 「飛ぶのね」 「ああ」 振り返りもせずに答える。女の子は、僕を引き止めようとはしなかった。 「自ら望みを断つの?」 「僕はいつだってそうしてきた。自分で可能性を潰しておきながら、可能性がないと嘆く。原因はここにあるというのに、その原因を改善しようとも取り除こうともしない。どんな経路を辿って考えても、やっぱり、僕は死ぬべきなんだと思う」 「生きるべき理由が死ぬべき理由を上回る人間などそうはいないわ。人間は多くの矛盾の上に生きる。矛盾の一つ一つについて是非を問えば、生きるにあたわない」 「そう、だから僕は生きられない」 なんとなく、女の子が眉をひそめているような、そんな気がした。 「僕のような嫌われ者は死んで当然、だから死ぬべきだ。 マイナス思考ばかりで卑屈になり、人の好意さえ受け入れられないような人間は死ぬべきだ。 本当の事に目を向けず、自分を悲劇のヒロインにしてくれる事象ばかりに注目して不幸を気取るような人間は死ぬべきだ。 負のオーラで自分ばかりか他人をも不快な気分にさせ、それをよしとしないながらも止めないような人間は死ぬべきだ」 ざっと、死ぬ理由を列挙する。そのどれもが、妄言のようなものだ。 「人間は最期まで希望を捨ててはならない、だから生きるべき。 貴方は自分で言うほど嫌われてはいない、もっと可能性を信じて生きるべき。 貴方がそれだけ傷つくのは相応の繊細さを持つ故だ、その感性は大切にすべきである、だから生きるべき。 どのような人間にも可能性と活躍する場がある、貴方はそれを見つけるまで生きるべき」 まるで僕が列挙した死の理由に反ばくするように、女の子は生の理由を挙げ続ける。 「教えて。あなたが死を望むきっかけは何?」 「きっかけはない。帰結だ」 平行線だ、と思う。 女の子はどうやら僕を生かしたいらしい。どうしてそう考えるのか、そこまでは理解できないが。 けど、僕はもうとっくの昔に死を決めていた。問題はその時期、それだけの話だった。そして、今朝というか昨日の夜半、目覚めた時に死を決めた。 理由なんてものはない。なんとなく、だ。起きて、まるで顔を洗うかのように、『ああ、死ななきゃな』と考えたに過ぎない。 「だから僕は僕に終わりを告げる」 「彼は、生き残ったわ」 「知ってる」 彼は、僕と違って悪運が強い。 「……ねえ、君。君はさ、人の顔色を窺ってばかりの、なんらの努力もしない、迎合的な人間に魅力はあると思う?」 「その質問にはノーという回答しか存在していないのでしょう?」 「正解。僕は別に、人の顔色を窺ってばかりいるわけでも、努力を何一つとしていないわけでも、全てに迎合しているわけでもない。じゃあ、僕は魅力があると思う?」 少女は、黙して答えない。 「これは、否定の可能性だ。肯定の可能性ではない。これをしては駄目、ではどうすれば良いか? 駄目ではないだけではプラスには届かない。まして、スタート地点がマイナスにいるような人間なら、なおさら」 「それは貴方が卑屈になっているからよ。屈せばゼロには届かない。負の中に陥っていく」 「じゃあ、ジャンプできると思うか。この僕が」 僕がジャンプできるのは、せいぜいがマンションの踊り場くらいだ。 「どうせ僕なんか。所詮、僕のような人間では。こういう考え方は僕の基本であり根っこだ。何もせずとも、僕の考え方はここに至る。自分に自信がないどころの話じゃない。 卑屈がいけない事は卑屈な人間がよく知っている。自分と仲良くなりたいか、と言われれば卑屈な人間は絶対に嫌だと答える。そしてまた、卑屈になる。自分のような人間と仲良くなりたいと思う人などいるはずがない、と」 「負の連鎖ね」 「そう。そして、これを止められるのは人の評価だ。卑屈さを抜け出すのは誰か他人が好意的な評価をしてくれるまで待つしかない。 そうやって待ち望んで。結果、僕は蜘蛛の糸が届く前に池に沈む」 踊り場の敷居の上に立つ。 見下ろす世界は明るく、広かった。 「みんな、死ねばいい」 命を絶った少年の前に、桜色の少女が立っている。 「あんた、バカよね。アンジェラが説得してくれたのに、完全に無視? どういう神経?」 「言っておくけど、僕は別に図太い神経を持っているわけではないよ」 「んなの言われないでもわかるわよバカ」 少女は、悲しげだった。口調とは裏腹に。少年はそれに気付きながら、その事についてはまったく言及しない。 「それにしても予想外だよ。死んでもまだ続きがあるなんて。ゲームオーバーの後にエンディングロールが流れるようなものだよ」 「安心しなさいよ。エンディングはすぐ終わるから」 「だといいけどね。あんまり待たされるのは好きじゃないんだけど」 少年は足元に視線を送る。正確には足より遥かに下。 そこに、包帯を巻いた登校中の少年の姿がある。 「詳しくは知らないけどさ、あいつは委員長が死んだのを気に病んで自殺したんだろ?」 「そうよ」 「そして、委員長の親父さんに救われた」 「そうね。それが何?」 「凄く幸せだと思う、僕は」 少年は頷く。 「あいつは僕と同じような奴だった。あいつが僕のようにならなかったのは、委員長がいたからであり、その親父さんがいたからだ」 「僕にもそんな子がいれば死なずに済んだー、とか言いたいわけ?」 冗談じゃない、という顔つきで少女は言う。一方で、少年は首を横に振る。 「そんな人がいても僕は死んだだろう。同じようなところを持つだけで、まったく同じってわけじゃない。あいつは切り替えられるプラスの回路が残っていたけど、僕にはそんなものがなかったから」 ありとあらゆる善意や好意を否定する。 何も考える事なく、ごく自然な風に。 「んなもんは気のせいよ。間違いなく」 「いやに断言するね」 「そりゃそうよ。人間、生きるようにできてる。あたしは、『破壊』のあたしは、それをよく知っている」 「どうかな」 「どうかなって――」 「まあ、聞きなよ。僕は、人間は唯一、死ねる生き物だと思う。 動物はみんな生きようとする。それが普通だ。けど、人間はその中で、理性で死ねる動物だ。言葉でわかりあえるのも、自らの意思で死ねるのも、人間だけだと思うから。だから僕は、人間らしい人間だと思うんだ」 桜色の少女はしばし沈黙し、はぁ、と息を吐く。 「屁理屈もいいとこ」 「そう感じるのは君が素直に生きたからだ」 「はっ! あたしの人生を素直って言える奴がいたら頭がパーよ、間違いなく」 チリン―― 言い争う二人を見かねたように、空間が揺らぎ、夜空色の少女が姿を現した。 「やめなさい、ケイ。彼は自ら死を選んだ。そこに後悔もない。少なくとも、今は。ならば、それが全てでしょう?」 人の選択は、それが全て。道を与える事はしても、その決定を押しつけはしない。 どうすべきか。それを決めるのは、生きている人間でなければならない。 「……ふん、だ」 それでもやはり少年が気に入らないのか、少女はそっぽを向いた。 「私たちは何もできないかもしれない。それでも、何かをなせると信じて動く。それが、私たち」 「難儀だね」 「おーきなお世話よッ!」 朝日が差し込む中。 少女たちの姿は、朝もやの中に溶け込んでいった。 チリン―― |