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事件が起きれば犯人がいる。 犯人を捕まえるのは警察の仕事だ。そうでなきゃいけない。 でも……、犯人を救うのは、誰がやるんだ? 殺人事件なんてものは見慣れている。死体も当然、何度も見てきた。これよりもっと酷い、言ってしまえばただの“肉塊”だって見た事もある。 けど、死体を見るのは、やっぱり気持ちいいもんじゃない。これが認められるようになっちまったら、俺はもう人間じゃないんだろうな、と思った。 その死体は、ベッドの上に横たわっていた。二段ベッドとも違う、中段みたいなベッドの上で、その男は死んでいた。 パジャマの胸のあたりが赤黒く染まっている。傷跡は見た限りで三か所。おそらくはこれが致命傷だろう。 ガイシャは五十過ぎってところだろうか? 中年も過ぎ、そろそろ老年に入ろうかという歳だ。腹の贅肉はこの年齢にしては少ない方で、割と引き締まった体つきをしている。生前にはスポーツか何かをやっていたんだろう。 俺は遺体から部屋に目を移した。 大の男の部屋とは思えない、狭い部屋だ。そのせいか、あるいは違う理由からか、とかく生活感というものがない。 まともな家具はベッドと小さなタンス、それに本棚くらい。コートや机もないし、窓もない部屋は、ひどい圧迫感があった。まして、今はその狭い部屋を鑑識の連中が動きまわっているから、余計に狭い。 「警部。ガイシャの娘さんが階下でお待ちです」 部下が俺を呼びに来た。すぐ行く、と答え、俺はもう一度だけ遺体に目を向けた。 物言わぬ死者。だが、その死体は様々な事を俺たちに教え、その無念を晴らしてくれと訴えかける。 この男を殺した犯人。その手掛かりを集める事。 それが、俺の仕事だ。 俺は軽く首を回し、部屋を後にした。 被害者の娘は三人。男の兄弟はいないらしい。 一階の客間、その中心近くにあるソファに並んで座る娘たちは、三つ子とまでは言わないが、かなり似ている姿だった。普通は成長するうちに少しずつ違いが出てくるものだが、この三人は背格好も顔つきもよく似ている。おそらくだが、同じような生活を送ってきたのだろう。 「お待たせしました。志野といいます」 俺は自ら名乗り、警察手帳を見せた。こんな事をせずとも俺が刑事である事はわかっているとは思うが、これも必要な手続きの一つだ。 「お辛いでしょうが、少しお話をお聞かせ下さい。これも犯人逮捕のためですので」 「はい」 真ん中に座る女が答えた。親父の年齢に比して、この娘たちは少しばかり若いように思う。まだ三十にもなっていないだろう。美人、というほどじゃないが、愛嬌のある顔立ちではある。 「えー、まずはお父さんを発見した時の事ですが、娘さんが発見されたとか」 「あ、はい、それは私です」 右端の女が手を上げた。 「三女の美晴です。今朝、父が起きてこなかったので、様子を見に行ったら……」 「亡くなっていた、と」 「……はい」 死体の様子を思いだしたのだろうか。三女は青ざめた顔をうつむかせた。 「そして、警察に連絡をされたのは、長女の青菜さんだとか」 「はい」 真ん中の女が答える。案外としっかりした女性だ。 「遺体を発見して以降、どなたも部屋には入っていませんね?」 「いえ。父の様子を確認するため、三人で部屋に入りました」 「ほう」 現場保存という意味では入らないほうが好ましかった。とはいえ、咄嗟の状況だ。捜査一課じゃあるまいし、すぐさまそんな事ができる奴は警察官の中でも限られているかもしれない。 「では、昨夜から今朝にかけての事をお聞きします。昨晩、最後にお父さんを見かけたのはいつ頃、どなたですか?」 「それは、あたしです」 今度は左端の女。流れからして二女か。 「二女の弘子です。昨日の夜、遅くにお父さんが帰ってきて、そのまま二階に上がっていくところを見かけました」 「その時、何か変わった様子は?」 「特には……。少し酔っていたみたいですけど」 「それは何時頃でしたか?」 「日付が変わった頃だったと思います」 昨晩、ガイシャは会社の飲み会に出席、家には0時頃に到着しただろうと推定されている。時間的な矛盾はない。 「皆さんの部屋も二階にあるんでしたね。皆さんは何時頃にお休みになりましたか?」 三人は顔を見合わせ、まずは長女が答えた。 「私は、11時くらいだったと思います」 「あたしは、2時くらい――かな?」 「私は12時くらいだったと思います」 「何か物音のようなものを聞いた方は?」 また三人で顔を見合わせ、今度は全員が首を横に振った。 「なるほど」 俺は手帳を見下ろした。今のところの三人の証言を整理すると、ガイシャは0時に帰ってきてそのまま寝た、そして朝――警察に連絡があった8時頃に死体となって発見されるまで、誰もその姿を見ていないという事になる。 俺はそれから三人にいくつかの質問をしてみたが、犯人に繋がりそうな有力な話はついに聞く事はできなかった。 日を追うにつれ、続々と情報が集まってくる。 ガイシャの部屋は窓がない。つまり、侵入するには家に忍び込むしかないわけだが、その形跡はなかった。何も盗まれたものもなく、物取りが犯人とは考えにくい。 凶器はベッドの下にあったナイフ。大量に出回っている市販品で、どこで購入したのか調べるのは難しいだろうという事だった。 死因は失血死。俺の最初の見立て通り、胸の三か所の刺し傷が死因だった。 また、ガイシャは会社での評判は決して悪くない。が、近所での評判はそうでもなかった。 いわく、知らない女を何人も家に連れ込んでいる。いわく、奥さんが早死にしたのはガイシャの浮気のせいだ。いわく、ガイシャは娘にも手を出しているらしい。エトセトラ。要するに、女癖が悪いって話だ。 だが、そういった話が会社には全く伝わっていない、というのは不思議な話だった。普通、女癖が悪い男は、大なり小なり仕事場にもそういう話や空気が伝わるものだ。それがないという事は、よほどうまく隠していたのだろう。 「容疑者として挙げられるのは娘三人のみ、か」 俺は今までの捜査資料を眺めながら息をついた。 ガイシャの心がけなんざ俺たちにはどうでもよかった。どんな生活をしていようが、死んでいる以上、殺されるほどに恨まれる生活をしていたのは間違いない。もっとも、殺されないような生き方をしている人間なんてのは、現代人では珍しい方かもしれないが。 夜間。外から犯人が侵入し殺した可能性もなくはない。が、可能性はあまりに低かった。 第一に、ガイシャの部屋には窓がない。つまりは家の中、おそらくは玄関あたりから侵入するしかないわけだが、玄関には侵入の形跡など欠片もなかった。 第二に、ガイシャの部屋には誰かが侵入した痕跡が全くない。現在のところまでに発見された指紋や毛髪は全て家族のものである事が証明されている。指紋は手袋でもすれば出ないだろうが、毛髪も何も出ないというのはまずありえない。人間が侵入した痕跡というのは、本人が意識せずとも残るものだ。 「ここまではいい」 家族を殺す。今じゃさして珍しくもない話だ。いや、家族殺しなんてのは昔からあったか。ともかく、新聞やニュースを見れば数日に一度、あるいは連日、家族が家族を殺した話は放送されている。 倫理的にはともかく、現実的にありうる話だ。けど……。 「誰が犯人なのか」 そこまでは、まだ断定しきれていなかった。情報が足りない。 後は科捜研あたりが頼りか。警察が誇る、科学力の粋を集めた部門。 情報の整理に疲れ、ぎしりと椅子をきしませる。と、狙い澄ましたかのようなタイミングで携帯が震えた。 「はい、志野」 『ああ、志野か」 「んー? 坂入か」 電話の向こう側にいたのは、鑑識の知り合いだった。同期の桜でもある、坂入学だ。 「どうしたんだ、お前から電話してくるなんて珍しい」 『お前、例の世田谷の事件を担当してんだろ?』 「うん? まあな」 『じゃあ、今日あたり、ちょっと付き合わないか。愚痴に付き合ってくれ』 「おう、いいぜ。俺もちょうど、愚痴りたかったところだ」 電話機を閉じると、俺は席を立った。 いつもの店に行くと、坂入は先に待っていた。 開いていたテーブル席に座り、適当に注文をする。 最初のビールが届いたところで、坂入は話を切り出した。 「実はなー、世田谷の事件。担当してんだよ」 「そりゃ初耳だ」 「だろうな。こっちだって忙しくて、たまたま知っただけなんだし」 「忙しいのにこんなところで油を売っていていいのか?」 「言うなよ、バカ」 坂入は苦々しく笑い、ビールを流し込む。 「例の事件。犯人は三人の娘の誰か。それは間違いないんだが、それが逆に難しくしてるんだ」 「ほう? 何故だ?」 俺はわかってはいたが、一応の付き合いで聞いてやった。坂入はなんでも質問されるのを喜ぶ。 「んー」 坂入はさらにビールのジョッキを傾け、とん、と置く。 「まず、今回の犯人。科学捜査である程度の目星はついている」 「だろうな。警察の科学力は俺も信頼してる」 「犯人は身長160〜70センチ程度。力はあまりなく、おそらくは右利きだ。でもって手袋をしていた」 「へえ……」 それだけわかっていれば犯人もわかりそう、と思ったが、いや、とすぐさま思い直した。 容疑者の娘たち。その姿を、俺も思いだしたのだ。 「理由はナイフの刺さり方にある。今回、被害者はベッドの上で寝ているところを三回、刺されて死亡した。よほど確実に殺したかったんだろうな」 坂入は刺身を口にした。 酒のつまみを食べながら、殺すだのの話ができる。刑事の習性とはわかっていても、なんとなく物悲しい。 「被害者の寝ていたベッドは下に洋服ダンスがあるタイプの中段ベッドで、そこに寝る被害者に足場なしでナイフを刺すには、それだけの身長が必要だ」 「踏み台を使った可能性は?」 「んなもんがあの部屋にあったか。それに、足場をガタガタやれば他の娘も気付く」 あの被害者の部屋は極端なまでに生活感がなかった。部屋に置いてあったものは本棚とタンス、それだけしかない。机もイスさえない部屋では、足場となるものもないだろう。もっとも、狭苦しい部屋だった、というのもあるだろうが。 「んで、それぞれの刺し傷は憎しみを感じる重いものだった。けど、一撃で深く刺せたって感じじゃない。だから三回も刺したんだろうよ。要するに犯人は力のない人物」 「右利きの理由は?」 「ナイフの向き。両手で持ったようだから確実とは言えないが、ほぼ間違いないとオレは見ている」 坂入がそう言うんだ。間違いないだろう。こいつの鑑定結果は大きく外れた事がないほど堅実なものだ。 「――だけど、その条件じゃ三人とも当てはまっちまうな」 「そう、そいつが問題なんだ」 坂入は俺を箸で指し、 「姉妹ってだけあって、三人とも体格が非常に似ている。全員がこの条件に当てはまっちまうんだ」 「なるほどね。お前が悩む理由もわかるってもんだ」 俺も残ったビールを流し込み、おかわりを注文した。 届いたビールジョッキ。その上で踊る白い泡を眺める。 「科学捜査の限界ってわけかねぇ」 「……認めたくはないけどな」 科学捜査は適切だが万能じゃない。今回のような、容疑者がほぼ同一の条件にいる中では、犯人を断定しきれないんだ。 「んで、どうするんだ、志野」 「どうって?」 枝豆を口に運びながら問い返す。坂入はじっと俺を見つめ、 「どうやって結論を導くつもりなんだ、お前は」 「どうとでもなるさ。それに、俺だけが結論に関わるわけじゃない」 ビールを流し込み、俺は軽く息を吐いた。 軽くふらつく足取り。それでも、意識はハッキリとした気分だった。 実際、酔った頭じゃ怪しいところはあるんだが、自分ではそれを自覚できない。危険と言えば危険な状況だ。 だから、そこにいる女の子も、実在かどうかは怪しいものだった。 家までもうすぐという街路で出会った女の子。その不思議な目が俺を見上げている。ただ、それだけでは存在まで疑ったりはしない。 なにせ、この子は小学生くらいの身長しかないくせに、やけに大人びた表情をしているのだ。達観していると言うか、人生を悟っていると言うか、酸いも甘いも見てきたと言うか。 刑事という職業柄、色々な人を見る機会が多い俺たちは、自然と人を見る目というものが身に付いてくる。その勘が言っていた。この子は、子供じゃない。 「どうしたのかな。迷子?」 俺は女の子に問いかけた。すでに子供がうろつく時間じゃないと思うが、最近の親は平然とこんな時間でも外を出歩かせたりするという。あるいはその口か。 などと考えていると、女の子はゆっくりと首を横に振った。 そして、静かに言葉を紡ぐ。 「人間の生というのは不公平」 「……は?」 「幸福に満ち満ちた、多少の不幸をエッセンスとして人生を謳歌できる人間がいる一方で、どのような道を選ぼうとも不幸に満ち満ちた、多少の幸福という希望がなければ生きていけないような人間もいる。そして、私はそんな人を救う手立ては持たない。いえ、誰も持っていないのでしょうね、きっと」 無念そうに首を振る、女の子。 「な、なんだ? 一体」 「ねえ、秋良。お願いがあるの。彼女たちは苦しんでいる。彼女たちを、救って。幸福は訪れないかもしれない。不幸を導くかもしれない。けれど、本当の意味で彼女たちを救うには、貴方でなければいけないと思うの」 チリン―― 女の子は腕輪の鈴を鳴らし、背中を向ける。 「人の生は幸福と不幸が均一になると言われている。貴方は、どう思う?」 女の子がちらりと振り向く。俺はその赤い目を見ながら、ああ、これは夢だろうと思った。 「――そんな事は絶対にありえない。幸福は、世界で奪い合っているものだ」 でなければ、幼くして死ぬ子供たちは救われない。 でなければ、交通事故で死ぬ妻は救われない。 でなければ、生まれながらに苦難を背負った人は、どう生きればいいと言うのだ。 「そう」 同意とも反対とも言わず、女の子はそのまま夜の闇の中に消えていった。 チリン―― 鈴の音色だけが、女の子がそこにいた事を証明しているかのようだった。 様々な疑問。問題。 それは、時間が解決をしてくれた。 忙しい中、ふとした瞬間に、俺は女の子の言葉を思い出していた。 それから一ヶ月の捜査を経て、俺は逮捕令状を手にあの家に向かっていた。 三人の娘たちが在宅しているのは確認済みだった。 「刑事さん、今日はどのようなご用件でしょうか」 これから何が起きるのかわかっているのだろう。長女はどこか達観したような眼差しだった。一方、三女あたりは、不安そうに俺を見ている。 俺は出された茶を一口すすり、 「お父さんの事件。解決した、と我々は考えています」 話を切り出した。もう、この茶を飲む事もないだろう。卓の上に置いた時、そう思った。 「それで、犯人は?」 「あなた方、です」 俺はしまっておいた逮捕令状を取り出した。 「五十嵐青菜、弘子、美晴。殺人容疑で逮捕します。ご同行を」 俺の問いかけに、三者三様に頷いた。 犯人を特定できなかったのも当然だ。今回の事件。犯人は三人の娘、全員だったのだから。 三度の刺し傷とはすなわち、娘たちが一人につき一度、父親を刺したという事。娘たちにそこまで恨まれる父親もたいがいだし、そうせねばならなかった娘たちもまた……、やりきれない。 「詳しくは署の方でお聞きしますが、その前に聞いてもよろしいでしょうか」 「何でしょう」 長女の青菜は静かに問い返して来た。 「あなたがたにとって父親は、どのような存在でしたか」 「憎むべき人」 「最低の外道」 「絶対に許せない人」 ……あんな父親でも、まだ人と呼ぶのか。 俺はポケットに手を入れると、改めて三枚の名刺を取り出した。 「これは?」 五十嵐弘子が首をかしげる。俺は頷き、 「私の名刺です。必要な時はご連絡を」 「……?」 「いえね、私も年頃の娘がいるんですが……。娘ってのは、父親からするとよくわからん存在ですよ。まして、私みたいな仕事をしていると、娘と接する時間も少ない。けど、それでもどうにか、私の娘はまっすぐに育ってくれました」 あの子は、立派になった。母親に自慢できるくらいには。 「だから、まあ、もう三人くらい子供が増えても、どうにかなるんじゃないかなぁと思うだけですよ」 ソファから腰を上げる。娘たちの視線が俺を追った。 「じゃ、行きましょうか」 「――ありがとう、ございます」 綺麗に揃ったお辞儀をした、三姉妹。 罪は償わなければいけない。いかな理由があろうとも、だ。 だけど、罪を償うという行為が絶望であってもいけない。救われるべきだったのに、救われなかったせいで犯罪に走ってしまう人間も大勢いるのだから。 彼女たちの人生は、辛いものだったはずだ。そして、これからはさらに辛くなるだろう。 だから、せめてそこに、小さな希望でもあれば、と思った。 あの紙切れが、希望になりますように。 チリン―― 「どうしてかしらね」 少女は回転する赤色灯をじっと眺めていた。 「こんなにも大勢の人間がいる。生きている。その狭間で押し潰される人間も、存在する」 チリン―― 「誰もが幸福な共同体など望めるはずはないという。じゃあ、犠牲となった人間はどうすればいいの?」 「きゅー……」 少女の頭上で、黒い獣が悲しげに鳴いた。 「必要な犠牲として割り切ってしまえ、と? 当事者がそんな事を言えるはずがないし、その人間に関わった者もまた、そんな事を言えるはずもない」 チリン―― くるりと回った少女は、空を蹴る。高く高く、飛び上がる。 空から見下ろす町並み。そこから、一人の人間を見る事はできない。俯瞰的な風景は、ひとつの人生を大きな枠組みの中のひとつに変えてしまう。 「……貴方の物語に、安らぎと幸福が注がれますように」 少女は祈る。神など知らぬ少女の願いを聞き届ける者は、いるのだろうか。 チリン―― |