|
何もできないのは悔しい事かもしれない。 でも、それはある種の救いだ。諦めもつく。 問題は、何かできたのに何もしなかった事だ。 自分に勇気がない事は知っていた。 何かあったら、手助けするわけでも加担するわけでもなく、見て見ぬ振りをするタイプ。それが僕だ。 だから、こういう事をする、という姿も、あるいは予想できた事だったのかもしれない。ただ、予想しなかっただけで。 電車の中で揺られながら、僕は先ほど見たばかりの光景を思い出していた。 ――赤い血。 顔を血に染め、倒れている男性。何があったのか、たまたま通りがかっただけの僕にはわからなかった。わかった事は、その男性が意識を失っているという事と、どこか怪我をしているという事くらいだった。 その男性に対し、必死に心臓マッサージをしている人が見えた。その近くには、AEDを持って来い、と叫んでいる駅員さんがいた。 僕が見たのは、それだけだった。それ以上は、見ていられなかったから。 言い訳くらいならいくらでも思いつく。 たとえば、僕には僕の用事があった。すでに救助活動をしている人もいるし、駅員さんたちもいた。だから、僕が出る幕は、あるいはなかったかもしれない。 けど、と思う。 僕には人を助ける技術があった。そんなにたいしたものじゃない、別に医者の卵でもなんでもないけど、心臓マッサージや人工呼吸、それにAEDの使用くらいはできる。ベルトを使った止血法とか、どこをどのように止血するのが最も効率的か、とか、そういった知識もあった。 でも、どれも全部、無駄でしかなかった。 たくさんの知識があったって、使いこなせなきゃ意味がない。同じように、僕は人を救うだけの知識と技術を持ち合わせていながら、それを使おうとしなかった。だから、意味がない。 悩むくらいなら助けに行けばよかったんじゃないか、と思う。でも、だめだった。血を見てしまったから。 僕は血が苦手だ。どうしてだか、それは自分でも思い出す事はできない。わかっている事といえば、小さな頃は割と血を見ても平気だった、という事くらい。 そして、救うだけの技術がありながら、救わなかったという事。 「だめな奴」 鬱々とした想いを乗せながら、電車はひた走る。 家に帰り着き、シャワーを済ませて布団に潜り込む。眠れないのは、疲れていないから、というわけではなさそうだった。 「……助かったのかな」 それさえ見ていられなかった。それも、血が怖いなんていう情けない理由で。 もしも、助からなかったとしたら。そしてもしも、僕が手伝っていれば助かったとしたら。 あるいは助かっても、後遺症が残ったら? 半身でも動かなくなれば、今後の人生には大きな影響が出てくる事だろう。 そうならなかった可能性と、そうなった可能性。どちらの方が高いのだろうか。 僕が何かをすればあの人が多少なりとも救われたのなら、僕は何かをすべきだった。なのに僕は何もせずに逃げ出した。これは、積極的ではない罪科に他ならない。 助ける事が義務というわけではない。だけど、やれる人がいて、それをやらないのは――力を持った人が力を使わないのは罪なのか、という台詞を何かの本で読んだけど、まさにその通りだ。罪なのか。答えは、罪だ。 できる人がやらなければ、人は助からない。死ぬだけだ。 人の死の重みは計り知れない。そうわかっていたから、僕はこの技術と知識を覚えたというのに。なのに、それを、活かせないなんて。 そんなの、冗談にもなってない。 「だめ、だ」 眠れない。こんな事を考えてしまっては。 だからといって、考えないというわけにはいかない。頭が勝手に動いてしまうのだから、自分ではどうにもできない。 僕は体を起こすと、布団から這い出た。 「ふう」 ふと思いつき、カーテンを開けてみる。四角い窓の向こう側で、月が僕を見下ろしていた。 不自然なほどに明るい月は、まるで僕をあざわらっているように思えた。 しばらくそのまま月を眺めていた僕は、我慢できなくなり、立ち上がって洋服ダンスを開いた。 夜の散歩をするのは初めての経験だった。 いつも歩く通りも、昼と夜ではまったく別の顔を持つ。ごくたまに車ともすれ違うけど、ほとんど人の気配はなかった。 まばらに光る外灯程度ではとても道を照らし尽くす事などできやしない。あちらこちらにわだかまる暗闇の中で、あの時のけが人が包丁でも持って待ち構えているような錯覚に陥る。 見上げれば、部屋の中からも見えた月が僕を見下ろしていた。やけに明るい月からは、とても逃れられる気がしなかった。 まるで世界中が敵になったような感覚。自然も、人も、何もかもが僕を恨み、いつ殺そうか、いつ傷つけようかとタイミングを計っている。それに対し、僕は何もできない。何をする権利もない。 僕は、甘んじて死を受け入れなければいけない。 チリン―― 「そんな事はないわよ」 人っ子ひとりいない道に、女の子の声が響いた。静かで優しい声。 視線を戻すと、どこから沸いてきたのか、女の子がいた。外灯の下、幽鬼のような雰囲気を漂わせている。 「何者も、死を受け入れなければならないなどという事はない。少なくとも、私はそう信じている」 確固とした信念のようなものを感じる話し方だった。 「……? 僕に、言っているの?」 こくん、と頷く。その動作は、持っている雰囲気なんかとは裏腹に、見た目通りの子供のようだ。 「え、っと、気を使ってくれたのかな。ありがとう。でも、もう子供はおうちに帰る時間だよ。お母さんとか心配しているんじゃないかな?」 「大丈夫よ。私に帰るところはないのだし」 帰るところが、ない? 何かわけ有りというわけなんだろうか。 「それでも、もう帰らないと」 「その前に、貴方とお話したいの」 女の子はまっすぐに僕を見上げた。その様子に不自然なところはない。 「人の命を救うというのは、とても大変な事」 女の子は独り言のような調子で、僕に語りかける。不思議と、僕はそれを遮る気にはならなかった。この女の子が持つ、不思議な空気のせいかもしれない。 「人の命の大切さを知らない者は何をも成す事などできない。その点、貴方は大切さを知っている。よく理解している。だからこそ、命を守るために何もできなかったという事を真剣に悔いている」 「あ……」 それは、否定のできない事だ。 「彼、助かったわよ。機械のおかげか、肉体的なハンデを負ったりもしていないわ」 はっきりとした口調で語る女の子。その様子には人を満足させるためだけの嘘、という感じさえない。真実を語っている調子があった。 「けれど、それは結果論。可能性として、助からない可能性も、ハンデを負う可能性も、もちろんあった。同時、貴方が手伝えば、助かる可能性が増えたかもしれない」 ありえない事ではないわ、と女の子は続ける。 「貴方が助けようとしたところで助からないという可能性もある。そう、現実に起きなかった未来について思いを馳せれば、それはいくらでも思いつく事ができてしまうわね」 「だから、考えるな、って?」 「そうじゃないわ」 ふるふると首を横に振る。長い黒髪がさらさらと揺れる。 「どんな可能性もあるの。それだけたくさんあった未来の中から貴方が選び取った今が、ここに現実として存在している」 「選び取った……」 「貴方にはそんなつもり、なかったかもしれない。何の気なしに行動した結果なのかもしれない。それでも、これが『貴方がそうあって欲しいと行動した』結果なのよ」 だから。女の子の言葉が僕の胸をえぐる。 「貴方が選んだ未来が不満であると言うのならば、それは貴方自身の手で変えるしかない」 「未来を、変える? そんな、無茶な。タイムマシンでも使えって言うの?」 「あら、私は過去を変えろと言ったのではないわ。これから起こる未来ならば変えられると、そう言ったつもりよ」 チリン―― 鈴が揺れる。女の子はちらりと自分の腕を見下ろし、口の中で何かを呟いた。 そして、僕を見上げる。 「ともかく、先に待つ貴方に恥じない、悔いる事のない貴方でいなさい。そうする事こそが今の貴方には最善の特効薬になるだろうから」 「え、ちょ、君?」 言いたい事だけを語り尽くすと、女の子はそのまま立ち去ろうとしてしまった。それを、僕はついつい呼び止めてしまう。 「早く戻らないと部下が心配するのよ」 奇怪な言葉を残し、そのまま女の子は角を曲がってしまった。 僕は歩く気持ちも起こらず、その場に立ち尽くす。 「未来を選ぶ、か」 僕がこの先で選ぶ未来は、後悔などない未来になるのだろうか。 数日後、僕は休日を利用して少し離れた町にあるデパートに来ていた。今日、ここではとある絵描きの個展をやっていると聞いたからだ。 絵を見るのは僕の数少ない趣味だ。風景画なんかが好きで、どこか遠くの町の景色を眺めているだけで心が落ち着いてくる。 特にこの絵描きは僕のお気に入りで、当たり前の景色を、当たり前のように描き出している。その、ごく日常的な光景が、僕にはとても素晴らしいものであるように見えた。 どこかの外国の町なのだろう、レンガの通りを描いた絵を見ていた時、僕はその空気に気付いた。 本来なら静寂こそがふさわしいこの場所で、妙に落ち着かない空気が漂っている。何かあったのだろうか。 僕は個展の会場から出てみた。騒ぎの原因はすぐさま見つかった。 「お客様、お客様!」 店員が床にしゃがみこんで声をかけている。僕は何かを考える間もなく、そちらに足を向けた。 そこに、けが人が横たわっていた。 いつぞやの駅を思い出す。同じように頭をけがして、同じように倒れていた。違う事は、こちらの人が以前の人より若いという事か。 「どうしたのあれ」 「なんか女の人が切りつけたって」 「やだ、怖い……」 ガヤガヤと騒ぐ野次馬の中、僕はやけに冷静だった。こんな光景を見慣れたというのもあるのかもしれない。 でも、違う。それだけが理由じゃない。 「僕にやらせて下さい」 静かに僕は前に出ていた。野次馬たちがすすっと道を開く。 けが人の近くにしゃがみこんだ店員は、多少は教わったのかもしれないけど、明らかに拙い動きをしていた。人工呼吸なんて後回しだ。 「普通救命の資格もあります。任せて下さい」 「あ、は、はい!」 店員が慌てて飛びのく。僕はけが人の横にしゃがんだ。 意識はない。わき腹辺りを切られたのだろうか、そこから血が出ている。ここじゃ間接圧迫で血を止めるのは難しい、直接圧迫法しかない。 「店員さん。救急車の手配をお願いします。それとAEDとタオルも」 「は、はい! わわ、わかりました!」 すでに店員の姿など見ない。僕の目は、血に染まった患部にだけ注がれていた。 血、そう、血だ。あれだけ見るのも嫌がっていたものが、今は目の前にこんなにもたくさん流れている。なのに、恐ろしいとか、気持ち悪いとか、そういった感情は何も浮かばなかった。 今なら、できる。 「絶対に……、守ってみせる」 この命。消させるもんか。 患部を押さえながら、心の中で誓ってみせた。 大型デパートの入口から白い車が赤色灯を回転させながら走り去っていく。見送る人々に紛れ込んだ黒い少女は、そっとその場を離れた。 「どう?」 「生の流出はある程度で止まっている。あれなら助かるでしょうね」 「あいつのおかげ?」 「ええ、彼の成果だわ」 チリン―― 黒い少女はデパートを見上げた。彼がこの商業施設を訪れたのは偶然だ。けれど、時期といい状況といい、まるで誰かの作為でも働いているかのように思える。 「あるいは、それが宿命というものなのかしら」 「えー。やな宿命ね」 「貴女が血やけがに対してとやかく言うの?」 「うぐっ……。あ、アンジェラ、けっこーきっつい事を言うわね……」 黒い少女に付き従いながら、桜色の少女は口をとがらせた。 「現実とは悲しいものね。厳しいと言い換えてもいい。それでも、抗おうと必死に生きる姿は、嫌いではないわ」 「大好きの間違いでしょー」 「……」 チリン―― 昼の通りを歩く、昼にはふさわしくない少女たち。 その姿はまるで白昼夢のように、光の中に消え去ってしまう。 その事に気付いた人は、誰一人としていなかった。 そう、誰一人として。 チリン―― |