音楽祭まで一日、また一日と迫っていく。
 それでも俺は、何かが恐ろしくて、先輩たちのいる部室には行けなかった。
 あれから勧誘は来ていない。山中先輩が気をまわしてくれたのか、武井先輩が説得してくれたのか。中西先輩が諦めたという可能性だけはないだろう。
 俺はふっと空白の時間ができる度に、あの女の子の言葉を思い出していた。
『でも、それを感じている?』
 生きている事を感じているか。
 答えは、ノーだ。
 音楽をやっている時は生きた心地がしていた。そのために音楽をやっていた。
 ギターを置き、音楽から離れて、俺は成績が伸びた。でも、心はどこかで縮んだんだと思う。
 全部に手を伸ばすなんて事ができるほど器用じゃない。なら何を選ぶかで、俺は、きっと間違った選択をした。
 それがわかっているのに、直そうともしなかった。動かなかった。
 こうなるのは、当たり前だったんだ。
 アンジェラはあれから姿を見せない。本当に白昼夢か何かだったんじゃ、と思えてくる。
 それでも彼女の言葉は俺の胸に残っている。
 煮え切らない気持ち。俺は、こんなにも情けない奴だったんだろうか。
 何もかもすっきりしないまま、とうとう日曜日になってしまった。
 音楽祭、当日――。

 家の中でじっとしているなんて事はできなかった。
 かといって、会場に向かうでもなく、俺はぶらぶらと外を歩く。
 冬の空気は冷たく張りつめていて、歩く人たちもどこか足早だ。
 そんな流れに逆らうように、俺はゆっくりと歩く。あるいは、この流れに乗れない俺こそ、今の俺を端的に示しているのだろうか。
 特に目的地もなく歩いていると、自然、足は学校の方に向いていた。
 見慣れない通りはいつしか見慣れた道となり、そして、よく知った場所に出る。
 学校の近くを流れる小川。そこに架かった橋の上。
 見慣れるほどには見ていない、だけど、忘れる事はない顔がそこにいた。
「中西、先輩……」
 一番、会いたくない人だった。
 中西先輩も俺の姿に気付き、ニカッと笑う。
「おうおう、そこにいるのは佐藤君じゃないか。とうとう観念した?」
「……中西先輩、どうしてこんなとこに? 音楽祭はいいんすか」
「んー? 行くよ、これから」
 先輩は肩に担いだ黒いケースを持ち上げてみせた。
「けどまあ、なんというか、マリッジブルー?」
「結婚するんすか」
「ちっがーう。やりたい事をやるんだから幸せに決まってんのに、不安とか何とか、そういうのでテンションダウン状態って事」
 そう言って、先輩は欄干らんかんにもたれかかった。
「佐藤君も強情ねー。こんな可愛い先輩の頼みだったら、普通の男子ならよこしまな思いとか抱えながらすぐ聞いちゃうもんでしょ?」
「言うほど可愛くないっすよ、先輩」
「あ、てめえ、言いやがったな。そんなんじゃモテないわよ後輩君」
 先輩は、本当にどこか元気がなさそうに見えた。やはり四人のバンドをギター抜きでやるというのは、それなりの不安があるんだろうか。
「まー、しょうがないよねぇ。佐藤君、ギターやめたんでしょ? なのに無理にやれって言う方が悪い。佐藤君には何のプラスもないしね」
「そんな、事は……」
「謙遜しなさんなー。あれ、謙遜じゃないか。まあどっちでもいいやー」
 ふふん、と笑う。乾いた笑み。
「そういうもんだよね。音楽をやろうって言っても、興味の種がなきゃやらない。興味の種があっても長続きはしない。理由がないとなかなか新しい事って始められない。
 実際、山ちゃんたちはよく付き合ってくれてるよ。感心する。普通、あたしの勝手に付き合うなんてしないよ、うん」
 たはは、と笑う中西先輩は、達観しているような雰囲気があった。最初から、理解されないって気付いているような。
 俺は、その顔を、どこかで見た事がある。
「――どうして、バンドやるんですか?」
 言葉を口に出してから、それが自分の言葉なんだと気付いた。
 中西先輩はちらっと俺を見上げ、
「うーん、あんまし明るい話じゃないんだけど、いい?」
「構わないっすよ。てか、人の事を考えたりするんですか?」
「はは、きついねー」
 ふわりと髪が揺れた。うっすらと香る、女の子の匂い。
「中学の頃さー、これでも荒れてたのよ。きっかけは、学校の授業だった」
 遠い過去を見つめるように、目を細める先輩。俺はじっとその横顔を見つめていた。
「生徒同士に話し合いをさせる授業。テーマは『何のために生きるのか』。結論は、実はあんまし覚えてない。あたしが覚えているのは、その時、わけわかんなくなっちゃったって事」
 何のために。
 誰の、ために?
「生きる明確な理由なんて持ってなくて、考えれば考えるほど、あたしは誰にも必要とされていないって気がしてきた。そうしたらもう駄目ね、悪い方向に進んじゃったのよ」
 誰のためでもない。
 だけど、自分のために生きていけるほどに強くもない。
 だから、苦しいんだ。
「そんな状態で過ごし続けて、その中で出会ったのがギターだったわけ。友達とライブ見に行ってね、その音に感動したの」
 中西先輩は肩のギターケースを担ぎ直し、
「結局は音楽じゃなくても良かったんだろうけどね。要するに、何かに必要とされたかったんだと思う。自分がいなきゃ存在できない何かに必要とされたかった――ってセリフは、何のお話だったかな?」
 そのセリフは聞いた事がなかった。
 でも、良いセリフだと思った。
「その点で音楽はあたしにぴったりだった。音は、あたしが奏でている間しか存在できない。誰かの耳に、心に残っても、生の音ってのはあたしが手を動かさなきゃ生まれない。だから、ライブ、やってみたかったんだ。誰かに、あたしの生み出す音楽に必要とされたくて」
 そうすれば、見つけられる気がするから。
 そう締めくくった中西先輩の横顔は、今まで見た事がないほど大人びて見えた。
「へへっ、ごめんね。つまりはあたしの勝手なのよ。山ちゃんも武ちゃんも巻き込んじゃってさ。だから、その、あんまし気にしないで。大丈夫、ギターいなくたってバンドはできる! あたしの目的も達成できる! てなわけで、頑張ってみる」
 くるん、と俺の前で回った中西先輩は、ぶん、と手を振った。さようなら、と言っていた。
「もしも良かったら聞きに来てよ。ちょっとは上手くなったんだからさっ!」
 そのまま先輩は駆け出して行った。
 見送った俺は、コートのポケットに手を突っこんだまま、立ち尽くす事しかできない。先輩を追う事なんて、とてもできなかった。
「必要と、されたかった」
 衝撃的な話だった。
 もっと、もっと早くにこの話、聞いていれば。
 そうしたら、あるいは、俺も中西先輩を手伝ったかもしれないのに。
「いるなんて、な」
 俺と同じ人間が。
 俺も、中西先輩と同じだった。音楽を始めたのは、自分が演奏している間しか存在できない『音』の儚さに魅せられたからだ。
 でも、もう、遅い。遅すぎる。
 今から行っても、今の俺では音を生かしてやれない。生み出す事ができない。
 理解されなくて、自分の気持ちにまで背中を向けてしまった俺には、音楽をやる資格なんてない。
「そうかしらね」
 チリン――
 冬の空気よりも澄んだ、あらゆる音にも侵されない不思議な音色。
 鈴の音色が、また響いた。
「アンジェラ……」
「もう遅いの?」
 俺を見上げる幼い姿。
 子供みたいな顔をして、その言葉は、大人の言葉よりずっと俺の胸に響く。
「また、言い訳をしている。怖がる事もためらう事もない。今の貴方を阻むものなど何もない。動けぬ所以は貴方自身が握っている」
「俺、自身?」
 こくんと頷き、
「ほら、歩いてみなさい」
 言われた通り、一歩、踏み出してみた。体は、まだ動いた。
 そうすると、また一歩。さらに一歩。やがて歩みは速まり、駆け出す!
「ほら、歩けた。壁を乗り越えた先、新たな道は、遠くまで続いている」
 アンジェラの声を背中に聞きながら、俺は、会場を目指す。

 会場となる公民館に飛び込み、あちこちで聞いて控室まで走ると、ちょうどよく山中先輩と武井先輩を捕まえる事ができた。
「さ、佐藤君!?」
 驚く山中先輩に、俺は詰め寄る。
「中西先輩は!?」
「む、向こうの方に……」
「ちょい待ち、佐藤君」
 武井先輩は息を荒げた俺の耳元に口を寄せ、
「ふっきれた?」
「はぁ、はぁ……、抱えられるくらいにゃ、覚悟を決めてきました」
「ん、よろしい」
 ぽん、と俺の背中を叩き、
「よろしくね、ギター君」
「――任しといてください!」
 さらに奥。ステージ手前。
 最後の準備をする幕裏に、中西先輩の姿があった。
「いっ!?」
 俺の姿を見つけ、中西先輩はわかりやすく驚く。
「ちょ、え、あれ!? 佐藤君!?」
「中西先輩。俺の勝手ですんません、けど、俺にもやらせて下さい!」
「は、あ、うん、まあ……? ちょ、ちょっと待ってね!」
 中西先輩は呼吸を整えるように深く息を吸い、吐く。
「うん、落ち着いた。さてさて、今からで間に合うの? 練習、ちっともしてないでしょ」
「間に合わせます。出番はいつっすか?」
「午後。今からなら、まあ、多少は合わせる時間もあるかな」
 くすっと笑い、中西先輩は立てかけてあったギターを手に取った。
「はい、これ君の」
「お、れの……」
「君が来るとは思ってなかったけどね、先輩というのは用意周到なものなのだよ、ふふん」
 何故か誇らしげに胸を張り、先輩は俺の肩を叩いた。
「よろしい! それじゃ、やれっかい!?」
「もちろんっす!」
 久しぶりに握るギターの感触。
 今なら、きっと、良い音が出せる。
 あの子の持つ、鈴のような音色が。



 チリン――
 小さな公民館から賑やかな音色が聞こえてくる。
 冬の寒空の下、夜空色の少女は目を閉じてその音色に耳を傾けていた。
「私は、音楽というものは知らないけれど」
 音色に乗って、熱気まで伝わってくるようだった。
「良い音ね」
 人が生きている。だからこそ生まれる熱。
「彼は、生きている」
 そして。
「活きている」
 演奏が終わり、拍手の音が聞こえてきた。
 少女はふわりと空を踏み、目を開く。
「簡単な事だったでしょう?」
 問いかけるように呟いた直後、少女の姿は風となって消えた。
 歓声の中に鈴の音色が溶け込んでいく。
 チリン――



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