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どんな状況にも慣れてくるのは生物の本能だと聞いた事がある。 そういう意味では、アタシもきちんと生きているのかもしれない。 「沙織。そろそろ仕事の時間だぞ」 「んー……? ああ、そうね」 悲導者は、アタシがどれほど言っても離れようとしなかった。 仕方なしに放っておく。悪意も殺意もない相手。殺すほどの意思も沸かなかった。 そんな状況も、時間が経過するほどに慣れてくる。今では、悲導者がアタシの近くにいる、その事実に対して疑念を挟む事は少なくなった。 悲導者は玄関先でアタシを見上げている。元より準備するほどの事はほとんどない。鞄だけを手に取り、アタシはブーツに足を突っ込んだ。 「だいぶ違和感がなくなったようだな」 「何が?」 「私がいる事に対して」 「……」 今まさに、その事を考えていた。自分の考えが悲導者なんかと重なって、少し気分が憂鬱になる。 「そろそろ教えてくれてもいいのではないか。何かの相談に乗れるかもしれない」 「だから、何をよ」 「お前が秘密にしている事、誰にも明かしていない事だ」 アタシと生活を共にすれば気付くだろう。それは、隠しても隠しきれない事実だった。とはいえ、その話はしたくない。 「あんたなんかに話す事なんて何もないよ」 「秘密は抱えるものではないぞ。抱え込むほど、悩みを背負う程に押し潰され、壊れてしまう」 「だったら壊れちゃえばいい」 そう。アタシという存在は、必要とされていない存在。本来ならあるべきではない存在。 それが壊れたからといって、なんだと言うのだろう。 「沙織」 真剣な声。思わず顔を向ける。 悲導者は、アタシの事をじっと見つめていた。正面から、そらす事なく。 「……っ」 それが、アタシには不愉快で。 思わず、目をそらしてしまう。 「お前は、誰だ」 「沙織よ。それ以外の誰でもない」 「なら、せめて沙織になりきったらどうだ」 「ぅ……」 息が詰まる。 苦しい。 「周囲の反応や話を聞く限り、沙織という人間はおとなしく、孤立しがちな人間だったそうだな。お前もある意味で孤立しているといえばそうだが、間違っても『おとなしい』人間ではない」 「まわりから見りゃそう見えるんでしょ」 「私はお前が沙織以外の別の人格だと考えている」 はっきりと、悲導者はそう告げた。 アタシは、沙織ではないと。 「多重人格ってわけ? そんなの、そうそういるはずがないでしょ」 「だが零ではない。私の知り合いにも多重人格だったらしい奴がいるしな」 今は違うが、と続けた。 悲導者は、明らかに理解している。アタシと沙織の違いを。 ほんの数日だ。アタシが悲導者と過ごすようになったのは。 なのに、悲導者はすでにおかしな点に気付き始めている。あるいは、仕事先の人間や、それ以外の人間関係、その全てが気付いているのかもしれない。どこかがおかしい、と。それでいて言葉にしないのは、そんな事があるはずないと思い込んでいるせいか。 悲導者は、見る限りそこまで人間に詳しいわけではないのだろう。だから、異常な可能性も普通に考えてしまえる。 それは、今のアタシにとって厄介以外の何でもない。 「私の想像するお前の悩みはこうだ。 本来なら主人格である『沙織』という人間がいた。その時にお前がいたのかどうか、そこまではわからないがな。だが、とあるタイミング――ごく最近、お前は沙織という主人格から体を奪った。 その事は、お前自身が考え抜いて出した結論ではない。そして、取り返しもつかない。だからお前は悩んでいる」 なんだこいつ。見てきたのか。 あるいは……、異常に対して耐性のある人間は、こういう考えもあっさりと思いつくものなのかもしれない。 「違うか?」 悲導者が答え合わせを促してくる。それに答える義理はない、けど。 「……だったら何だって言うのよ」 答えてしまう。 あるいはアタシも、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。 「ふふふ。ようやく少しだけ心を開いてくれたな」 「はぁ?」 悲導者はどこか誇らしげ。逆毛を揺らし、胸を張る。 その姿は、どこか腹が立つ。 「ほら、そこどきな。でないと踏み潰すわよ」 「む。つれないな、ついでに相談などしてみないか?」 「冗談!」 あんまり、ゆっくりしている時間が残っているわけでもない。 アタシは外へと繋がる扉を開く。冷たい空気が全身を包み、それによってようやく、現実というものを感じた。 「沙織!」 「何よ、アタシはバイトに行くんだけど?」 「そう、お前は沙織だな」 くちばしだけど。 確かに、口の端が持ち上がったように見えた。 「う、るさいッ!」 必要以上に扉を強く閉める。バタン、と大きな音が響く。悲導者は、アタシの事を追ってこなかった。 休憩時間は嫌いだった。仕事をしている間は無心になれても、休憩時間はそうもいかない。やる事もなく、ボーっと天井や壁を見つめていると、嫌な事ばかりを考えてしまう。振り払おうとしても、なかなか消えてくれない。 その点、最近はマシだったかもしれない。不本意ながら悲導者と一緒にいたわけで、あいつといる間は、自分がレティシアであるという事をあまり意識しないで済んだ。 「はぁ……」 けれど、今日は悲導者もいない。何もない時間を持て余す。 「アタシは、沙織」 沙織と呼ばれれば返事をする。それはこの体が沙織のものだからであって、アタシ自身が沙織という存在である事を受け入れたわけじゃない。 悲導者は、きっとそんな事も理解しているのだろう。それでいて、アタシの事を沙織と呼ぶ。アタシが沙織だという。 あるいは、そうなのかもしれない。アタシが難しく考えすぎているだけで。 どうなろうと、この体は沙織のものだ。そこに宿る精神、魂であるアタシは――沙織と呼ばれてもしかるべき存在だろう。 アタシが何を悩んでいるのか。苦しんでいるのか。その正体。それは、 「何も知らない沙織を殺した事」 それだけ、なんだ。 アタシは望まず復活した。それでも、誰も犠牲にせず蘇ったのなら、アタシは苦しむ事も少なかったろう。だけど現実は非情で。アタシは、沙織という何も知らない、おそらくは霊という存在さえ半信半疑だった少女を、殺してしまった。 ただ、それが辛かった。ごめんと謝る事さえできない。不可抗力、アタシ自身に責はないと言う事もできる。それでも、心が納得しない。 霊体であったアタシにはよくわかっている。心が納得しないという事は、何も変わっていないという事。何の意味もないという事。 人は心で生きる。心が生きている間はまだ生きている。今のアタシが生きていないというのは、つまるところ、そういう事。心が死んでいる。殺している。 だから、生きていない。 じゃあ、どうすればいい? 復活してしまったのは止められない。いまさら自殺をしたところで、沙織の周囲にいた人間が悲しむだけ。誰も喜ばないし、誰も得しない。 結局のところ。アタシ自身が折り合いをつけ、自分という存在を肯定するしかないんじゃないかと思う。 「結論が出たようだな」 すっと壁から顔が飛び出す。見知った、最近では見慣れた顔。 「何よアンタ、ずっと見張っていたわけ?」 「見守っていたと言え」 「うっさいわよストーカー」 口はいつも通りの言葉を吐き出す。アタシは何も変わっていない。状況も、アタシ自身も。 「すぐに自分を認めろというのは難しい話だ。大きな悩みほど簡単には処理しきれぬだろうしな」 「わかったような口をきくのね。あんた、何様?」 「悲導者様だ」 「……ふん」 パイプ椅子から立ち上がり、グッと背筋を伸ばす。凝り固まっていた体が解放される、心地良い感覚。 ああ、生きているんだな、と感じた。 「なあ、沙織。ひとつだけ教えてくれないか」 「あんたに質問する権利はないわよ。んで、何」 「お前の本当の名前は何だ?」 「は?」 ……そういえば、名乗っていなかった気がする。いや、名乗るのを意識的にやめたんだ。 アタシはあくまで沙織として生きなければいけないという、馬鹿げている考えに縛られて。 そう、そんなの馬鹿げている。どんな過程だろうと、アタシが沙織を殺した事、そして、今ここで生きているのがアタシであるという事には何も違いがないのだから。 「アタシの、名前は」 目を閉じる。思い浮かぶ光景。 高い空から、アタシは自分の生まれ育った国を眺めていた。この国で好き勝手をしている悪魔がいると思うだけで殺意が湧いた。別に生前は自分の国なんてどうでもよかったのに、死んで殺意が高まってから、余計にムカついた。 殺し、殺し、殺され。 そして、また生き返った。本当にしぶとい。 なら、せめて今は――もう少し、戦おう。その方が『アタシ』らしい。 結論は、アタシを蘇らせた糞野郎を殺してからにしよう。 「レティシア・ラスペード」 それが、アタシの名前。 チリン―― 夜風に鈴の音色が流れていく。暗い空にはいくつもの星が瞬いていた。 「へえ。レティシアが、そんな悩みをねぇ」 桜色の少女は意外そうに呟く。いや、実際、彼女にとってそれは意外だった。 話をしていた逆毛を持つ鳥は、ひょこんと毛を揺らした。 「私も、『まるで人が変わったみたい』という話を耳にしなければ、想像だにしなかっただろう」 「実際に変わってるんだから、何をいわんやね。でも、そっかー」 桜色の死導者は、うんうんと頷く。 その様を見て、悲導者は首を傾げた。 「何を納得しておるのだ、ケイ」 「あいつも人相応の悩みを持ってるのねって事」 「そうね」 チリン―― 応じたのは悲導者ではなかった。夜空色の衣に身を包んだ小さな少女。 「彼女は人として生まれ、そして死んだ。死導者となり、再び死んだ。そして、三度の生を得た」 「三度目の正直ってわけね」 「死の先、滅の先にいる彼女。それでも彼女は生きている。生ある者は、それがゆえに思い悩み、縛られる」 「本人が望んでいないとしても、だな」 「彼女の存在は、哀しいもの。けれど、その生は事実」 「きゅ」 空を踏み、天を歩む。 死者に道はなく、阻むものもない。 「彼女の新たなる道に、幸福がありますように」 祈る。 手の届かぬ場所、そこにあるもの。 届かすための一つの、あるいは唯一の方法。 「行きましょう」 そして彼女は進み続ける。 留まる事はできないから。 チリン―― |