ドラマもなく。ファンタジーなんて欠片も関係せず。
 悪だの正義だの、考える必要さえない、普通の生活。
 それが、俺の日常。



 俺は学校の体育館にいた。
 壇上にいるのは、雑誌か何かで見たことのある医者。もちろん校医なんかじゃない。なんでも、学生時代にはかなり荒れた経験を持っていて、その経歴を活かして公演のようなものをよく開いているとか。校長だかと友人らしく、その関係で今回の公演に繋がったそうだ。
「人を殺す以外の悪事ってのは、だいたいやったんだ。毎日、ケンカしたり、盗みをしたり。改造バイクで夜の街を走るのが何より面白かったんだ」
 壇上の医者は白衣姿で、当時の面影と思えるものは何もない。スクリーンには医者が荒れていた頃の写真が映し出されている。
「けど、いつまでもそんな事を続けていられるわけじゃない。ある日、俺は大きな事故を起こした。仲間の中には、死んだ奴もいる。
 俺も無事なんかじゃ済まなくて、生死の境を一週間近くさまよった。生還できたのは、本当に医者のおかげだよ。だから俺は、医者になる決意をしたんだ」
 医者、か。
 俺には、そういう経験はない。だから、夢や目標といったものもない。明確な生き先が決まってなくて、呆然と漫然と、今を過ごしている感がある。
「死にかけて俺は初めて気付いた。自分が捨てようとしていたもの、自分が危険に晒していたものがどれだけ大切なものなのかって」
 医者の話は続いていく。命を軽んじ、親を泣かせ、友人と一時の享楽にふける。そういう自分を疑問に思うことさえなく、ただ毎日を面白おかしく過ごす事だけを考えていた日々。
 それが、この医者の全てだった。俺にはない、俺が経験する事はないであろう生活。
 俺は、まあ普通に生きてきた方だろうと思う。悪い事なんて赤信号を渡るくらい、真面目に学校に通い、サボるなんて事は考えた事……、くらいはあるけど。
 要するに、気が小さいんだ。何かだいそれた事をする勇気はない。考えたり、こうなったらいいなって思う事があっても、我慢して現状で満足してしまう。そんな俺だから、こういう、いわゆる荒れた生活とは縁もゆかりもない。
 いや、まあ、ない方がいいんだろうけど。
 たとえば、テレビなんかでは殺人事件のニュースをやっていたりする。
 人殺しは悪い事だ、それはわかりきっているし、俺もそこに疑問を挟もうとは思わない。でも、人を殺した人には、大なり小なりドラマがあるはずだ。人間を殺す、なんていうだいそれた事件を起こすまでの過程、その後の人生。波乱万丈かどうかはわからないけど、何かを思ったり、悩んだり、苦しんだり。その結果が人殺しなんてのは情けないけど、その人は人生の中で何かを“成して”いる気がする。
 俺は自分の手のひらを見つめてみた。
 十数年の人生を共に過ごしてきた手。幾度となく見た、自分の手。
 何かを成したこともない、何かを成すこともない、大きな事も小さな事もない、ごく普通の手。
 別に、殺人をしたいってわけじゃない。何か事件を起こしたいわけでもない。
 ただ、俺には何もないなぁ、と、そう思うだけ。
「だから、俺はこれだけは言っておきたい。今、俺のような事をしている奴。今すぐにやめろ。失ってからじゃ取り戻せないんだ。手の中にあるうちに、それを離さないようにしっかり握りしめないと、失われちまうんだ」
 みんなは真剣に聞いている。内心ではバカにしているのかもしれないし、きちんとなんて聞いていないのかもしれない。でも、少なくとも表面的には、ちゃんと聞いていた。
「そして、まだ俺のように踏み外していない奴。それは立派な事だ。絶対に、俺の真似なんてしちゃいけない。それは、誰より自分のためにならない」
 医者の話が終わり、体育館を拍手が埋め尽くす。俺も手を軽く叩きながら、どこか遠い話だな、と感じていた。
 悪い事、なんて、俺には遠い出来事だ。それは現実の中の話じゃない、漫画の中の出来事なんだ。だから、医者の話を聞いても、俺の中に沸き起こるものはない。何も感じない。あまりに遠すぎて、実感というものがない。
「はい、素晴らしいお話をどうもありがとうございました。みなさん、今一度、大きな拍手を!」
 ぱちぱちぱち、と手を叩く。
 素晴らしいお話、だったのかなぁ。

 放課後。なんとなく帰る気にもなれず、俺は教室に残っていた。
 窓の外はすでに茜色。ここにいたところで何かやる事があるわけではないのに、体は動かない。立ち上がる気力も、なんとなく沸かない。
 自分は何なのだろうとか、どうして生きているんだろうとか。そんな、考えても仕方ないような事をつらつらと考える。現状に大きな不満はないのに満たされない。そんな感じ。
「きゅう」
 聞き慣れない声に、俺は視線を落とした。机の上に、何かいた。
「……?」
 動物だ。見慣れない、黒い毛皮の動物。翡翠色の瞳で俺をじっと見上げている。
 俺は教室を見渡してみた。他には誰もいない。どこから入ってきたんだろう。野良、だろうか? それにしたって教室まで入ってくるとは珍しい。
 チリン――
 続けて鈴の音色。教室の扉を開き、女の子が入ってきた。
 夜空色のワンピースを着た、ちょっと不思議な感じの子だ。その目が俺を見つけて止まる。
「ここにいたのね」
 女の子は俺のところに、いや、動物のところに寄ってくる。
「君のペット?」
「そんなところよ」
 答え、女の子は動物をつかむと、自分の肩に乗せた。動物は小さく鳴き、なぜか女の子の頭によじのぼる。女の子は軽くため息をつきつつも、何も言わなかった。
「誰かの妹さんかな?」
 明らかにウチの生徒ではないので、聞いてみた。
「いいえ、私に姉妹はいないわ」
「じゃあ、先生の子供?」
「そうね、親はいるわ」
「うん……?」
 なんとなく、かみ合っていない。そんな感じはしたけれど、深く追求するのはやめた。それほど興味もなかった。
「貴方はここで何をしていたの?」
 今度は女の子が聞いてきた。とはいえ、その質問は、ちょっと困る。
「別に何も、かな」
「あら。悩んでいるようにしか見えないけれど」
「じゃあ悩んでる」
「ふふ、面白い答え」
 きゅう、と同意するように女の子の頭上が鳴く。
「私はアンジェラ。この子はエルミネア。ねえ、貴方の名前を聞かせて?」
「名前? ……谷口だけど。谷口正二」
「では、正二。貴方には私がどう見える?」
「――は?」
 まじまじと女の子を見つめ直す。
 アンジェラ、と名乗る女の子。改めて見れば、なるほど、髪は黒いけど、なんとなく全体の雰囲気が日本人っぽくない。瞳が赤く肌が白いせいもあるだろう。それに、見た目には小学生にしか見えないのに、もっとずっと大人びた雰囲気がある。そう、それこそ、年上と話をしているような感覚がある。
「貴方の目に、私はどんな経験をしたように見えるかしら」
「どんな、経験……?」
「学校に通い、教師の不満をもらしながら平和に過ごしているように見える? それとも戦場を駆け抜け、大勢の無力な人々を殺してまわっているように見える? あるいは、不思議な力を使って仲間と共に悪い魔法使いと戦っているように見えるかしら?」
「あー、いや、うん」
 なんとなく、どれもしっくりこなかった。普通の小学生には見えない、でも、それ以外の可能性は、俺にははっきりとイメージする事もできなかった。
 女の子は俺のそんな様子を見透かし、くすりと笑う。
「人には人の、それぞれの生き様がある。他人から見れば面白くないような人生も多々あるわ。それは否定しない。時に、当人にさえ面白くなくて、自ら命を断つような人もいる」
 ほんの一瞬、女の子は目を伏せた。顔をあげた時には、何も変わらない柔和な笑みを浮かべていた。
「でも、それだけ。本当にそれだけの事なのよ」
「それだけ、って?」
「見たところ、貴方と似た生き様の人は多数いるでしょうね。多数派、と言ってもいいかもしれない」
「ま、要するに普通、って事かな」
「そうね。でも、その言葉はよくないわ。本質を包み隠してしまう」
 本質?
 俺が問い返す前に、女の子は答えをくれた。
「平均なんてものは存在しないのよ。人の生だものね。どこにでもある人生は、なら、どこにあると聞かれても答えられるものではないの。それぞれだから。個が選び、歩んだ人生は、そこにしかない」
 女の子はそっと自分の胸に手を当てる。
「私は、私と関わった人の生を覚えているわ。自殺した人、寿命を迎えた人、事故死した人、殺された人もいる。それぞれが、多種多様な人生を送った。それは、学問的に統計を取れば、似たような人生と呼べるのかもしれない。
 けれど、私にとっては、どれも印象深い、大切なひとつの生よ。個性がないなんて嘘。それは見つけられない、見ようとしていないだけ」
「ん……」
 女の子が言いたい事が、なんとなく理解できてきた気がした。
 だからこそ、意地悪を言いたくなる。
「でも、たとえば俺のクラスメイトなんか、運動もそこそこで勉強も学年100位くらいで、顔も可もなく不可もなく、彼女なんかもいないような男がいるけど」
「その人は何をも悩まず、何をも楽しまず、何をも考えず、何もしないまま漫然としているのかしら」
「それは、さすがにないね」
「そういう事。人は、成そうとせずとも生きるだけで何かを成している。ましてや、何かを成そうと生きた人なら、その生き様は鮮烈に人の目に焼きつくわ」
 女の子は俺の手を取った。動物が鳴く。なんとなく不満げな感じがした。
「漫然と過ごした生でも、現代まで連綿と続く人という種の一部なのよ。そして、その続きで何かが起きているの。この手が何かを成していないとしても、いずれ何かを成すわ。貴方の生きた痕跡は、生きている限りどこかに残る。その全てが死ぬまで、いいえ、たとい死んだとしても、貴方は確かにここにいた。それは、私が覚えているわ」
「う、うん」
 女の子が手を離す。ほとんど同じタイミングで、開きっぱなしだった教室の扉から顔が覗いた。
「あ、アンジェラ、こんなところにいた」
 セミロングの女の子だった。学校では見ない顔だ。どことなく、アンジェラと雰囲気が似通っていた。顔つきとか、そういうのはちっとも似ていないんだけど。
 その女の子の顔を見て、アンジェラは俺を見上げる。
「私はそろそろ行くわね」
「そ、そう」
「忘れないでね、正二。谷口正二。貴方は生きてきた。そして、生きている」
 チリン――
 鈴の音色を残し、アンジェラは女の子と動物を連れて教室から出て行った。
 見送った俺は、ぐっと背筋を伸ばす。パキパキと小気味いい音がした。
「さて、帰ろうか」
 帰る家もあるし、足もあるわけだし。
 普通に家に帰って、普通に宿題でもやろうかねぇ。
 鞄を手に取り、窓の外を見る。空が赤い。けど、あの女の子の目は、もっと赤かった。吸い込まれそうなほどに。
「あの子は、ドラマだらけの人生なんだろうなぁ」
 それじゃ、疲れちまうから。俺にはちょいと難しい。
 だから、ま、普通でオーライ。今日もとぼとぼかーえりましょーう。



 チリン――
 学校の廊下を歩く二人の少女。遠く、運動部が練習する掛け声が聞こえる。
「学生ってさ、悩むものなのかしらね」
「経験がないゆえの未来への不安。可能性を持つがゆえの苦悩。もっとも、それは老若男女、関係するものではないわ」
「ふーん。ま、思春期なのかしらね」
「きゅ」
 茜色の廊下。どこの学校も基本的な仕組みは似ているだろう、が、自分の通った学校と見比べ、その違いに違和感を持つ。
 郷愁か。はたまた、別の何かなのかもしれない。
「学校、か」
「きちんと通ってみたかったかしら?」
「そりゃあ、ね。あたしだって、普通の人間として生きてみたいって思った事くらいあるわよ」
 黒髪を揺らし、少女は続ける。
「でも、今の生活、けっこー気に入ってるから。だから、いいのよ。別に」
「それは何よりだわ」
「うん。だから、壊させない」
「……もちろん」
 角を曲がり、少女たちの姿が消える。
 誰の目からも見えないところに。
 チリン――



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