人には心があるという。
 それは、逃れえない我が身の一部。
 決して消えない、私の監視人。



 臭いがする。
 臭いの元は手だった。そこから、洗っても洗っても落ちない、腐った魚のような臭いが漂っていた。高級石鹸を使ってみても、しっかり洗ってみても、その臭いは消えなかった。
 他の人に聞いてみても、臭いは感じないという。私が特別に敏感なだけかもしれない。
 その臭いは、いつもしているわけではなかった。ふとした瞬間、臭いだす。
 電車に乗っている時。道を歩いている時。どうという事のない日常の一こまに、さりげなく紛れ込んでくる。
 私は、その臭いがたまらなく嫌だった。なんとかしようと、臭うたびに手を洗ってみたのだけど、なぜだか消えてくれなかった。かといって、いつまでもしているわけでもない。
 いつの間にか現れ。いつの間にか消え去る。臭いとは、私にとってそういうものだった。
 医者にかかろうかとも思ったけど、断念した。
 臭いがするのは医者の分野じゃない。気にしないように精神安定剤を貰ったとしても、臭いの大元を特定できない限りは意味が無い。
 今、私は電車に揺られていた。朝の時間、車内は混雑している。
 吊革につかまって、窓の外を眺めながら、私はどうすれば臭いの元を特定できるか考えていた。
 今日はまだ臭ってこない。だけど、朝方の電車は、特によく臭う場所だった。
 不快だし、臭ってこないのが一番ではあるのだけど、臭ってこない限りは原因も究明できない。私は待っているような来ないで欲しいような、微妙な気持ちで電車に乗っていた。
 やがて、電車はターミナル駅に滑り込んだ。ここはJRと私鉄が乗り入れする大きな駅で、乗り換える人も多い。私自身は乗換えを必要としないけど。
 目の前の座席が空いたので、これ幸いと席に座る。朝、座れるというのは本当に貴重な事だ。
 ドッと人が降りたかと思うと、すぐさまたくさんの人が乗ってきた。
 通勤時間だけあって、乗客はサラリーマンが多い。その中にちらほら中高生や、私学らしい小学生の姿も見える。
「……!」
 乗客を眺めていると、あの臭いが漂ってきた。
 手を鼻に近づける。間違いなく、臭いの元は手だった。
 両手を嗅いでみる。どちらが強いという事はなかった。
 腐った魚のような、常温保存した牛乳のような、嫌な臭いだ。両隣に座っている人の様子を伺ってみたけど、態度に変化は無かった。たぶん、臭いを感じていないんだろう。
 さて、原因は何だろうか。
 さっきまでは臭ってなかった。もちろん、席に座っただけで、何を触ったわけでもない。
 そうやって考えると、いっそ気のせいじゃないかと思えてくる。
 だけど、嗅いでみれば、そこには実際に臭いがある。これがただの勘違いだとは思えない。
 原因はどこかにあるはず。なのに、この体臭の原因は、どうにもわからなかった。
 四駅ほど臭いは続いて、私自身が電車を降りる頃には、臭いも消えていた。

 仕事を終え、会社を出たところでケータイをチェックした。すると、別れた彼氏から電話があった事に気付く。
「しつこいやつ」
 ケータイの電話帳からは、元カレの番号なんてとっくの昔に消していた。だけど、あれだけ見慣れた番号は、たとえ記録を抹消しても記憶からは消え去らない。それが余計に忌々しい。
 私は、あの男とやり直すつもりなんて毛頭なかった。根本的な価値観からして違う事を思い知らされた今となっては、あんなのに関わる事さえ嫌だった。
「冗談じゃないわ」
 暗くなった道を歩く。
 このあたりは繁華街から遠く、住宅もない。残業をした後では、人通りさえなかった。
 昼間はあれだけ無駄にいるのに、と心中で悪態をつく。これだけ人がいないと、寂しさと同時、ほんのわずか、空恐ろしい感覚さえある。
 足早に通りを横切ると、
 チリン――
 軽やかな鈴の音色に、私は思わず足を止めた。
 見ると、オフィス街には似つかわしくない、小学生然とした女の子が、暗がりから私を見つめていた。
「どうしたの、迷子?」
 こんな時間、こんな場所で、迷子もないだろうと思いつつ、そう聞かずにいられなかった。
 女の子は首を横に振り、
「……」
 じっ、と私を見つめる。
「お父さんかお母さんは?」
 女の子は私の質問にも口を開かず、ただ黙って首を振り返してきた。親の事を聞いて否定というのは、どういう事だろう。近くにはいない、という意味だろうか。それとも、まさか両親を亡くした、とか。
「とりあえず、おまわりさんのところに行こっか」
 女の子に向かって手を伸ばした瞬間、つん、と例の臭いが鼻を突いた。
 思わず反対の手で鼻を覆い、余計に臭いを感じてむせ返ってしまう。
 チリン――
 見上げると、女の子は私の目の前まで迫っていた。
「まだ、臭う?」
「へ?」
 ふと気がつくと、臭いが消えていた。
「そういえば臭わない、けど」
 はっ、と我に返った。
「な、なんで臭いの事を知ってるの?」
 臭いの事は同僚に相談した事もある。
 だけど、それは随分と前の事だ。もはや、同僚でさえ、私がいまだに臭いについて悩んでいるなんて事は覚えていないだろう。ましてや、こんな知り合いでさえない小学生に相談した覚えなど、一度もない。
 対する女の子は、
「貴女が教えてくれたから」
 簡潔に答えた。
「私が?」
「気付いていない? 貴女の泣き声、私は確かに聞いたわ」
「泣き声……?」
「そう。きっかけは些細なすれ違い。あるいは、起こるべくして起きたとも言える。
 貴女は悔いている。嘆き、悲しみ、けれどそのままでは生きていけないから、表面を取り繕った。けれど、根本は何も解決していない。けじめをつけていない。だから、貴女は囚われたまま」
「何の、事?」
「本当に理解できない?」
 言外に、そんなはずはない、と言っていた。
 後悔する事なんて、この歳まで生きていればいくらでも出てくる。万事が順風満帆だったわけじゃない。
 だけど、『表面を取り繕わなければならないほど』後悔する事は、そうそうない。
 何故、この子供があの出来事を知っているのか、それはわからない。だけど、この子は知っているのだと、そう感じた。
「――でも」
 もう遅い。
 過ぎ去った“今”を変えたくて、けれど、過去には手が出せなくて。だからこそ後悔という。
 今となっては、もう遅い。失われたものは帰ってこない。
「どうしようもないじゃない」
「そうね。どうしようもないわ」
「どうしようもない事柄に思い悩んで、泣いている暇なんて、現代人にはないのよ。生活するためには働かなきゃいけないし、働くためには泣いてなんかいられない。だから、無理やりだってわかっていても、こらえて涙を呑まなきゃいけないのよ」
「それは半分だけ正しい」
 チリン――
 鈴の音色が耳に響く。
「働かなければ生きていけない、そして、働く為に泣いていられない。その理屈は一概に間違っているものでもない。けれど、心に反しても、体はついてこない。貴女たちの核となる場所にあるものは、心なのだから」
「じゃあ、どうすればよかったっていうのよ」
「わかっていたはずよ。貴女は物分りがよかったわけじゃない。自分の尊厳を守って、自分の心を犠牲にしたのよ」
 私を見上げる、その瞳。
 いまさらながら、その色合いが尋常ではない事に気付いた。
 目が赤い。充血しているわけではなく、ただ純粋に紅い。
「たった一言でいい。起きてしまった事は変えられないけど、貴女の心を取り戻す事は、それほど難しくない」
 つと、女の子が視線を下げた。その先には、私のショルダーバッグがある。
「大丈夫よ」
 そう言い残し、女の子は私に背中を向けた。
 私は、その背中にかけるべき言葉を持っていなかった。

 あれは、三年近く前になるだろうか。
 当時、私は元カレと同居していた。成人してはいたけど、成熟してはいなかった。まるきり子供のまま、体だけが大人になっていた。
 ちぐはぐな状態で、私は妊娠してしまった。彼は、祝福してくれなかった。
 さんざん言い争ったあげく、私は堕胎する事にした。母子家庭になってまで、子供を育てていく自信は無かった。
 その代わり、と条件をつけた。堕胎手術の費用は彼が持つ事。私と別れ、二度と会わない事。
 彼は何度も何度も謝罪していた。私はそんな言葉を聞き流しながら、子供を殺す事に罪悪感を覚えていた。だけどそれ以上に、こんな男とは一緒にいられないと思ってしまった。
 あの時。たった一言、口にするだけで、私は罪悪感と向き合えただろう。
 私は彼に対して、条件以上の事は何も言わなかった。それが悪かった。
『子供に謝って』
 たった一言。なんで、そんな言葉が出なかったのか。
 あの男は、私に対して賢明に謝罪していた。彼にとって、子供は、最後の最後まで命じゃなかった。
 私はあの男に、人殺しをするのだという事を認識させられなかった。それが、私の後悔。
 生まれてさえいない赤ん坊に、私はずっと負い目を持っていたんだ。
 
 三年ぶりに会った元カレは、私の記憶よりも随分と老けていた。
「久しぶり」
 三年前は、まだ二十台の後半だった。だから、また三十そこそこのはずだ。なのに、もう四十を過ぎたような疲労感がある。髪の毛にもいくぶん白いものが混じり始めていた。
「久しぶりなんて、よく言えたものね」
「ごめん」
 昔から、私の目を見ない人だった。今も、彼は私の目を見ていなかった。
「で、いまさら何よ」
「今になったから、だよ」
 彼はスプーンでコーヒーをぐるぐる回していた。入れるのはミルクだけ、砂糖は入れない。
「その、悪かった」
「……で?」
「で、って」
「三年前にさんざん謝っておいて、別れた彼女にまたぞろ謝罪しに来たのか、って聞いているのよ」
「ち、違うよ」
 かき回す手が止まった。スプーンから手を離した彼は、おそるおそるといった体で、私の事を見た。
「ごめん」
「だから――」
「君にじゃない」
 私は思わず口を閉ざす。彼の視線が、私のおなかあたりに移った。
「話って、その事なんだ。水子供養のお寺に、一緒に行かないか。それが終わったら、もう二度と連絡しない」
 ああ、と気付いた。
 この人は、本当に頼れない人だ。いざという時はすぐ逃げ出そうとする。自分が傷つく事を極端に恐れ、そのために平気で人を傷つけてくる。
 でも。そんな彼でも、人を殺す事は罪悪感があったのだろう。
 彼は、あるいは後になってからかもしれないけど、きちんと“人を殺す”という意識を持っていた。
 ほんの少しだけ、救われた気がした。
 子犬のような目で私を見上げる彼に対し、私はため息交じりに言った。
「条件が、あるわ」
「なんでも」
「ひとつ、私の休みに合わせる事。ひとつ、費用はあんたが持つ事。それと」
「……それと?」
 言うか否か迷ったのは、一瞬だけ。
「一晩、私に付き合って」
 やっぱり、私は駄目な人間だ。
 駄目な人間に惹き寄せられてしまう。



 中空に座り、少女が一人、レストランを見下ろしていた。
「あーゆーの、よくわかんないわ」
「そう?」
 チリン――
 鈴の音色を響かせ、彼女の主が応じる。
「オトナな世界? でもないか。どっちかいうと子供かな」
「成熟してくると、思った事も口にできなくなるのよ」
「だから。それが。なんで」
「貴女は思った事を口にするものね」
 チリン――
「ちょっと。今、二人してあたしの事を馬鹿にしたでしょう。あのね、あたしだって色々と考えてんのよ? で、言わないで我慢する事だってあるんだから。でも」
 強い目で、少女は続ける。
「死ぬほど後悔するような事を言わないでいる、なんてありえない。それは、あたしの考える大人とは違いすぎるわ」
「……。貴女は強いわね」
 少女は立ち上がる。並び、二人は歩く。
 しばし歩いたところで、黒い少女はぽつりとこぼした。
「そうね……、彼女は、何をためらったのかしら」
「ん?」
「なんでもないわ。きっと、私たちが知る事はないのだろうから」
「そう?」
 そのまま、二人は風となって消えた。
 何も残さず。存在していた事さえ残さぬまま。
 チリン――



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