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ものを食べ、眠るだけで、人は生きていく事ができる。 けれど、それを行うのは、人の意思。 意思がなくなれば、人は死に絶える。 その男は、煙草をくわえながら、暗い海を眺めていた。 夜闇に沈む、海の見える街。その一隅、マンションのベランダから、男は遠く海を眺めていた。 「何をしているの」 問いかけに、男は気だるい態度を隠さぬまま振り返る。 ほんの少しだけ目を見張り、男はすぐに海へと視線を戻した。 「海を見ているんだよ」 「何故?」 「理由がいるのか」 「いらないわ」 思わず笑いがこぼれた。そう、何かをするのに、理由はいらない。 「では、別の質問をしてもいいかしら」 「……」 応じぬ男に、私は言葉を重ねる。 「何故、死にたい?」 「死にたい?」 男は少しだけ視線をこちらに向けた。 「どうしてそう思う」 「人を見ればわかるわ。私は聖母だから」 「そうかい」 紫煙を吐き出し、男は続ける。 「守るべきを持たず。しかし生きる苦痛はあり、しかもなくなる見込みは欠片もない」 まるで何かの文章をそのまま読み上げるかのように言い、男は首を横に振った。 「大多数がそうだろう、だが、そんなところでつまづくやつもいるのさ」 守るべきはなく。 部屋を見る。さして広い部屋じゃない。他に誰も住んでいないことは明白だった。 生きていれば苦痛などいくらでもある。それは、生きていたことのある私も知っている。そして、それは永遠になくならない事も。 「では、何故、死なないの?」 「その勇気がないからだ」 今度の答えは明快で、明白だった。 「ここから飛び降りれば、高い確率で死ねることはわかってる。でも、そうはしない。高いところから落ちるのは怖いからな。それ以外の、どんな方法でも同じだ。死のうとする努力ってのは、生き続ける努力より、すごく難しいもんだ」 「だから、あなたは飛べない?」 「そういうことだ」 「――そう」 ならば、と思いつき、私は手を振るった。 手中に生み出したのは、小さな賽。 「これを振りなさい」 男に投げ渡す。反射的に受け取った男は、手中を見やり、戸惑ったような顔を見せた。 「サイコロなんて、どうしろって言うんだ」 「投げるだけでいいわ。出た目が偶数なら、私があなたを殺してあげる。奇数なら、殺さないであげる。優柔不断なあなたには、丁度いいでしょう?」 言葉の途中で、男の顔がゆがんだ。構わず、笑みさえ浮かべ、私は続ける。 「さあ、振りなさい。慈悲深い私が、あなたの人生を刻んであげるわ」 「な、何の冗談だ」 「死神は洒落を好まない」 右手を振るう。私の手中に、剣が生まれる。 私自身を表すような、真っ白な剣。 「簡単な事よ。さあ」 「……ッ」 それは、意図しない形だったのだろう。あるいは、力が抜けたのか。 男の手から滑り落ちた賽は、コンクリートの壁に当たり、そのままベランダに転がった。 私は背伸びし、覗き込む。 赤い目玉が、空を見上げていた。 「残念」 私の言葉がきっかけだったように、男はへたり込んだ。 「どうしたの、一体」 「……さあな」 「簡単な事でしょう。あなたは生き延びた。いつものように。ただそれだけの事」 ベランダに降り立ち、私は男の顔を覗き込む。 「あなたは奇跡的に生き延びた。その時、何を感じた?」 男は答えない。表情は抜け落ちていた。呆然としている、と言った方が正確かもしれない。 「喜びかしら。それとも悲しみ? あるいは安堵か、恐怖か、絶望か、希望か」 返事はない。私は続ける。 「もし、少しでもプラスの感情を抱いたなら、あなたは生き続けなさい。あなたが感じた、その小さな雨垂れを求めながら、一本の縄にしがみつきなさい。それが、人の生なのだから」 「一本の、縄?」 「そう。あなたたちが考えた例え話に、こんなものがあるわ」 いわく。人生とは、深い穴の中で、一本の縄にしがみつくようなものだと。 縄はネズミがかじり続け、だんだんと細くなっていく。それを見上げながら、しかし抗う術はない。 飢え渇き、苦しみながら、助けは来ない。自力で縄を登る事もできない。打開する事はできない。本当に、ただしがみつきながら、縄が千切れる瞬間を待つだけ。 唯一の救いは、ごくたまに降り注ぐ雨。それを飲み、渇きを癒し、また耐え続ける。 雨垂れだけを希望に生きる事、それこそが人生。 「酷い話だ」 「考えたのは私ではないわよ。でも、あながち間違ってもいない」 人間は、本当に小さな希望があれば生きていける。 どれほど深い闇にとらわれようとも、可能性が費えていない限り、人は生き続ける事ができる。 「生きていれば小さな希望はどこかにある。それを見つめる事ができるなら、さらに生きていける」 「そんなものか」 「ええ、そんなものよ」 私はベランダの淵に足をかけ、空へと舞い上がる。 「その賽はあげるわ。それを見れば、思い出す事もあるでしょう」 そのまま、私は立ち去った。これ以上、言葉を重ねたところで、希望が沸くとも思えない。 彼はこのまま生き続ける事ができるだろうか。それとも、絶望し、死んでしまうだろうか。 「生きてくれるといいけれど」 それを決めるのは、私ではない。 チリン―― 鈴の音色が響き、黒い衣の少女が現れる。 「どうしたの、マリア」 夜空色の少女は、主にそっと寄り添った。白き少女は、娘に問いかける。 「アンジェラ。生き続ける事は、難しい事?」 「私は生きていた事がないわ」 率直に答え、続ける。 「けれど、そうね。全体からすれば微々たるものかもしれないけれど、生き続ける事ができない者もいる。私はそれを幾度も見たわ」 「そう、珍しい事ではないわ。それを、受け入れるべきなのかしら」 「どこにでもある悲劇だから、などという理由で見捨てるのなら、導く相手がいなくなってしまうわ」 くすりと笑い、白の少女は頷き返す。 「そうね、その通りだわ」 聖母を見やり、死喰いと呼ばれた少女は言う。 「私は、たとえ悪となろうとも、生きる糧になるなら構わないわ。逆に言うのなら、人は糧なしに生きていく事ができない」 「……それは、貴女の覚悟?」 「ええ」 「そう……」 聖母の声は、夜風に流れて消えていった。 チリン―― |