今まで当然だった事が崩れれば、誰だって心配する。
 問題は、その後だ。解決するなら問題ない、けど。
 解決しなかったら――どうすればいい?


 キリが帰ってこない。
 その家には、キリっていうニンゲンの男がいた。古い家で、私が行くと、キリはよく食べ物を出してきた。最初は食べ物が目当てだったけど、だんだん、キリの横で昼寝するのが楽しみになってきた。
 キリはニンゲンにしては変な奴だった。普通、ニンゲンは何が忙しいのか、いつも慌ただしく何かをしている。私たちよりはるかに長く生きるくせに、何をあくせくしているのかって思うくらい、常に何かをしていなければ気が済まない。けど、キリはそんなことなかった。
 いつも縁側に座って、ただ庭を眺めていた。やる事は、私に食べ物を出す事と、お茶をすする事くらい。それ以外の何かをしているところは、ほとんど見た事がない。
 変なニンゲンではあったけど、私は、そんなキリが気に入っていたんだ。
 そのキリが、ある日、突然いなくなった。珍しく出かけたのかな、とも思っていたけど、あれからずっと帰ってこない。
 住処を変えたのだろうか。それなら、まだいい。キリに会えないのは残念だけど、どこかで生きているのなら、それもいい。
 だけど、そうでなかったら――。

 今日もキリの家に行く。木造住宅の縁側は、人影がない。やっぱり、キリはいないんだ。わかってはいたけど、残念に思う。
 縁側で丸くなる。暖かいのは変わらない。だけど、こんなにも冷たい。
 そのまま、うとうとしていると、物音が聞こえた。キリが帰ってきた?
 顔を持ち上げると、見知った顔が目の前にあった。
『何よ』
『何よ、じゃねえよ』
 私の前にいたのは、茶色い毛並みのオス猫。コタロウだ。
『お前、いつまでそうしているつもりだ?』
『いつまで、って何よ。いいでしょ、別に。ここが私の縄張りなんだから。ほら、どっか行きなさいよ』
『そうじゃねえよ。キリはもう帰ってこねえって。こんなところで待ち構えていても、無意味だよ』
『そんなのわからないでしょ!』
 思わず牙が出た。慌てて牙を引っ込める。
『……だって、突然いなくなったんだよ? 突然、帰ってくるかもしれないじゃない』
『ニンゲンは勝手だ。いなくなっちまったら、もう戻ってこねえよ。俺もお前も、そういうの、わかってるだろ』
 それは知っていた。この街だけでも、ニンゲンに捨てられた猫や犬はたくさんいる。マルも、ココアも、みんな最初はニンゲンと一緒に住んでいた。コタロウも、だ。
『戻ってこないのは、私だって、わかってるつもりだよ』
『じゃあ』
『だけど、せめて生きているかどうかくらい、知りたいの。ミナみたいに、突然、車にはねられる事だってあるじゃない』
 私が心配しているのは、そういう事だ。ニンゲンの乗り物は、私たちのような強くない生き物だけでなく、自分たちでさえ簡単に殺せてしまう。
 コタロウは言葉に詰まったらしく、何も言えなかった。不満げに尻尾を揺らし、
『無理を言うなよ。ニンゲンが生きているか死んでいるかなんて、俺たちにわかるわけねーだろ?』
『知ってるよ。でも、だからって、黙っていられないでしょう』
『ちっ……。強情な奴だな! もういい、勝手にしろ!!』
 吼え、コタロウは塀を飛び越えてどこかに行ってしまった。
『……ごめん』
 コタロウが私の事を心配しているのはよくわかっている。だけど、自分自身を抑えきれない私には、コタロウに応えてあげる事もできない。
 眠気もどこかに散ってしまった。丸くなりながらも、気持ちは落ち着かないまま。
『うん?』
 耳をすませる。家の入口から、音が聞こえてきた。背伸びしてみると、家の入口に、見た事のないニンゲンがいた。
 キリではないけど、どことなし、変わった雰囲気を持つニンゲンだ。特別に大きいわけでも、特別に太っているわけでもない。ニンゲンの衣ってのはよくわからないけど、それにしても、外見だけならば、どこにでもいそうな感じがある。
 なのに、感じる雰囲気は、どことなくおかしい。ニンゲンにしか見えないのに、ニンゲンじゃないような気さえしてくる。
 変なニンゲンは、入口の横にある、白い突起を押していた。けれど、反応がなかったのか、今度は庭の方に入ってきた。
「ん?」
 ニンゲンと私の視線がかち合う。すると、ニンゲンは柔らかな笑みを浮かべた。
「こんにちは。この家の猫かな?」
 ニンゲンが、私に聞いてどうするのだろう。獣の言葉も理解できないくせに。
「にゃあ」
 それでも、ついつい答えてしまう。すると、あろうことか、ニンゲンは軽く頷いてみせた。
「なるほど、野良なんだね」
「うにゃ?」
「ああ、わかるよ。君の言っている事。なんとなくだけどね」
 じっとニンゲンを見つめて、ああ、と気付く。
 そうだ、このニンゲンは、他のニンゲンと違う。全身に気配が満ちている。
 こいつは、ただのニンゲンじゃないんだ。
『ねえ、あなた、キリの事を知らない? どこに行ったのか、今も生きているのか!』
 チャンスだった。獣と意思の疎通ができるニンゲンなんて、そうはいない。彼からならば、私の知りたい事が、わかるかもしれない。
「えっと、この家に住んでいた人の事かな? ごめん、行き先は、僕も探している途中なんだ」
『そう……』
 キリの居場所は知らないらしい。それじゃあ意味がない。
「君は、ここの住人の事、とても大切に思っているんだね」
『……悪い?』
「いや、そんな事はないよ」
 ニンゲンは首を横に振り、
「人間はね、獣と違って、個性をとても大切にするんだ。みんな違ってみんな良い、って言ってね。他の獣は、君の事、変だって言うかもしれない。でも、人間たちは、それを個性って呼ぶんだよ」
『個性……』
 そんな言葉もあるのか。あるいは、私は、猫よりもニンゲンに寄っているのかもしれない。
「個性には良いも悪いもない。そういうものなんだ。そうやって、受け入れる事も、大切な事だよ」
『受け入れる?』
「そう。君が、ここの住人の事、とても心配なら……、それはそれで、悪い事じゃない。その想い、突き詰めてみればいいんじゃないかな」
『突き詰める?』
「そうさ。人間だって、心配になったら、その人を探そうとする。ちょうど、僕のようにね。君も、彼の事が心配なら、自分で探してみればいい。うじうじと悩んでいると、深みにはまって、動けなくなる事もある。だけど、動き続けていれば、たとえ目当てのものは手に入らなくても……、何かは手にできるんじゃないかな」
 彼の言う事は一理ある。
 ここで思い悩んでいたところで、私の悩みが解決するわけじゃない。キリがただ帰ってくるのを待っていたところで、その保証はどこにもない。
 それなら、自分から探しに行けばいい。その方が、ずっと簡単で、ずっとすっきりする。
 だけど――。
『でも、その、私は、猫だよ?』
「そうだね?」
『猫が人間の事を思っても、こうして言葉が通じあうわけじゃない。想いは届かない。なのに、意味、あるのかな……?』
「まあ、確かにコミュニケーションは、なかなか取れないかもしれないね」
 そう、それは、人と獣の宿命だ。
 獣はニンゲンじゃない。別の存在だ。別の存在同士は、交流できない。誰が決めたかわからないけど、そういう風に決まっている。
 私がどれほどキリの事を考えても、そんな想いは届かない――。
「でも、まあ、その時はその時じゃないかな」
『その時は、って、届かなければ意味ないじゃない!』
「そんな事はないと思うよ。だって、ほら、君がすっきりできる。彼の無事を知る事ができる。それ以上は手に入れられなくても、それだけは手にできる」
『……それは、まあ、そうだけど』
 ニンゲンはにっこりと笑い、
「何もしなければ、何も手に入らないし、何も動かない。それで満足ならそれでもいいだろうけど、君は満足できてない。なら、何かをしてみるしかないよ。それで満足できなかったとしても、動かなかった時と変わらないからね。悪くはなっていない」
「う、うにゃあ?」
 なんだか難しい事を言っている。言っている意味は完全に理解できていないと思う。
 だけど、まあ、なんとなく、言いたい事はわかった気がする。
 とにかく、キリを探してみる事だ。その先の事は、その先で悩めばいいのかもしれない。
 そう、ニンゲンよりも短い命だ。なら、たまにはニンゲンのように、あくせく動いてみてもいいかもしれない!
『そうね……。わかった、そうしてみる! ありがと、ニンゲン!』
「いいえー。何かわかったら、教えて欲しいな」
『任せなさい!』
 ニンゲンに尻尾を振って挨拶し、私も塀を飛び越える。
 ニンゲンを探すのは簡単な事じゃない。きっと、言うほど楽にはできないだろうと思う。
 でも、目的のために動き続けていれば、ぶちぶち悩んでいるよりは、ずっとすっきるするはずだ。たとえ、達成できなくても。
『あ、お前! やっと出てきたのか』
『コタロウ?』
 コタロウは、さっきどっかに行ったはずなのに……。まだこのあたりをウロウロしてたのね。
『……? お前、なんか、雰囲気が変わったな。何したんだ』
『そう?』
 自分では違いなどわからない。だけど、そうね、違うんだとしたら……。
『自分をごまかさない事、かな?』
『なんだよ、それ』
『なんでもいいの。それより、私、もう行くから!』
『あ? あ、ああ』
 コタロウを置いて、私は駆け出す。
 目的地はわからない。それでも、じっとなんかしていられない!



 チリン――
 夜風に漆黒の髪が揺れ、鈴の音色が鳴り響く。
 小さな少女を眺めながら、その従者は言う。
「じゃあ、匠はその、蘇芳って狐にそそのかされたの?」
「……それも納得しきれないけれど、そうね、蘇芳がいなければ、匠が今回のような事件に関わる事はなかったと思うわ」
 主から聞いたというに、死徒は理解できていない表情だった。
「じゃあ、なによ、いっちばん悪いのは誰なの? 匠? 蘇芳? それとも、蘇芳にそうさせた人間? あるいは、匠を追い詰めた、退魔師の仕組み?」
「元凶という意味で言うのなら、きっと、いずれも違うのだと思うわ」
「なんで?」
「私たちが狙われたから」
 夜闇と同じ色をした少女は、空を見つめながら言う。
「行いは、目的の下に発生する。私たちが狙われたのなら、それは、私たち死導者が目的であったという事。そして、死導者が目的ならば……、遠因もまた、死導者にあるのでしょうね」
「え? えっと、なんであたしたちが悪いのよ。そりゃ、昔の死導者が悪い事もしたかもしれないけど、だからって、今回の事件、あたしたちは関係ない事ばっかりじゃない」
「そうかしら」
 夜空色の死導者は、詳しく話すつもりもないらしかった。従者は諦め、そのかたわらを共に歩く。
 二人の姿は、まもなく夜風に流れて消え去った。
 ただ、鈴の音色だけを残して。
 チリン――



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