スポーツ選手が活躍すると、その競技人口が増えるらしい。
 特別な事をすると、自分もそれを成したいって思うもんだ。
 ただしそれは、良い事だけとは限らない。



 家が燃えていた。
 俺の住んでいるアパートから歩いて五分ほどの場所にある空き家だ。誰も住まなくなって随分と経つ木造の一軒家。
 今は消防隊が懸命に水をかけている。野次馬が取り囲み、夜だというに、昼間のような活気があった。
 俺もそんな野次馬に紛れて火災を見つめながら――別の事を考えていた。
 それは、ほんの少し前。俺はコンビニで夜食を買った帰りだった。
 まっくらな空き家から、なんとはなし人の気配を感じて、俺は覗き込んだ。そして、俺は見てしまった。
 どこかのゴミ捨て場から持ってきたらしい雑誌の束。その前にしゃがみ込む一人の男。そして、その手に光る、ライターの火。
 それは、明らかな放火だった。
 俺は怖くなり、そのまま静かに逃げ出した。家に帰り、息を整えていると、消防車の走る音が聞こえてきた。
 その音に導かれるように表に出た俺は、さっき通ったばかりの道を戻り、そして、燃え盛る家を見てしまった。
 大きな声で人々を誘導する消防隊。燃える火と、それに照らされる野次馬たちの顔。腕章をしてカメラを構えている人は、どこかのテレビ局だろうか。
 それは、静かな俺の街にとっての、大事件だった。

 それが始まりだった。
 あれから一週間。燃えた家はすでに五件。ほとんど毎日のペースで、空き家が放火されている。
 この、何もない住宅街は、空き家がちょこちょこ点在している。放火犯からすれば、燃やす標的には事欠かないのだろう。
 そして、俺は……、いまだに警察には何も言えないでいた。
 あれは、何かの間違いなんかじゃない。絶対に放火犯だった。その人相を警察に伝えるだけで、連続放火事件はすぐ終結するだろう。
 そう思うのに、俺は警察に対して、何かを語る事ができなかった。
 一度、俺の住むアパートまで、聞きこみにきた警察もいた。だけど、その人にも、俺は何も言えなかった。
 ただ言えばいい。俺はこんな奴を見た、もしかしたら、あいつが犯人なんじゃないか。ただそれを口にするだけで、事件は解決まで導かれるかもしれない。
 そこには責任なんか何もない。俺は自分が見た事、自分が思った事を、警察官に伝えるだけだ。それをどう処理するかは警察の仕事だし、たとえ俺の見た人物が放火犯じゃなかったとしても、それを調べるのも警察がやらなければいけない事だ。
 自分が見た事を口にするだけでヒーローの手助けができる。こんな簡単な正義はない。だというに、行動には移せない。
 その理由は、俺のポケットに入っていた。
 暗い夜道を歩きながら、俺はズボンのポケットを探る。そこには、安っぽいライターが入っている。
 これから俺がしようとしている事は、大変な犯罪だ。絶対にやっちゃいけない。そんなのは頭で理解している。でも、俺も、見てみたくなったのだ。
 自分の手で燃える建物。自分が引き起こした行動の結果として集まる人々。そんな姿を。
 そう、俺は、あの放火犯に魅せられたのだ。だから、俺はあの人を突き出す事ができない。
 それに、今ならば、たとえ空き家に放火しても、あの犯人のせいになる。日本の警察は優秀だから、俺が何かを言わなくても、あの放火犯はいずれ捕まるだろう。そして、それまでに起こした放火は、全て同一犯の仕業――すなわち、名前も知らない、あの男の責任になる。
 自分は捕まる事なく、あれだけの人を集める一大事を引き起こす事ができる。俺は、そんな可能性に、たまらなく興奮したんだ。
 俺が火をつける空き家は、すでに目星をつけてあった。アパートから、駅を挟んで反対側にある一軒家。見た目にもボロくて、人が住んでいないのは明らかだ。
 時刻は深夜の二時半。当然、人通りなんかない。コンビニや飲み屋は俺のアパート側にあるという事もあり、駅向こうのこちら側には夜中に通る人もいないのだ。
 全て調べてあるから、俺も安心して犯行を実施できる。
 空き家の前まで来た俺は、周囲を窺ってみた。よし、人は誰もいない。
 俺はそっと塀の内側に入る。裏には、事前に運び込んでおいた古新聞の束がある。
 こんな時、塀というのは便利だ。内側に入ってしまえば、誰に見られる事もない。俺は、いつかの放火犯みたいに、古新聞の束を前にしてしゃがみ込んだ。その時、
 チリン――
 小さい、けれど確かに聞こえた鈴の音色に、俺はギクリと手を止めた。
「良い夜ね」
 いつの間にか。本当にいつからいたのか、闇夜に溶け込んだ少女が佇んでいた。
 夜空色のワンピースに、黒く流れるストレートヘア。全体的に浮世離れした雰囲気を持ちながら、背丈はどう見ても小学生だ。
 はっきり言って、異常だった。
 夜中に、こんな空き家に女の子がいる事もおかしい。けど、そんな事実よりも、この子が持っている雰囲気そのものが異常なのだ。
 まるで、人間ではないみたいな……。
「貴方は何をしているの?」
「え、あ、お、俺は……」
 しどろもどろになる俺に対し、女の子はくすりと笑った。
「そんなに心配しないで。私は、貴方の事を、他の人間に口外したりしないわ」
「……」
「そんな事を言われても信じられない? でも、貴方は私を信じる他にないわ。もう見られているのだもの」
「……それは、そうだけど」
 はぁ、と吐息する。実際、俺はまだ何もしていない。せいぜい、空き家に侵入したくらいだ。この程度、警察に通報されても、捕まったりする事はないだろう。
「ねえ。貴方は何をしようとしたの?」
「別に。ただ、ちょっと入ってみただけだよ」
「本当に?」
 じっ、と女の子は俺を見つめてくる。その瞳を見返す事ができなくて、俺は目をそらした。
「私は、貴方を糾弾しようというわけではないわ。ただ、貴方には考えて欲しい。自分の行い、その先を」
「行いの先、って……」
「廃屋のひとつが消えたところで、誰も迷惑しない。本当にそう思う?」
 女の子の言葉、そのひとつずつが、俺の胸に染みいってくる。
 水槽に垂らした墨汁のように、じんわりと、けれど全体を覆い尽くすように。
「確かに、この家に住む者は誰もいなくなって久しい。この廃屋が燃え落ちたところで、住処を失う人がいるわけではない。そういう意味では、貴方の考えも間違っていない」
 俺は何も言っていない。けれど、彼女には、俺の考えも読めるようだった。
 そんなの、普通の女の子ができることだろうか。疑問は浮かんで、すぐに消えた。この女の子には、それができる。俺は、それを事実として受け入れていた。
「でも、それだけではないわ。火は全てを覆い尽くしてしまう。消火が遅れれば隣家が燃えるでしょう。そうでなくとも、消火に奔走する者がいて、近隣に住む者は恐怖におびえなければならない。その、どこが正しいというの?」
「それは……」
 彼女の言う事は正論だった。反論の余地などないほどに。
 けれど、俺は、それを認めたくなかった。
「仮に、仮にだ。俺がここで放火したとして、けど、消防隊はすぐ駆けつけるだろうさ。確かに消防署の仕事は増えるかもしれないけど、でも、そのためにあいつらは税金で食べているんだろ? 当然の仕事じゃないか。
 隣近所は一時ばかり怖いかもしれないけどさ、どうせすぐ話のタネにするさ。うちの近所でこんな放火があったの、怖いわー、ってな。そんなもんだ」
 そう、そんな程度だ。人間、自分が被害者にならなきゃ、親身にはなれない。自分の家が火事にでもなれば別だが、そうでなければ、すぐに忘れてしまう程度のものだ。
 俺の反論に、女の子はゆっくりと首を振った。
「火は力よ。その象徴であり、そのもの。力を使う場所は選ばねばならない。貴方たち人間は、そうやって進化してきたはずよ」
 チリン――
 軽やかな鈴の音色と共に、女の子は歩き出した。俺の横をすり抜け、入口の方へ向かう。
「あ、お、おい」
「大丈夫。私はこのまま消えるわ」
 角を曲がる直前で、女の子は振り向いた。
「私は、いつだって生きる人間の味方。世界には、他人を害さねば生を感じる事ができない存在もいるわ。貴方が見た人間もそう。他人の不幸によって、自分の生を感じる人間。それはとても不幸な事で……、けれど、私はそんな生き方を認めるわけにはいかないわ」
 だって、と女の子は続けた。
「それは、誰かの生を食い潰すという事。生を奪う者は、私の敵よ」
 チリン――
 鈴の音ひとつ、女の子は角の向こうに消えてしまった。
 残された俺は、しばらくそこから動けなかった。女の子の声が耳にこだまする。
「……誰かの生を食い潰す」
 ポケットに手を入れる。出てきたのは、安っぽいライター。
 俺は手の中にあるそれを見つめ、ポケットに入れ直すと、再び歩き出した。

 翌朝、テレビのニュースを見ていると、うちの近所が映った。
「ん?」
 字幕には、放火犯自首、の文字がある。
「自首したのか……、あの犯人」
 犯人の名前と共に顔写真がテレビ画面に映る。その顔は、あの時、俺が見た横顔と一緒だった。
「あいつも、あの女の子に会ったのかな」
 なんとなく、そんな気がした。そうでなければ、あの犯人が自首する理由もない気がする。
 火は力。なるほど、力に憧れるってのは、人間の本能なのかもしれない。そういう意味で、俺も、あの放火犯も、本能に抗えていなかったのかも。
 確かに、俺が放火をしていれば、たくさんの人が集まっただろう。俺の手によって、たくさんの人を動かす事ができた。それは、とても面白い事かもしれない。でも、手法を間違っちゃ、笑う事はできなかっただろう。
 犯罪は犯罪。人を動かしたいのなら、もっと違う道もあるだろう。
「ま、これでよかったんだろうな」
 ライターを仕舞い込んだ机を見やり、俺は朝食の準備を始める事にした。



 チリン――
 夜道を歩く影ふたつ。
「他人を害さねば生を感じる事ができない……、ね」
 桜色の少女が言い、隣を見やる。
「それ、あたしの事?」
「貴女もそうだったわね」
 主である夜空色の少女は、部下を見上げる。
「でも、貴女だけではないわ。他人の被害を見て、初めて自分という存在を実感できる人は、そこかしこに存在する」
「なーんか、つまんない人生ね。それって」
「彼らは、そんな発想さえないわ。ただ他人を害し、自分が利を得る事しか頭にない」
「うへぇ。あたし、そういう奴って大嫌い。斬りたくなっちゃう」
「斬っては駄目よ」
「当たり前でしょ。あたしをなんだと思ってんのよ」
 チリン――
 鈴の音色に、桜色の少女は眉をしかめる。
「ちょっとルカ。あんた、今、変な事をアンジェラに吹き込んだでしょう」
「何も言っていないわ」
 くすりと笑い、夜空色の少女は言う。
「それに、そんな人々を導くのは、やりがいのある事だわ」
「へいへい。アンジェラ様のご趣味ね」
「それが私の生き様だもの」
「付き合うこっちは大変よー、っての」
「苦労をかけるわね」
「ちっとも思ってないくせにさ。まーったくもう」
 憎まれ口を叩きながらも、少女たちの影が離れる事はない。
 ぴったりと寄り添いながら、夜闇に消えていく。
 チリン――




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