助けてもらったなら、そのお返しはしなきゃいけない。
 困っている人がいるなら、助けてあげなきゃいけない。
 そこには理屈も、理由もない。


 バイトの帰り道。僕はひとり、薄暗い夜道を歩いていた。
 電灯の少ない通りで、最近は痴漢なんかも出るとか。物騒な通りではあるけれど、ここが近道だし、そもそも男に痴漢するヤツもいないだろうから問題ない。
 ……いや、いないと信じたい。
「……、ん?」
 ふと、空を見上げた。雲に覆われた夜空には月も星もなく、真っ暗な闇が続いている。
 その、黒を切り裂く白が、目に留まった。あれは、何だろう。
 黒い空に浮かぶ存在。カラスとか雀じゃない。だって、そんな連中は白くない。じゃあ、あれは……何?
 じっと目をこらすと、向こうも僕の存在に気付いた。にたりと気持ち悪い笑みを浮かべ、僕に向かって突進してきた。
「うわッ!?」
 慌てて僕は後ろに下がる。突進してきた何かはコンクリートの地面に激突した。コンクリートに、ヒビが入る。
 地面に激突した何かはムクリと起き上がると、僕のほうを向いた。気持ち悪い笑みが、消えない。あれほどの衝撃を受けたというのに、それは全く傷もなく、動揺すらしていなかった。
「何なんだ、これ……?」
 それは、手足が異様に長い、白い人のような存在だった。身長は、三メートル以上はあるだろうか。腕だけで二メートル以上はあるように見える。老人のような顔に、つるつるした何もない肌。
 僕は幽霊が見える。子供の頃からの珍しい能力だ。その事そのものは問題ない。珍しいだけで、ゼロってわけじゃないんだから。
 だから、僕は一般人よりは変わったものも見てきた。けれど、それでもあんなのは見た事がない。あんな、人間ではない人間なんて、いるのか……!?
『貴様、私が見えているな?』
 それは、僕に向かって嬉しそうに問いかけた。僕が反応を示す前に、それは言葉を続けた。
『私が見える人間は初めてだ……。嬉しい、ぞッ!』
 化物が跳ねる。僕に向かって、弾丸のように。
 僕は動けなかった。相手が、早すぎる。反応できる速さじゃない。
 チリン――
 僕の前に、黒が立ちはだかった。
 白い弾丸は黒に弾き飛ばされ、空中に浮かんだ。
「アンジェ、ラ……?」
「危ないところだったわね、聖母に愛されし者」
 僕を庇った黒い少女は、コンクリートを砕くほどの衝撃を受けた筈なのに、眉ひとつ動かさなかった。
 アンジェラ。前にも僕の命を救ってくれた死導者だ。見た目は小学生くらいの女の子なのに、その能力は死導者の中でも指折りだとか。頭の上には黒いオコジョが横たわるように乗っている。なんだか、元気がない。
「でも、どうしてここに――?」
「少し事情があってあちこちを動き回っていたの。その合間に変魂の動きを感知したから、念のために向かっただけ。貴方を助けられてよかったわ」
 白い化物は憎しみに満ちた瞳でアンジェラを睨んだ。
 空気を踏むように、化物は飛び出す。けれどアンジェラは、突っ込んできた化物を片手で受け止めた。その動きには、まるで重さというものが感じられない。まるで飛んできた風船を受け止めたような、そんな感じがする。
「あ、れ……?」
 何だろう。目が、熱い。何だ?
 アンジェラが振り返り、少し心配そうに眉をひそめた。アンジェラの口が開く。何かを、言っている。それが何なのか、聞こえない。
「こ、れは……?」
 アンジェラや化物の姿が歪んで見えてきた。アンジェラは、真っ白に見える。化物は複雑な、様々な色を混ぜて、けれどきちんと混ざっていないような、そんなマーブル模様のような色。
「う……」
 頭が、痛い。目が、熱い。喉が、渇く。
 化物の色が、段々とはっきりしてきた。ひとつだけ、様々に混じった色の中のひとつだけが輝きだす。黄色っぽい緑色。それを中心に、他の色が混じっているんだ……。
 僕の身体が勝手に動く。誰かが遠くで叫んでいるような気がした。
 僕の手が緑色に伸びる。そっと、まるで最初からそうすべきだったとわかっていたかのように。僕の手が、緑色に、触れた。
 途端、光が弾けた。緑色に混じっていた様々な色が消し飛び、黄色っぽい緑色の球が生まれた。
 遠くで誰かが叫んでいる気がする。誰だろう。とても、懐かしい感じがする。
 声が段々と近くなる。そうだ、この声は……アンジェラの声だ。
 そう自覚した途端、急に目が冴えるように、僕は現実世界へと引き戻された。
「紅葉、紅葉!」
「え……?」
 気がつくと、僕の前にはアンジェラとおじいさんが立っていた。
「紅葉、貴方……今?」
「へ?」
 アンジェラの目はこれ以上は開かないというくらいに見開かれている。その隣では、おじいさんが同じように驚いていた。
「済まないね、君。助けてもらって」
「は? 僕、が?」
 おじいさんはそっと笑い、姿を消した。きらきらと、光が上に昇っていく。
 一体、何だって言うんだ。言いたい事だけ言って消えちゃって。僕が何をしたって言うんだ!?
「アンジェラ、あのおじいさんは一体? 僕が、何をしたって言うんだ?」
「貴方、は……とても信じられない事だけれど、変魂の在り方を組み替えた――?」
 変魂の在り方を変えた? どういう、事?
 僕の顔に理解していないと書いてあったのか、アンジェラは続けて説明した。
「変魂というのは、魂の進化した姿。生に縛られる事なく、僅かな時を永遠へと変えた特異なる存在。人間にわかりやすく言うならば、悪霊という事。それは通常の霊体と異なり、生ある者の敵でしかない」
「それが、さっきの白いヤツって事か」
 アンジェラは頷いた。
「けれど、貴方は組み替えられた魂である変魂を、通常の魂へと戻した。そんな事、私にだってできないのに……。とても信じられない事だけれど、貴方は死導者たる私を、ごく一部だけながら超越した……」
 アンジェラを、超えた? この、僕が?
「で、でも僕はただの人間だよ? アンジェラのような死導者でも、さっきのコンクリートを叩き割るような化物でもない。僕にそんな能力があるはずが……」
「理屈はわからない。けれど、現実として貴方は魂の在り方を組み替えた。それは否定する事ができない事実」
 ふっと、アンジェラは思いついたように上を見た。頭の上に手を伸ばし、エルを手に取る。
 エルは黒いオコジョだ。その正体は僕も知らないけれど、アンジェラと一緒にいるあたり、どう考えても普通のオコジョじゃない事はわかる。ただ、今はぐったりして元気がない。
「エル? どうか、したの? なんだか元気がないけれど」
「エルは生まれた時から、死の瞬間が決まっていた。間もなく、エルはエルでいられなくなる。破壊衝動に絡め取られ、我を失い、全てを砕くようになる……」
 全てを砕くように、か。
 ……ありえない事ではないかもしれない。動物には元々、そういうところがある。
 エルは見た目からして普通じゃない。そういう衝動が飛び抜けていてもおかしくない気がする。
「けれど、貴方なら……エルを破壊の衝動から解き放てるかもしれない。エルの魂を組み替えれば、あるいは……」
「僕が、エルを救うって事?」
 アンジェラはこくりと頷き、エルを僕に手渡した。
 前は無意味に元気満々だったけれど、今は僕が抱いている事に反抗する気力もないように見える。
 ――アンジェラには、世話になった。僕がアンジェラのために、エルのために何かをできるなら、それを惜しむ理由はない。
「わかった、やってみる」
 僕はエルをじっと見つめた。身体が火照ってくる。目が熱くなる。頭が痛くなる。喉が渇く。けれど、止めない。止めるわけにはいかない。
 アンジェラの声が遠くなる。景色が薄らいでいく。代わりに、綺麗な光が見えてきた。 アンジェラの光は純粋な白。何にも犯されていない、穢れなき白。
 エルの色、は……。
 エルの色は、たぶん白だったんだ。雪のような、透き通った白。なのに今、そこに墨をこぼした様に、黒い線が引かれている。そしてそれは、段々と広がっている。徐々に、けれど目に見えて。
 これが、アンジェラの言う破壊衝動ってヤツか。じゃあ、これさえなくなれば、エルはエルでいられるんだ。エルは、元気になるんだ。
 僕は光に手を伸ばした。そっと、黒い線に触れる。
 僕の指が触れた途端、黒は僕の手に吸い込まれるように消えていった。ひっくり返った盆の水が巻き戻し再生されているように、墨色は消えていく。
 やがて、黒い色は完全に消えた。残ったのは、踏み荒らされていない雪景色。思わず見とれてしまうような、現実離れした美しさがある。
 僕はそっと目を閉じた。そして、ゆっくりと開く。
 すると、僕の腕の中にあったのは雪景色ではなく、真っ黒なオコジョ。今は元気に尻尾を振っている、可愛らしい動物だった。
「これでたぶん、大丈夫だよ」
 僕はそっとアンジェラにエルを渡した。エルは母親の腕に帰るように、嬉しそうにきゅーと鳴いた。
 アンジェラはエルを抱き、なんだか夢でも見ているような表情をしていた。やがて唐突に気がついたように、僕の顔を見て言った。
「あ、ありがとう」
 それだけを言い、アンジェラはエルを見つめた。
 ああ、僕は……アンジェラの役に立てたんだな。よか、った――

 う、ん?
 気がつくと僕はベッドの上に横になっていた。起き上がり、左右を見渡す。
 ここは、僕の部屋だ。ベッドにパソコン、それに小さな机。あまり物のない小さな部屋だ。
「……あれ? 僕はどうしてここで寝ているんだっけ?」
 確かアンジェラと一緒にいて、エルが助かって良かったねって、そういう状況じゃなかったっけ? それがどこをどうしたら僕の部屋になるんだろう?
「あんたが気絶したからに決まってるでしょーが」
 呆れた雰囲気混じりの台詞に、僕は振り返った。僕の枕元に、女の子が浮かんでいる。高校生くらいの、和服と洋服を掛け合わせたような変わった格好の女の子が。
「えっと、君は確か……ケイ、だったっけ。どうしてここに?」
「あんたを運んであげたの。感謝しなさいよ? でないと道でぶっ倒れたままって事になるんだから。この冬の寒空じゃ、フツーは風邪を引くか、下手をすれば死んでたわよ、あんた」
 そうか。あの時、エルをアンジェラに渡して……僕はそこで、気絶したんだ。どうやらあの起源を見る目ってのは、凄く負担になるらしい。多用すべきじゃないな。
 ケイは僕を見下ろしてため息をつき、そして笑った。
「……ありがとね、アンジェラを助けてくれて」
「たいした事じゃないよ。僕は僕にできる事をした。アンジェラに命を助けてもらった、せめてものお礼さ」
「あんたにとっては普通の事でも、あたしにはできない事。あたしは、眷属だってのに主たるアンジェラを助ける事もできなかった。それが歯痒くってねー。けど、あんたがあたしの代わりにやってくれた。だから、あたしがあんたに礼を言うの。悪い?」
 最後は僕を睨みつけるように言い、やはりケイは笑った。
「あんた、自分で言うほど悪くないよ。少なくても、アンジェラやあたしにだってできない事ができる。それは誇っていいんじゃない?」
「……そうかも、ね」
 ふと思い、僕はケイに尋ねてみた。
「そういえば、アンジェラは?」
「今はあんたに会えないってさ」
「……、どうして?」
 ケイはきょろきょろと、まるで誰も聞いていない事を確認するかのように周りを見た。いや、生きていない人の声を聞ける人なんてそうそういませんけど。
 誰もいないと満足したのか、ケイは僕の耳元に口を寄せて、小声で呟いた。
「嬉しくて、とってもあんたに会える顔じゃないってさ」
「それはちょっと見てみたいかも」
 顔を離したケイは、にやりと笑った。
「それは駄目。女の子には色々と見られたくないとこがあるもんよー?」
「アンジェラも女の子なんだね」
「あ、それは差別。そういう事を言ってるとぶった斬るわよ?」
 なんとなくだけど、ケイが言うと冗談にならない気がする。僕は慌ててかぶりを振った。
「ま、いいわ。あたしはあんたに『ありがとう』って伝えるために残っただけだから。それじゃね。また縁があったら会いましょ」
「死導者に縁があっても、なんだかなって思うけどね」
 冗談を言い、僕も笑った。ケイは微笑んだまま、姿を消した。
 遠くで、鈴が鳴ったような気がした。


 夜空に浮かぶ少女がふたり。ふたりは雲を踏むように、月明かりの下を歩いていた。
 ひとりの少女の頭の上で、黒い動物が静かに眠っている。安心のできる場所で、心安らかに。
「それにしても紅葉、凄い能力よね。ああいうヤツっているもんなの?」
「……いいえ。少なくても私は初めて見たわ。起源に触れるなど、母くらいにしかできない事よ」
「へえ? じゃ、あいつはなんで使えたんだと思うの?」
 黒い少女はそっと月を見上げた。明るい月光がふたりを照らしている。
「母が、彼に何らかの作用をしたとしか思えない。でも、母がそこまでの能力を与えたとも考えにくい。となれば、おそらくは彼が勝手に成長した。そう考えるのが妥当ね」
「成長、した……」
 黒い少女はそっと笑う。心の底から、喜ぶように。
「これだから人間というものは恐ろしくて、憧れにも似た感情を抱いてしまう。成長の余地なき私たちは、だからこそ人間と対立し、人間と触れ合うのかもしれない」
 人は弱く、だからこそ成長する。
 死導者は強く、だからこそ成長しない。
 彼女が欲するのは強さか未来か。あるいは、そのどちらもか。
「……そろそろ行きましょうか。次の生を、探しに」
「おっけ。どこまでも行くわよぉ?」
 ふたりの影が消え去った。後には何も残らない。
 ただ月光だけが、雲の上に淡い光を注いでいた。
 チリン――



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