私は失敗作だ。やってはいけない過ちを犯した。
 誰か、この悲劇を終わらせてくれ。
 私は、今の私を欲していない。


 私が壁を抜けて病室に入ると、私が何かを言う前に彼女は口を開いた。
「また来てくれたのね」
「他にする事もないからな」
 少女は小さく笑った。彼女は私と話すようになってからよく笑うようになった気がする。もっとも、私の思い過ごしかもしれぬが。
「死導者ってのはそんなに暇なのかしら」
「私が暇なだけだ。生真面目なまでに生を喰らおうとする者もいるし、自分のやりたい事を優先させる者もいる。私たちは存在が同じというだけで、性質も行動もまるで異なるからな」
「そのへんは人間と同じね。人間も個性があるもの」
「死導者が、人間と同じ?」
 それは面白い考え方だ。あるいは、その通りなのかもしれぬな。
「ねえ、ベル。今日は何か変わった事はあった?」
「いや。まさに世界はいつも通り、といったところだな。もっとも私は人間のニュースとやらは見ないから、あるいは何か変わった事もあるのかもしれないが」
 異なる部分があるとすれば、狩人がこの町に入った事くらいだろうか。そんな事、この子に話しても仕方ない。
「じゃあ、少しは春らしくなってきた?」
「いや。まだ寒いし、花も咲いておらぬ。春は遠いな」
 春になったら花のひとつでも摘んできてみようか。何もわからぬだろうが、この子も喜ぶやもしれん。
 喜ぶやもしれん?
 ――私も変わったものだ。死導者が人の喜びを気にかけるとは。そして、その感情に対して何の嫌悪感も抱かぬとは。
 昔は、こうではなかったのだがな。
「ねえ、ベル。また昔話でも聞かせてよ」
 黙りこんだ私を現実に引き戻すように、少女は言った。
「そうだな、では私が日本に来る直前の話でもしようか」
 私の脳裏に、古い記憶が蘇った。
 それが何年前か、私にはよくわからん。人間の暦など深く意識した事もない。
「私は、日本に来る前はイギリスにいた。と言っても、私は怠惰。特に何をするでもなく、せいぜいがたまに弱った生を喰らうくらいだった」
「ベルにイギリスってぴったりね。だって英国紳士って表現、ベルにはすごく似合うもの」
 少女は真剣に聞いている。まったく、変わった子だ。私がその気になれば、彼女の命など瞬時に消し飛ぶというのに、まるで恐怖感がない。
 あるいは、彼女にとっては、この地獄のような世界から別れられるだけ、その方が幸せなのかもしれぬな。
「漫然と時を過ごし、そして私は……、八番目に出会った」
 夜空に溶け込むようなワンピースを着た、七人の死導者を狩るための存在。八番目の、異端とも言える死導者。あの冷酷な、怒りと憎しみと悲しみを全て内包した真紅の瞳は、今も忘れられん。八番目が私を見る時は、いつもそういう目だった。
「あの、あなたと敵対しているっていう死導者ね」
「ああ。死導者と八番目は、出会った刹那から殺し合う宿命にある。当然、彼女は私を殺そうとしてきた。私も彼女を殺すつもりで戦った。生の総量では私が上だったが、それを操る技術は彼女が優れている。まさに互角の戦いというわけだ」
 その前に戦った時は不運だった。なにせ私が彼女の最初の獲物となってしまったのだからな。生を集める間もなかった私は、あっさりと殺されてしまった。
「私はいつも通り、彼女が最大級の一撃を放つ瞬間を待った。私の最大の特技は相手の技を返す事だからな。生の総量も私が上だったから、どんな攻撃も返す自信があった」
「でも、八番目も油断はしていなかった」
「その通り。彼女も必殺の一撃こそが最も危険と理解していた。だからこそ、なかなか技を使わず、それだけに戦いも長引いた。決着は、一昼夜以上も戦いが続いた後だ」
 彼女が剣を振るい、私はそれを受け流す。そんな事をずっと続けていた。
 私は攻撃が得意ではない。彼女を一撃で殺すなど、私にはできなかった。だから、自ら攻めたりしなかった。あるいは、こちらから攻めていれば、決着も変わったやもしれぬが……昔の話だ。
「長く戦いを続け、彼女は堪えられなくなったように最大級の一撃を放った。私はそれが演技だと気付く事もなく、それを好機と考えてしまった。そして、それを弾き返した直後、私の胸には剣が刺さっていた」
「どうして?」
「攻撃を放ったのは、彼女が持ち得る生の大半を使用して作り出した偽者だったのだ。私はそれに気付かず、本体を見失っていた。私の反射攻撃は、技後に大きな隙が生まれる。その瞬間の攻撃だ。回避などできるはずもなく、私は死を導かれてしまった、というわけだ」
「残念」
 少女は本当に残念そうにため息をついた。本当に、変わった子だ。
「残念と言うが、そこで私が勝っていたら私は日本に来なかったかもしれんのだぞ」
「それはもっと残念。ベルに会えなかったら、私はもっと退屈で、とっくに生き続けるのを止めちゃっていたかもしれないもん」
「それほど、退屈なのか」
 この少女がいる病室に、医者や看護士ではない人間が入るところを見た事がない。それでは退屈でも仕方ないやもしれん。
「知ってるでしょ。私は普通の学校にも行けなかったから、友達もいない。お父さんもお母さんも仕事とかで、ここには来てくれない。退屈でないわけがないじゃない。それこそ、ベルがいなければ何もないもの」
 私は病室を見回した。
 個室ではあるが、ここにはベッド以外に何もない。花束も、人形も、テレビも、本も、何もない。
 花束や人形を彼女に贈る者は誰もいない。テレビも本も、彼女には意味を成さない。これでは、眠る以外に何もできん。
 眠り続けるのなら、それは死んでいるのと何も変わらぬ。永眠を自ら望んだところで何の不思議もない。むしろ、自然な成り行きと言えよう。
「私は点字の本すら読めないし、何もできる事がない。珍しい病気だから、それこそ実験用のマウスみたいに生かされているだけ。こんなの人間にする扱いじゃないよね。それこそ、死導者の方が私を人間扱いしてくれる。変な話よ」
 私は少女を見つめた。本来なら光をたたえるはずの眼球は、何も写していない。
 この少女は、視覚、嗅覚、触覚が存在しない。彼女にとって世界とは耳と舌だけで感じるものだ。
 どうしてそうなったのか、私にはわからぬ。一度、医者同士の話を聞いたが、人間の身体というものを知らない私にはまるで理解できなんだ。
 この子の肉体か、あるいは魂のどちらかに致命的な欠陥があるのだろう。それを治せればこの子には感覚が戻るのだろうが、私にはそこまで精査に生を操る力がない。母や死喰いならば可能だろうが、あのふたりがそんな真似をするわけがない。それに、あのふたりに会えば、私は殺されるだろう。
 なんでも、昔はちゃんと五感があったそうだ。それが、幼い頃に高熱を出したその日から、目が見えなくなり、鼻が利かなくなり、そして最後には何を触っても感じなくなったそうだ。
 将来的に耳や舌すらも感じなくなるかもしれない。その恐怖が、常に彼女の中にある。私と話をしようとするのも、その恐怖から逃れるための術なのやもしれん。
「人間は利己的だ。確かにその点では、死導者と通ずるものがあるだろう。お前は、その利己のために利用されているのだな」
「そうなのよね、まったく嫌になっちゃう」
 軽い口調で言い、彼女は笑った。ここで、こうして笑えるという事が、彼女の状況を考えれば奇跡のようだ。
 入院した後の彼女は、それからずっと病室にこもらざるを得なくなった。私が偶然にここを訪れなければ、彼女は本当に自殺をしたやもしれん。
 人間の信仰する神など信じられる立場ではないが、もしそのような存在が彼女と私を出会わせたのであれば、私はその存在に感謝せねばなるまい。
「……む?」
 私はふと、顔を上げた。
 生に乱れを感じる。動揺とも言っていい。しかもこれは、私の目の前にいる少女が発するものではない。
「そうか。とうとう、来たのか」
 覚悟はしていたが、まさか本当に見つけるとはな。私は常に生を隠しているが、それをここまで早く見つけられるとは思わなんだ。あやつにそこまでの探知能力はないはずなんだが、な。
「どうしたの?」
 少女が何気ない雰囲気で聞いてきた。彼女とて、まるで気付いていないわけではなかろうに。
「私の迎えが来たようだ。そうだろう、八番目」
 私は振り返る事なく、背後に声をかけた。
 チリン――
 八番目を象徴する鈴の音色が響き、私の後ろから困惑した声が聞こえてきた。
「怠惰。どういう、つもりなの」
 私の後ろから、いくつかの生を感じる。ひとつではない事に疑問を持って私が振り返ると、見慣れた黒い少女の隣に、見慣れぬ少女を見つけた。
「どうした、八番目。どうしてお前が変魂を連れている」
「変魂じゃなくて眷属。間違えるんじゃないわよ、馬鹿」
 八番目の隣で、少女のような存在は強い殺気を放った。眷属、か。
「そうか、また眷属などを作ったのか。では、その頭上のものは何だ」
「母の生み出した存在よ」
 母、母か……。
 あの人の行動も何かと予測ができぬ。見た目にはただ黒いだけの小動物だが、あるいは何らかの仕掛けでもあるのやもしれんな。もしかすると、私を見つけたのもあの小動物かもしれんな。少なくとも、あの眷属の少女にそこまでの探査能力があるようには思えん。
「ベル、八番目って!?」
 少女は驚愕と恐怖に彩られた声で叫ぶ。昔は心地よかった声も、今となっては聞きたくないもののひとつに過ぎん。
「ふむ、もしかするとお前と話をする事も、もうできぬやもしれんな」
「そん、な――!」
 これ以上、この子の前にはいられぬな。
「八番目。場所を移すぞ。上空に来い」
「あ、ちょっと待って、ベル!」
 少女の制止する声を聞き流し、私は空へと飛び上がった。

 私が上空で待つと、少しばかり間を空けて八番目たちが姿を現した。微かな風が、私の枯葉色のコートを揺らす。
「どういう事なの、怠惰。あの子は一体……?」
 八番目は剣を顕現する事もせず、額に眉を寄せ、疑問と困惑に満ちた声で私に尋ねてきた。
「どうもこうもない。ただの人間だ」
「そんな話ではないわ。死導者たる貴方が人間と関わっているのはどういう理由か、と聞いているのよ」
 隙だらけの今の私に、しかし八番目は攻撃してこなかった。その眷属も、彼女の頭上の小動物も、私を睨むばかりで何もしてこない。
「それが楽しいからだ。お前もよくやっているのだから知っているだろう」
「楽しい?」
 八番目が困惑するのも無理はない。なにせ、死導者が生を喰らう以外に人間と接するなど、ありえない話なのだからな。
「なあ、八番目。我々はどうして殺し合っているのだろうな」
「…………?」
 答えられぬ八番目を見つめ、私は続けた。
「お前は疑問に思わないのか。我々は幾度となく母の手の上で踊り狂わされてきた。なのに、それを止めようともしない。おかしいと思わないのか」
「それが、唯一絶対のルール。私たちは常に在るべき姿で在り続けなければならない。それに私は、私のルールに照らし合わせても、貴方たちという存在を許せない」
「それがおかしいと言っているんだ」
「どういう事よッ!」
 眷属の少女が、怒りを滲ませた声で叫ぶ。私はちらと少女を見据え、すぐに八番目へと視線を戻した。
「――最初はただ、通りがかっただけだ。彼女は私が何も言う前に私の存在に気付いたらしくてな、ひとり身の上話を始めた」
 私は特に焦ってもいなかったから、彼女の話を聞いていた。あるいは、あの時に喰らっておけば良かったのやもしれん。もう、手遅れだがな。
「ある日、私はどうしても彼女と話がしたくなった。どうでもいいような事を話して笑いたくなった。そうなるといてもたってもいられなくなってな、つい、話しかけてしまった」
 私は眼下に視線を落とした。そこには、あの子が待つ病院がある。都市の中にある、平凡な白い建物。そこに、彼女が待っている。
「私は最初から人ではないと宣言した。それでも、訪れ人のないあの部屋に訪問者が来た事を、彼女は心の底から喜んでくれた」
 暗闇の中に、彼女はいた。その暗闇の中にいた私は、闇よりもなお深い闇に過ぎない。けれども、そんな私すら、彼女は喜んでくれた。それが、嬉しかった。
「それからは他愛ない話に花を咲かせた。彼女は私といると元気が沸くと言ってくれた。私には、それが嬉しかった。生まれて初めて、日だまりの暖かさを知ったような気がした」
 闇である私は永遠に光の暖かさなど知られるわけがなかったのだ。なのに、彼女は闇に過ぎない私に、光の暖かさを教えてくれた。闇を照らす事なく、けれど闇を照らしてくれた。
「なあ、八番目。我々はどうして敵対しているのだろうな。どうして死導者は死を導かねばならぬのだろうな。どうして、どうして私はあの子を喰らえぬのだろうな」
 ああ、そうだ。私は、もう駄目なのだ。死導者として、在るべき姿を見失った、落伍者に過ぎぬのだ。
 私は拳を握った。握った拳が何かを砕くためのものなら、私はこの拳で何を砕けばいいと言うのだろう。
「人と戯れるお前なら知っているだろう。人間の大多数は私たちと変わらない、利己的な生き物だ。だがその一方で、己を犠牲にしてまで他人に尽くす者や、あの子のように分け隔てない暖かさをくれる者もいる。あるいは、私が喰った中にもいたやもしれぬ。最近、それが気になるのだ」
「貴方、変わったのね」
 八番目はぽつりと、呟くように言った。それがやけに私の耳に残った。
「ああ、私は確かに死導者失格だ。もう、駄目だ」
 私は視線を八番目に向けた。もう八番目の顔に、困惑の色はなかった。
「八番目。私を、殺せ」
「何故?」
「このような感情は死導者には要らぬ。お前に殺され、また復活すれば、その時は正しい『本来、在るべき姿』になれるやもしれぬ。私は、そうならなければいけないのだ」
 八番目は後ろで手を組んだまま、動かなかった。私は魂の奥底から叫ぶように、言った。
「どうした、八番目の死導者よ。多くの人間を喰らった私が憎くはないのか。その剣で、諸悪を生み出せし者を斬りたいとは思わないのか!」
「――私には、今の貴方を斬る理由がない」
 な、に?
 私の耳は確かに八番目の言葉を捉えていた。だが、それを理解できなかった。いや、理解したくなかっただけかもしれん。他者に、私が死導者ではないと、認められるのが怖かっただけかもしれん。
「何故だ。どうしてお前は私を殺せない、八番目の死導者よ!」
「私は『死を導く者』を狩り殺す者。故に死喰い。死を導けない死導者は、殺す理由がない」
 ああ、やはり私は……。
 私はすでに、死を導けぬ者なのだな。
 落胆する私に、八番目は続けた。
「貴方は多くの人間を喰らった、それは事実。けれど、それでも今の貴方は知るべき事を知った。私が大切だと思う事を同様に大切だと思った。なら、私には今の貴方は殺せない。それが私の決めた、私のためのルールだから」
「八番目……」
 八番目は首を横に振った。彼女の腰まで流れる黒髪がさらさらと揺れ動いた。
「ベルフェゴール。私の名前は、アンジェラよ」
「アンジェラ?」
 アンジェラ、天使か。
 八番目は微笑んでいる。死導者たる私を前にして、死喰いが微笑むなど、私は考えた事もなかった。
「アンジェラ、か。そうか、アンジェラか。お前には相応しい名前だな」
 死導者のくせに、生ける者のために死導者を狩る者。
 悩める人々を放っておけず、人間の悲しみを共有して涙を流す者。
 まさに、天使だ。
「人間の考えではな、天使は苦悩する人間を救うために舞い降りるそうだ。まさにお前だな、生を知り死を導く者、『死導者』よ」
 やはり私は、お前には勝てぬ。
 戦いも心も、私の負けだ。アンジェラ、か。いい名だ。できればもう少し早くに会いたかったものだ。私が消える、ずっと前に。
「それで、どうするつもりだ。まさかこの私を捨て置くつもりか」
「貴方が今のままなら、そういう事になるわね」
 眷属は不満げな様子でアンジェラを睨んでいる。ふむ、行動は満足だが、戦えないのは不満といった顔だな。どうやら、こちらはアンジェラとは違って戦闘狂らしい。
「だが、どうやらそうもいかない可能性が高そうだな」
「何故?」
「まさか気付かぬのか、アンジェラ。いくら気配を消しているとは言っても、母の気配は強すぎる。気付かぬわけもない」
 ふむ、どうやら本当に気付かなかったらしいな。顔を見ればわかる。まったく、子供のように素直なのだな。
「さすがね、四番目。生を繰るのは苦手でも、探知索敵は得意中の得意技。私が決めた通り」
 私とアンジェラの中間あたりの空間が歪み、白い少女が姿を現した。
 零番目の死導者にして、絶対なる存在。称号は聖母、象徴色は純白。まさに私の知る、死導者の祖そのものだ。
「こんにちは。四番目、八番目」
 不気味に微笑み、母は私とアンジェラを等分に見つめた。
 私は母を睨み、そっと全身に力をこめた。
「零番目、私を殺しに来たのか」
「私が殺す? 何故」
 何故?
 そんなもの、決まっている。私は死導者としてあるまじき行為をした。人々に死を導けなくなった死導者など、存在する価値もない。
 そんなものを、母が生かす理由などないはずだ。
「安心なさい、四番目。貴方を殺したりしないわ。するもんですか、せっかくの成功なのに」
「成功、だと?」
 私の額に眉が寄ったのが、自分でもわかる。
 母は静かに笑い、告げた。
「私が何度も何度もゲームを繰り返したのは、貴方のような存在が生まれて欲しかったから。ふふ、もし他の死導者も覚醒したら、それは面白い事になりそうね」
「覚醒? 何の事だ。どういうつもりなんだ?」
「貴方は知る必要がないわ」
 ふっと、私の視界から母が消えた。
 私はきょろきょろと周囲を見回し、探す。だが、見当たらない。
「ベルフェゴール! 下よ!」
 私はとっさに下を見た。そこには、白く美しい剣を握る母が、笑いながらいた。
 母の剣が閃く。咄嗟に避けようとしたが、避けきれずコートの端が斬れて飛んだ。
 ひらひらと舞うコートの切れ端を、母はしっかりと握り締めた。
「ふふ、これで十分。今日はこれで失礼するわ」
「ちょっと、どういうつもりよ!」
 眷属の娘が叫ぶ。母は一瞥をくれると、何も答えずに姿を消した。
「どういう、つもりだ?」
 残された私は、思わず呟いた。母は何故、私を殺さなかった?
 行動の起因が全く読めないというのは、それだけで不気味だ。母に人間のような甘さがあるとは思えん。彼女が殺しを躊躇する可能性など皆無だ。となれば、最初から私を殺す意思がなかったという事になる。だが、そんな事がありえるのか?
 私は言うなれば彼女に反抗した身だ。反逆者を生かす理由が、私にはまるで想像できない。
「ベルフェゴール」
 アンジェラの声に、私は思考の海から現実へと引き戻された。
 アンジェラは、どこか心配そうな色を顔の端に浮かべている。
「怪我は?」
「ない。この程度ならばすぐに直せる」
 私はコートの端をつまんでみせた。
 すると、アンジェラはどこかほっとしたような表情になった。まったく、お前は人間のようだな。
「これからどうするの、ベルフェゴール」
「どうもこうもない。今まで通り、怠惰に過ごすだけだな。私の称号は『怠惰』なのだから」
 それよりも、と私は続けた。
「お前はどうするのだ、アンジェラ」
「私も同じよ。けれど、少し確かめたい事もある」
「それは私も同じだな」
 うむ、どうやら私もアンジェラと同じ地に立ってしまったようだな。だが、これも心地よい。
「それではまた会おうか、死喰い。運命の交差路とやらで」
「そうね、怠惰。それがいつ、どこになるかはわからないけれど」
 まったく。何もかもが突然に現れ、何もかもが突然に終わる。
 怠惰な私を、そんなものに巻き込まないでもらいたいものだ。
 アンジェラたちを置き去り、私は風の中に消えた。


 日が沈んでなお、ふたりの少女は病院を見下ろす空にいた。
「アンジェラ。あいつの言っていた事、どういう意味なの?」
「どういう?」
「絶対のルールとか、在るべき姿とか、それってどういう意味なのって聞いているのよ」
 チリン――
 冷たい夜風が、死喰いの黒髪を揺らした。
「私たち死導者は、母の決めたルールの中にある。そして、その枠を外れる事はできない。それが私たちの存在意義でもあるからよ」
 死喰いの側で、その眷属は真剣に話を聞いていた。鋭い、殺気にも似た気配を身にまとって。
「母の決めたルールは簡単。それぞれが称号に従い行動する事。七祖は各々、決められた範囲にいる人々を喰らう。私は、人々と戯れながら七祖を狩り殺す。七祖が全て消えれば私の勝ち。私が消えれば七祖の勝ち。そうやって、もう何度も殺し合ってきたわ。今回の範囲は、日本という国の中なの」
「……じゃあ、アンジェラはずっと、ずっと終わらない殺し合いをしてきたの?」
「そして、これからもね」
 死喰いの表情に変化はない。それが彼女の当たり前で、彼女にとっての日常で、そうしなければならないという義務だから。
 眷属は一言も発しなかった。発せなかった。果てない憎しみと悲しみの連鎖に埋もれる、永遠の逝き地獄を歩む少女にかける言葉など、たかだか十数年の年月しか経験していない少女は持ち合わせていなかった。
 死喰いの頭上で実験動物は、きゅーと鳴いた。まるで慰めるように、その頭を小さな手で叩く。死喰いはそっと頭上の動物を胸に抱いた。
「哀れみも悲しみも同情も必要ない。これが私なのだから。私はそうしなければならないという、事実だけがここにある」
「そん、なの――」
 眷属は止まりかけた時間を、強引に動かすように口を開く。
「そんなの、あたしは認められない。アンジェラだけがそんな地獄にいなきゃいけないなんて、絶対に許せない」
「許しを請うつもりはない。言ったでしょう、これが私なの。この地獄とも呼べる連鎖を失うという事は、私そのものを否定するという事よ」
「それでも構わない!」
 眷属は鋭い声で叫ぶ。死喰いは微かに眉をひそめた。
「今のアンジェラがその連鎖にいなきゃいけないって言うなら、あたしは今のアンジェラを壊す。そんな悲しみの中にいるなんて、そんなの絶対に駄目!」
 眷属は真剣な表情で、必死に呼びかけた。死喰いの心を動かすように。
 ああ、と死喰いは声を漏らした。
「そういえば、貴女も地獄を知っていたのね。己で全てを破壊するという、悪魔になりきらねばならない地獄を」
「あんなところに、アンジェラは置いとけない。アンジェラにだって、幸せになる権利がある。こんな、こんな悲劇みたいなとこに、アンジェラは置いておけないよ……」
「甘い、わね」
 あまりにも続く悲劇。それは最早、喜劇にも等しい。
 何度も何度も同じ失敗を繰り返す、それはまるで道化師のよう。笑顔の仮面を顔に張りつけた、感情すら忘れた道化師のよう。
「さあ、ケイ。そろそろ行くわよ。劇場の幕に触れられるのは、限られた存在だけなのだから」
「……わかった。あたし、絶対に終わらせるからね」
「やってみなさい。できるのなら」
 妖艶な笑みを浮かべ、死喰いは死を喰らうために薄闇に消えた。
 その後を追うように、破壊者もまた姿を消した。
 残るは、小さな鈴の音色のみ。
 チリン――



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