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できる限り何も考えないように、私はさっさと着替えて店を出た。そして、そのまま早足で駅まで向かった。 考えまいとしても、嫌な考えが頭をよぎる。どうしよう、どうして? そんな事は考えたくないのに、考えが頭から離れない。最悪の可能性だけが浮かんでくる。 そして、それに対する答えまで。 駄目、まだ確定したわけじゃないのに。 駄目、まだ私は私なのに。 駄目、駄目! 同じ考えが頭をぐるぐると回る。それ以外の何も考えられない。 気付けば私は、家の近くにいた。角を曲がり、家の前に――。 「あ……」 そこに、いた。さっきのあの子。確か名前は、志野ケイ。 「ん?」 志野さんは私の声が聞こえたのか、こっちを向いた。ちょうど、志野さんが家から出てくるところだったみたい。 「あ、よかった。会えた会えた。ってか、仕事じゃなかったの?」 親しげな雰囲気で、志野さんは私に近寄ってきた。 「あ、えと、私に用、ですか?」 「うーん、用ってほどの事じゃないんだけど。ちょっとした世間話よ」 ふっと、志野さんの目の色が変わった。 瞬間、私はゾクリとした。 冷たい、目。見られただけで殺されるような、死を視覚化したような、そんな冷酷な瞳が、私に向けられていた。 「あなた、人を殺したいと思った事はある?」 「……え?」 な、に? 「だから、人を殺したいと思った事はあるの?」 何で、そんな事を聞くの? 疑問は、声にならない。 ついさっき出会ったばかりの関係で聞くような質問じゃない。それも、そんな目で。 まさ、か、この子は知っている? 私が、人を、殺めたという事実を! 「……冗談、よ」 急に態度を変え、志野さんは笑った。 「あたし、別の用事を思い出しちゃった。それじゃ、お大事に」 軽く言い残し、羽のような足取りで志野さんは去っていった。私は、身体が重くて、動かない。 と、ガチャリと扉が開いた。中から、小雪が顔を出した。 「あれ? お姉ちゃん、どうしたの?」 それでようやく、私は金縛りのような状態から抜け出せた。 「あ、ちょ、ちょっと体調が悪くって。早退してきちゃった」 私は微笑んで、玄関に入った。でも、笑顔が、引きつっている気がする。 「あ、そういえばさっきまでお客さんが来てたんだけど。会った?」 「どんな人?」 私が聞くと、小雪はうーんとうなってから、答えた。 「女の人。何だか頼りになりそうな、綺麗な女の人」 「へ、へえ。私とどっちが綺麗?」 「お客さん」 小雪は、ためらわず答えた。こんな、この子の子供らしさが、こんな時は辛かった。 「小雪、私は部屋で横になっているから。お夕飯はいらないって、お母さんに伝えてくれる?」 小雪が頷くのを確認して、私は重苦しい身体を部屋まで引きずった。 今日は散々だったな……。 紅葉を信じたい。紅葉の心は、まだ私の中にあると信じたい。 ううん、それは間違っている。私は、もう絶望している。紅葉の心が私から離れている事を知って、けれどそれを認めたくなくて、私は必死に隠そうとした。けれど、無理みたい。 そう、認めればいいんだ。そうすれば、全てから楽になれる。 ――私は、もうここにいるべきじゃないんだ。 たったそれだけの事実を見つけるのに、ひどく遠回りした気がする。認めてしまえば、簡単な事。 私は、私であろうと必死に足掻いた。現状にしがみつこうとしていた。けれど、そんなのは全て無意味な努力だったんだ。私は最初から、たったひとつの行動を取るしか選択肢はなかったんだ。 そう、あの時、あの場所から。 食欲がない、と言って部屋で横になってから、もう随分と経つ。なのに、眠気はまるでなかった。 時計を見た。時刻はすでに午前一時。家の中は、静かだった。 私はそっとベッドから起き上がると、机に向かい、紙を取り出した。そして、そこにペンを走らせる。 私は、そこに私の隠していた事実の全てを書き記した。 人を、殺した事。 その、理由。 どうして今まで見つからずに済んだのか。 そして、私がこれから起こそうとする行動の理由。 一度、書き始めると止まらなかった。ペンは淀みなく動き、レポート用紙を埋め尽くしていく。私は息をするのすら忘れるくらい夢中になって、ペンを走らせた。 最後に『ありがとう、紅葉』と書き、私はペンを置いた。 時計はすでに、午前二時半を示していた。 私はレポート用紙を封筒に入れ、ちょっと考えた末、宛名に『遠藤紅葉様』と記して封をした。 それを机の上に置くと、私は着替えた。紅葉がプレゼントしてくれた、お気に入りの服に身を包んで。 続いて、今度は小さなバッグを取り出した。 そこに財布とパスケースだけを入れて、私は足音を殺しながら部屋の外に出た。 誰にも気取られる事なく家を出ると、私は鍵を閉め、そっと夜の町を歩き出した。 私の行く先は決まっていた。 タクシーに乗り、電車に乗り。 そして、私からすればあっという間に、目的地までやって来た。 潮風が私の髪を揺らす。昇ったばかりの朝日が、やけに眩しかった。 ここは、私が彼女を突き落とした場所。私はあの時、この場所から、飛び降りれば良かったんだ。ただ、最初から、そうすべきだったんだ。 それを何を思ったか、うじうじといつまでも悩み、苦しみ、そして今日まで生き延びてしまった。最初から死ねばいいのに、生きてしまった。 死に対する恐怖心はまるでなかった。最初からこうすべきだったんだから、後悔のしようもない。 「紅葉には、迷惑ばかりかけちゃったな……」 ふと、火事の家に飛び込んできた紅葉の姿が思い浮かんだ。 あの時、私はほとんど気を失っていた。だから、紅葉の様子も薄っすらとしか覚えていない。 それでも、赤い部屋の中に必死の形相で飛び込んできた紅葉は、誰よりもカッコよかった。 でも、紅葉はあんな事をすべきじゃなかったんだ。私は、死ぬべきだったんだから。 あの火事も、実は神様が私にくれた、ヒントだったのかもしれない。あなたは死ぬべき、だからここで死になさい、と。 「ふふ。だとしたら、冷たい神様ね」 さて。そろそろ、この世界にお別れを告げよう。ここから飛び降りれば、私はそれで、追われる立場でなくなる。見えない何かと完全に別れられる。 チリン―― 「ん?」 私は、振り向いた。そこに、さっきまでは誰もいなかった場所に、夜空のような女の子が立っていた。 黒いワンピースに黒い髪。何もかもが、黒い。 「あなた、誰?」 よせばいいのに、私は思わず聞いてしまった。 「私は、死導者。死を導く者」 「死導者?」 そっか。本当にいたんだ。 「私、死神とかのオカルトは半信半疑だったけど、本当にいたのね」 「残念だけれど、私は死神ではないわ。私は正しい死だけを導き、誤った生を正す。そのために存在している」 女の子は、見た目には小学生くらいなのに、どこか大人びた口調で言った。 「どっちでもいいわ。どうせすぐに関係なくなるんだから」 「死ぬの?」 「ええ。私は最初から死ぬべきだったのよ。それを、紅葉と……彼氏と一緒にいたくて、つい長居をしてしまった。でも、もう決心したの。すぐにこの世を去るわ」 「それもまた、残念ね」 女の子は薄く、暖かく、微笑んだ。およそ死神らしくない、可愛くて綺麗な笑みだった。 「貴女は、死ねないわ」 女の子がそう言うのと同時、駐車場にタクシーが勢い良く止まった。中から、男の子が飛び出した。見た目には高校生くらいの、けれど、大学生の男の子が。 「紅葉、来ちゃったのね」 私は、車から降りてきたのに息を切らしている紅葉に、そっと笑いかけた。 「せ、先輩。死んだら、駄目です」 「駄目よ、紅葉。そんな事を言ったって。私はもう、決めちゃったんだもん」 「どうして先輩が死ななきゃいけないんですか!」 紅葉は一歩、前に出た。女の子よりも前に。 「紅葉、今まで黙っててごめんね。私、紅葉に隠し事があるの」 「人を殺した事、ですか」 「なんだ。もう手紙、読んじゃったの?」 「手紙?」 紅葉は一度、眉を寄せた。 「そんなんじゃないんです。僕、先輩が殺したっていう人と、会った事があるんです」 「……え?」 会った? だって彼女は、私が殺したのに? 「僕がお化けが見えるって、先輩は知ってますよね」 「そう、いえば……」 そんな話も聞いた気がする。やっぱり半信半疑だったけれど。 じゃあ、紅葉は、私が殺したあの人と会っているの? 「たまたま、会ったんです。僕はその人に、先輩に殺されたって聞きました。そして、その代わりに先輩を殺そうとしたってのも。だから僕、知っていたんです。先輩が人殺しをしたって」 「じゃあ、何で?」 何で、私と一緒にいたの? その言葉は、私の口からは言えなかった。 「僕は、先輩が好きなんです。殺したとか、そんなのは関係ない。僕は、そういうとこも含めて、先輩の全てが好きなんですよ。だから、先輩と一緒にいるんです」 紅葉はいつだって私の言葉を察してくれる。私が言って欲しい事までも。 だから私は、紅葉が好きになったんだ。 「で、でも。私は紅葉に、彼氏に大事な話を隠していたんだよ?」 「それは、僕がそれに至らないほど、頼れないようなヤツだったってだけです。先輩の責任じゃない、僕のせいです」 ああ、どうして紅葉は私を庇ってくれるんだろう。 「で、でも、じゃあ昨日の人は!?」 「ケイですか? ケイはそこのアンジェラ――死導者の仲間ですよ」 死導者の、仲間。じゃあ、全ては私の勘違い? 私の被害妄想? 「先輩。帰りましょう」 そう呟くように言って、紅葉は両手を広げた。優しく微笑んで。 ああ、どうして、人の道を外れた私に、優しい言葉をくれるんだろう。 どうして私なんかを迎えてくれるんだろう。 どうして私は、こんな好い人を信頼できなかったんだろう。 紅葉……。 「――好きだよ、紅葉」 「僕もですよ、先輩」 いつの間にか、私は泣いていた。それに気付かなかった。 「でも、もう駄目だよ。私、私、自分で自分が許せないよ。紅葉に、優しくしてもらえないよ……」 「先輩が先輩を許せなくても、僕は先輩を許します。だからどうか、自暴自棄にならないで下さい。僕にはまだ、先輩が必要なんです。それに、たぶん、こゆきちゃんにも」 小雪。 そうだ、私が自殺なんてしたら、私はまた、小雪を傷つけてしまう。 「……私、私って生きていていいのかな? まだ、まだ人間でいていいのかな?」 「はい。先輩が殺したっていう女の人も、そう言ってましたよ。だから僕は、先輩を助けられたんです」 私にはもう、飛び降りる勇気はなかった。 生きる希望が沸いてしまって、死ぬほどの絶望はなくなってしまった。 肩の荷物が降りたような感覚。私の背中に乗っていた十字架は、紅葉が背負ってくれた。やっぱり、私は――。 「私は、私は紅葉がいないと駄目だよ。紅葉、ずっと一緒にいてね? 私と一緒にいてね?」 「もちろんです。先輩が嫌だって言っても一緒にいますよ」 私の顔は、自然とほころんでいた。 「それじゃ、ストーカーだよ」 「はは。そうですね」 紅葉の胸の中は、暖かかった。 チリン―― 柔らかな風が吹き、静謐な鈴の音色が響いた。 季節はもうすぐ、春だった。 「えー!? じゃあ、あたしが自殺の原因?」 「それだけではないけれど、それも原因の一端であるのは間違いないわね」 「そんなぁ。だいたい、アンジェラが紅葉の周りで死のニオイがする、なんて言うから、あたしがわざわざ会いに行ったんじゃないのよ!」 黒い少女に、奇異な格好の少女は叫びたてた。 その時、ふたりの少女が前に立つ家の扉が開き、小学生くらいの少女が姿を現した。 続いて、優しげな雰囲気の女性が現れた。子供のような不安定さと、大人のような狡さを併せ持つ、アンバランスな女性が。 「小雪、そんなに慌てないでも大丈夫よ」 「いいの! お姉ちゃんと一緒にいたいの!」 「はいはい、わかりました」 女性は微笑み、少女に手を引かれて歩いていった。家の前に立つふたりの少女には、まるで気付く事なく。 その後姿を見送り、黒い少女は言った。 「幸せそう、ね」 「そーね」 チリン―― 黒い少女は、どこか嬉しそうだった。顔に大きな変化はないけれど、それでも幸せそうだった。 「でも、ちょっと納得いかない。殺人を犯して、どうして平和で過ごしていいのよ」 奇異な少女に、黒い少女は諭すように言った。 「罪はいつか償わなければならない。けれど、それは牢獄でなければならないという決まりはない。彼女は自身が犯した罪の大きさを知っている。そして、それが生み出す結果も。なら、それで十分よ」 「やっぱり納得いかないよ」 「それは仕方ないわね。確かに平等とは言えないもの。その分の罪科は、いずれ払う事になるわ」 「それが“因果”?」 「その通り」 チリン―― 小さな腕輪が鈴を揺らす。 黒い少女は軽く地面を蹴り飛ぶと、かたわらの少女に言い放った。 「さあ、そろそろ行くわよ。私たちに立ち止まる暇はないもの」 「はいはい。ま、私のご主人様がそう仰るなら、仕方ないわね」 一陣の風に乗って、ふたりの少女はその場を後にした。 次の逢瀬にも、希望があると信じて。 チリン―― |