退屈な午後の授業が終わると、俺は部活があるというエセ関西人と別れて、文化部の教室がある旧校舎に向かった。将棋部に顔を出すためだ。
 別に俺は部員じゃない。だけど部長は知り合いで、将棋もそいつに習ってそこそこできるから、たまに顔を出すと決めているだけだ。
 一年坊主とやれば、まだ俺の方が強い。一年生の相手をしてやりつつ和やかに時間を過ごすと、あっという間に下校時刻になった。
 道具の片付けは一年生に任せ、俺は部員たちと一緒に帰路についた。
「と、ワリィ。俺、トイレ。先に行ってて」
 ふと尿意を覚えた俺は、部長たちにそう言った。
「おう。漏らす前にさっさと行ってこいよ」
 部長の笑い声を背中で聞き流し、俺はトイレに向かった。
 トイレで用を済まし、さて早く追いかけようと外に出た時。
 チリン――
 どこかで聞いた事のあるような音色が、耳に残った。
「あん? 君、は……」
 男子トイレの前。そこに、昨日の女の子が立っていた。
「ここ、男子トイレだぞ。つーか、ここの生徒じゃないだろ? 勝手に入っちゃ駄目だろ」
 俺が言うと、女の子は悲しげに笑った。
「やっと、見つけた」
「見つけた? 何を」
「貴方を探していた」
 俺を探していた? なんかどっかで聞いたような台詞だな。
「昨日は退魔師の生が強すぎて、貴方の異常に気付けなかった。そのせいで、また多くの人々が、生を失った……」
 チリン――
 女の子はくるりと回る、と。その手には、いつの間にか剣が握られていた。
「って、剣!?」
 んな阿呆な! 手品か!? ってか、子供が持っているもんじゃねーだろ、それ!
「危ないな。子供が刃物とか持ってちゃいけないだろ?」
「残念だけれど、私は子供ではないの。昨日も名乗ったでしょう? 私は死導者。人ですらないの」
 女の子の剣が、まっすぐに俺を指した。
「お、おい。何の冗談だよ?」
「冗談ではないわ。貴方はこの世界にいてはならない存在。貴方がいる、それだけで苦しむ人たちがいるの。私は、それを見過ごすわけにはいかない」
「俺がいるだけで苦しむ? 何の話だよ!」
 俺が叫ぶと、女の子は目を伏せた。
「思い出して。貴方は本当にこの学校の生徒だった? 貴方はいつ、どうやってこの学校に入学した?」
「いつって……?」
 昔の記憶をさらった。
 そして、ふと映像が目に浮かんだ。この学校の制服じゃない。私服で通う、汚い高校を。
 俺の周囲には誰もいなくて、俺は独りで登校していた。教室に到着しても、昼になっても、放課後になっても、俺は独りだった。
「あ、れ?」
 どうしてそんな記憶があるんだ?
 俺はこの学校に入学して、友達もたくさん作って、それで毎日を不満ながらも幸せに過ごしていたはずだろ?
「思い出した、ようね。貴方の居場所は、本来ならこの学校のどこにもない、という事を」
「お、俺はここの生徒だ。変な言いがかりをつけるんじゃねーよ!」
「いいえ。貴方はここの生徒ではない。貴方は、そもそも生物ですらない」
 思い出す。物凄い轟音。
 空から降ってくる、鉄骨。
 俺は呆けたようにそれを見つめ、そして――。
「ち、違う。俺は死んじゃいない。俺は、俺は生きている、生きた西城和馬だ!」
「それは違うわ。貴方は変魂。世のリズムを狂わせる、因果から外れた、あるべきではない存在」
「へん、ごん?」
 止めろ。止めてくれ。
「一般的な言い方をするのなら、悪霊。貴方は存在する事さえ許されない存在なのよ」
 止めろ、違う、俺は、俺は!
「うわああああああああああ!」
 俺の拳が女の子に届く前に、俺の胸に、剣は刺さっていた。
 女の子が剣を引き抜く。俺はゆっくりと、廊下に倒れた。
 胸を剣が貫通したのに、血も流れやしない。分かっていた。
 と、廊下の向こうから声が聞こえてきた。どこかで聞いたような声だ。
「せやから、ちょっと待っててくれへん?」
「ええ、いいけど……」
 耳障りな関西弁と、困ったような女の子の声。そして、廊下の角から、ふたりの顔が現れた。
「佐倉に、鯉田さん……」
 ふたりはまっすぐに俺の方にやって来る。けれど、佐倉は笑っていて、鯉田さんは困ったように苦笑いを浮かべるだけだった。俺が倒れているのに。
「佐倉、助けてくれ……」
 俺が声をかける。その声は、確かに佐倉まで届く距離だった。
「トイレ、トイレ〜っと」
 けれど佐倉は、俺の方を見向きもしないで、トイレに入っていった。
 俺の顔の近くで上履きが止まる。少しだけ顔を傾けると、鯉田さんがぱちぱちとこちらを見ていた。
「こ、鯉田さん。助けて……」
 けれど鯉田さんは不思議そうに首を傾げ、じっと俺を見ているだけだった。
 きい、と俺の後ろで音がした。
「あれ? まみちゃん、どないしたん?」
 ちょうど、佐倉がトイレから出てきたらしい。俺はまるで見えていないかのように、鯉田さんに声をかけた。
「ん? そこに何か落ちてる?」
 佐倉の目が、俺の方に向いた。俺と佐倉の視線が、重なった。
「何もあらへんやん。どうかしたん?」
「……ううん、何でもないの。行こう、佐倉君」
 けれど。ふたりは、俺に気付く事すらなく、そのままその場を去ってしまった。
 どうしてふたりが一緒にいるんだろう、とか、佐倉のヤツ、いつの間に鯉田さんを名前で呼ぶようになったんだ、とか。そんな疑問が浮かんで、消えた。
 そんなものがどうでもよくなるほどの絶望感。俺の、願いは、無駄だった。
「俺、は」
 俺は、ひとりぼっちだった。
 学校では友達もいなくて、ただ家と学校を往復するだけの日々。それが続いていた。
 ある日、事故が起きた。建設中のビルの近くを通った時だ。
 鉄骨を支えるワイヤーが切れて、運悪く俺の上に鉄骨が降ってきた。
 俺の頭にはそれをかわすという考えすら思い浮かばず、俺は死んだ。
 死んで、俺は後悔した。このままでは誰も俺を覚えていない。誰も俺を思い出さない。俺はまるで最初からそこになかったかのように、振舞われてしまうと。
 それが怖かった。嫌だった。
 世界に恐怖し、世界を拒絶し続けた。三日三晩の時間が過ぎた時。俺は、肉体を得ていた。
 理屈はわからなかった。けれど、俺は不思議な能力と共に肉体を得て、気付いたらこの学校の前にいたんだ。
 俺は能力で、学校の教師や生徒を騙した。まるで最初から俺がいたように、入学当初からずっといたごく普通の生徒のように思い込ませた。そして、それは成功した。
 それが、どうしてこんなところで終わるんだ? どうして佐倉は俺を見ない? どうして鯉田さんは俺に気付かなかった?
 これじゃ、これじゃまるで!
「貴方は、最初からいなかった事になる。死した後に貴方が行った行動は、全てなかった事になる」
 すでに床が冷たいかどうかも分からなくなってきた俺に、女の子の冷徹な声が降ってきた。
 そうか。それじゃ、俺の行動は無駄だったんだ。やっぱり、みんなが俺を忘れ、俺は誰の心にも想いを残せないまま、消えていくんだ――。
「そうではないわ」
 俺の心の声を見透かしたように、女の子は言った。
「私が貴方を覚えている。貴方という悲しい存在を、いつまでも記憶する。それが私にできる事。死者の想いを永遠に留める者。それが、私」
「……くそッ」
 俺の声は、もう自分でも聞き取りにくかった。
「せめて、悪役に徹してくれりゃあ、憎めたのによ」
「……ごめん、なさい」
 くそッ。だから、謝らないでくれよ。
 チリン――
 俺の声すら聞こえなくなっても、鈴の音色だけは、しっかりと聞こえた。
 世界が暗くなっても、鈴の音色だけは聞こえていた。
 チリン――


 死を導き、少女はふうとため息をついた。
「あ、アンジェラ。ようやく見つけた」
 と、その背中に声がかかる。少女が振り向くと、彼女の部下がにこりと微笑んでいた。桜色の和風の上着に、白いミニスカートの、高校生くらいの少女が。
「終わったの?」
「ええ。変魂は消去した。因果律も正常に戻るわ」
「そう」
 と、部下は少女の背丈に合わせるように腰をかがめ、じっとその瞳を見つめた。
「何?」
「アンジェラ。また何か背負わなかった?」
「別に何も」
 少女は平然と答えた。けれど、部下にはそれが嘘であると分かっていた。
 それでもその事実は指摘せず、代わりに部下は深くため息をついた。
「アンジェラ。いつも言ってるでしょ? あたしは、アンジェラと同じものを背負いたいの。アンジェラの荷物の半分はあたしが背負いたいの。でないと、そんな小さな体じゃ押し潰されちゃうわよ?」
「大丈夫よ」
 言って、少女は暖かく微笑んだ。
「さあ、行きましょうか。いつまでもここにいても仕方ないもの」
「そうね。男子トイレの前で話し込むのは、さすがのあたしも嫌ね」
 ふたりは廊下を歩き出した。足音はしない。彼女たちもまた、この世ならざる世界に生きる者だから。
 少女は全てを背負う。哀しみも、絶望も。その先に何があるのか、それは少女にも想像できない。
 それでも、生を知り、死を導く彼女は、出会ってしまった生を忘れない。
 いつまでも、いつまでも。
 チリン――



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