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私と拓也は決して結ばれない仲。そんなのはわかっている。 だからこれは、恋愛なんて次元じゃない。 もっと深い、もっと強い絆だから。 どうして私は、浮いているんだろう。 記憶が曖昧で、どうしてこうなったのか、という簡単な事が思い出せない。 「そうだ、それより拓也と散歩に行かなきゃ。拓也、私がいないと外に出たがらないんだから……」 私は空を歩き出した。けれど、自分の家がどこにあるのか、それもわからない。 「あれ? えーと、ここはどこ?」 空から見ると、世界が変わって見える。ここがどこらへんなのか、いまいちわからない。現在地がわからなければ自宅の場所もわからない。という事は、帰れないという事? 「えーと、それじゃあ?」 チリン―― 私が行動しようと足を前に出した途端、綺麗な音色が聞こえた。 振り返ると同時、顔に何かが張りついた。 「わっ!?」 「エル、止めなさい」 返事をして、私の顔面に張りついていた黒い何かが退いた。 私は顔を振り、前を見つめる。 私の顔に張りついたのは、おそらく私の足元にいる、この黒い動物だろう。何だろう、佐伯さんの家にいる、フェレットのタッチンにも似ている。けれど、それとも少し違う……? 「ごめんなさい。この子、貴女のような存在を見るのは初めてだから」 エルと呼ばれた黒い動物の後ろから、黒い服装の女の子が話しかけてきた。 私は首を横に振り、答える。 「いいえ、気にしていないわ。それよりエル、というのね。珍しい動物だけど?」 「エルはオコジョよ。このあたりでは見かけないでしょうね」 女の子は足元のエルを拾い、胸に抱いた。エルは満足そうに鳴いた。 「ねえ、貴女は誰?」 私は不思議な魅力を持つ女の子に聞いてみた。女の子はエルをそっとなでつつ、私に答えてくれた。 「私はアンジェラ。死導者よ」 「しどうしゃ?」 聞いた事のない響き。私の顔に理解していないと出ていたのか、女の子――アンジェラは、更に説明してくれた。 「死を導く者、故に死導者。生を喰らい死を導く。人でも動物でもない存在、それが私たちよ」 「人でも動物でもない……?」 ああ、そういえば感じた事がある。 今で昼寝をしている時、道を歩いている時、そこかしこに目には見えない、けれど何かが確かにいるという、そんな感覚を。 それが、この死導者という存在だったのかもしれない。 「私からも質問していいかしら」 アンジェラが言うので、私は頷いた。 アンジェラはちょっと悲しげに眉をひそめ、言う。 「貴女、この世にどんな未練があるの?」 「未練? この世?」 「ああ、貴女、まだ気付いていないのね」 ひとり合点がいったように、アンジェラは頷いた。 「私が何に気付いていたいと言うの?」 「簡単な事実よ。貴女は、残念ながらすでに死んでいるわ」 「死んでいる?」 私が? 死んでいる? 死んでいる!? 「ちょ、ちょっと待って! 私はまだ死にたくない!」 「死にたくない、ではないの。死んでいる、なの。その違い、わかるかしら?」 「死んでいる――!」 そんな、私はまだ拓也と一緒にいたいのに! まだ、まだ死にたくない! 死ぬわけにはいかない! どうして、どうして私が死ななければいけないと言うの!? 混乱する私の頭とは逆に、アンジェラは冷静な口調で言葉を運ぶ。それが、私の胸にナイフのように突き刺さった。 「貴女はもう、誰とも交われない。ただ孤独の中で在り続け、やがて消滅の時を迎える。それが貴女に決められた、いえ、全ての生物に決められた理だから」 「そ、そんなの認められるわけないじゃない! 私はまだ拓也といなきゃいけないの! もっともっと、拓也と時間を過ごしたいの! そんな、死んでいる暇なんてないの!」 「そう。それは残念ね」 言葉とは裏腹に、アンジェラはちっとも残念そうには見えなかった。エルを抱き締め、子供とは思えない冷たい眼差しを私に向けている。 「そうだ、あなたは私を生き返らせる事はできないの!?」 私が問うと、アンジェラはゆっくりと首を横に振った。 「駄目よ。私は神ではない。一介の死導者に過ぎないの。死導者が操ってよいものは、死のみ。誰かを生き返らせたり、世界の法則をねじ曲げたりしてはいけないの」 「そんな……!」 そんな、それじゃあ私はもう、本当に死ぬしかないの? そんなの、そんなの許せない。認めたくない。 私はもっと拓也と笑いたい。拓也の隣を歩きたい。 そんな、もう会えないなんて、絶対に嫌だから。何か方法がないの? 何の方法もないの? 「そう、ね。解決策にはならないけれど、貴女に現実を見せてあげられるわ」 ふと、アンジェラはそんな事を言った。 うなだれていた私は、アンジェラの声に顔を上げた。 「現実?」 「そう。見たい?」 アンジェラは、子供のような無邪気な笑顔を浮かべた。 チリン―― 鈴の音色と共に、私の周囲が歪む。 歪んだ景色が元に戻ると、私はさっきとは別の場所にいた。見慣れた街角、ここは……私の家の近くだ。 「さあ、帰ってみましょうか?」 アンジェラに促され、私はアンジェラと共に家に向かった。 角を曲がった二軒目の家。そこが、私の家。 私たちが曲がると、ちょうどそこに、中学生くらいの男の子が入っていくところだった。 「拓也!」 私は叫び、走った。駆け寄っても、拓也は私の存在に気付かない。 ああ、私はもう死んでいるんだ。改めて認識させられて、それが辛い。 拓也はどこか元気のない様子で家の中に入っていった。 ゆったりとした足取りで自室に向かう。拓也の部屋は二階にある。 階段を昇り部屋に入ると、拓也は倒れこむようにベッドに横たわった。 「風子……」 拓也は虚ろな名前で私の名前を呼んだ。拓也、私はここにいる。お願い、私に気付いて、拓也! 拓也は私に気付くそぶりもなく、何をするわけでもなく、制服のまま横たわっていた。無気力な感じだけが部屋を占めている。 何もできない私たちは、ただ拓也を見つめていた。 と、とんとんと階段を上がる音が聞こえてきた。 「拓也ぁ! いるなら返事しろぉ?」 がちゃりと扉を開き、中に入ってきたのは同じ学生服の男の子。見た事がある、確か拓也の友人の……そうだ、薫だ。カオル、なんていう女の子みたいな名前を嫌っている、拓也の親友。 「んだよ拓也、まだ落ち込んでるのか?」 「うっせーな、お前にゃ関係ないだろ」 悪態をつきながらも、拓也はベッドの上にあぐらをかいた。 薫は断りもせずに机の椅子を引き、勝手に座る。 「お前さ、落ち込んだって風子は帰ってこないぜ。むしろお前がそんなんじゃ、風子もいつまで経っても成仏できねーだろ。とっとと吹っ切っちまえよ」 「そんな簡単にできねーよ。風子はずっと俺と一緒にいたんだ。雨が降ろうが雪が降ろうが、何があったって風子は俺と一緒だった。それがいなくなった寂しさ、お前にわかるか?」 「わかるかんなもん。俺の家は団地だし」 薫は呆れたように言い、拓也を見つめた。 「なあ、拓也。久しぶりにさ、一緒に遊びに行こうぜ。駅前のゲーセンでも行かねーか?」 「そういう気分じゃねー」 「じゃあ、いつになったらそういう気分になるんだよ」 薫はとうとう、少し怒りを滲ませた表情で言った。 「お前がうじうじしたってしゃーないだろうに。まったく、馬鹿かお前は」 「馬鹿だよ、俺は」 ふてくされたように言い、拓也はベッドに横になった。 「拓也……」 薫は残念そうにため息をつき、鞄を手に取った。 「じゃあな、拓也。また明日」 「ああ」 ベッドに横になったまま、拓也は返事をした。薫は残念そうに拓也を見つめ、それでも部屋を出て行った。 ひとり残された拓也は天井を見つめたまま、ぽつりと呟いた。 「わかってるよ。けどさ、なんかこう、やる気が出ないのは仕方ねーじゃん」 いよっという掛け声と共に拓也は起き上がった。 「そりゃ、風子にいつまでも心配かけるわけにはいかねーよな」 拓也は立ち上がると、慌てて薫の後を追うように部屋を飛び出した。 「待てよ、薫! やっぱ行くよ!」 「名前で呼ぶな!」 拓也が開け放した扉の向こうから、声が聞こえた。 拓也の、元気な声が。 私が最も聞きたかった声。それなのに、それが聞こえるのが、ひどく寂しいなんて。 どうしてだろう。私はただ、拓也の幸せを願っていたはず。拓也が、私がいなくても元気になれるなら、それはとても良い事であるはずなのに、どうして私はこんなにも寂しいんだろう。 チリン―― 私の隣に立つ少女が、その存在を示すように鈴を鳴らした。 「これが現実。人は、失った存在を忘れ、それを何かで埋めるという事ができる。死した者は、生ある者の中からは消えていく。徐々に、確実に」 アンジェラの言っている事はただの事実で、そんな事は私にもわかっている。けれど、それは聞きたくない言葉だった。拓也が私を忘れるなんて、そんなの、考えたくなかった。 「想いは永遠ではない。強い想いも、いつか消え失せる。彼は確かに貴女を愛した。けれど、その想いも、貴女の死という事実を境に消えていく。貴女が受け入れようと受け入れまいと、確実に」 私には、最初から選択肢などなかった。私が頷こうと首を横に振ろうと、結果は同じだった。どちらを選ぼうと、私は死んでいた。 ああ、そうだ。思い出した。私が死ぬ、その間際。 私は、なんとなく私の死期が近い事を知った。けれどそれが恐ろしくて、認めがたくて、必死で生きようとして。けれど死期は延びなかった。消えなかった。私は、この家の居間で、拓也の腕の中で、その生涯を終えたんだ。 人間と比べればあまりにも短い生。その短い生が、終わりを告げたんだ。 「どうする? まだ生にしがみつく?」 「しがみついたら、どうなると言うの」 私の声は、疲れきっていた。 「貴女ほどの想いがあれば、魂の形は変わり、永久を在り続ける力を得るかもしれない。そうなれば、私は貴女を殺すけれど」 「なにさそれ。結局、私に選択肢なんてなかったんじゃない」 見上げた場所に、アンジェラの顔がある。疲れたような、悲しいような、嬉しそうな、よくわからない表情で、そっと言った。 「だから、最初からそう言っているでしょう?」 ひとつの魂が天へと昇る。 そこに救いなどはなく、その光景は機械的で事務的な、木から離れた林檎が地面に落ち行くような、そんな当たり前の姿だけがある。 少女はそれを見つめていた。いつまでも、いつまでも。 黒いオコジョがそっと、少女の髪をなでた。 少女はそっと笑い、頭上のオコジョを胸に抱きかかえると、その頭を優しくなでた。 「これが現実。悲しい想いも辛い想いも、時と共に風化する。それが人間の生きるための手段で、仕方のない事なのだけれど、それはとても物悲しい」 チリン―― きゅ、とオコジョも悲しげに鳴いた。 「そうね、せめて私は覚えていたい。誰が忘れ去ろうとも、私だけは永遠に記録していたい。思い出を記録し、願いを叶え、悲しみを和らげたい」 ふと、少女は空を見上げた。夕陽に紅く染まる空は、ほとばしる鮮血のように非現実的な美しさがあった。 「もちろん、そんなものは私のための、私の心を和ませるためのものでしかないかもしれない。それでも構わない。私は、そう在りたい」 チリン―― きゅーと、可愛らしい声が響いた。 「ありがとう。私のために、私が何かをする。結局、私にできる事はそれだけなのね」 チリン―― 呟き、少女は風に消えた。 黒は赤に埋もれ、後には何も残らない。それでも、そこには確かに在った。感じられなくとも、見えなくとも、本当に消えてしまっていても、心はそこに在った。それは虚偽ではない、妄言ではない、真実。 ただ、それだけの事。 チリン―― |