想像もしなかった。彼がそんな事を考えていたなんて。
 彼が私にあんな事を言うなんて、思いもしなかった。
 やはり私は、彼の言う通りだったのかもしれない。


 門の前でボーっとしていたら、鈴の音が聞こえた。
 チリン――
「貴女。こんなところで何をしているの?」
「……え?」
 私が振り向くと、頭上に黒い小動物を乗せた、小学生くらいの女の子が立っていた。
 間もなく桜も終わる季節だというのに、夜空色のワンピースを着ている変わった子。それ以上に変わっているのは、私を見る目。落ち着いていて、大人びていた。
「あなた、私が見えるの?」
「ええ。私は人間ではないから」
 女の子は平然と、そう言った。私はつい、笑ってしまった。
「人間じゃないなら、何なの? 私を迎えに来た死神様?」
「死を導くという点では変わらないわ。私は死導者。生を知り、死を導く者」
「しどーしゃ。ふーん……」
 名乗ったところで、女の子は重ねて聞いてきた。
「それで。何をしているの?」
「何も。強いて言えば、呪ってるってとこ?」
「呪う」
 私は頷いた。
「ほら、この家」
 私が指差す先。そこには馬鹿でかいお屋敷がある。その門を、私は指差していた。
「この家にね、私が自殺した元凶がいるの。その人の事を考えていたの」
「自殺? どうして?」
「あんな台詞を言われたら、誰だってショックを受けるわよ」
 私は自嘲的な笑みを浮かべる。女の子は続きを促すように黙っていた。
 私はため息ひとつ、話を始めた。私が自殺するまでの、経緯を。

 その人は、いつも感情の薄い瞳をしていた。
 私は父の知り合いの旧家で、お手伝いをしていた。その人は、そこの長男だった。
 多くの人がその人を大切にした。旧家の大事な跡取り息子だというのに、その人はとても身体が弱かったから、みんなが彼のために奔走していた。
 私も彼の世話をする者のひとりだった。彼は、自分の世話を焼く人々を、何も感じないような瞳で眺めていた。
 みんなが、彼を見ていなかった。みんなは跡取りを死なすまいと行動していただけで、彼の事など、誰も見ていなかった。
 けれど、私は違った。私は常に彼が何を考えているのか、何をしたいのか、ずっと考えていた。彼が跡取りかどうかなど、何も関係がなかった。
 彼だけを見ていた。ずっと、彼だけを。
 私は思った。彼が、寂しいんじゃないかと。私以外の誰も彼を見ていなかった。両親は彼が家を継げるかどうかだけを、彼の世話を焼く者たちは彼が生存するかどうかだけを考えていた。
 私は、彼には友人が必要だと思った。彼の瞳に感情の色がないのは、想いをどう表現すればいいのかわからないだけだと。人と接すれば、それもなくなると思った。
 だから私は、彼とどうでもいい世間話をするようになった。彼も少しずつ心を開いてくれている。そう、思った。
 彼と話す毎日は楽しかった。意味のないような内容でも、本当に楽しかった。
 そう。いつからか、私は彼のためではなく、私のために話をするようになっていた。そして、私がそれに気付いたのは、死の間際だった。

 ある日。彼は、自室で泣いていた。
 畳の上に敷かれた布団の上で身体を起こし、部屋の明かりもない部屋で、彼は月を眺めながら、ただ泣いていた。
『どうされました? どこか、痛いところでも?』
 私が聞くと、彼は目元の涙を拭って、首を振った。
『いや。君にはわからないさ』
 その、寂しげな言葉は、私の中の何かを弾けさせた。
 私は彼を抱き締め、言った。
『わかります。あなたは、寂しかったんでしょう。誰ひとりとして、その事実に気付かなかった。気付こうともしなかった。けれど、私は違う。私は、あなただけを見ていた。あなたが寂しいという事実に、気付いた』
 彼は何も言わなかった。何もしなかった。私は、更に言葉を続けた。
『寂しい時は寂しいと言って下さい。私は、あなたの力になります。あなたのためだけに生きる覚悟があります』
 彼は、ふっと笑った。私が知る限り、彼が笑ったのは初めてだった。
『寂しかった、か』
 彼は、そっと私の肩を抱き、離した。彼の瞳に私の顔が映るほど、私たちの顔は近かった。
『たいしたものだね。僕の悩みがわかるのかい?』
 私は、懸命に頷いた。
『ええ、ええ。私にはわかる。私はそこらの世話係とは違うもの。あなたに必要なのは、人の温もりなのよ』
 彼は微笑み、言った。
『何が、違うんだい?』
『……え?』
 彼はますます頬を吊り上げた。あの顔は、忘れられない。
『私は違う、私は特別、私には全てわかる。はは、馬鹿みたいだね。君に何がわかるんだい。君は僕じゃないだろう? 同じ状態、同じ体験でも人によっては全く異なる感情を抱くものさ。僕の心は僕だけのものだ。君になんか理解できるものか』
 私がぽかんとしていると、ああ、と彼は呟いた。
『ごめんよ、確かに君は特別だよ。特別に、馬鹿だ』
 そう言って、彼は嬉しそうに笑った。声を出して、心の底から、笑った。

「で、その次の日。私は自殺したの」
 語り終え、私が口を閉じると、女の子はなんとも言いがたい表情で私を見ていた。
「……貴女は、彼を憎んでいるの?」
「さあ? わからない。彼が憎いのか、それともまだ彼に未練があるのか。自分でもよくわからないの」
 確かに、彼が好きだった。あの浮世離れした瞳が、白い肌が、細い指が、整った顔立ちが、たまらなく好きだった。
 でも、今の私はどうなんだろう。まだ彼が好きなのか、それとも彼を憎んでいるのか。自分でも、わからない。
「それで。これから、どうするの?」
「どうしようかなって。彼に会えばこの気持ちも整理できるのかもしれない。でも、会うのはなんとなく怖い気もする。だから、どうしようかなって」
「……会わない方が、いいと思うわ」
 女の子は、静かにそう言った。
「どうして?」
「貴女は、会えば取り返しがつかないような気がするの。今ならまだ引き返せる。このまま転生するのがいい。そう思うの」
「ふーん……」
 私は少し口元に手を当てて考えた。
「うん、決めた。会いに行く」
「どうして?」
 私は、女の子に笑いかけた。
「私が、アマノジャクだから」

 彼の部屋は何も変わっていなかった。もっとも、ほんの数日で変わるような部屋ではないけれど。
 彼は相変わらず、布団の上で身体を起こし、月を見ていた。じっと、何を考えているのかわからない瞳で。
 すると、コンコンと柱を叩く音がした。失礼します、という声と共に、女中のひとりが入ってきた。ひろみちゃんだ。
 私より若い、高校を卒業して一年くらいの女の子。去年の暮れから入ったばかりの、ウチの中では新人の娘だった。
 人懐っこい笑みが特徴的な娘で、私はこの娘が気に入っていた。
「孝明様、お薬のお時間です」
「ああ」
 彼は振り向くと、ひろみちゃんが持ってきた薬と水を受け取った。
 薬を水で流し込み、それをひろみちゃんに返す。
 コップを手渡された後も、ひろみちゃんは動かなかった。
「……、どうかしたのかい?」
 彼が問いかける。ひろみちゃんは、そっと口を開いた。
「あの。孝明様は、寂しくないのですか?」
「どうして?」
「どうしてって……」
 ひろみちゃんは呆れたような表情を一瞬だけ見せた。
「だって、金村先輩が、あんな事になっちゃって……」
 言って、ひろみちゃんは目を伏せた。
 一方、彼は特に表情にも変化を見せず、さらりと言った。
「カネムラって、誰だい?」
 ひろみちゃんは顔を上げた。その目は、濡れていた。
「金村先輩ですよ! ずっと孝明様の世話係をしていた!」
「うん? ええと、ああ、もしかしてあの髪の長い人?」
「そうですよ!」
 どこか、ひろみちゃんの口調には怒りがあった。
「ごめんね。興味がなかったから、すぐに思いつかなかったんだ」
「興味が、ないって……!」
 ひろみちゃんは絶句した。当たり前だと思う。私は、ずっと彼のために生きていた。なのに、彼は私の事を、何も気にかけていなかったという事なのだから。
「それで。そのカネムラさんがどうかしたの?」
 ひろみちゃんは怒りと悲しみが混ざった表情で彼を見つめると、なんでもありません、と返した。
 失礼します、と残して立ち上がるひろみちゃんに、彼は言った。
「そうそう。そのカネムラって人の事、少し思い出したよ」
 ひろみちゃんが彼の顔を見た。その目に一抹の期待がある。
「僕の考えがわかるって言っていたから、言ったんだ。君は僕ではないのに、僕の考えがわかるのかって。それは、相当の馬鹿だと思わないかい?」
 一瞬、ひろみちゃんは怒りに顔を歪めた。けれど何も言い返せず、そのままその場を後にした。
 残された彼は深くため息をつくと、月を見上げた。
「早く、してくれないかな」
 そう、独り言を呟いた。

 いつの間にか、女の子は消えていた。
 私は彼の部屋の隅にうずくまり、じっと彼を見ていた。
 彼はほぼ一日中、窓の外を眺めていた。何をするでもなく、ただ見つめていた。
 薬と食事の時間には、ひろみちゃんが盆を運んできた。けれどあれから、必要最低限の事を除いて、ひろみちゃんは一言も口にしなかった。
 私が彼の部屋にいついて二日目の晩。明かりもない部屋で、彼はいつも通り月を眺めていた。
「失礼します」
 ひろみちゃんが部屋に入ってくる。彼はそっと、彼女を見た。
 ひろみちゃんが薬を水を渡すと、彼は黙ってそれを飲む。そして、水を返しながら言った。
「そうそう。君の名前は何だったっけ」
「……山田ひろみ、です」
 ひろみちゃんはどこか軽蔑したような眼差しで彼を見た。
「山田さん、ね。覚えておくよ。君が自殺するまでは」
「……?」
 彼は、まるで悪魔のような笑みを浮かべた。気持ち悪い、心の底から怒りと嫌悪感を募らせるような、そんな笑みを。
「金村さんは自殺したんだろう? 馬鹿の考えは僕には理解できないよ」
 やれやれという風に彼は首を振った。
 ひろみちゃんは手が白くなるほど、拳をぎゅっと握り締めた。
「……して」
「ん?」
「どうして、そんな口が利けるんですか! 先輩は、ただあなただけを愛していたのに!」
「愛、ね」
 興味なさそうに呟き、彼は言った。
「理解に苦しむ感情だよ。それで自殺? ますます理解できないね」
 ひろみちゃんは立ち上がった。もう、我慢の限界に見えた。
「山田さん。彼女が僕をどう想っていたかは知らないけれど、僕にはそんな事は関係ない。彼女が生きようと死のうと、僕にはどうでもいい。ただ、これだけは言えるね」
 効果を確かめるように息を止め、そして、彼は言った。
「死ぬような馬鹿と付き合いが切れたんだから、君は僕に感謝すべきじゃないかな」
 彼女は我慢できなくなったように部屋を飛び出した。彼は、彼女の去った方向をじっと見つめていた。
「そろそろ、やってくれるかな?」
 呟く。彼の目的が、もう私にはわかっていた。
 ドタドタと廊下を走る音が聞こえる。やがて、音の主が現れた。
 ひろみちゃんだ。
 その手には、光る包丁が握り締められている。
「おや、山田さん。そんなオモチャを振り回して、どうするんだい」
「――ッ! 先輩の、カタキです!」
 まっすぐ。ひろみちゃんの包丁は、まっすぐに彼の心臓を刺し貫いた。
 彼は最後に、微笑んだ。そして、そのままの体勢で、ゆっくりと崩れ落ちた。


 朝日が昇る。長い夜が、明けようとしている。
「あれが、あなたの目的だったのね」
 女性は隣に立つ男性に言った。
「そう。金村さんには、悪い事をしたね。まさか僕じゃなく、自分を殺すなんて考えもしなかった」
「謝るなら私よりひろみちゃんよ。ひろみちゃんは、これから拭えない罪を背負うんだから」
 黒塗りの車が、また屋敷の中に入っていった。今後の話をするために集まってきた分家の者だろう。
「ごめん。でも、ひとりじゃ死ねなくてさ。僕の部屋には刃物を持ってきてくれないし、僕自身は動けない。あの部屋は、僕が自殺しないように見張るための部屋なんだから、当たり前かもしれないけど」
 チリン――
 ふたりの前に、いつの間にか黒い少女が立っていた。少女はふたりを見上げ、問う。
「今生の別れは、済んだかしら」
「私はいつでもいいわよ。色々と、すっきりしたし」
「僕も構わない。こんな世界、さっさと別れたかったんだから」
 少年は閉じ込められた。
 暗い部屋の中。病弱という理由で、その実、跡取りをどこにも逃さないために。
 少年は青年になり、それでも鳥はカゴの外に出られなかった。
 やがて青年は、ひとつの可能性に辿り着いた。
 ――誰かに殺してもらえば、カゴの外に出られる。
 そのために、彼は女性を傷つけた。失敗を経て、彼はようやく、望むものを得た。
「物事は見方によって、悲劇にも喜劇にもなりえる。貴方たちは、どちらなのかしら」
「さあ。強いて言うなら、ただの事実ってとこかな」
 少女は瞳を曇らせ、回った。
 チリン――
 少女の手には、剣が握られていた。生を彩り、死を喰らう宝剣。
「さよう、なら。次の生は、せめて生ある合間に願いを叶えられますよう」
 呟き、少女はふたりの胸を刺し貫いた。
 少女の頭の上で、黒いオコジョが悲しげに鳴いた。
 チリン――



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