始まりは、先輩の一言だった。
 田崎先輩は僕のバイト先の先輩であり、僕の彼女でもある。先輩は僕の体質についても知っていて、しかも理解を示してくれている珍しい人だ。
 で、先輩いわく、僕らのバイト先から二駅ほど行ったところに廃病院があるとか。で、そういう場所のお決まり通り、そこもおばけが出るとかいう噂がある。
 先輩は僕の体質について理解を示してくれていて、そして、理解しすぎだった。
 その病院に行って、本当におばけが出るか見てみよう。
 そう言われた時は全力全開で拒否したけど、結局、押し切られた。僕は先輩だけじゃなく、押しに弱い気がする。
 途中のコンビニで酒を買い、それでテンションを上げつつやって来たのが、この病院というわけで。
 うん、思い返してもなんか理由らしい理由が見えなかった気がする。ここはもう、そういうのは気にしない方が無難かもしれない。
 病院の入り口は、鍵が壊れていた。あるいは誰かが壊したのかもしれないが、そこまでは僕らの責任じゃないので、よしとしよう。
 病院の中は暗くて、懐中電灯がなければ前にも進めない状態だった。
 割れたガラスの破片だの、崩れた壁の一部だの、積もり積もった埃だの、そんなものを踏みしめながら、僕らは歩く。
「どう? 何かいた?」
「いえ。生き物もそうでないものも、影も形もないですね」
 ネズミくらいはいてもよさそうなものだけれど、それすらも見えなかった。あるいは、生物は完全に死滅した後なのかもしれない。
「どうします? 一階はだいたい見たと思いますけど」
「じゃあ、二階に行こう」
「……まだ行くんですね」
 はあ、とため息をつき、僕は階段を上った。
 一階には受付と診察室がいくつか、それにトイレなどしかなかった。
 読みにくくなった案内板を見る限り、この建物は四階建て。三階と四階は病室で、二階は手術室や、レントゲン室などがあるらしい。
 僕は先輩に手を引かれるまま、手術室に赴いた。
「へえ、何にもないのね」
 手術室には、本当に何もなかった。
 テレビで見るような医療器具は欠片もない。広い空間に、治療台と戸棚があるだけだった。
「普通、こういうとこって心電図とか、そういう機械があるんじゃないの?」
「ここを閉める時、そういうものは他に移動したか、売ったんだと思いますよ。ああいう医療器具は高いそうですから」
「そりゃそーか」
 先輩は小さく笑った。よくまあ、こんな不気味なとこで笑えるよ。おばけが見える僕だって、苦笑いくらいしかできないのに。
「……あら?」
 いきなり、先輩は扉の方に目を向けた。
「どうかしたんですか?」
「何か、足音みたいのが聞こえる」
「足音?」
 僕も耳をすませてみた。すると確かに、コツ、コツ、という足音が聞こえる。
「幽霊は足音、しないよね?」
「でしょうね。だとすると、僕らのような不法侵入者か、下手をすると警察かもしれませんね」
「えー? それは困るわね。隠れる?」
「ちょっとここにいて下さい」
 僕はそっと、扉に身を隠しながら廊下の様子を窺った。
 すると、階段の方から懐中電灯の明かりが見えた。逆光のせいでよく見えないけれど、コートを羽織っているように見える。
「警察ではないみたいですね」
 振り返り、僕は言った。
 って、あれ?
「先輩?」
 先輩がいたはずの場所。そこには、すでに誰もいなかった。
「先輩? 奥ですか?」
 勝手に行かれたら困るなぁ。先輩は懐中電灯、持ってないんだから。
 僕は懐中電灯を片手に、手術室の奥に入った。
 そこは、本来なら医者が着替える部屋だったんだろう。安物のロッカーや戸棚が並んでいる。
 先輩は、その部屋の中心にいた。
 ――体が、浮いていた。
「せ、先輩ッ!?」
 誰かが先輩を締め上げていた。予想は、悪い方にばかりよく当たる。
 僕はほとんど咄嗟に、変魂に体当たりをしかけた。変魂は先輩を落とし、床を転がった。
「先輩! 大丈夫ですか!?」
 先輩は、どうやら気を失っているらしい。けれど息はちゃんとしていて、とりあえずは無事な様子だった。
 僕が変魂を睨みながら先輩を床に横たえると、突然、背後の扉がバタンと開いた。
 僕は反射的に振り返った。そこには、懐中電灯を手にしたコートの若い男性。
「君は、遠藤君か!?」
「ひ、火野さん!?」
 火野さんは僕たちと変魂の間に立った。
「どうして君がここにいるんだ!」
「火野さんこそ! どうして!?」
「私は工事の邪魔をしている変魂の退治を頼まれただけだ!」
 それじゃあ、この建物には、最初から変魂がいたってわけか……。そりゃ心霊現象のひとつやふたつ、起きるわけだ。
「僕は、先輩に心霊スポットとして連れてこられただけです」
 火野さんはちらりと先輩に目をやり、すぐに変魂を睨んだ。
「その人を連れて逃げろ。こいつを退治するのは、僕の役目だ」
「ま、待って下さい!」
 僕は慌てて立ち上がり、火野さんと肩を並べた。
「変魂なら、僕が元に戻せます」
「馬鹿を言うな! こいつはもう化物なんだぞ!?」
「元は人間です!」
 僕は腰を低く構えた。
 目の前の変魂は、ちょうどゲームに出てくるゾンビなんかに似ていた。見ているだけで吐き気がしてくる、そんな外見。でも、この人だって、最初からこうなりたかったわけじゃないんだ。
「あんな姿になっちゃっても、それでも前は人間だったんです。そして、僕には戻すだけの力がある。目の前に苦しんでいる人がいるのに、それを放っておくなんて、僕にはできませんよ!」
 生きたくて、やりたい事があって、欲しいものがあって。なのに、それが叶わなくて。それでも諦めたくなくて。
 そして、こうなってしまった。こんな醜い化物になっても、この人には叶えたい事があった。たった、それだけなんだ。
「君は素人だろう! こんな暗い病院で、変魂相手の戦闘なんかできるものか!」
「僕は触れるだけでいい。それに、変魂は暗くても見えます」
 実際、今は懐中電灯で照らしているわけでもないのに、変魂の姿はくっきりと見えている。戦いなんてのは知らないけど、それでも、何かはできる気がした。
「お願いします。あなたの役に立ちたいとかじゃない、あの人を助けたいんです」
 火野さんは、答えなかった。
 ただ変魂を見つめ、唇を噛んでいる。
 そして、言った。
「サポートする。やれ」
 火野さんの両手が閃く。きらきらと光る、ワイヤーのようなものが変魂を縛った。
 僕は走った。変魂を見つめ、見つめ、そして、手を伸ばす。
 この人は、本当は明るい黄色だった。なのに、今はそこに毒々しい赤色が混じっている。それを、取り除く!
 声が遠くなる。芯が熱くなる。そして、僕の手が、赤に触れた。
 赤は消えていく。徐々に、確実に。その光景ははちょうど、ビデオの巻き戻しに似ていた。
 ――そして、完全に消えた。
 僕が瞬きをすると、僕の前に立っていたのはゾンビなんかじゃなく、小さな女の子だった。幼稚園にも行けない年頃だと思う。
「……?」
 女の子は状況がよくわかっていないのか、きょろきょろと周囲を見渡す。
 僕は女の子と目の高さを合わせた。
「何かを探しているの?」
 女の子は縦に首を振った。
「おかーさんは?」
「お母さんはね、先に上に行ったんだよ」
 僕の代わりに答えたのは、火野さんだった。
「うそだよ。おかーさん、ここにいるっていったもん。
「でも、先に行っちゃったんだ」
「うそだよ。みき、しんじないもん。おかーさんはここにいるもん。だから、みき、ここでまつもん」
 女の子はワンピースの裾をぎゅっと掴み、泣きそうな顔になった。
 ……でも、おそらくは。ここで待っていても、お母さんは来ないんだ。
 お母さんが生きているなら、死んでしまったこの子供には会えない。お母さんが死んでしまっているなら、もう昇って行った可能性が高い。
 どちらにしろ、この子の願いは、叶えられないんだ。
「火野さん、どうすればいいんですか?」
 僕には変魂を戻す能力はあっても、死者を天国に送る力はない。そういう事は、専門家である火野さんの領分だろう。
「うう、む。私は変魂を殺すのが仕事、なんだが。仕方ない、私が殺そう」
「殺すって、この子をですか?」
 火野さんは頷いた。
「この子を放っておけば、再び変魂と化して人々に迷惑となる。それを止めるためには、今、殺すしかない」
「殺すって、そんな、まだこんなに小さな子供じゃないですか!」
「子供だろうと大人だろうと、変魂になった時の危険性は同じだ」
 火野さんはじりじりと、女の子との距離を詰める。それはすなわち、僕と距離を詰めるという意味でもある。
「他に方法は、ないんですか?」
「私にはできない。そういう能力者もいるだろうが、火野家の者は武力しか持っていない」
 いけない。このままじゃ、せっかく助かった女の子が、結局は同じ目に遭ってしまう。なんとか、なんとかならないのか? なんとかできないのか?
「そこをどいてくれ。君は私のターゲットではないから」
「できません」
 僕だってどうすればいいのか、わからない。それでも、それでもこの子を殺すなんて、許すわけにはいかないんだ。
「どかないと、実力で排除するぞ」
「それでも、どけません」
 僕じゃ、専門家である火野さんには絶対に敵わないだろう。それでも、逃げちゃ駄目なんだ。
「僕にとっては、死んだ人も生きている人も同じなんです。同じように見えて、話せて、触れられる。同じ存在なんです」
「それで?」
「火野さんは泣いている子供が殺されるのを、黙って見ていますか? 僕はできない。ただ指をくわえて見ているなんて、絶対にできない。これも、同じです」
「死者のために身体を張るのか。生きている人間が」
「それができる人が、です」
 生死なんて関係ない。僕にはこの子の壁になれる能力がある。それだけだ。
「そうか。残念、だ」
 火野さんの目に覚悟の色が宿った。
 僕は子供をぎゅっと抱え、目をきつく閉じた。せめて、できる限りは、守らなきゃ――。
 風を切る音、そして、何かが倒れる音がした。
 ……倒れる、音?
 僕はそろそろと目を開いた。僕の前には相変わらず火野さんが立っている。けれど、その顔には驚きと怒りと、ついでに苦虫が混じっていた。
「陽平。あんた、バカでしょ。目の前の無害な子供に集中していて、変魂の気配にも気付かないなんてさ」
 どこかで聞いたような女の子の声。僕が火野さんの後ろに目をやると、そこに、桜色の和服を着た女の子が立っていた。
「え? ケイ?」
「やほ。元気?」
 僕の知り合いでもある死導者、アンジェラの部下たる女の子が、にこにこと笑っていた。
「って、事は?」
 チリン――
「もちろん、私もいるわ」
 いつの間にやら、僕の後ろに夜空色のワンピースを着た女の子が立っていた。
 死を導く者、アンジェラが。
「それよかさ、こいつどうにかしてよ」
 よく見ると、ケイの足下には変魂がいた。やっぱりゾンビのような、けれど、片腕のない変魂が。
「変魂? まさか、まだいたの?」
「そのよう、だな」
 ものすごく不機嫌丸出しで、火野さんは頷いた。
「紅葉、あんたの能力ならこいつを戻せるんでしょ? 戻せるならわざわざ殺さなくてもいいし」
「あ、ああ。わかった、任せておいて」
 立ち上がった僕は、たぶん笑えていたと思う。


 廃病院からふたつの光が昇っていく。寄り添うように、二度と離れぬように。
 屋上でそれを眺める影が四つ。それぞれ、じっと光を見つめていた。
 やがて、内のひとりは光から目を離し、かたわらに立つ桜色の少女に視線を移した。
「ケイ、ありがとう。おかげで助かったよ、色々と」
「別に。あたしはたいした事、してないし。霊を送るのはアンジェラしかできないしねー」
 それよりも、と少女は続けた。
「よーへー、あんたの方こそあたしに言う事があるんじゃないの?」
 呼ばれたコートの男は、額のシワを最高に増やしつつ、ぼそりと言った。
「……助かった、ありがとう。これでいいか」
「へっへー。よろしい」
 桜色の少女は、とても満足げに頷いた。
「では、私はもう行く」
「もう行っちゃうんですか?」
「私は暇じゃないんだ。君らに関わってのんびりなんてしていられないんだよ」
「ろくに除霊もできないのにね」
 こっそりと呟いた少女をきっちり睨み、コートの男は屋上の扉に手をかけた。
 と、そこで振り向き、男は言った。
「遠藤君。今後はこの手の話に首を突っ込まないでくれ」
「すみません、それは聞けません」
「……、そうか」
 その答えを予想していたのだろう。男は頷き、続けた。
「なら、それなりの覚悟をするんだな」
 言い、男は懐から何かを取り出した。
 それを、ひゅっと青年に向かって投げた。そして、それを受け取ったか確認もせず、屋上から姿を消した。
 青年がそれを受け取る。それは、名刺だった。
「ったく。素直じゃないんだから」
 ため息混じりに、桜色の少女は呟いた。
 チリン――
 風が吹き、鈴が鳴る。
「そろそろ、私たちも行くわ」
 今まで口を閉ざしていた闇色の少女は、青年を見上げて言った。
「うん。ありがとう、アンジェラ」
「こちらこそ。報われぬ魂に救済を与える。そんな事、私にもできない。それを行う貴方には、私こそ感謝しなければならない。そして、いくら感謝しようとも、しきれない」
「そんなたいした事じゃないよ」
 闇色の少女はそっと首を横に振った。
「貴方という存在によって、本来なら滅びのみが待つ魂が、救いと癒しを与えられた。それは、本当に大きな事」
 空を見上げ、少女は続けた。
「先ほどの親子もそう。近くにいながら永遠に気付かず、互いに求め合ってさまようしかなかった。それを救ったのは他でもない、貴方なのよ」
「そう言われると、ちょっと恥ずかしいな」
 照れ笑いを浮かべる青年を、桜色の少女は笑った。
「アンジェラが褒めてるんだから、照れなくていいのよ」
 とん、と桜色の少女は浮かんだ。同時に、闇色の少女も。
「さようなら、紅葉」
「うん、さよなら」
 チリン――
 ふたりの少女の姿が消えて、屋上に残ったのは青年ひとり。
 青年は大きく伸びをして、首をコキコキと鳴らした。
「さて、と。そろそろ先輩を迎えに行かないとね」
 まだ起きていないといいんだけど。そう呟き、青年もその場を後にした。
 廃病院に満ちていた死の匂いは、もうしない。
 チリン――



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