生きている人と死んでしまった人は、互いに触れ合う事はできない。
 触れ合いたくても、絶対に。
 それは、とても悲しい話だと思う。


 私は死んでしまった。
 別に望んでいたわけじゃない。むしろ、若くして死ぬなんてまっぴらごめんだ。けど、死んでしまった。
 最初は死んだって、こうして考える事もできるし、今までとあまり変わらないような気がしていた。けれどそれは、ただの勘違いだった。
 今、私は私が生前に通っていた学校の、私が通っていた教室にいる。
 私の机には菊の花。一目見た時、本当に誰かが死んだらこんな事をするんだなと、のんきな事を思ったりした。
 教師はいつもとあまり変わらない、眠気を誘う授業をしている。私は菊の花が咲く机に座っているのに、誰も気付かない。誰の目にも留まらない。ああ、私は確かに死んでいるんだ。
 私は生きていた頃のように、お弁当を食べたり、眠くなる授業を無視して落書きを書いたり、友達と下らないおしゃべりをしたり、なんてできなくなった。
 代わりに、空を飛んだり、壁を通り抜けたり、こうして座っていても誰にも気付かれなくなった。
 もう私が死んで一ヶ月になる。私もようやく現状に慣れた。慣れればお化けも悪くない、なんてちっとも思えないけれど、慣れてしまった。
 平然と壁を抜け、宙を舞い、何もできぬまま漫然と時間を過ごす。こんな生活は望んでいなかったのに――。
 私は、世界でひとりぼっちになってしまった。
 愛されないどころの話じゃない。嫌われる方が、憎まれる方がまだいい。私は、私という存在がまだこの世にいるという事実に、誰にも気付いてもらえない。
 愛の反対は無関心って言っていたのは、マザー・テレサだっけ。生きている間にそれに気付くなんてすごいよ。あたしは死んで、しばらくたってようやく気付いたんだから。
 話しかけても無視される。目の前に立っていても文字通り素通りされてしまう。
 誰にも気付かれないという事、世界中が私に興味を持たないという事がこんなに辛いなんて、知らなかった。そして、知ったところでどうしようもない。今の私には何もできないのだから。

 結局、下校時刻まで学校にいた。死んでからの方が真面目に授業を受けているなんて、洒落にもならない。
「さって。どうしよっかな」
 ふわふわと浮きながら、私は町に出た。
 風の向くまま気の向くまま。適当に歩く、もとい、飛ぶ。
 暑さも寒さもない体では、散歩をしても楽しくなかった。
「学校に戻ろうかなぁ……」
 ため息が漏れる。生前はため息なんて知らない生活だったんだけどなぁ……。
 私はいつの間にか、人通りの少ない道に出ていた。車が一台も通ればそれで他に誰も通れないような、細い路地だった。
 と、角を曲がって小学生くらいの女の子が歩いてきた。赤いランドセルを揺らし、ひとりで歩いている。
 私はなんとなく、その子を眺めていた。女の子は私に気付かず、目の前を通り過ぎて行く。
「仕方ない、か」
 学校の誰もが見えなかったのに、たまたま通りがかった女の子が見えるなんて偶然、あるわけない。そもそも、見える人がいるかどうかも怪しいのに。
「さて、と」
 息を吐いた私の背後で、甲高い音が聞こえた。
 振り返ると、私に向かって疾走するバイク。私が、さっきの音はバイクが曲がった時のタイヤ音と気付くまでの間に、バイクは私を通り抜けて行った。
 そして、どん、という鈍い音。バイクがブレーキをかける音。そして、また走り去る音。
 私は、振り向きたくなかった。音から連想される光景を、見たくなかった。
 けれど、体は私の意思に反して動く。ぎしぎしと、油の切れたおもちゃのような動作で、私は振り向いた。
 最初に目に入ったのは、赤いランドセル。そして、横たわる女の子。女の子は、赤い水溜まりの中にいた。
 チリン――
 女の子のランドセルについている鈴が揺れている。それが何故だか、印象的で。
「あ……」
 水溜まりは段々と大きくなる。ダメ、ダメダメ、それ以上は――!
「ダメッ!」
 叫びが私を動かした。女の子に駆け寄り、抱き起こそうとして。
 ――けれど、私の体はすり抜けた。
「そんなッ!」
 そんな、そんなのってない。
 このまま死んでいく姿を、黙って見てろって言うの? 私と同じ、誰にも触れられず、誰にも気付かれない、そんな状態になるまで、黙って見ていろって言うの!?
 そんなの、できないわよッ!
 とにかく、大通りへ。壁を抜け家を避けた先に、人通りの多い道があった。
「誰かッ! 女の子が倒れているの、誰か来てッ!」
 叫んだ。おなかの底から、全力で叫んだ。
 でも、誰も私には気付かなかった。いつも、通りに。
 それでも私は叫んだ。道を歩く人に追いすがり、声がかれそうになるほど大声で叫んだ。でも、誰も振り返ってくれなかった。
「何でよッ! 私なんか無視したっていいわよ! 私は死んでるんだから、見えなくたって、気付けなくたっていいわよ! でも、でもまだ、まだあの子は生きてるじゃないの! 死んでないじゃないの! それを、どうして助けられないのよ!?」
 涙が出た。
 悔しかった。
 もう、地面しか見られなかった。
 気にされないってのは、寂しい。でも、私の場合、それは仕方ないんだ。だって、もう死んじゃったんだから。
 けど、あの子はまだ生きている。死んでいない。
 なら、私と同じにしちゃいけない。私と同じ寂しさを、あの子が味わう必要なんかない。
 誰でもいい。誰か、助けてよ?
 神様がいるなら、どうか、助けて――!
「さっきから何か叫んでたの、姉ちゃんか?」
 あたしの視界に、影が入った。
 あたしは顔を上げた。目の前には、知らない男の人。季節外れの皮ジャンを着た、変な人。
「あー、もう一回だけ聞くぞ。さっきから叫んでたの、姉ちゃんか?」
「……私が、見えるの?」
 やっと出た私の最初の言葉。それは、ひどく間抜けなものに思えた。
「見えてるから聞いてんだろが。で、どうなんだ? 何かあったんだろ?」
「向こう……」
 私は背後の壁を指差した。
「向こうに女の子が倒れているの。血がいっぱいで、早く、早くしないと死んじゃうよ!」
 頭に違和感。
 見上げると、男の人の手が、私の頭に乗っていた。
「よく頑張ったな。後は、オレに任せておけ」
 言って、男の人は走り出した。私も慌てて後を追う。
 道を示しながら懸命に走る。脳裏をよぎるのは、嫌な考え。もしかしたら間に合わなくて、もうあの子は死んじゃっていて、私みたいな状態になって立っていて――。
 首を振り、私は男の人の背中を見つめた。それだけで、なんだか安心した。
「おい! 大丈夫か!?」
 ようやく、辿り着いた。
 女の子は、まだ生きていた。虫の息だったけれど、まだ一生懸命に生きていた。
 よかった。本当に、よかった。まだ助かったわけじゃないのに、涙が出そうだった。
 男の人は女の子の出欠箇所を調べ、止血し、携帯電話を取り出した。
 私はその光景を、映画のワンシーンのように眺めているだけだった。

「よく頑張ったな」
 病院脇の駐車場に、私は座っていた。
 私の隣にはさっきの男の人。名前は、火野さんっていうらしい。
 火野さんの隣は暖かかった。気温も体温も感じられない体だけど、それでもすごく暖かかった。
「あの子、助かるみたいだな。あんたのおかげだよ」
 ありがとな、と火野さんは笑った。火野さんがお礼を言う事じゃないのに。本当は、私が言わなきゃいけないのに。
 私は、何も言えなかった。
 口が麻痺したみたいに動かなくて、体は鉛の鎧でも着込んだみたいに重かった。でも、どうしてだか、嫌な感じじゃなかった。
「警察も動き出した。ああいうのは証拠がめちゃめちゃ残るから、そうそう逃げられないもんなんだ。たぶん、犯人もすぐに捕まるだろうさ」
 火野さんの優しい声。それが私を安心させてくれる。ひとりじゃないのがこんなにも心強いなんて、知らなかった。
「それで、だ」
 火野さんは言いにくそうに、それでも勇気を出して、言った。
「オレはあんたを成仏させなきゃいけねえ。仕事なんだ」
 私は火野さんを見上げた。なんだか、泣きそうな顔だった。
「……はは」
 それがおかしくて、私は小さく笑った。
「ごめんな。黙ってて」
「謝らなくていいですよ」
 私は立ち上がった。火野さんも立ち上がった。
「私は知りました。独りの辛さ、弱さ、悲しさ。そして、火野さんは教えてくれました。強さ、暖かさ、生きるって事の大切さ。私、それで十分です」
 私は、笑えているだろうか。
 たぶん、笑っている。死んでしまってから初めて、喜びっていう感覚を味わっている気がした。
「でもよ、オレはあんたを殺したくないんだ。だから、オレの前から、消えてくれないか」
 甘い、な。
 仕事って事は、私みたいな存在といつも会っているんだろうに。なのに、その相手にいちいち同情して、同感して、そして、とうとう殺せないなんて。
「頼む。オレには、今のあんたは殺せない。あんたはまだ、狂っちゃいない。自分を覚えている。そんな相手、オレには殺せねーよ」
 私は、首を横に振った。
「駄目ですよ。私を殺すのが火野さんのお仕事なら、ちゃんとやらなきゃ。私は火野さんに殺されても、何の文句もありません。もう、私は終わった人なんですから」
 そう、それでいい。私はもうすでに死んでいて、だからもう、それでいい。
「でも……」
 チリン――
 鈴の音。たったそれだけで、火野さんは黙ってしまった。
 きょろきょろと周囲を見渡し、そして、後ろで止まった。
「アンジェラ、か」
「甘いわね。火野公平」
 火野さんの後ろに、女の子が立っている。夜に紛れてしまいそうな、黒い女の子。
 女の子は火野さんの後ろから出てくると、私の前でぺこりと頭を下げた。
「こんばんは。私は死を導く者、死導者のアンジェラ」
「死導者?」
「そう。言ってしまえば、死神のようなものよ」
 しにがみ、死神か。本当にいたんだ。
 なんだか、死んでからの方が色々と学んだ気がする。大切な事とか、そうでもない事とか、色々と。
「公平。よく見ていなさい。貴方の住む世界の理を」
「……んなもん、とっくに知ってるよ」
 アンジェラは火野さんを見上げ、火野さんは憮然とした顔を返した。
 チリン――
 アンジェラがくるりと回る。手には剣。いつの間に持っていたのか、私は気付かなかった。
「それで私を斬るの?」
「そう。怖い?」
 私は、また首を横に振った。
「今さら、怖いものなんか何もないわよ」
 アンジェラは微笑んだ。とっても優しい、微笑みだった。
「……さようなら。次の生もまた、楽しむといいわ」
 アンジェラの剣が、私の胸に突き刺さった。痛みはない。ただ、暖かかった。
 最後に私は火野さんを見た。火野さんは泣きそうな顔のまま、立っていた。
 私は精一杯の笑顔を見せて。そして、意識は――。


 病院の暗がりにひとりの男が立っている。そのかたわらには小学生くらいの、夜空色の少女。ふたりは寄り添い、そっと立っていた。
「公平。どうして彼女を滅さなかったの?」
「オレは退魔師だ。変魂を倒すのがオレの仕事で、魂を殺すのが仕事じゃない」
「けれど、放っておかれた魂の一部は、天にも昇れず、生ある者に仇なすようになるかもしれないわ」
「そうなったら、殺す。そんだけだ」
 少女はそっと笑った。男は少しばかり頬を染め、空を見上げた。夜空には、星が瞬いている。
「それよかアンジェラ。どうしてこのタイミングで現れたんだよ。タイミング、良すぎだろ」
「ずっといたわよ。見ていただけで」
「……は?」
 男はぽかんと少女を見つめ、やがて、怒り出した。
「じゃあ、どうして助けないんだよ!?」
「私は死導者。私が導くもの、それは死だけ。それがどのような生であろうと、この世の理から外れた生でない限り、その生に関わったりはしない。それが私の主義であり、私の逝き方でもある。先刻の少女も、魂の生が尽きかけている。今は助かっても、遠くない未来に、きっと……」
 少女は目を伏せ、首を振った。
「……納得、いかねー。すぐに死んじまうとしても、今はまだ生きているじゃねーか。それなら、生きた方がいいに決まってるだろうがよ?」
 少女は舞うように歩き出した。楽しそうに、嬉しそうに。
「理解などしなくても構わない。納得などできなくとも構わない。私は私のやりたいようにやるだけ。それに対して貴方がどのような想いを抱こうとも、それは貴方の想い。私は私、貴方は貴方よ」
「ふ、ん。ああそうかい」
 男は大きく伸びをした。
「じゃあ、オレはオレの道を行くぜ。それでいいんだろ?」
「その、通り」
 とん、と少女は地面を蹴った。ふわりと浮き上がったその体は、黒衣と共に現実離れした美しさを醸し出している。
「では、また会いましょうか、火野公平」
「ああ」
 チリン――
 少女は闇夜に消えた。男は光に向かって歩き出した。
 ふたりの道は近く、けれど決定的に遠い。それが、死者と生者の距離。
 闇夜の中に、風と共に流れる音色がひとつ。
 チリン――



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