真っ直ぐ進むと信じていた道は、予想外の場所で折れ曲がってしまった。
 その先には何も見えず、何もない。暗くて汚くて、真っ黒だ。
 外れたレールは、誰にも進めない。もちろん、僕も、進めない。


 ここから飛んだら、楽に死ねるだろうか。
 ちょうど特急電車が通過する、そのタイミングがいい。普通電車じゃ駄目だ。死なない可能性があるから。
 飛ぶのはほんの一瞬。チャンスはいくらでもある。電車を待つフリをしてホームに立ち、電車が来たところで、地面を軽く蹴る。すぐに強い衝撃が僕を襲うだろう。でも、あまりに痛くて気絶するかもしれない。あるいは、すぐに脳が吹っ飛んで、何も考えられなくなるかもしれない。
 どちらにしろ、死ぬのは一瞬だ。長く生き続ける苦しみと比べれば、ほんの一瞬。
 僕が今、この場で地面とさよならするだけで、その後に待つであろう果てしない苦しみから逃れる事ができる。
 これは、逃避なんだろうか? 悪い考え方なんだろうか。
 違うと断言はできない。でも、ならどうして生きなければいけないなんて言えるんだ? そんな苦しみは乗り越えろと、赤の他人がどのツラさげて言えるんだ?
 僕が苦しいのは、僕でなければわからない。赤の他人が、そんな苦しみは小さいものだと、どうして論ずる権利があるんだ。ないだろう。僕のこの苦しみが、死ぬよりなお辛いと、僕が判断する。僕だけが、判断できる。そうじゃないのか?
 ――考えている間に、電車は通過してしまった。

 チリン――
 僕の前に、女の子が立っている。
 夜空色の長袖ワンピース。腰まで流れる、黒い綺麗な髪。紅い、吸い込まれそうな瞳。幼い顔立ちは小学生くらいだろうと連想できるけれど、雰囲気は成熟した大人を思わせる。どうにも、不思議な子だ。
 頭の上には、何故か黒い動物が乗っている。確か、フェレットだかっていう種類だ。オコジョだっけ? 細長い身体に、柔らかな漆黒の毛並み。翡翠色の瞳は濁りがなく、きらきらと輝きながら僕を見つめていた。
 周囲に人はいない。当たり前だ、電車から降りて、いつまでもホームでぐずぐずしている人なんていない。そんなのは、僕とこの女の子くらいなものだ。
 なら僕もさっさと行けばいいのに、動けない。この女の子から、目を離してはいけない気がした。
「貴方」
 女の子はそっと口を開いた。
「死ぬの?」
 何の感情もない、まさに色のない声だった。
「貴方が本当に悩み苦しみ、生に活路を見出せず。結果、死を選んだと言うのなら、それも貴方の生。私が何かを言う権利はないし、そのつもりもない」
 だけど、と女の子は続けた。
「仮に。己の世界を閉じ、真実を見極める目を失っているのなら、私は貴方に道を示してあげられる」
「……どういう事?」
 僕はそんなに、死にそうな表情だったろうか。それ以前に、この子は何なんだ?
「一緒に来てくれるかしら? 答えは、その先にある」
 返事も待たず、女の子は歩き出した。
 僕は少しだけ考え、結局、一緒に行く事にした。

 駅から歩く事、およそ二十分。人通りのあまりないところに、その建物はあった。
 見上げるほどに長く続く石の段。障害者でも上れるようにとの配慮からか、隣はスロープになっている。だけど、これだけの長さじゃ、どっちにしろひとりでは上れないだろうな。
 女の子は説明もせず、階段を踏みしめていく。だから僕も、特に何も聞かないで後を追った。
 石段の上には、お寺があった。古い、あまり流行っていないと予想される、小さなお寺だ。
「こんなところに連れてきたかったの?」
 振り返りながら聞き……あれ?
 女の子がいない。四方八方、どこを探しても見当たらなかった。
 どこかに隠れたのだろうか。でも、あの子にそんな、子供っぽい部分があるとは思えないなぁ?
「探しものかの」
 きょろきょろしていたら、袈裟を着たおじいさんに声をかけられてしまった。
「ええと、人を。小学生くらいの女の子、見ませんでしたか?」
「はて。知らんの」
 目が開いているかどうかも疑わしい細目の老人は、そう答えた。
「連中に子供の知り合いがおるかは知らんがの。もしかすると、あっちにいるかもしれんのぉ」
 言い、おじいさんは僕に説明もせずに歩き出した。どうでもいいけど、みんな説明をしないのが流行なのかな?
 仕方なく、僕もおじいさんの後を追う。なんか、今日はこんなのばっかりだ。
 おじいさんは僕を墓に連れて行った。コケの生えたような墓地が目立つ。
 と、騒がしい声が聞こえてきた。墓地には似合わない、賑やかな若い人の声だ。
 その正体はすぐにわかった。十数人のグループが、墓で酒盛りをしているんだ。
 見た目からして怪しげな人たちだ。電車の中で座っていたら、隣には座りたくないようなタイプ。
「あ、あの。あの人たちは?」
「ん。墓参りの連中じゃよ」
「墓参り?」
 ……この人の目は節穴なんだろうか。それとも、やっぱり単に開いていないだけ?
「あの。僕には酒盛りをしているように見えるんですが」
「そうじゃの。わしにもそう見える」
「……最近はお墓で酒を飲んでもいいっていうルールになったんですか?」
「そもそも、そんなルールはないがの。墓参りというものはの、死んだ者のためにするもんじゃない。生きている者のためにするもんじゃ。じゃから、あの連中が満足なら、それでいいんじゃよ」
 うーん? 僕は、仏さんのためにするものだと思うけどな。
 でもま、お寺の人が言うんだから、いいんだろう。たぶん。
 おじいさんはひょこひょこと歩いて連中に近付くと、声をかけた。
「お前さんたち。女の子を見なかったかの?」
「ああん?」
 薄く紅色に染まった瞳で、男たちのひとりがおじいさんを睨みつけた。……とても怖い。
「知らねーな。おい。誰か見たかぁ?」
 男が全員に問う。みんな口々に、知らない、見ていないと答えた。
「知らねーと。ワリィな、じいさん」
「いやいや。構わんよ」
 僕は構う。
「あん?」
 と、気合の入った男は、おじいさんから僕に視線を移した。
「じいさん。そのガキは?」
「わしの知り合いじゃ」
 さっき知り合ったばかりですが。
「はーん、そうか。おい、ガキ。一緒に飲もうぜ」
「え? で、でも僕は未成年ですし……」
 やんわりと断ろうとするけれど、男の人は強引に僕を引っ張った。よく見れば、シートまで敷いてある。用意がいいね、これ。
「気にすんな。今日は日本全国、無礼講だ」
「はい?」
「おい、じいさん。せっかくだからじいさんも付き合っていけよ」
「わしは遠慮しておこう。騒ぐのは苦手での」
「それもそうか」
 男の人は豪快に笑い、僕を隣に座らせた。おじいさんはどこかに行ってしまう。最高に心細い。
 すぐさまコップに注がれた液体が渡される。
「大丈夫だよ。ただのジュースだから」
 男の人が言う。僕は仕方なく、コップの液体を口にした。
 ――本当にジュースだった。
 どうやら、酒を薄めるためのものらしい。流石に酒は飲まさないよね? 飲まさないと信じたい。
 よくよく見れば、座っている人たちは男も女もいる。けど、どの人も似たり寄ったりで、雰囲気がちょっと怖い人ばかりだ。
「ガキ。名前はなんて言うんだ?」
 僕を引っ張った男の人が聞いてきた。
「藤堂、です」
「藤堂か。オレは犬山ってぇんだ」
「狂犬の方が正しい名前なんじゃねーか?」
 すぐさま別の男の人が言い、また笑いが生まれた。
「藤堂。なんでオレらが墓場で酒なんか飲んでいるのか、想像できっか?」
 僕は素直に首を横に振った。まるで想像できない。
「ほれ、そこの墓」
 犬山さんは目の前の墓をあごで指した。南無阿弥陀仏と刻まれた墓石が、僕らの前にある。
「そこにはよ、オレらのダチがいるんだ。今日はあいつの命日でよ。だから、ここで酒を飲んでいるってわけだ」
「命日に、お酒を?」
「おう。あいつは泣いたりするのより、笑うのが誰より好きだった。オレらも湿っぽいのは苦手だからよ、思いっきり騒ぐ事に決めたんだよ」
 そう言って、犬山さんは酒をあおった。
 とても、楽しそうだった。僕なんかよりは、ずっと。
 どうしてこんなに笑えるんだろう。人が死んで、もう会えないのに。もう一緒に笑う事も、一緒にお酒を飲む事も、何もできないのに。それなのに、どうしてこんなに楽しそうに笑えるんだろう?
「どうして笑えるんだって顔してんな」
 僕の考えを読んだのか、犬山さんはニカッと笑って言った。だから、僕は頷いた。
「あいつは事故で死んじまった。あいつは願ってなかったけどよ、死んだんだ。そりゃ、オレらも悲しんださ。田中なんかなかなか泣き止まなかったよな」
「う、うっさい!」
 女の人が頬を赤くして叫ぶ。その後にはまた笑い、だ。
「んで、あのじいさんに教えてもらったんだ。あいつは死んだけどよ、オレらはまだ生きてるだろって。そうなんだよな、オレらは生きてるんだよ」
 生きている。
 そう、僕たちは生きている。誰が死んでも、僕らは生きている。遺されて。
 遺された僕らは、望まないでも生きなければいけない。大切な人を失って、人生が狂ってしまったとしても、生き続ける。壊れ、失い、脱線してしまって、もう元に戻れないのに。
「悲しく、ないんですか? その人が死んでしまった穴は、誰にも埋められないのに」
「そうだな。あいつの分はあいつでなきゃできねー。オレにはあいつの真似はできねーし、他の連中だってそうだ。あいつはあいつ、オレはオレだからな」
 犬山さんは頷き、続けた。
「別にいいじゃんか、それで。穴だらけだってよ、動けるんだよ。生き物ってのは。ぼろぼろで、見た目にも汚くって、地べた這いつくばってでも生きていけるんだ。なら、それでいいじゃねーか」
 犬山さんは、あっけらかんと言った。その姿には悩んだ跡なんてぜんぜん見えないけど、でも、実際にはすごく悩んだんだろう。悩んで悩んで、出した結果は、それでも生きる事。
 すごい、な。羨ましい。
 悩んで、悩んで。犬山さんが出した結論は、僕が出した結論とは正反対だった。
「前みたいには戻れないさ。でも、それは今だって同じだ。過去にゃ戻れない。生きるって事は進む事だ。途中に落とし穴だの、デコボコ道だの、坂道だの、邪魔するようなのばっかあるけどよ、そんなんでも突き進んじまえばいいんだよ。後ろを振り返ってみりゃあ、なんだこの程度ってなもんにならぁ」
 ――僕には、それだけの気概がない。勇気がない。力が、ない。
 落とし穴に落ちたら、這い上がれない。デコボコ道でつまづいたら、立ち上がれない。坂道にさしかかったら、登れない。
 僕は、その程度なんだ。その程度の、情けない人間。
「……、そうか」
「え?」
 くしゃりと、犬山さんは僕の頭の上に手を置いた。
「え? ちょ、犬山さん!?」
「悩めや少年。悩んで出した結論じゃなきゃ、テメエが納得できん。テメエが納得しなきゃ、意味がねーからな」
「狂犬が言う台詞かよ!」
「うるせぇ!」
 犬山さんは笑いながら叫んだ。
 その、大きくて暖かい手に触れていると、安心した。つまらない悩みも、苦しみも、全部が吹き飛んでいってしまうような気がした。力が、貰える気がした。
 何も変わっていない。僕は、力なんてない、情けない人間なのに。ただこの手に触れているだけで、上があるような気になってくる。勇気も力も、僕の中のどこかに眠っているような錯覚を覚える。
「できる、かな」
「できるだろ。オレにできるなら、お前にだってできる」
 何の根拠もない言葉が、今はありがたかった。
 僕も、この人たちみたいになりたい。
 なれるかどうかは、わからないけれど。
「――あ」
 もしかして、あの子は僕にそれを伝えたかったんだろうか?
 どんな状態でも、生きられるって。生き方なんか、ひとつじゃないって。どんな道でも、進めるんだって。
 ――そうかもしれないし、違うかもしれない。どっちでもいいや。僕は大事な事を教えて貰って、そして、前を見つけたから。
「……ありがとう」
 小さな声は、笑い声にかき消された。届いたかは、わからないけど。
 届くと、いいな。
 青空の下、小さな墓石の前。ここが、僕のスタート地点。


 墓石に座る少女がひとり。桜色の着物の眷属は、墓場で騒ぐ男たちを眺めていた。
「よかったわね。あの子、顔つきが変わったじゃない」
「そう、ね。間に合ったわ」
 そのかたわらには、少年を導いた少女がいた。小柄な肢体を夜空色に包んだ少女が。
「悩む事は決して悪い事ではない。深い苦悩があってこその生。何も悩まず突き進む生もいいけれど、より深い生は、悩みなくして存在しえない」
「悩めよ若人、ってわけね」
 くすりと笑い、眷族は酒盛りの光景を見つめた。
「にしても、あの連中も少しは自重しないのかしらね。あのお墓に寝ている兄ちゃんはいいだろうけど、他の人には迷惑じゃないの」
「……墓石に座る貴女が言う事ではないわ」
「え? うん、まあ、てへへ」
 笑って誤魔化し、眷属は墓から降りた。
「でもさ、いいよね。ああいうの」
「ええ。彼らは外見から、その性質まで判断されてしまう。けれど、彼らの本質はとても暖かい。だからこそ、私は彼らに任せようと思ったのだから」
「知り合いなの?」
「いいえ。たまたま見かけただけよ。でも、それだけで彼らの持つ生の暖かさは、感じられたから」
「へえ」
 眷属は男たちを見つめ、そして笑った。
「やっぱいいなぁ、ああいうのも」
 でも、と続ける。
「あたしらにはあたしらの逝き方がある、ってね」
「もちろん。私は、それも気に入っているわ」
 ふたりの少女はにこやかに浮き上がった。
「……ねえ、アンジェラ。手を繋ごっか」
「――? 構わないけれど?」
 少女の小さな手を、少女の少し大きな手が包む。
 眷属は嬉しそうに、へへへ、と笑った。
「行こう、アンジェラ」
「ええ」
 気付けば、ふたりの姿はない。
 墓場に在るのは、笑い声のみ。
 チリン――



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