新人は、研修担当という人が一緒に仕事をする。要するに仕事を覚えてもらうって事なんだけど。
 志野さんの研修担当は、僕に決まった。決まってしまった。本当は先輩がやりたがったけど、フロアチーフである先輩は他にも仕事がある。で、共通の知人がいるなら一緒にやれや、とかいう先輩アルバイトの一言により、僕が担当になってしまったわけで。
「はあ……」
 ため息が漏れるのは仕方ないと、誰かに言って欲しい気分。うう、先輩の目が痛い。見られていないはずなのに、とても痛い。何これ、壁に耳ありみたいな?
「お疲れ様です、遠藤さん」
 ファミレスにおいて最高に忙しい昼の時間を過ぎた今。僕と志野さんは、休憩室にいた。
 志野さんは初めてだろうから僕より疲れたはずなのに、ちっともめげた様子がない。二、三日でバイトを辞めちゃう人がいる事を考えれば、これは驚異かも。
「僕より、志野さんこそ。初めてだし、疲れたでしょ?」
「あたしはまだ何もしてませんから」
 基本的な仕事は、確かに僕がやった。志野さんはそれを見ていただけの時間も長い。けど、何もしていないわけでもない。さらりと謙遜するあたり、育ちが良いのかもしれないな。
「あの、遠藤さん。今、お時間いいですか?」
「ん? 時間ならあるけど、何?」
 志野さんは、どこか真剣な様子。これは、あれかな。
「あの、ケイの事なんです」
 ――やっぱり。
 聞かれる事は予想済み。どう答えるか、もう考えてある。
「遠藤さんは、ケイとよく会うんですか?」
「うーん、よくってほどじゃないけど、たまに会うよ」
「じゃあ、ケイと連絡もつきます?」
「いや。いつもケイが勝手に来るから、僕から連絡した事はないんだ。ケイはケータイも持ってないし」
 そもそも、おばけがケータイを使うわけないし。
「それじゃあ、今度でいいです。あたしが会いたがっていたって、伝えてもらえませんか?」
「伝えるのは構わないけど、たぶん会わないよ、ケイは」
「どうしてですか?」
 ここが、肝心なとこだ。
 僕はひそかに気を引き締めた。
「ケイは、頑固だからね。会わないって言ったら本当に会わない。ケイは、そういう人なんだ」
 反応を待つ。
 志野さんは何を考えているのか、僕をじっと見つめていた。
 僕も、嘘は苦手じゃない。特に今回は、志野さんとケイ、双方のために、嘘を突き通さなきゃいけない。
 しばらく見つめ合い、やがて、志野さんはふーっと長く息を吐いた。
「そう、なんですか」
 呟くように言う志野さんは、残念そうだった。
 ……ごめん、ね。
 でも、普通の人は触れちゃいけない分野なんだ。知らないなら、知らないままの方がいい。
 まして、僕のようにおばけが見える特異体質でないなら、なおさら。
「あ、あたし、コーヒーでも買ってきますね!」
 繕った元気を顔に張り付け、志野さんは休憩室を出て行った。
「――本当に、いい子なんだなぁ」
 今どき珍しいくらいに、ね。

 一日のバイトを終え、僕は店の掃除をしていた。
 志野さんも帰宅し、まだあがっていないのは僕と先輩、それに店長だけ。フロアには僕しかいないから静かだ。
「よっし、掃除終了っと」
 掃除用具をロッカーにしまって、と。
 カタン。
「ん?」
 背後の物音に振り返ると、先輩が無表情で立っていた。
「どうかしたの?」
 問い掛けると、先輩は小さく口を動かした。
「…………ょ」
「え?」
「どうして紅葉は私以外の女の子に目移りするのよ」
 ――はい?
「ええと、何の事だか?」
「ケイだってそう! 昼間だってそう! 何よ、なんでよ!? やっぱり私じゃダメなの!? 私じゃいけないの!?」
「ちょ、落ち着いて!」
 明らかに取り乱しているな。うーん、先輩は時々、見境がつかなくなるからな。マズいかも、これ。
「ケイがただの人じゃないのは知ってるでしょ? それに、昼間って?」
「志野さんと見つめ合ってたじゃないの!」
 ……あー、あれか。僕が嘘をついた時の。
 うん、最高に勘違いだね、これ。でも、そう言って信じてもらえるかな?
「志野さんとケイはそっくりじゃない! 私よりあのふたりの方がいいんでしょ、そうなんでしょ!? そうならそうと、はっきり言ってよ!」
「誤解だよ。僕はケイに対して恋愛感情はないし、志野さんなんか出会ったばかりじゃないか」
「嘘よッ!」
 尋常でなく混乱しているなぁ……。キレた先輩は、僕でも手に負えないし、どうしよう?
 店長、は、助けてくれないだろうな。あの人は色恋沙汰が苦手な人だから。
「何よッ! 半端な優しさなら最初からいらないよ! そんなのなくなっちゃえばいいのに!」
「とにかく、落ち――ッ!」
 おなかが、あつい。
 何だ、これ。これは、痛みだ。どうしておなかが痛むんだ? それ、は。
「――ナイフは、ちょっと危ない、ね」
 先輩の手の中。果物ナイフが赤く染まっていた。
 先輩の手が震えている。血が、先輩の手を、濡らしていた。
 声が聞こえた。どちらかと言えば、音という表現が正しいかもしれない。何を言っているのか、まるでわからないから。
 今、先輩は動揺している。僕すらも信じられなくなっている。
 不安定な先輩の心に、僕がとどめを刺してしまったんだ。
 なら。僕がやるべき事、僕にできる事は、ひとつだ。
 僕は両手を広げた。ちょうど、先輩を迎え入れるように。
「おいで」
 その苦痛を、僕にわけて。
 先輩はナイフを握り締め、僕の腕の中に飛び込んだ。また、熱さが走る。
 それでも僕は、そのまま先輩を抱き締めた。
「信じて、いるからね」
 返事は聞こえない。単に何も言っていないだけか、それとも僕の耳がおかしくなってしまったのかは、わからない。
「信じてくれとは言わないよ。信じるかどうかは自由だから。でも、僕は信じる。何があっても僕は裏切らないし、僕の彼女も裏切らないってね」
 先輩が何かを言った気がした。でも、うまく聞き取れなかった。
「だから、よかったら……安心してね。真理先輩」
 意識が遠のく。
 僕の目には、ただ、赤だけが映っていた。
 チリン――

 目を覚ました時、最初に見えたのは白い天井だった。
 顔を右に向けると、先輩がパイプ椅子に座って眠っていた。疲れた様子で、特におかしなところはない。
 チリン――
「ん?」
 気付けばいつの間にか、僕のおなかの上で黒い小動物が立っていた。尻尾をふりふり、やけに輝く瞳で僕を見ている。僕が意識を向けたのに気付いたのか、きゅーと、可愛らしく鳴いた。
「お前、エル? どうしてここに?」
 アンジェラの飼いオコジョたるエルがここにいるって事は、つまり。
「あんた、馬鹿でしょ」
 頭の上から降ってきたのは女の子の声。顔を左に向けると、ケイと夜空色のワンピースを着た不思議な雰囲気の女の子――アンジェラが立っていた。
「フツー、笑って刺される? 頭がおかしいんじゃないの?」
「貴女は人の事を言えないわ、ケイ」
 アンジェラは隣に立つ部下を見上げ、そして、僕を見た。
「アンジェラが、助けてくれたの?」
「いいえ。私は死を導く者。故に死導者。生を導く事はできないわ」
「アンジェラがあんたの彼女から生を移したのよ」
 回りくどい説明を嫌うケイが、すっぱりと言い放った。
 つまり、僕の命を、先輩が助けてくれたって事か。
「じゃ、先輩に感謝しないとね」
「……底抜けね」
 底抜けの、何だろう。おひとよしか、馬鹿か、それとも別の何かかな?
「紅葉。貴方の性分は知っている。それが貴方の生き様である以上、私は何も言わないし、言う資格もない」
 アンジェラの深い瞳がじっと僕を見つめる。それだけで、吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えた。
「けれど、貴方が死ねば、悲しむ者も多い。それは、覚えておくといいわ」
「うん。覚えておくよ」
 ん? そう、いえば。
 白い天井。白いベッド。どうやら四人部屋らしいけど、僕の使っているベッド以外には誰もいない。最初からいないのか、それとも散歩でもしているのか、それは判断できないけど。
 つまり。ここは、病院?
「ねえ、ここって病院だよね? アンジェラが傷を治してくれたのなら、僕はどうしてこんなところにいるんだ?」
「あんたね、腹に穴を開けといて、そうそう簡単にどうにかなると思ってるの? 生きているだけでも奇跡だってのに」
「要するに、完治しているわけじゃないんだね」
 って、事は。
 僕はちらりと右隣を見た。疲れたように眠る先輩は、当分の間は起きそうにない。
 それを確認し、僕はふたりに聞いた。
「先輩の事、なんだけど」
「警察のご厄介になるかどうかって事ね」
 僕は頷く。口を開いたのは、ケイだった。
「たぶん、大丈夫だと思うわ。あたしが頼んで、アンジェラに細工してもらったから」
 僕はアンジェラを見る。すると、この小さな死導者は、薄く微笑んだ。
「彼女の意識を飛ばし、持っていたナイフから指紋部分を消して、貴方の指紋に入れ替えておいたわ。ケイはそれで大丈夫だって言っていたけれど?」
「そんな事もできるんだね、死導者ってのは。うん、ありがとう」
 凶器に先輩の指紋がなくて、僕の指紋しかなければ、これは明らかな自殺未遂だ。それなら、誰も捕まったりはしない。
 問題は僕の立場がちょっとだけアレになるかもしれないって事だけど、店長はおひとよしだし、たぶん大丈夫だと思う。
 指紋を入れ替えるというたったひとつの動作で全てが丸く収まるんだから、たいしたもんだと思う。ケイって意外と頭が良いね。
「あんた、失礼な事とか考えてなかった?」
「別に」
 じろりと睨むケイに、僕は嘘で返した。本当の事なんて言えないよ。
 ふう。本当に、何もかも丸く終わってよかった。
 先輩は、やっぱり心のどこかが壊れているんだろう。その部分を補うのは、僕の仕事だ。
 何もかもが元通りにはならないかもしれないけれど、先輩の心にある穴なら、僕が埋められるから。いや、埋めてみせるから。だから、大丈夫。
「アンジェラ、ケイ。本当に、ありがとう。助かったよ」
「あたしは何もしてないわよ」
 素直じゃないケイ。そして、その脇で、アンジェラは笑っていた。
「私は、死を導く者。貴方に死を導くのは、まだ早かった。たった、それだけの事」
 チリン――
 ふたりの姿が消えた。そういえば、エルの姿も見えない。
 本当に忙しいんだか暇なんだか、よくわからないふたりだな。でも。
 僕は田崎先輩を見た。寝顔は安らかで、起きている間の苦悩や苦痛を、全て忘れているようにも見える。
「ゆっくり、休んで下さい。真理先輩」
 そして。僕も、目を閉じた。


 病院の上空、雲よりなお高い場所に、ふたりの少女が立っていた。
 ひとりは桜色、ひとりは夜空色。眼下には雲海が広がり、頭上には美しい星空が広がっている。
「にしても、女の嫉妬って怖いわねー。彼氏を刺しちゃうなんて、理解できないわよ」
「本当に?」
「……アンジェラさ、最近はとてもイジワルになってませんかい?」
 夜空色の少女はくすくすと笑い、雲を踏みしめた。
「愛するからこそ。大切だからこそ、不安になる。失った時の恐怖感から、人は愛する者を束縛し、己のものに変えようとする。それが、人の愛」
「そーゆーの、あんましわかりたくないな」
 意外と乙女チックな桜色の少女は、夜空色の少女を真似るように雲に足を下ろした。上手く位置が掴めず、足は雲の海にめり込んだ。
「人は永遠ではない存在を知るが故に、永遠を求める。けれど、生きる者は移ろい、常に留まる事はできない。それでも永遠を求め、必死に生きる。その様は、とても美しいと思うわ」
 雲の海を歩きながら、夜空色の少女は空を見上げた。三日月が少女に淡い光を降り注いでいた。
「世界は変わる。人も変わる。だからこそ、私は人に憧れるのかもしれない。変わりたくて」
「……変われるわよ。その気になれば、誰だって何だってできる。でしょ?」
 雲海を歩く事を諦めた桜色の少女は、気分からか、ぶんぶんと足を振った。実体を持たない身体は、雲に切れ間すら作れなかった。
「そう、ね。想いは在り方を変える。それを、人は教えてくれた」
 夜風が抜けた。揺れもしない長い黒髪を押さえ、夜空色の少女は笑った。楽しそうに、嬉しそうに。
「ふふ、それでは行きましょうか、ケイ。人の愛が、私たちを変えてくれると。私たちの愛が、世界を変えると。そう、信じて」
「とーぜん。変えてみせるわよぉ、あたしのアンジェラに対する愛情は紅葉なんかにゃ負けないんだから!」
 チリン――
 少女たちの姿が消える。残ったものは、温かい笑い声だけ。
 心のこもった、優しげな笑い声だけ。
 チリン――



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