誰かのためにってのは、綺麗な言葉だ。
 自分のためにってのは、汚い言葉だ。
 どっちがいいかなんて、決まっている。


 俺の前には、本来なら崖上の、危ういながらも美しい景観が広がっているはずだった。なのに、今、俺の前に広がる光景は、見るも無残だ。
 なにせ、肝心の崖がない。本来なら踏みしめるはずの地面があった場所は、今は海底に転がっているだろう。
「監督。また例の『黒い少女』ですか」
「らしいな。ったく、俺たちに何の恨みがあるってんだ!?」
 ここは、映画撮影に使うはずの場所だった。それがこんな風になってしまっては、もう使い物にならない。また別の場所を探さなければいけないだろう。
 くそッ! 時間もないってのに!
「監督、焦っても映画は完成しません。もう少し落ち着いて――」
「うるさい!」
 この映画は、これだけは、絶対に失敗するわけにはいかないんだ。
 師匠の遺作。これ、だけは!
 苦笑を浮かべている助監督が、なんとなくムカついた。

 俺が映画の道に入ったのは十九の時。大学に落ちた俺は、日々が面白くなくて腐っていた。
 そんな俺が出会った人こそが、久遠明久だった。
 俺は彼の作った映画に感動した。当時はまだ売れない監督だったが、小さな映画館で見た彼の作品に、俺は魂を揺さぶられた。
 それからの俺はメチャクチャだったと、我ながらにして思う。監督の住所を調べて、強引に弟子入りを志願した。自分は弟子を取れるような状況じゃないなどと言っていたが、それでも俺は弟子を自称し、どこに行くにも付いて行った。そのうち、監督も俺を認めてくれるようになった。
 俺が弟子入りして三年後、監督の作品がようやく認められるようになった。それから二十年、俺は監督と共に映画の世界を渡ってきた。
 久遠監督の名前は、今では知らない奴なんかいない。ファンもいくらでもいる。
 だから。そんな彼の死は、世界中に衝撃を与えた。
 元々、監督は心臓を悪くしていた。それでも医者に行く間を惜しんでまで映画を撮り続け、そして、彼は死んでしまった。たったひとつの、脚本を遺して。
 遺された脚本を手にした時、俺は監督がこの世に遺した最後の作品を、形にしたいと思った。周囲の人間もそれを支持してくれた。
 そして、今。俺はメガホンを片手に、走り回っている。師匠の遺作を完成させるために。
 それが、やたらとケチがつく。撮影場所が台無しになっていたり、衣装が何者かに破かれていたり。
 その度、目撃されるのが黒い少女。何者なのかはわからない。とにかく、全てとは言わないでも、そいつが邪魔をしている事は間違いない。
 なんとしてもそいつを捕まえて、映画を完成させてやる。そして、それを久遠監督の墓前に捧げるんだ。
 それが、俺の目標――。

 新しいロケ地を探す事も必要だが、他の撮影もしなければならない。時間的にはギリギリだ、季節は待ってくれない。もし撮影しけれないと、次の撮影は来年なんて事になりかねない。それだけは避けたい。
 今日のロケは公園。平日にも関わらず、暇人が撮影を見るために集まっていた。それが、ますます俺をイライラさせる。
「おい! まだ来ないのか!」
「すいません、高速が渋滞しているらしくて、あと二十分くらいかかるそうです」
 くそッ、ただでさえ時間がないってのに、遅刻してくるとはな……。
 主演男優が来なければ、撮影は始められない。当たり前だ、撮影するもんがないのに撮影なんかしようがない。
「あー! かわいい!」
「……今度は何だ?」
 イライラしながら見ると、主演女優の周りにスタッフが集まっていた。
「どうした、何かあったのか?」
 声をかけながら寄ってみると、スタッフたちは俺が通れるように道を開けた。
「監督、かわいいと思いません?」
「なんだ、そいつは?」
 女優は、黒い小動物を抱えていた。翡翠色の瞳には邪気がなく、きらきらと純粋な色をたたえている。首輪をしているところを見ると、誰かのペットなんだろう。
「おい、誰かのペットなのか? それとも、野次馬の?」
「さあ、わかりません。どっからともなく現われたんですよ」
 どこからともなく、か。嫌な感じだ。
 いや、気にしすぎか。あの黒い女の子も、さすがに小動物にはなれまい。もしなれるなら、そいつは人間じゃない。化物の類だ。
 さすがに、現実に化物はないだろう。映画じゃないんだから。
「そいつ、たぶんオコジョじゃないッスか。普通は白いもんスけど……」
 動物に詳しいスタッフが言う。こいつが言うなら間違いないだろう。普通は白いって事は、飼い主が染めたのかもしれんな。
 女優はオコジョとやらをやたらとなでている。オコジョの方もおとなしく、素直に愛想を振りまいている感じだ。きゅーきゅーと鳴く姿は、俺でも可愛いと思う。
「おい、そのへんにしておけよ。衣装を汚されたらたまったもんじゃないし」
「はーい」
 女優がオコジョを地面に降ろそうとすると、オコジョはふんふんと顔の匂いをかいだ。どうでもいいが、女優の匂いをかぐとは失礼な奴だな。
 そして。
 俺には、オコジョがにやりと笑ったように見えた。
 そこからの動きは、スローモーションにしか見えない。オコジョが彼女の腕をすり抜け、駆け上るように走り、前足を振り上げ。
 バリッ。
 音は、案外と軽かった。
 誰も反応しなかった。できなかった。現状が理解しがたかった。
 その間に、オコジョはスタッフたちの合間を逃げ去るように、どこかに消えていった。
「――え?」
 空気が、凍っていた。
 野次馬のざわめきが、やたらと遠くに聞こえた。
 何が起きたかは理解している。おそらくは、誰もが。だが、現状が信じられない。信じたくない。
 これで。この映画は、終わりだ。

 夕陽に染まる公園は、うら寂しい。それが、俺の心を余計に暗くさせる。
「監督。元気を出して下さい」
「これで元気が出るわけがないだろうが、馬鹿」
 俺の全ては、終わった。もう久遠監督の意志は継げない。
 映画はひとりで作るもんじゃない。製作には莫大な金がかかり、バックには多くのスポンサーがいる。それらを裏切ったら、もう同じ映画は作らせてもらえない。どころか、俺が映画を作れるかどうかもわかりはしない。
 今さら、女優を変えて再び撮影するような時間は残されていない。つまり、映画は未完だ。最悪の、展開だ。
「くそッ!」
「監督、あまり自棄にならないで」
「うるせえッ! 目障りだ、どっか行ってろ!」
「はいはい。じゃ、ジュースでも買ってきますね」
 助監督が立ち去ると、公園はやたらと静かになった。
 ……これから、俺はどうすりゃいいんだ? もう、全てがわからねぇ。何もかもがどうでもよくなっちまいそうだ。
 チリン――
「こんばんは。それとも、こんにちは、かしら?」
「あ?」
 顔を上げると、女の子が立っていた。夜空色の、長袖ワンピース。黒く綺麗な、腰まで流れる髪。吸い込まれそうな深紅の瞳。どう見ても小学生だが、どこか大人びた雰囲気を持っていた。
「君、は?」
「貴方と直接に会うのは初めてね。でも、もう何度も会っているのよ?」
「何度、も?」
 黒い髪に、黒い服。黒い服?
 黒い、少女?
「まさかお前がッ!?」
 反射的に、俺は立ち上がっていた。
 そりゃそうだ。間違いない、こいつが! こいつが、ずっと邪魔していたんだ!
「落ち着きなさい。私は貴方を憎んでいるわけでも、恨んでいるわけでもないのだから。私が貴方に敵意すら垣間見える行いをしたのは、そうすべきと判断したから」
「っるせぇ! テメエのせいで、俺は! 俺はぁッ!」
 拳を握る。振り上げる。こんな、こんなガキのせいで、俺の将来は台無しになったんだ!
 チリン――
「あ?」
 握り締めた拳を振り下ろそうとしたら、女の子の姿が消えていた。
 どうしちまったんだ? 俺は頭までおかしくなったのか。
「せっかく説明してあげようとしているのに、貴方は私の話を聞こうともしないのね。もっとも、無理はないけれど」
 声は、後ろから聞こえた。
 振り向けば、さっきの女の子が立っていた。頭の上に、黒いオコジョを乗せて。
 やっぱり、こいつもこの子の仕業だったのか。もう驚きもしない。
「貴方が聞く耳を持たないのであれば、私に話せる事は何もない。いかに私が言葉を紡ごうと、それを受け取る者がいないのであれば、その言葉には意味がない」
「……何か事情があったと言いたいのか?」
 俺が言うと、女の子はにこりと笑った。
「貴方は、映画を作ろうとしていた。そして、その作品は、師が半ばまで作り上げ、けれど完成させられなかったものだった」
「ああ、そうだよ」
 そして。俺も、完成させられなかった。
「ねえ。それは、誰のためだったのかしら」
「あ?」
 黄昏時。こんなに近くにいなければ、俺はこの子の顔も分からないだろう。
 その中を、女の子は楽しそうにくるくると回った。
「貴方が作ろうとしたものは、誰のためのものなの?」
「そんなの決まっているだろうが。師匠のためだ。師が遺した、無念を晴らす。それが弟子である俺の役目だからな」
「本当に?」
 ぴたりと止まり、俺の顔を見上げた。
「貴方は自分を、他人を誤魔化している。思い出してみて。貴方の師はどのような人物だった?」
 師匠の思い出、か。
「厳しい人だった、な。自分にも他人にも。特に、映画に関しちゃ絶対に妥協しなかった。俺も、よく叱られたな」
「そう。彼は自分の仕事に誇りを持っていた。彼が求める完全ではない存在を、彼は決して認めようとしなかった」
 ……なんとなく、こいつの言いたい事がわかってきた気がする。
 そうだ。あの人は誰にも厳しかった。そして、誰より自分に。
 あの人が自分の作品を他人に任せるなんて、俺には想像できない光景だ。ぶっ倒れようが死のうが、あの人は自分を貫こうとするだろう。
「気付いたようね」
 言って、女の子は楽しそうに笑った。
「――それを俺に伝えるために邪魔していたのか?」
「何の事かしら。私は、私がやるべきと思った事をした。それだけの事よ?」
 女の子は俺に背を向けると、夕陽に向かって歩き出した。
 その背中に向かって、俺は声をかけた。
「なあ。あんたの名前、聞いていいか?」
 女の子は頭だけ後ろを向き、答えた。
「私の名前はアンジェラ。死を導く者」
 チリン――
 鈴の音色と共に、女の子の姿は茜色に溶け込んでいった。
「アンジェラ、か」
 不思議な子供だ。俺の敵意を消し飛ばし、ガキのくせに何十年も生きてきたババアみたいな口を利く。
「ちッ、俺の負けだよ」
 弟子より知らんガキの方が師匠に詳しいってんだから、間抜けな話だ。
 俺は忘れていた。師匠という、俺が尊敬した人間を。俺は、弟子失格だ。
「だってーのに、悪い気はしないんだからな」
 あのガキの雰囲気のせいか? 俺は、嫌な気持ちは欠片も感じなかった。
 うら寂しいはずの公園は、なんだか暖かく感じた。

 本屋に行くと、今日が発売日の週刊誌が並んでいた。
 俺はそのひとつを手に取り、中を見てみた。
「ああ、やっぱり載ってるな」
 『故・久遠監督の遺作、無期限撮影延期! その真実に迫る!』なんて大げさなタイトルだが、記事をよく見てみれば、真相にはほど遠かった。
 スタッフ同士が仲が悪かっただの、撮影を邪魔する謎の少女だの。中には、俺の頭がおかしくなったとかいう記事もあるらしい。
 俺は週刊誌を置くと、それを少し離れたところから眺めてみた。
 何人かの客が、週刊誌を買っていく。みんな、俺の記事について書かれた事を信じるだろうか。それとも、これは嘘だと思うのだろうか。
 まあ、そんなもんはどっちでもいいんだが。
「もう、俺には関係のない話だからな」
 伸びをし、俺はふと思いついて、足を駅の方に向けた。
 今日は、師匠の墓参りに行こう。どこかで酒でも買って。
 そして、師匠に謝ってこよう。半端なマネしてすいません、って。
 師匠は、俺を叱ってくれるだろうか。殴ってくれるだろうか。
「だと、いいけどな」
 足取りは、なんだかとても軽かった。


 日も暮れた町、その上空。そこに、ふたりの少女が浮いていた。
 夜空色の少女は、胸に抱いた黒い小動物の頭をなでている。
「エル、ありがとう」
 黒い小動物は器用に腕を組み、きゅ、と満足そうに頷いた。
 その光景を眺めながら、桜色の少女は呟く。
「にしても、あの女優さんにはちょっと悪い事しちゃったわねー。女にとって顔は命でしょ?」
「大丈夫。エルの爪は、ただの爪ではないわ。生の塊であるこの爪は、傷跡を残さない。彼女も跡形なく元に戻るわ」
「なるほど。だからエルに任せたのね。あたしがやると、絶対に治らない傷になるし」
 夜空色の少女は眼下を見下ろした。夕と夜の境目。人々の往来も、未だ止まらない。
「この中にも、想いがすれ違っている人々がいる。その全てを、私と貴女だけでは解決できない」
 想わなければ、すれ違う事もない。想うからこそ、誤解やすれ違いが生じる。
 だから、それは暖かさに起因するもの。ほんの少しだけ道を戻してやれば、生まれるのはとても暖かい存在。異端の死導者が守ろうとする、人の持つ大切なもの。
 それを知っているからこそ、桜色の少女も頷く。
「そーね。でも、やるんでしょ? ひとつずつ、少しずつ。全部はどうにかできなくても、せめて、自分の手が届く範囲くらいは」
「ええ、もちろん。それが私の存在意義、私が戦う理由」
 桜色の少女は微笑み、ぽんと、夜空色の少女の頭に手を置いた。
「そんじゃ、行こっか。あたしたちの助けが必要な人のとこに」
 夜空色の少女は小さく微笑んだ。自らを理解してくれる、替えられない存在に。
 少女は頭上に黒い小動物を乗せ、くるりと回った。
 すれ違った想いを、揃えるために。
 チリン――



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