他人の気持ちがわかるなんて奴らは全て嘘吐きだ。
 他人の気持ちなんてわかるはずがない。
 オレは、そういう奴らが大嫌いだ。


 真夏の陽射が眩しい喫茶店。クーラーが冷気を放つ店内は快適そのもの。
 オレはそんな場所で、ただ座っていた。オレの前にはアイスコーヒーが置いてある。
 カラン、とアイスコーヒーの氷が傾く。夏らしいとても涼やかな音。
『――先週の日曜、こちらのアパートで皆川加奈子さんの遺体が発見されました』
 テレビではレポーターがマイクを片手に小さなアパートの前に立つ。その声を、オレは聞くともなく耳にしていた。
『――本当に優しい人だったのに、まさかあんな事になるなんてね』
 近所の住人とやらが下らない事を言っている気がした。
『――昨日、皆川さん殺害の容疑で隣室に住む18歳の少年が逮捕されました。少年は母との二人暮らしで――』
 画面が切り替わり、どこかの学校が写し出された
『――あんな事件を起こすような人には見えませんでした』
『――真面目でおとなしい生徒だったんですが、まさかこんな……』
 その後に事件の説明が続いた。
 逮捕された少年が話した動機は、深夜に帰宅する音が煩かったというもの。
 犯行は平日の昼間に起きたらしい。発見された遺体は、死後数日が経過していた。
 そして、異常な犯行の手段に話題が移る。
 犯人の少年はチャイムを押して部屋の扉を開けさせた。チェーン越しに覗いた顔に向かって、彼は躊躇なく……その手に握っていた殺意の塊を、振り降ろした。
 チェーンは砕け、被害者は部屋の中に倒れ込む。少年は部屋に押し入ると、手に握る斧を何度も振り降ろした。何度も、何度も。
 人間だったものはやがてただの肉片と化す。血が部屋を赤く染め、脳みそが床をきたならしく汚した。
 彼は満足したようにその腹に斧を突き立てた。子宮が裂け、血が撒き散らされる。
 少年はフラフラと部屋を出て、自分の部屋に戻った。母は仕事に出ており、少年はその日、学校を休んでいた。
 以上が異常な事件の概要である。
 テレビ画面はスタジオに切り替わり、アナウンサーがどっかの偉い教授だかに話を振る。
『――今回の事件の最大の特徴は、加害少年が斧という凶器を使用した点です。やはりこれはアニメや漫画の影響があると言わざるをえないですね』
『――加害少年の部屋から“○○○○○○○○○”という漫画が発見されています。この作品は主人公である少女が手斧で次々と殺害するシーンがありまして、加害少年はこれから犯行を思い立ったと考えられます』
『――他にも“○○○○○○”や“○○○○○○”というアニメ化された漫画が好きだったようで、これらの作品には血が飛び散るなどの描写が多く――』
 イライラした気分を抱え、オレは立ち上がり、伝票を片手にレジに向かった。

 外に出た途端、オレは陽射に目が眩んだ。
「あいつらに、何がわかる」
 呟いて、オレは歩き出した。
 あいつは苦しんでいた。隣人なんて関係がない。
 お袋さんはできる限りあいつに優しくしたろう。あいつもお袋さんには感謝していた。
 あいつは、この世界そのものに苦しんでいた。父がいないという事実のせいで、自然と好奇の目を集める。
 それでもあいつは強かった。誰にも負けず、バイトをしながら生活を支えていた。
 狂いだしたのはいつだろう。あるいは、あいつの父親がいなくなった時からだろうか。最初から狂っていたのか、それとも何か原因があったのか、オレにはいまいち判断できない。大事なのは、狂っているという事実だった。
 隣人とのトラブルなんてのは小さな種だ。崩れ始めた日常はポロポロと穴を大きくした。そして、小さな種がトドメとなってしまった。
 オレは、壊れゆくあいつを止められなかった。何の支えにもならなかった。それが、残念だ。心の底から、残念だ。
 あいつは本当に甘いヤツだった。底抜けに甘い莫迦。
 オレはあいつに助けられたってのに。オレは、あいつを助けられない。
 チリン――
 鈴の音がして顔を上げた。オレはいつの間にか、人通りのあまりない裏通りにいた。
 オレの前に女の子がいる。夜空色のワンピースを着た女の子。儚げなのに、他の誰よりも存在感がある。そんな、気がした。
「貴女、何を悩んでいるの」
「悩んでいる? オレが、か?」
 女の子はこくりと頷いた。
 オレが、悩んでいる……。悩んでいると言えば、あいつの事だ。ただ、悩んでいるのとは少し違う。オレは、あいつを助けられなかった事を悔やんでいるんだ。あいつを助けられなかった、何もできなかったオレを責めているだけなんだ。
「悩むのは構わない。けれど、だからと言って安易な行動に走らないで。私では貴女を救えないのだから。そして、貴女には誰も救えないのだから」
「……大きなお世話だよ」
 なんだかこいつの言い方がむかついて、オレは女の子に背を向けた。
「……消えない。これでは、駄目。けれど、私には……何もできない」
 チリン――

 月曜日。オレは学校に向かった。学校の前ではレポーターみたいな連中が登校する生徒に片っ端からマイクを向けている。
「すいません、ちょっとよろしいですか?」
 そのひとりが、オレにもマイクを向けてきた。そいつが邪魔で前に進めない。
「邪魔だ。退いてくれ」
「まま、この間さ、この学校で逮捕された子がいるでしょ? その子について何か知らないかなぁ?」
 妙に馴れ馴れしい口調。それが、余計に癇に障る。
「……退け」
「そう邪険にしないでくれよ。ちょっとでいいからさ……」
 オレは無理矢理にでも、と前に進もうとした。その肩を、レポーターが掴む。
「オレに触れるなッ!」
 肩をぐるりと回す。それだけで、レポーターはよろめいた。
「何なんだ、この学校。凶暴な生徒ばっかだな? 全く、君も人殺しでもするんじゃないか? あの斧使いの殺人鬼みたいに」
 その言葉で、オレの中の何かが切れた。
「ざけんなよ……」
「は?」
「ざけんなっつってんだよッ!」
 オレの拳が野郎の顔面を殴り飛ばす。よろめいてレポーターは倒れた。
 その上に馬乗りになり、オレはあいつの顔面を殴り続ける。こいつは、殺したって飽き足りない!
 誰かがオレを止めようとする声が聞こえる。そんなもので止まるものか。
 オレは、あいつを侮辱する奴だけは……赦せない!
 あいつの事は何も知らないくせに決め付けて、悪者にして、それで楽しいのかよ!? 言いたい事を言いやがって、お前はあいつのために何もできないくせに! あいつがどれだけ苦しんだか知らないくせに!
 あの、底抜けに甘い莫迦を犯罪に走らせた理由なんて、考えていないくせに!

 オレとあいつの出逢いは自然なものだった。オレは高校に入った頃からすでに札付きで、教師すらオレの扱いに困っていた。そんな中で、あいつは何も考えずオレに触れてきた。何も言わず、ただ隣にいた。
 最初は鬱陶しかった。けれど、ワルと呼ばれる連中にすら恐れられるオレと一緒にいようとした奴はあいつが初めてで、オレはどうしていいかわからなかった。
 何も言わずに一緒にいるあいつが、段々とオレは当たり前になってきた。そのうち、あいつがいないと落ち着かないようになった。あいつは、オレにとってもなくてはならない存在になっていた。
 あいつの事もオレの事も、色々な事を話した。オレは、生まれて初めて他人という存在を認めた。それが、どうしてこんな……。

 拘置所の中で、オレは膝を抱えている。あいつは、どうしているんだろう。それだけが気がかりだ。
 後悔しているだろうか。食事はちゃんと食べているだろうか。警官に厳しい取調べを受けたりしていないだろうか。弁護士はちゃんといるだろうか。
 考えれば考えるほど、あいつの事が気になった。自分はどうなってもいいから、あいつを助けたかった。あいつを、苦しみから解放してやりたい。心の底から、そう想う。
 チリン――
 また、あの音。オレが顔を上げると、格子の向こうに女の子がいた。
「またあんたか。どうやってここに入ったんだ?」
「私にとっては現実に存在する壁など無意味だから」
 女の子がオレを見下ろす。何を想うでもない、ただ見ているだけ。そこには感情も何もない。冷静で、温かみのない眼差し。オレの、嫌いな目だ。
「笑いたきゃ笑えよ。オレはオレを救った奴を助ける事もできず、こんなとこでうじうじしてんだ」
 誰も信じられず、誰も相手にせず。オレを見る恐怖と軽蔑の眼差しの中で、あいつだけは……温かかった。オレはまだ、何も報いてはいないってのに……。
「貴女に、可能性をあげる」
「は?」
「いくらかの寿命と引き換えに、貴女に彼を無明の地獄から救い出す可能性をあげる。使うも使わぬも、活かすも殺すも貴女次第」
「もし、もしそれが本当なら!」
 答えなんか、決まっている。
「オレは、あいつを助けたい。オレなんかどうなったって構やしねぇ。とにかく、あいつには幸せでいて欲しいんだよ!」
「……そう」
 チリン――
 女の子がくるりと回る。いつの間にか、手には剣が握られていた。いまさら、何が起きてもオドロキはしないけどな。
「そう答えると、思っていた」
 女の子がかざした剣が、オレを突き刺した――。

「また何も食べていないのか?」
「……放っておいて下さい」
「まったく。まあいい。明日はしっかりと食べるんだぞ」
 コツコツコツ。
 看守の足音が遠ざかり、拘置所の狭い部屋にはあいつだけになった。
「どうせ、僕はもう壊れてしまったのだから」
「何が壊れたんだ」
 オレの声に、あいつは弾かれたように振り向いた。
「リョ、ウ……?」
「よ、久しぶりだな」
 オレはにこやかに手を上げた。
「そう、か。僕はとうとう幻覚まで見えるようになっちゃったんだな」
「おいおい、幻覚じゃないぜ? ま、本物でもないけどな」
 オレの身体は足もあるし透き通ってもいない。だけれど、生きた身体もない。強いて言うなら幽霊ってやつになるんだろーけど、足もあって透明でもない幽霊ってアリか?
「どちらでもいいよ。ここにリョウがいてもいなくても、僕が壊れてしまった事実には変わりないんだから」
「おい。テメエ、いつからそんな弱腰になったんだよ」
 オレはあいつの顔をギリギリまで近付いて睨みつけた。オレの睨みはチンピラも尻尾を巻く凄みがあるはずなんだが、昔っからこいつにだけは通用しない。
「テメエ、オレに言ったよな。諦めるなって。いつだって大逆転する可能性があるって。それはどれほどまでに微かな可能性でも、決まっていない限りは可能性があるって。テメエはもう決まっちまったのかよ!?」
「リョウ、相変わらずニュースは見ていないんだ。テレビでも散々っぱら言ってるだろ? 僕は異常者なんだよ」
「他の奴の意見がなんだってんだ!」
 オレの怒声が響き渡る。廊下にまで確実に響いたはずの声は、しかしこいつにしか届かない。
「テメエはテメエの道を歩けよ! 他の連中がどう言おうと関係ねえだろ!? テメエはテメエじゃねぇのかよ!? テメエが駄目かどうかくらい、自分でわかるだろうが!」
「リョウ……。でも、僕は人を殺したんだ。残忍な方法で。それは、避けられない事実なんだよ」
「そんなもんは関係ない。お前が、もうお前は終わりだと見限っちまうのかよ? お前がお前を裏切るのかよ? オレを絶対に裏切らないと約束したお前が、裏切るのかよ?」
オレは立ち上がり、見下ろした。オレより背が高いはずなのに、とっても小さく見えた――。
「じゃあ、オレはそろそろ行くぜ。お前がお前を見限るのは自由だけどよ、オレはお前を見捨てないからな。お前が帰ってくるの、ずっと待ってるからな」
 捨て台詞だけを残し。オレは、あいつの前から姿を消した。

「これで満足かよ、化物」
 空中に浮いたままで、オレはオレをこんな状態にしやがった元凶を睨んだ。
「粗雑な物言いね。少しは丁寧な口調を心がけたらどう?」
「うっせぇな! んなもんはテメエにゃ関係ねぇだろ!」
 空は満天の星空。まったく、無意味に綺麗だな。
「彼は、己を見失いかけていた。自我が消えれば彼の魂は意味を成さなくなり、やがて死を迎える。私ですらどうしようもない、正真正銘の魂の崩壊を。そうなってしまう前に、止めたかった。貴女は上出来だったわ」
「そりゃありがとさん」
 ったく、いちいち癇に障る口調をしやがるな。ガキのくせに、大人びた話し方をしやがって。
「貴女はこれからどうするの?」
「……んなもんは決まってるだろ」
 罪を償い、あいつの帰りを待つ。そうしたら、その時にゃもう少しだけ素直になっとこう。
「やはり、口調は直した方が良いと思うわ。少しは女性らしくしないと、働き口も減るわよ」
「なんだ。随分と人間臭い台詞を吐くんだな?」
「そうね。それこそが私の楽しみだから」
 チリン――
 女の子の剣が、オレを指した。
「さあ、それではこの夢を終わりにしましょう。覚めた現実は苦しいけれど、それに立ち向かう強さが今の貴女にはあるのだから」
「……ああ」
 世話に、なったな。
 名前も知らねぇ、意味もわからねぇ、不思議な化物さんよ……。


 チリン――
「あの少年、本当によかった。あのままでは彼は餓死か自殺か。ともかく、肉体の生を終えてしまうところだった」
 少女と少年の短く儚い逢瀬は、決して無駄ではない。出逢いは互いの力となり、生きていく糧となる。
「人の生はそれぞれ。他者が評価するのは自由だけれど、それを押し付けるようでは駄目。生は多種多様だからこそ意味がある。均一な生しかないのであれば、私はとうの昔に生きる事を放棄していただろうしね」
 眼下には無機質な建物が立ち並ぶ。機能だけを追及した世界は、冷たく拒絶を表していた。
「皮肉なものね。人間は高い知性が故に他者を思いやり、高い知性が故に他者を決め付ける。そんなものには、何の意味もないのに」
 少女はそっと胸に手を当てた。人間ならば、そこには温かみがある。なのに他人の冷たい視線は、温かみを奪い去る。
 チリン――
「その通りよ。だからこそ、人間の生は醜くも美しい」
 とん、と少女は軽く飛び跳ねた。その姿は闇夜に消え去り、後には何ひとつ残しはしない。
 チリン――



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