飛んで、飛んで。時間にすればほんの数秒。けれど、僕にはやけに長く感じられた。
 空中で、僕は放り投げられた。そのまま、何かに腰をぶつけながらも、着陸する。
「痛た……、なんだこれ?」
 僕の下。さっきまで部屋の床があった場所には、今は透き通った氷が敷かれていた。その向こうには、僕が住んでいる町が見える。もしかすると、東京タワーよりも高い位置にいるんじゃないだろうか。
「この私を変魂と間違うなんて、侮辱にも程がある」
 顔を上げると、明日香さんが宙に浮いていた。全身から放たれるのは、怒りの空気。
「私は! 変魂より一層、尊き存在! 万物に死を導く者!」
 死を、導く者。それはつまり、
「君も、死導者?」
「退魔師でもないのに、随分と詳しいのね。そうよ。私は死導者。七番目のアスモデウス。それが、私の本当の名前」
 明日香さん、いや、アスモデウスは、ふわりと回った。周囲がきらきらと輝き、回り終わった時、いつの間にか服装までもが変わっていた。青空のような水着。露出の多い、扇情的な代物に。
「私の称号は『色欲』。わかる? 異性を求める、生物として最も根源的な欲望のカタマリ。それが、私なのよ」
 なるほど。それで、そんなに挑発的な格好なんだ。
「私を侮辱したあなたは許さないわ。精力が尽き果てるまで、私に付き合ってもらうんだから。ここなら、邪魔も入らないしねぇ?」
 僕はちらりと下を見た。別に高所恐怖症なんかじゃないけど、それでも十分に怖い高さだ。もちろん、一般人が何の装備もなしに来られる高さじゃない。助けなんてないだろう。
 つまり。僕は、独力でこの状況をなんとかしなきゃいけないわけだ。
 ――いつもながら、責任が大きいなぁ。
「ま、慣れているけどね」
 つい、苦笑が浮かぶ。無茶な注文はいつもの事だ。先輩で慣れている。
「アスモデウス。そんなにやりたいなら、かかってきなよ。もちろん力で、さ」
 ちょいちょい、と挑発してみた。わかりやすく相手の顔が赤くなっていく。感情的なんだな。
「なら、氷漬けにしてあげるわよッ!」
 手の平をこちらに向ける。途端、びゅお、っという風切り音と共に、吹雪が迫り来た。 そんなもの、僕には通じないのにね。
 右手を突き出し、集中する。吹雪だろうが何だろうが、その実は形のない、本来なら存在しない、ただの生命力の塊。吹雪に見えるのは、冷たいっていう性質を持っていて、しかも『そう見える』だけだ。そんなもの、僕には通じない。
 ただのエネルギーなら。僕は、霧散させる!
「あッ……!?」
 吹雪をかき分け、僕は進む。アスモデウスが作ってくれた床はちょうどよかった。滑りやすく、その分、一気に加速できる!
「やあッ!」
 僕の拳が、アスモデウスまで伸びる。邪魔は入らない。まっすぐ、死導者の腹を、打つ。
「――ッは!」
 ぐにゃりとした、嫌な感触。続けて、
「っのぉ!」
 見上げれば、そこには槍。やばい、避けられな……!
「あれ?」
 槍は、
「何?」
 半ばで折れ、飛んでいた。
 チリン――
「うわっ!?」
 同時に、体を強く引っ張られた。首をひねれば、そこには見知った女の子。
「アン、ジェラ?」
「紅葉。貴方は人間なのだから、無理をしなくていいのよ?」
 八番目の死導者。僕の知り合いであり、味方であり、恩人である少女が、僕を抱えていた。
 チリン――
 アンジェラの腕で、鈴が鳴る。アンジェラが僕を離すと、僕は宙に浮いた。どうやったのやら、理論はわからないけど。そこに、さらに声が降ってきた。
「くーれは。あんたが人間離れしてるってのは知っていたけど、とうとう空中戦までやるようになったのね。つーか、本当に人間?」
 僕の前には、桜色の着物姿な女の子。アンジェラの仲間、ケイだ。
 どちらも死導者。つまりは、アスモデウスと同じ存在。だけど、在り方は全く違う。アンジェラもケイも、アスモデウスのように私利私欲のために誰かを殺して生きる相手は、絶対に許さない。
 だから。
「さて、と。紅葉、あとはあたしたちに任せなさい。餅は餅屋、ってね」
 ケイは光る剣をアスモデウスに向けた。ケイの剣は、アスモデウスの吹雪と同じ。ただのエネルギーを集中させたものだけど、格は段違いだ。あの剣に、切れないものは何もない。
「色欲。貴女は人を襲い続けているのね」
「久しぶりじゃないの、死喰い。説得にでも来たのかしら?」
 アスモデウスはさらりを髪をかき上げ、続けた。
「無駄よ。私は別に、母の命令で動いているわけじゃないもの。けど、殺しが趣味ってわけでもないわ。私は、単に、男が好きってだけよ」
「結果、人の命が失われたとしても?」
「知らないわ、そんな事。私ほどの最上級の女を抱けるのよ? ちょっとくらいの命をすり減らしたっていいじゃないの。そのくらいの価値はあるわよ?」
 平行線、だ。
 アンジェラは、死導者は人間の生に何かをすべきじゃないという考え方を持っている。一方で、アスモデウスは、生を奪ってでも、快楽を優先させている。
 人の命を考慮していないアスモデウスと、人の命を守ろうとするアンジェラは、絶対に相容れない。妥協点がないんだ、このふたりには。なら、争うしかない。
「ケイ。久方ぶりに、全力で戦っていいわよ」
「あんがと、アンジェラ。じゃ、紅葉は任せたから」
 じり、とケイが前ににじり出る。対するアスモデウスの顔にも、真剣さが増した。
「まだ名乗っていなかったわよね? 八番目の眷属、志野ケイよ」
「七番目、アスモデウス。色欲、よ」
 弾かれたように飛び出したのは、ケイ。ただまっすぐに、アスモデウスとの距離を詰めていく。
「ふふ、貴女もなかなか強そうね。いいわよ、全力でやったげる。私はね、出し惜しみって趣味じゃないの」
 アスモデウスの周囲がぼやける。と、彼女の足元に、大きなトカゲが現われた。いや、あれは……ドラゴン?
女王の騎竜ドラゴン・ライド。彼女の能力よ。言うなれば、彼女の体の一部ね」
 アンジェラが説明してくれた。
「一部って、髪の毛とかと同じ?」
「もっと正確に言えば、彼女の足のようなもの。傷つけば痛みを感じるし、迷えばもつれる。彼女の意が赴くそのままに動作する、彼女の身そのもの」
 解説する間にも、ケイはアスモデウスを間合いに入れていた。ケイの腕が閃き、剣が舞う。
 アスモデウスはその斬撃をかわし、吹雪で応戦した。ケイもまた、氷をかわして大きく跳ぶ。
「あんたの斬撃、その威力。一度は見せてもらったんだもの、わかっているわ。そんな力馬鹿と真正面からぶつかるほど、私も脳なしではなくってよ?」
 爆発したようにケイに近付く、かと思いきや、すぐさま距離を置く。攻めるとみせかけてかわし、受けるとみせかけて攻める。変幻自在の戦闘スタイルに、ケイも攻めあぐねているのがよくわかった。
「アンジェラ、ケイを助けないの?」
「そうね。その方が確実。けれど、私はこの戦いに乱入する事はできないわ」
「どう、して?」
「簡単よ。ケイが、そうしたいと願っている。どうやら貴方から生を奪おうとした事が、相当に気に入らなかったようね」
「え? それって、どういう――」
 チリン――
 僕の言葉は、綺麗な鈴の音色に邪魔された。僕の視界が一瞬、白く染まる。
「これも理由のひとつ。アスモデウスの戦いは、周囲に与える影響が大きいもの。貴方を守らねばならない以上、私が離れるわけにもいかないわ。エル」
 アンジェラは頭上に目を向けた。そこには、翡翠色の瞳を輝かせた黒い小動物がいる。エルミネア、通称、エル。アンジェラのパートナーのひとり、と言うか、一匹だ。
 エルはすぐさまアンジェラに目を向け、尻尾をぱたぱたと振る。
「ケイの援護を。貴女も全力でやって構わないわよ?」
 きゅ、という返事をひとつ。エルも駆け出す。
 エルは体が小さい上に、動きがすばしっこい。吹雪の合間を駆け巡り、時折、アスモデウスに近寄っては爪で攻撃を仕掛ける。アスモデウスがそちらに気を奪われれば、すぐさまケイが動く。見事な連携が、徐々に彼女を追い詰めている。
「こざかしいッ!」
 感情に任せ、アスモデウスは槍を振るった。エルはそんな一撃を、軽々と回避する。そして、大振りの一撃によって生まれた死角に、ケイは飛び込んだ。
「遅いわよッ!」
 ケイが斬り上げる。アスモデウスはケイを見失ったせいで、その攻撃がかわしきれない。
 ザシュ、という鋭い音。竜の首が、切り飛ばされた。
「――――――ッ!」
 アスモデウスの、声にならない悲鳴が響く。竜の姿が消え、アスモデウスは荒い息のままでケイとエルから距離を置いた。
「それ。あんたの一部だったんでしょ? 痛いわよね」
 ケイの、勝ち誇った声が聞こえた。
「あたしの攻撃は、そう簡単には直せない。終わりよ、アスモデウス。その盛りきって沸いた脳みそを後悔なさい」
「何よ、嫉妬? 見苦しいわね。そんなのはリヴァイアだけで十分よ」
 ケイはちらりと、僕を盗み見た。何の表情も浮かんでいない顔からは、何も読み取れなかった。
「嫉妬、じゃないわね。彼女持ちに手を出すほど、節操のない女じゃないわよ、あたしは。言ってしまえば……」
 ケイが、笑ったような気がした。
「アンジェラの敵は、あたしの敵。そして、その逆もまたってところね」
 だん、と、空間すら揺れそうな勢いでケイが跳ねた。避けようとするアスモデウスだけど、その動きは、エルに邪魔された。
「あたしの剣は」
 光る剣が、まっすぐ。アスモデウスの、髪を切り飛ばした。
「神だって悪魔だって切り裂く」
 はらはらと舞う、明るい色合いの髪の中。ケイの剣は、アスモデウスを指していた。
「アスモデウス。殺しはしないわよ。あんたはまだ、誰も殺していないからね。でも、生を奪うのは許さないわ」
「……それで?」
「次は、髪の毛じゃ済まないって事よ。二度と盛れないようにしてあげるわ」
 しばらく、沈黙が落ちた。
 朝日が眩しく、僕らを照らす。誰も動かない、喋らない。どこかで、セミが鳴いていた。
「――甘いのね」
 ぽつり、と。アスモデウスは、呟いた。
「殺してばっかじゃ解決しないって、知っているだけよ」
 ケイとアスモデウスが睨み合う事、しばし。ふう、と息を吐いたのは、アスモデウスの方だった。
 アスモデウスはアンジェラに目を向け、言った。
「死喰い。私もあんたと戦うのが趣味ってわけじゃないわ」
「知っているわよ、アスモデウス」
 アンジェラの見つめ返す目は、優しかった。暖かかった。まるで、子供を見つめる親のような。
「でも、私の起源だって曲げられないの。私から色欲がなくなれば、私は私ではなくなる。だから、それは譲れない」
「それもわかっているわ。ただ、私たちは人々から生を奪ってはいけないという、それだけよ。私たちの持つ力は強大。安易に使ってよいものではないの」
「要するに、ヤるのは勝手だけど、命までは奪うなって言うんでしょ?」
 アンジェラは、こくりと頷いた。アスモデウスは不満げに鼻を鳴らす。
「いいわ。しばらくは守ってあげる。あんたと戦えるようになるまで、ね」
「何もせずして、力は得られないわ」
 そう。つまり、その宣言は、事実上……もう生は奪わないっていう宣言にも等しい。
 けれどアスモデウスは、それについて説明するのを拒否するように、ゆっくりと首を横に振った。
「それにしても、変わったわね。あなたが死導者を殺さない、なんて。これも母の変化と関係があるの?」
「殺さずに済むなら、そちらを選ぶ。それだけよ」
 アスモデウスはしばらくアンジェラをにらみ、短くなった髪をかき上げた。
「じゃあ、もう私に関わらないで頂戴ね。私もあんたに会いたくないから。それと、下の人間の処理は任せたわ」
 ふっと、アスモデウスの姿が消えた。僕は彼女が立っていた場所を見つめ、ふと、気付いた。
「……もしかして、先輩ってあのままか」
 たしか、アスモデウスのせいでちょっと変になっていたような。仮にそれが戻っていたとしても、僕がアスモデウスと一緒の部屋にいたってのは事実で、それを先輩は知っていて。
 そして、僕の彼女は、最高に嫉妬深い。
「状況、悪くなったような気がする」
 つい、ため息が漏れた。
 でもま、仕方ないか。アスモデウスを殺さずにケリをつけてくれたんだし。
「アンジェラ、ケイ。ありがとうね」
 僕がお礼を言うと、ケイはそっぽを向いてしまったけど、アンジェラはふわりと笑った。
「これが、私の仕事だから」


 小さなアパートの上空。戦い終えた死導者とその眷属は、眼下を見下ろしていた。
「紅葉、上手く説得したと思う?」
「争う声は聞こえなくなったわ。それに、どうやら血も流れていないようだし、上手くまとめたようね」
「よくまあ、説得したもんね」
 きゅ、と同意するような声が、夜空色の死導者の頭上から聞こえた。
「……ねえ、アンジェラ。アスモデウス、どうしてあんなにあっさりと引いたんだと思う?」
「口先だけの約束と、そう思っているのね?」
 頷いた眷属に、死導者は答える。
「彼女が本当に誓いを守るかどうかなど、確約のしようがないわ。けれど、口先だけでも、彼女は約束した。今まででは考えられない事よ。世界は、少しずつだけれど、変わっている」
 過去の色欲の行動を考えれば、誰からも奪わないなどという約束は、守られるとは思えない。
 それでも。彼女は、誓いの言葉を口にした。それは、それだけは、事実だった。
「彼女が約束を破るのであれば、私はまた戦うわ。けれど、私は彼女を信じる。もう襲わないと約束した、彼女を」
「おひとよし、ね。傷つくのはアンジェラよ?」
「信じずに疑うだけよりは、信じて傷つく方がよほど楽しいわ」
 言う割に、眷属も苦笑を浮かべていた。彼女とて、死喰いがそういう死導者だからこそ付き従おうと考えたのだから、何を言う資格もない。
 夏の風に、簡素な鈴が揺れていた。
 チリン――



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