昨日までと変わらない、明日も変わる事がない、同じ世界。
 それも、自分が変わるだけで、大きく色合いを変える。
 世界は、一色なんかじゃ表せない。


 私はこの町が嫌いだ。退屈で、海以外には何もなくて、腐ったような人しか住んでいない、この町が。
 それも、あと一週間でお別れかと思うと、ちょっとだけ寂しくも思う。やっぱり私も、人の子なんだなぁっていったところか。
 特に何もする事がない私は、ふらふらと歩いていた。
 海辺を歩く。夏休みという最盛期を過ぎた海には、誰もいなかった。これだけ誰もいないならと、私はふと、浜辺に足を向けた。
 人影のない海。夏にはあれだけ人が集まるくせに、夏が過ぎた途端、誰もいなくなる。当たり前なんだけど、まるで捨てられたようで、私はなんとなく嫌だった。この町は嫌いだけど、この海は、ちょっとだけ好きだったのにな。
「……あれ」
 誰もいないと思っていた海。そこに、誰かが座っていた。
 浜辺に座り、じっと海の方を見つめている。年齢は私と同じくらいか、もう少し上。目立つ特徴を持っていない、良くも悪くも普通の男の子だった。
「そんなとこで何をしてんの」
 何もする事がなかった私は、男の子に声をかけてみた。
 男の子は私を見上げ、ちょっとだけ驚いたように目を開いた。
 それでも男の子はすぐに口元に笑いを浮かべ、視線を海に戻した。
「海を、見てるんだ」
「海を見つめて、自分に酔いしれるってヤツ? うわ、引くわ」
「酔いしれるほどたいした人間じゃないけどね、俺は」
 そこで男の子は、私に目線を向けた。
「俺、夏川。君は?」
「なんで自己紹介なんてするのよ」
「いいじゃんか。何かが減るわけでもないし」
 なんとなく反発したかったけど、断る理由も思いつかず、私は答えた。
「茂木、よ。今度は私が質問する番。あんた、学校は?」
「行ってない。バイトはしているんだけどね、忙しいのは午前だけで、午後は暇なんだよ」
 次は俺の番、とつぶやき、夏川は嬉しそうに質問した。
「茂木さんはどうして海に? それこそ、学校じゃないの?」
「学校に行ってりゃ海なんて来ないわよ。ただ、暇だっただけ」
 暇潰しに話しかけてみたけど、話さない方がよかったかもしれない。こいつ、思った以上にメンドくさいタイプだ。
 そう思ったら、なんだかバカバカしくなった。帰ろうと思い、私は立ち上がった。
「どこに行くの?」
「帰るのよ」
「じゃ、俺も」
 同じように立ち上がった夏川を、私はにらみつけた。
「なんであんたまで帰るわけ」
「いいじゃん、別に。大丈夫、俺、女の子には親切だから」
「そーゆー事を自分で言って、信用してもらえると思ってるの?」
 夏川は笑って答えなかった。私は無視して、さっさと歩き出す。夏川は、その後をついて来た。
 早足で歩く。夏川は、それでも私と一緒に歩いてきた。
 五分ほど歩いたところで、私は足を止めた。同時、夏川もぴたりと足を止める。
 振り向き、私は言った。
「夏川。ストーカーで訴えるわよ。でなきゃ、大声で人を呼ぶとか」
「どうしてそう邪険にするのさ。俺ほど害のない人間も珍しいよ?」
「そういう台詞はストーキングを止めてから言いなさいよコノヤロウ」
 じっとにらんでやると、夏川はお手上げという風に手の平を見せた。
「俺、明日も休みだから、だいたいあのへんにいるよ」
「そんなのを私に言ってどうするの。狙撃しろって意味?」
「んー、だいたいそんなとこ。じゃね」
 軽く手を振り、夏川は私に背中を向けて歩き出した。
「……何なのよ、あいつ」
 変なヤツ。心の底から、そう思う。思う、けど。
 嫌なヤツ、ってわけでもないと、思う。

 翌日。私は結局、海に足を向けていた。する事がない状態で、家の中にいても仕方ない。もちろん、夏川の台詞が気にならなかったって言えば、嘘になるけど。
 夏川は、本当に昨日と同じ場所に座っていた。私の足音に気付いたのか、振り向く。
「や、茂木さん。やっぱり来たね」
「私は今、やっぱり来なければよかったと全力で後悔しつつ、過去の自分の全開で罵倒ばとうしたい気分よ」
 夏川はくすくすと笑い、言った。
「茂木さんって、やっぱり面白い人だね」
「私にそう言った人間はあんただけよ」
「うん、やっぱり面白いね」
 それから、夏川は海に視線を向けた。私はその横顔を眺めつつ、聞く。
「あんたさ、休みはいつもここにいるわけ?」
「そうだね、だいたいここにいる。海を眺めるの、好きなんだよ」
 私は、海に目を向けてみた。生まれてから十八年間、ずっと見続けてきた、見飽きるほどに見た海だ。
「こんなの眺めていて何が楽しいのよ。あんただってずっと見てきたんでしょ?」
「うん。でも、色々と想像しながら見てると、楽しいんだ」
 想像、ね。こんな、何の変哲もない海を見て、何を想像しろってのよ。
「何を想像するんだって思ったでしょ」
 私の考えを見透かしたかのように、夏川は言った。
「色だよ」
「色ぉ? んなもん、見りゃわかるじゃないのよ」
「普通はね。でも、俺は普通じゃない」
 私は、夏川の顔をじっと見つめた。特に、その目を。
 見たところ、普通の人の目と何も変わったところはない。
「あんた、盲目なの?」
「いや、色盲。生まれた時からね。俺にとって、世界ってのは灰色なんだ。白黒映画みたいなもんだね。だから、海の青ってのも、俺にはわからないんだ」
「ふう、ん」
 見た目ではわからなかった。それに能天気が過ぎる性格も合わさって、とてもそんな重病を持っているようには見えない。
「茂木さん。海って、どんな色?」
「どんなって……」
 聞かれて、私は答えられない。色を見た事がない人に、どうやって色を伝えろって言うのよ。簡単に言うけど、簡単じゃない。むしろ、こんなに難しい事はない。
「よくある答えは、青いって答え。でも、俺は青がどんな色なのかわからない。比べるものもない。だから、今まで上手く説明してくれた人はいない」
 だからなんだ、と言う夏川は、なんだか寂しそうだった。
「だから、俺は海を見ている。一度も、この海を理解できた事なんてないから。それなら、飽きないだろ?」
 私にその気持ちはわからない。
 ――でも。

 次の日、私は夏川が働いているっていうパン屋に向かった。
 朝が最も忙しいと聞いていたので、昼前くらいに行ってみる。お客は、ひとりもいなかった。
「あ、いらっしゃい」
 夏川はレジの向こうで、にこにこと笑いながら立っていた。
「夏川、あんたさ、何でそんなに笑えるわけ?」
「店員に笑顔は基本です」
「あんたはそうでなくたって笑ってるでしょうが」
 言うと、はは、と夏川は笑った。
「俺はさ、世界が灰色だから。でも、心まで灰色にはしたくない。だから、笑うんだ。笑っていると、世界は灰色にならないだろ?」
「笑っていても灰色は灰色よ。笑顔じゃ色は変わりゃしないんだから」
 私は店の中に並んだパンを一通り、ぐるりと見渡し、夏川に向き直った。
「それじゃあ店員さん。おススメは?」
「ウチの自慢は特製のあんぱん。あんこは俺が作っているんだ。おいしいよ」
 私はその、自慢のあんぱんとやらをひとつだけ手に取り、レジに向かった。
「はい、百円。これでおいしくなかったら怒るからね」
「まいどあり。百円で目くじらを立てられても困るけどね」
 私は夏川が百円をレジに入れたのを確認し、パンを口に運んだ。
 ほんのりと広がる甘み。ふんわりと優しく包むパンの味。そして、くどくなく、邪魔にならない、さりげない甘さを持ったあんこ。
「どう?」
「……合格点はあげるわ」
 町のパン屋レベルなら、かなりおいしい部類。ううん、全国展開の店にだって引けは取らないかもしれない。それほどにおいしい。認めるのは癪に障るから、言わないけど。
「ありがとうございます」
 それでも夏川は嬉しそうに笑い、頭を下げた。
「男が簡単に頭なんて下げるもんじゃないわよ」
「お客様に頭を下げられないような人は、お店に出る資格はないよ」
 なんでだろう。やっぱりこいつは、ちょっとムカつく。
 何も言う事がなく、私はあんぱんを口にした。ほんのりした甘みが、優しかった。

 午後になると、私と夏川は海に向かった。別に付き合う理由は何もないけど、でも、この町に私という人間がいたという証拠を残すくらいはいいかなって、思うようになっていた。
「あんた、あの店でも継ぐつもり?」
「さあ? オヤジさんがそうして欲しいって言えば、そうするけど」
「さあって、人生に計画性とかないの?」
「人間はどんな状態だって、とりあえず生きていくだけならできるからさ。俺は最低限、生きていければそれでいいんだ」
 それなら、と夏川は私を見た。
「茂木さんはどんな計画性があるの?」
「私? 私は計画性を立てるほどの未来がないからいいのよ、別に」
「希望を捨てるってよくないよ」
 私は夏川を本気でにらみ、言った。
「じゃあ、あんたはいつか色が見えるようになるって思ってるの?」
「奇跡が起きれば」
「奇跡は起きないから奇跡って言うのよ」
「起きないって信じたら、本当に起きないでしょ? 一億分の一でも、可能性はある。でも、ゼロは本当にゼロだからさ。だったら、俺は一億分の一の方がいい」
「いつも思うけどさ、あんたって本当におめでたいわね」
「めでたいって、いい事だよね」
 ……こいつ、マジでおめでたいわね。
 でも、そんくらいの方が、世の中は楽しく渡っていけるのかも。少なくても、こいつは私よりも世間を楽しんでいるように見えるし。
 海を見つめる夏川が、少しだけ、羨ましいと思えた。

 それから三日間。私は、午前中はパン屋で過ごし、午後は海に行くという夏川と、ずっと行動を共にしていた。
 そして、七日目。私が町を離れる日がやって来た。
 当日となると、さすがに体が重かった。離れるのは日暮れの後。だから、今日は夏川に別れを告げなきゃいけない。
 そう思うと、ますます体が重くなった。結局、体を起こせたのは、昼を過ぎてからだった。
 重い体を引きずるようにして、パン屋に向かう。すでに夏川の姿はなく、オヤジさんが暇そうに座っていた。
「あ、茂木ちゃん、いらっしゃい。夏なら海に行ったぞ」
「はい、ありがとーございます」
 私の目が、ふと、あんぱんに注がれた。狙ったように、二個のあんぱんがトレイの上に残っていた。
「オヤジさん、あんぱん、ふたつね」
 私はそのふたつを手に取り、オヤジさんにお金を払い、紙袋に入れてもらった。
「茂木ちゃん、夏の目については、知ってるんだったよな」
「……? 知ってます、けど」
「で。同情したか?」
 オヤジさんの目はまっすぐに私を見ていた。真剣な瞳だった。
「カッコつける必要はないぞ。俺だって同情した。だから雇ったし、俺が倒れたら店を任せるつもりもある。どうせ俺には嫁さんもいないからな。で、お前さんはどうなんだって、思ってな?」
「同情、ね。してないと言えなくもない、くらい」
 だから私は、正直に答えた。どうせこの町を去る身なんだから、カッコをつけても仕方ない。
 オヤジさんはそんな私をじっと見つめた。理由がわからず、私もただ、見つめ返していた。
「なあ、茂木ちゃん」
 オヤジさんは、妙にしんみりした口調で言った。
「よかったら、あいつの面倒を看てやってくれないか?」
「なんで、私が?」
「夏はな、両親がいないんだ。父親は漁に出て、海で死んだ。母親は、病気でな。俺も、いつまでもあいつの面倒は焼けないし、何より俺は、あいつを障害者としてしか見れない。お前さんみたいに、普通の人として接する事はできないんだよ」
 買いかぶりすぎ、よ。
 私はそんなに、カッコいい存在じゃない。
「私は別に、夏川を特別扱いしていないってだけです」
「それが普通のヤツにはできないんだ。どうしたって、普通じゃない部分に目が行く。お前さんみたいに達観なんて、なかなかできる事じゃない」
 私はオヤジさんに軽く視線を送り、背中を向けた。
「私を、あまり高く評価しないで下さい。それほどの人間じゃないです。それに――」
 一度だけ、小さく振り返った。そして、言っておく。
「私、今日でこの町とお別れしますから」
 オヤジさんの返事が飛ぶ前に、私は店を飛び出した。

 浜辺には、いつも通り夏川が座っていた。何が楽しいのか、ひたすらに海を眺めている。
「夏川」
 私が声をかけると、夏川は首だけ巡らせて振り返った。
「や、茂木さん。今日は遅かったから、心配したよ」
「だったら、そういうのは態度で示しなさいよ」
 私は持っていた紙袋に手を突っ込み、あんぱんを取り出した。
「はい。二個だけ残ってたから、買ってあげたわよ。ひとつ、食べなさい」
「ありがとう」
 夏川は素直にあんぱんを受け取った。私は夏川の隣に座り、自分の分のあんぱんを取り出す。
 ふたりで並んでパンを食べる。一週間前より、海は涼しくなっていた。少し、寒いくらいに。
「あんた、冬でもここにいるの?」
「まあ、だいたい」
「正真正銘の変態か、バカね」
「オヤジさんにも言われた事があるよ」
 ……私はあのオヤジ並って事かい。
 遠く、海を見つめる。何があるわけでもないのに、満ちたり引いたりを繰り返す海を眺めているのは、嫌いじゃなくなった。
「あんた、前に海の色がわからないって言ったわよね」
 私は決して横は向かず、ただ前だけを見つめて、言った。
「そういえば、茂木さんの答えは、まだ聞いてなかったね」
「そうね、答えてあげるわよ」
 海の色、それは。
「あんたみたいな色、よ」
「俺みたい、な?」
「そう。捉えどころがなくて、ゆらゆらと形を変えたりして。すごく懐が広くて、なんでも受け入れる。バカみたいに同じ事ばっか繰り返す、まさにあんた、そのものよ」
 夏川は、何も言わなかった。あまりに無反応で、寝てるんじゃないかと思いたくなるほどだった。
 私がちらと見ると、夏川は、目を丸くして私を見つめていた。
「――俺みたいな色ってのは、初めての意見だ」
「でしょうね。普通は、きちんと色を答えるものだから」
 ひねくれた答え。けれど、それが私の答えなんだから、嘘はない。
「じゃあさ、あんぱんってのは、茂木さんみたいな色なのかな?」
「女の子にあんぱんみたいって、褒め言葉になると思ってるの?」
「そうじゃないよ。見た目は他のパンと同じ。でも、中身は他のパンよりずっと甘くて、ずっと優しい」
 甘いのは、否定しない。
「あんたさ、よくもまあ、そんな恥ずかしい事を堂々と言えるわね」
「どうせ茂木さんしか聞いていないからね」
 私になら聞かれてもいいのかって、私に言っているんだから当たり前か。
「で、今のはどういう意味かしら?」
「ただの口説き文句」
 そういうのも、堂々と言う事じゃないわね。
「ねえ、茂木さ――」「ダメ」
 これ以上、夏川に口を開かせちゃいけない。私の方が、耐えられない。
「夏川、私ね、この町を離れるの。今日。だから、もうこうして海を一緒に見る事もできないし、あんぱんを食べる事もないの。だから、その先は言わないで」
「引っ越す、の?」
 私は答えなかった。そうしたら、夏川に肩を掴まれた。
「茂木さん。俺、茂木さんと一緒にいたい。何がしたいとかじゃないんだ、ただ、一緒にいたいんだよ」
「言わないでって、言ったでしょ?」
 夏川は、私の言葉なんて聞いてなかった。
「引っ越したって、もう会えなくなるわけじゃない。一億分の一だって、俺は信じるからさ。だから、茂木さんも信じてみて」
「無理よ。可能性はゼロだもん。イチもない、ゼロなのよ」
「そんな事は」「あるの」
 私は夏川を引き剥がし、言った。
「私、死ぬのよ。今日、日が暮れた後に」
 私の言葉に、夏川の動きが止まった。
「自殺じゃないわ、言ってみれば寿命。詳しい事は私も知らないんだけど、これ以上は生きられないんだって」
「今日って、そんな、急に?」
 水平線の向こう。日が、沈みかけていた。
「死ぬのは一週間前に決まっていたわよ。ちょうど、あんたと会う前日に教えてもらったの。残り一週間。そのタイムリミットが過ぎたら、私は死ぬの。もうこの町に戻る事はない」
 だから無理なの。最後の言葉は、自分の口から出ているのかどうかも疑わしかった。
 夏川は私を見ていた。その表情は、悲しみと怒りと嘆きが混じったような、なんとも形容しがたいもの。一言で表すなら、悲痛、かな。
「怖く、ないの?」
「怖いわよ。だから、私はあんたに付き合った。私がこの町にいたって思い出、最後の最後に残したくなってね」
 同情したから、一緒にいたんじゃない。もっと性悪なもの。ただ、私は自分のためだけに、夏川に付き合った。最低の、女。
「だから、あんたのその決め台詞は、他の女の子のために取っときなさい。それこそ、一億分の一くらいの確率で、あんたを好きになる女の子もいるかもしれないから」
 突然、夏川の顔が私の視界から消えた。ぎゅっと、暖かい感覚。抱き締められていると気がつくまでに、数秒は必要だった。
「茂木さんでないと、ダメなんだ。俺が好きになった人は、茂木さんなんだから」
「言ったでしょ。私は、性悪な女なのよ」
「関係ない。俺が隣にいて欲しいのは、一緒に海を見たいのは、茂木さんなんだ。理由も理屈もない、他でもない、茂木さんなんだよ」
 それ以上は、言わないで欲しい。でも、夏川を止められない。
 それは、私も、同じだから。
 いつの間にか、私の頬を涙が伝っていた。
 ますます、夏川の腕に力がこもる。
「……ぃ」
 私の口が、私の意思に反して勝手に動く。絶対に言わないと決めていた事を、勝手に口走る。
「私、まだ、死にたくない」
 死ぬと告げられた時、私は、世界がどうでもよくなった。何もかもが面白くなくなって、何をする気も起きなくなった。
 けれど、夏川と出会った。出会ってしまった。そして、私は、夏川を好きだと思ってしまった。
 こんなの、死ぬだけの私には邪魔にしかならないのに。
 もっと未来が欲しい。もっと生きたい。夏川とパン屋をやったっていい、海を眺めるのもいい。
 それなのに、私には未来がない。もう、死ぬしかない。
「ごめん。俺、茂木さんのために何もできない」
「夏川、私、私――!」
 私には、ただ泣き続ける事しかできなかった。私は、無力だった。
 日が、暮れた。
 チリン――
 ほとんど同時に、その鈴の音色が聞こえた。
 夏川が私を離す。私たちの隣で、女の子が見下ろしていた。
 小学生くらいの、小柄な体。夜空色のワンピース。抜けるように白い肌。深紅の瞳が、私たちを静かに見つめている。
「約束の時間よ」
 アンジェラ。私に死を導くという、死神の女の子。
 夏川に説明はしなかった。それでも、夏川にはなんとなく、アンジェラの正体がわかったんだと思う。私に、何も聞かなかった。
「茂木、さん」
 私は頬の涙をぬぐい、精一杯に笑ってみせた。
「ごめん、夏川。困らせて。私は、未来がないって知ってたのに」
 夏川は何かを言おうとして、けれど何も言えないように、口を閉じてしまった。
 代わりに、アンジェラが口を開く。
「世の中はいつだって不条理。別れはいつも存在し、人は、絶対なる別れに逆らう事はできない」
 チリン――
 アンジェラは、剣を手にした。私の魂を貫くという、剣を。
「その悲しみ、苦しみ、嘆きを、大切にして。それは人が人であるが故に持つもの。それがあるからこそ、貴方たちは愛し合う事もできたのだから」
「わかってるわよ、そのくらい」
 私は、夏川を見た。私に言える事は、あまりないけど。
「夏川。あんたは色が見えないけどさ。もっと大事なものは、見えてるでしょ?」
「うん、見えてるよ。バッチリだ」
 ぐっと目元をぬぐい、夏川は言った。
「茂木さん。ありがとう」
 別れの言葉ではなく、感謝の言葉を。
 ああ、だから私は、夏川が好きになったんだ。
「うん、ありがとう、夏川」
 だから私も、別れの言葉は告げない。いつまでも一緒に、海を眺めていよう。
 海の音が、大きく聞こえた。


 青年が、海を眺めている。その後姿を、ふたりの少女が見つめていた。
「寂しい、よね」
 桜色の眷属が言えば、
「それでも、彼は生きる。生きねばならない」
 夜空色の死導者が応じる。
「ずるいよね。愛し合って、ようやく見つけて、なのに別れなきゃいけないなんて。そんなの、誰が望んだってのよ」
「別れがあるからこそ、寂しいと思えるからこそ、彼らは愛を感じる事ができたのよ」
「そりゃそうだけど、さぁ」
 月夜の海を見つめ、少女は小さく笑う。
「いいのよ、それで。それは貴女が心を持つ証拠。その身は人ならざるものだけれど、心だけは人と同じである、何よりの証拠なのだから」
「きゅ!」
「ええ、貴女にも心はある。わかっているわよ」
 頭上の小動物をなで、少女は月を見上げた。
「世界は必ずしも優しくない。けれど、希望とて皆無ではない。嘆き、悲しみ。それらもまた、希望の証」
「できればそんなの、出会わない方がいいんだけどね」
 少女たちは夜空を見つめ、青年は海を見つめる。
 肌寒いほどの風が、駆け抜ける。
 チリン――



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