病人を治すのが医者の仕事、それを助けるのが看護士の仕事。
 治せない病気だってあるけど、だからって諦めない。
 それも、看護士の仕事。


 夜の十二時。私がひとりで書類仕事をしていると、看護長が話しかけてきた。
「お疲れみたいね。ま、ここで働いていて疲れていない人はいないでしょうけど」
「あ、看護長」
 ペンを置き、私は顔を上げた。
「また陣内さん?」
「……はい、あの人、また倒れたみたいで」
 陣内さん。血糖値が低くて、退院したらまた入院っていうサイクルを繰り返している患者さんの名前。私の担当している患者さんでもある。
 私もまだ新米の部類だけど、それでも陣内さんの退院は二度、体験している。それだけ、陣内さんが繰り返しているって事になる。
「患者さんについてこういう事を言っちゃいけないんだけど、陣内さんにはあまり真剣にやらなくてもいいのよ? どうせあの人、すぐに戻ってきちゃうんだから」
「そんな事はできないですよ。また倒れてしまうとしても、入院なんて短ければ短いほどいいんですから」
「マジメ、ねー」
 真面目、か。看護長はそう言うけど、私はやっぱり、できる事は何でもしてあげたいと思う。病院は住宅じゃないんだから、長々と生活するべき場所じゃない。そんなところに何度も足を運ぶ、陣内さん。体質だろうから私にはどうにもできないかもしれないけど、何かをしてあげたい。せめて、病院にいる間だけは。
 と、そこに電子音が渡った。
「あ、ナースコール」
「また陣内さんみたいね」
「ちょっと行ってきます」
 看護長がため息をつく。私は席を立ち、陣内さんの病室に向かった。
 陣内さんの病室は、ナースセンターがある階の突き当たり。個室で、他の患者さんはいない。
 ノックしてから病室に入ると、陣内さんがベッドの上に起き上がっていた。
 陣内さんはまだ五十くらいのはずだけど、それよりもかなり年老いて見える。白髪もそうだし、疲れたような表情も影響している。前に、せめて髪を染めてみたらと提案したけれど、ジジイが見た目を気にしたって仕方ないといって、髪の毛をいじろうとはしなかった。
「ああ、村尾さん」
「陣内さん、今度はどうしましたか」
 陣内さんがナースコールを押すのは、決して珍しくない。なんでもない、本当に『なんとなく』でナースコールを押す事もしょっちゅう。それでも、無視するわけにもいかない。本当に緊急事態だと困るから。
 陣内さんは、私が来たという事実に対して、嬉しそうに笑った。その無邪気なまでの笑顔を見ていると、なんとなく許してしまう。本当は、もっときつく注意しなきゃいけないんだけど。
「いや、さっきまで寝ていたんだけどね。ふと、目が覚めてしまったんだよ」
「そんな事で呼ばないで下さいよー。私たちは暇じゃないんだから」
「いやあ、すまないね」
 そう言うのなら呼ばないで欲しい。
「それじゃあ、私は行きますからね」
「村尾さん。仕事って、書類かい?」
「え? ええ、まあ」
 今のところは。夜だと患者さんも寝ているし、急患でもなければ、書類以外の仕事はあまりない。もっとも、その書類も半端じゃないんだけど。
「だったら、ここですればいいじゃないか」
「はあ?」
 要するに、寂しいって事、なんだろうけど。
「ごめんなさい、陣内さん。他の人のナースコールがあったりもしますし、それに、病室で書類仕事をするわけにはいかないんですよ」
「そうか、そういえばそうだね。はは、ごめんよ、困らせて」
「いえ、それじゃ」
 言い、私は陣内さんの病室を後にした。
 ちらりと垣間見えた陣内さんの顔が、とても寂しそうに見えたのは、気のせいじゃないだろうな。

 夜勤も終わり、私はようやく家に帰れる事になった。ここのところは忙しくて、家にいるより病院にいる方が長かったくらいだと思う。
 それでも、明日の朝には出勤しなければいけないんだけど。
 軽く寝ぼけた頭を引きずり、私は駅に向かって歩く。まだ時間が早いせいか、あまり人の姿はない。
 チリン――
「あら?」
 角を曲がったところで、まるで待ち受けるかのように、女の子がたっていた。
 夜空色のワンピースに、白く抜けるような肌。深紅の瞳はまるでアルビノのようだけど、腰まで流れる髪は綺麗な黒色だった。
「おはよう、で、よかったかしら?」
「おはよう。どうしたの? 迷子?」
 こんなに早くから迷子はないか、と自分でも思うけれど、他に何も思いつかない。
「私は迷っていないわ。むしろ、貴女を迷わせに来たとすら、言えるかもしれない。それが目的ではないのだけれど」
「……ええと?」
 寝ぼけた頭では、子供の言う事がきちんと理解できない。いけないなぁ、これじゃあ看護士失格よ。
「人間は、常に美しい存在ではないわ。けれど、故に美しさも持っている。そういう存在なの」
「まあ、それはわかるけど」
 人間にだって醜い部分があるってのは、私だって子供じゃないんだから知っている。でも。
 なんでいきなり、小学生くらいの女の子に、そんな話をされているんだろう?
 思いつつも斬り捨てられない私は、やっぱり看護長の言う通り、甘いのかな。
「だから、何があっても絶望しないで。汚い部分は直していけばいい。それで全てを綺麗にする事はできないだろうけど、そうしようとする想い、それもまた、美しさ」
「んー? つまり、私の近くに、何かあるって事かな?」
 病院の汚職事件とか。身近であるとは思ってなかったけど、実際はどうだかわからない。
 でも、そんな事があったとしても、私は大丈夫だと思う。看護士はどこの病院でも雇ってくれるし、それで大きなショックを受けるほど、まだあの小さな病院に対する思い入れってのもない。
 だから私は、できうる限りの笑顔を見せて、言った。
「大丈夫よー。私、これでもタフなんだから」
「そう。なら、いいのだけれど」
 チリン――
「……あれ?」
 まばたきした瞬間、私の目の前から女の子は消えていた。
 ちょっと戻って角の向こうを見てみるけれど、やっぱり女の子の姿はない。
「夢、だったのかな?」
 白昼夢を見ていたとすると、私もかなりヤバイ。早く、帰って眠ろう。
 寝ぼけて勤務なんて、冗談にもならないし。

 家に帰って爆睡し、翌朝。私はまた病院に出勤した。
 ナースセンターの近くまで来て、ふと、話し声が聞こえた。それがなんだかヒソヒソ話みたいな、意識的に小さくした声だったもんだから、私もつい足音を忍ばせてしまう。
 こっそりと覗くと、センターの中に看護士と院長がいた。他の人の姿はない。
「院長。そろそろ陣内さんにインシュリンを渡すの、やめませんか?」
「何を言っているんだ、君は。病院だって会社のひとつ。経営を成り立たせるために、あれだけの上客を逃がすわけにはいかないよ」
「それはそうですけど、でも、病気でない人を無理矢理に病人にするなんて――。それに、ベッドを必要としている他の患者さんもいるんですよ?」
「処置に手間がかかる上、きちんと料金を支払うかどうかもわからない患者より、処置に手間がかからなくて、おまけに金払いのいい患者の方が病院としては助かるんだ。そのくらい、君だって理解しているだろう?」
「わかっています。でも、それって病院のする事ですか?」
「会社のする事だ」
 院長はきっぱりと言い放つと、看護長に背中を向けた。私は慌てて角に身を隠す。
 院長は私の存在に注意を払わないまま、廊下を歩いていった。
 私はそれを見送り、慌ててナースセンターに戻った。
「あら、おはよう」
 看護長は、いつもと変わらない笑みで私を迎えてくれた。けれど、さっきの話を聞いた後では、ただの作り笑いにも見えた。
「看護長。陣内さんの事ですが」
「陣内さん? また何かあったの?」
「……何かあるのを知っているのは、看護長なんじゃないですか」
 私が言うと、看護長の笑みが消えた。表情が沈み、心なしか顔が青ざめていく。
「看護長。どういう事なんですか? 陣内さんは低血糖症じゃ?」
 私が聞くと、看護長は周囲に誰もいない事を確認し、そっと耳打ちした。
「陣内さんの低血糖症は、人為的に作っているものよ。お金を稼ぐために、ね」
 その言葉は、予想の範囲だった。けれど、聞きたくはなかった。
「でも、それじゃあ、陣内さんは?」
「勘違いしているようだけど、これは陣内さんが言い出した事なのよ」
 看護長は、こっそりと教えてくれた。
 父親が資産家だった陣内さんは、そのせいで逆に友人が少なく、家族もいないで。会社を早期退職してからは何もする事がなく、寂しい毎日を送っていたとか。
 そんな陣内さんが、一度、いわゆる盲腸で入院をした。その時、医者や看護士は、本当に優しく接してくれたとか。
 今まで優しくされる事なんてほとんどなかった陣内さんは、退院した後もその優しさが忘れられなかった。そして、また入院する方法を考え出した。
 どういうルートからか、陣内さんはインシュリンを手に入れ、それを注射した。インシュリンは本来、糖尿病の薬なんかに使うもの。健康な人が注射すれば、逆に血中の糖分が足りなくなり、低血糖症を起こす。
 そうやって、陣内さんは入院した。そして、今もまだ、その方法を使って入退院を繰り返している。
「でも、看護長、それって――」
「ええ、もちろん、いい事ではないわよ。でも、それがこの病院の方針なの。医療費の未払いもない、処置もほとんどいらない、そういう人を捕まえておきたいのよ」
 看護長はふと、時計を見上げた。
「そろそろ回診の準備をしなきゃいかない時間ね。先に行くわ」
 看護長が部屋を出た後も、私はしばらく、呆然と突っ立っていた。

 私は中庭のベンチに座り、両手で握った缶コーヒーを見つめていた。けれど、何も見えていなかった。
 ショックだった。そりゃ、人間のやる事だもの、どこかで汚い部分があっても仕方ない。
 でも、病院は人を治すところだと、それだけは信じていた。なのに、この病院は、人を病にしていた。そんなのは、病院がする事じゃない。
 何もする気が起きなかった。私のしている、その全ての行動が、なんだか無駄なものに思えた。
 チリン――
 どこかで聞いたような鈴の音色が聞こえて、私は顔を上げた。
「今日は、こんにちは、ね」
「あれ? あなた、昨日の?」
 私の目の前に立っていたのは、まばたきの間に姿を消した、あの女の子だった。
「今日は、どうしたの?」
 白昼夢じゃなかったんだ、などと思いつつ、私は聞いてみた。もしかして、入院患者に知り合いでもいるのかもしれない。
「私は、医者を必要とした事はないわ」
「へえ。健康。うん、いい事ね」
 そう。健康はいい事。なのに、わざわざ望んで病人になっている人もいる。望まずに病人になって、苦しんでいる人もたくさんいるのに。
「だから、私に医者についてどうこうとは、言う資格などないのだろうけれど。貴女に、ひとつだけ言ってあげる」
「何を?」
 女の子は自分の胸を指差し、言った。
「医者は傷を治すもの。でも、それだけかしら?」
「うん?」
「体の傷は容易に治療できる。でも、心の傷はそうもいかない。けれど、簡単には治療できないからと言って、諦めてしまうの?」
「心の、傷?」
 女の子は頷き、続けた。
「彼は心が淀んでいる。目的を見失っている。でも、だからと言って、見捨ててしまうの? それが、貴女の仕事?」
 言われて、ようやく気がついた。
 看護士どころか、大人ですらない子供に言われて、ようやく。
「そう、そうよね。心が病んでいるなら、その病気を治すのが、病院の仕事よね」
 私はベンチから立ち上がった。さっきまでの無気力感は、どこかに吹き飛んでいた。
「ありがとう。そういえば、あなたって陣内さんの知り合いなの?」
 女の子は首を横に振った。
「私は、死導者。死を導く者。わかりやすく言えば、死神よ」
「え?」
 女の子は私に背中を向け、走り出した。追おうと足が動き出したけど、止めた。
 私には、他にやるべき事がある。

 それから、私は陣内さんを励まし続けた。陣内さんの友達が増えるように患者さんの知り合いを紹介したり、逆に私自身は突き放したり。そうやって、陣内さんに歩き出してもらえるよう、頑張った。
 私が努力を続けて、しばらく経った頃。病室で点滴の準備をしていた私に、陣内さんは言った。
「なあ、村尾さん」
「はい、何ですか?」
 わざと、冷たい語調で言う。そうでないと、陣内さんはまた、ここに戻ってきてしまうから。
「村尾さん、聞いたんだってね。インシュリンの話」
 作業をしていた私の手が、止まった。
「ごめんね、村尾さん。騙していたみたいで」
「いえ、構いません。どういう経緯だろうと、病気になった人を助けるのが私の仕事ですから」
 しばらく沈黙が続いた。私は、陣内さんの顔が見られなかった。
「なあ、村尾さん。次に退院したら、私はインシュリンを使うのを止めようと思っているんだ」
「……え?」
 私が顔を上げると、陣内さんは天井を見つめていた。
「病院は、病人が来るところだ。私が来るところじゃない」
「どうしたんですか、急に」
 聞くと、陣内さんは私の方に顔を向けて、二カッと笑った。
「村尾さんが、あんまりにもイイ人だからね。私も、迷惑をかけられないと思っただけだよ」
 その顔を見ていると、私の頬も自然と緩んだ。
「陣内さん。話し相手にならなりますよ。忙しいですから、いつでもってわけには、いかないですけど」
「いや、いいんだ」
 陣内さんは、ゆっくりと首を横に振った。
「私には誰もいない、誰も想ってくれないと思っていた。ところが入院して、初めて知った。看護士さんも医者も、入院した人間には優しいと。金のためか、早く治って欲しいのかは、わからなかったけどね。でも、優しくしてくれた」
 だから。陣内さんは、こんな事を始めてしまった。
「でも、もういいんだ。今の私には、こんなにも想ってくれた人がいる。それだけで、私は寂しくない」
 陣内さんの顔は、気のせいか、少しだけふっくらしてきているように見えた。
 だから私は、精一杯の笑顔を浮かべて、言った。
「また病気になったら、いつでも来て下さいね」
「次は、もう来ないようにするさ」
 言って、陣内さんも笑った。
 ようやく。私は、ひとりの人を治せたんだ。


 天を包む白い雲、その上を行くのはふたりの少女。
「偽装患者、ね。そこまでして病人になりたい人の気持ちなんて、あたしには理解できないなー」
「孤独は耐えがたい。冷たい闇の中で、たった一度でも陽だまりに触れてしまうと、人はそのぬくもりを忘れられなくなる」
「そして、強硬手段に移る」
 桜色の眷属が言い、夜空色の死導者が応じるように頷く。
「寂しさは、一種の病のようなもの。常に身にまとわりつき、しかも、容易には治らない」
「だとすると、厄介な病気ね。治療法は、優しくされる事ってところかしら?」
 白い、どこまでも白い道を、ふたりの少女は歩く。
「人は、ひとりでは生きていけない。不便かもしれないけれど、私は、それを悪い事とは思わないわ」
「偶然。あたしもよ」
 少女たちは、くすりと笑う。
「さて。次の出会いは、どこかしら」
「なるべく、心の温まる感じのヤツがいいわねー」
 チリン――
 ふっと、少女たちの姿が消える。
 雲の海原は、白く白く、どこまでも続いている。
 チリン――



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