今が幸せだった。このまま永遠に続いてもいいかなって思った。
 その時はまだ知らなかった。
 幸福なんて、一瞬で消えてしまうものだなんて。


 はあ、はあ、はあ……。
 息が続かない。高校の時は陸上やってたから結構いけたんだけどな。流石に引退して二年も経てば無理か……。
 はあ、はあ、はあ……。
 でも、立ち止まるわけにはいかねぇ。今、ここで立ち止まれば。オレはどうにかなっちまう。それが怖い。何か、見えない恐怖に追われてる気分だぜ。
 はあ、はあ、はあ……。
 どの店も、こんな時間じゃ閉まってる。当たり前だ。今は午前二時半。草木も眠るっつー時間だからな。そういや電車も動いてねーな。始発を待つのは、怖い。
 はあ、はあ、はあ……。
 駅まで着くと、タクシーが何台かいた。オレはそのひとつに飛び乗った。
「ふあ……。お客さん、どち……」
「よ、横浜まで!」
 眠そうな運転手の言葉を遮って行き先を指示し、オレは座席に背を預けた。
 はあ、はあ、はあ……。

 どうしてこうなっちまったんだろう。
 いきなり夜遅くに彼女から電話がきた。「すぐ来て!」なんて言われたから、嫌な予感がしつつもオレは電車に乗って急いだんだよ。本当ならカッコよく車を飛ばしたかったけど、金ねーし、免許も持ってねーからさ。
 彼女の家に着いた。で、玄関のチャイムを鳴らすなり彼女が顔を出してさ、オレを中に引っ張りこんだんだ。
「どういう事か、説明して頂戴ッ!」
 そう言いつつ彼女にリビングまで引っ張られると、そこには先客がいた。黒くて長い髪。柔和な微笑み。お嬢様っぽい服装。オレの、前の彼女だ。
「は? あー、えーと? 何を説明すりゃいいんだ?」
 元カノがいたっつー事は前に話した。彼女だってオレが初めての男じゃないみたいだし、何の問題もなかったはず。オレはとっさにそう思った。
「しらばっくれてんじゃないわよッ! もう別れたなんて言って、しっかりまだ続いてるんじゃないッ!」
 彼女は目に涙を浮かべつつ叫んだ。
「は? 続いて? 何を言ってるんだよ、もう半年も前に別れたって・・・」
「司郎さん、またそんな嘘をついてらしたの? 浮気も大概にして貰わないと、私もさすがに怒りますよ?」
 元カノの言葉に、オレは混乱、彼女は逆上。
「ちょ、待てよッ! ふざけんなよ!? もう一緒にゃいられねーって言ったの、お前じゃねーかッ! 今更、何の嫌がらせだよ!?」
「司郎さんこそ何を言ってるの? 私はそんな事を言った覚えはないわ」
 そう言って、あいつは怪しげな笑みを浮かべた。
 オレが元カノと別れる原因になったのは、まあ要するにオレの浮気だ。いやいや、待て待て。何も深入りしたわけじゃねぇ。アレだ、一回こっきりの……そう、一時の気の迷いってヤツだ!
 久しぶりに高校に行ってさ、部活の後輩の調子なんか見てたんだよ。そしたら今の陸上のマネージャーがなんだか元気なくってさ、どうした?って聞いたら勉強がうまくいかないんだって。
 それで勉強を教えるついでに、こう……ちょっとな? アレだ、それも一回きりだし、向こうももう逢わなくていい、ありがとうなんて言ってたからそれでいいかなー、なんて……。そう思った次第なわけでして。
 そしたらそれが彼女にバレて、結局は別れちまった。まあオレもあいつのしつこさにゃ少しウンザリしてたし、丁度いいかなって思ってた。
 それが、どうしたらこうなるんだ!?
「司郎さん、私があの程度で怒ると思ってらしたの? ふふ、そそっかしいのは昔からね」
 この頃にゃオレも気付いた。こいつの目的。
 そうだ、こいつはしつこい。オレが浮気したのを根に持って、わざわざ嫌がらせをしに来たんだッ!
「リカ、ちょっと待て! ようやくこい……!」
 オレの言葉は、続けられなかった。オレの目の前で、リカは手に包丁を持っていたから。
「リ、カ……?」
 リカはすぐに切れるっつーか、感情的になる癖がある。激情すっと周りが見えなくなって、突っ走る傾向が。
「あらあら。大変ね、司郎さん?」
 あの女の声が無性に耳に障る。だけど、それどころじゃなかった。
「待て、リカ。落ち着け!」
「うっさい! 死んじゃえッ!」
 リカが包丁を突き出して突進してきた――。

 そっから先はあんまり覚えてねぇ。気付いたらリカが血まみれになって倒れてて、元カノの姿はどこにもなかった。
 オレは急に怖くなって、包丁を鞄に詰めて手を洗って部屋を飛び出した。
 だから、今オレが持ってるこの鞄には包丁が入ってる。たぶん、リカの血がついてるだろう。
 時計は三時を示してる。脳みそが痺れた感じなのに、なんかどっかがまるで氷みたいに冷静だ。
 幸い、赤いシャツを着ているから運転手は変に思ってない。リカの部屋にオレの指紋だの髪の毛だのはあって当たり前だ。後は、この包丁を始末すれば、オレが殺した証拠はない筈だ。
 幸いにもオレとリカは傍目にもバカップルだった。もしかしたらあいつが目撃されてるかもしれねぇ。そうしたら、容疑者はたぶん誰にも見られてないオレじゃなく、あいつだ。
 そうだ。これはあいつが悪いんだ。いつまでも根に持って、嫌がらせまでしたあいつの責任。オレは、悪くねぇ……。
「着きましたよ、横浜駅」
「え?」
 気付けば、オレは横浜駅にいた。オレの家はこっからさらに電車で数駅先なんだけど、今の有り金じゃそこまでは無理だ。家にも持ち合わせがねぇ。
「あ、ありがとうございます」
 オレは出来る限り自然な風を装って金を払った。
 オレが降り、タクシーが走り去ると、オレは真っ暗な駅を見上げた。
 チリン――
 ん? 鈴の、音?
 オレが辺りを見回すと、女の子がいた。夜空色のワンピースに、鈴のついた腕輪。黒い髪が白い肌を際立たせている。
「……こんばんは、殺人者さん」
「なッ!?」
 こいつ、見てたのか!? それでオレを追ってきて……!?
 いや、そんな筈はねぇ。だってタクシーは一台だけだったし、家の近くには誰もいなかった筈! じゃあ、こいつは!?
「気に病む必要はないわ。貴方は偶然、魂の離れる刹那に巡り会ってしまっただけなのだから。それは言うなれば不幸な偶然。醒めれば消える悪夢のようなものだから」
「な、何なんだよ!? さ、殺人!? 人聞きの悪い事を言うなよな!」
 ワンテンポ遅れてたけど、オレにはそれしか言えなかった。
「説明しても理解できないでしょうけど、説明しておくわ。貴方と付き合いのあった女性。あの人は確かに未だ貴方に未練を持っていた。そのせいで彼女は死導者の眷属に狙われ、寄生されてしまった。死導者はもう片付けておいたわ。だから、もう気に病む必要もない。本当に、運が悪かっただけ」
「な、何を言ってるんだよ……!?」
 こいつの言ってる意味がわからねぇ!
 でも、何だろう。なんとなく、こいつの言う事は信用していい気がする。ただ、やっぱ意味はわからねぇ。
「今、貴方にはふたつの道がある。ひとつは今、逃げる事。いつかは誰かに捕まり、罪を償うという名目で自由を奪われるかもしれないし、あるいは誰にも知られる事なく人の影に怯えつつ生きるだけで済むかもしれない。そして、もうひとつの道。それは……」
 チリン――
 女の子が回る。その手には、剣が握られていた。
 不思議と恐怖感がなかった。こいつが握っていると、物騒な凶器もまるで指揮者のタクトみたいだ。
「僅かな生を失い、悪夢を自らの手で打ち破る。私はその手伝いが出来るわ。どうする?」
「……どうすべきだと、思うんだ」
「私にはどうしろなんて言えないけれど、死導者として言うならば。貴方は、現実と向き合うべき」
 自然とオレの頬が緩んでいた。
「……じゃあ、決まりだ」

 オレは霊感なんてもんはねぇ。心霊体験というのもした事はない。
 だけど、今のオレは現在進行形で心霊体験をしてた。ぶっちゃけ、怖くない。むしろフワフワしてて気持ち良かった。
 で、オレはそのフワフワ状態で女の子と空を飛んでいた。物凄いスピードで。
 あっという間にオレはリカの家の上空に到着した。そして、そこに……いた。
「よ、よう」
「……司郎?」
 リカは戸惑ったように、心細そうに、浮いていた。オレを見るなり、オレに抱きついてきた。
「司郎! 司郎司郎司郎! どうしよう! アタシ、アタシ死んじゃった! どうしよう、どうしたらいいの!? 司郎! 教えてよ、司郎ッ!」
「落ち着け馬鹿野郎ッ!」
 パンッ!
 オレの手は、反射的にリカの頬を叩いた。
「まだだ。まだ間に合うんだ。オレが全部、悪かったんだ。オレが死んだってお前は助ける!だから、だから落ち着いてくれ……」
「司、郎……」
 オレとリカは、夜空でひとつになっていた。
「司郎、死んじゃヤダ……。死なないでよ、司郎。司郎に死なれたら、アタシ生き返っても意味ないよ……」
 チリン――
「安心して。貴女達は死なない。不運に満ちたその生の、僅かで最高の幸運。貴女達は私と出逢った。だから、死なないで済む。貴女達に死を導くのは、まだ早い」
 リカは不思議そうに女の子を見てたけど、にっこりと笑った。
「司郎、いつの間にこんな子と仲良くなったの?」
「さっきだ。大丈夫、こいつは人間じゃねーよ」
「……わかってるよ」
 チリン――
「さあ、この無意味な悲劇を幕としましょう。次の生は、平和な群像劇となりますように」
 女の子が剣をかざした。オレとリカは抱き合ったまま、笑顔のまま、剣をその身に受ける――。

「ねー、司郎」
「ん?どした、リカ」
 彼女の家。壁にもたれかかったオレの肩に、リカももたれかかってきた。
「そろそろさ、付き合って1年くらい経つよね」
「……そうだな」
「どう? アタシの事、まだ好き?」
 オレは本を閉じ、リカの頭を優しく撫でた。
「馬鹿だな。まだ好き、じゃねーよ。これからもずっとだ」
「……本当に?」
「一緒に死んだ仲だろうが」
「……そうだよね」
 あの体験。不思議な体験だった。
 あれ以来、あの女の子と逢った事はない。たぶん、次に逢うのはオレとリカが死んだ時だろう。
 頼むから、その時は一緒にしてくれよ? でないと、こいつを独りには出来ないからな。
 温かい体温を感じる。人って、温かいよな。本当に、すごく――。


 小さなマンションの遙か上空。空を埋めるのは満天の星。
 チリン――
 その中で、少女はひとり微笑む。
「……本当に運が悪くて、本当に運のいい人間」
 チリン――
「ええ、行きましょうか。生きる意味と目的を兼ねた、素晴らしい逢瀬だったわ。いつもこんな風なら苦労しないのだけれど」
 チリン――
「はいはい。本当にお節介ね。言ったでしょう。この戯れが私の戦う理由。いくら言っても、止めるつもりはないからね」
 フワリと少女は浮かび上がった。そのまま、少女は星となる。
 チリン――



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