ハンデを負っていれば、当然、何事もやりにくくなる。
 だからと言って、諦める気にもなれない。
 これは、ひとつしかないものだから。


 私は足が悪い。歩けない、というほどではないが、杖がなければ歩くのは辛い。もちろん、ずっと立っている事もできない。
 別に生まれた時からずっとこうだったわけでもなく、三年ほど前に、事故に遭った後遺症だ。
 だからこそ、普段は在宅で十分な仕事をしている。けれど、たまには外に出る必要もある。今日はそんな、例外的な日だった。
 目的地は車が止まれない場所にあるらしく、電車で来るように言われた。仕方なく私は、こうしてホームで電車を待っている。
『一番線に電車が参ります。黄色い線の内側でお待ち下さい』
 駅員のアナウンスが入る。電車が滑り込み、ドアが開いた。降りる客がいなくなったところで、私は電車に乗り込んだ。
 左右を見渡す。昼間という時間もあって混雑はしていないようだが、座席は埋まっている。学生の姿があるのは、試験期間か何かだろうか。
 はあ、と小さくため息をつくと、私はつり革のひとつにつかまった。せめて、誰かが降りた時に座れるようにという、情けない希望に託して。
 ふと、前に座る人と目が合った。まだ若い女性だ。大学生くらいだろうか。
 女性は一瞬、眉をひそめた。そして、小さく、ともすれば聞き漏らしてしまうほどに小さな舌打ちをすると、席を立った。
「どうぞ」
「……、ありがとう」
 礼を言い、私は座った。
 女性は気まずいと思ったのか、隣の車両に移っていく。私はその背中を見つめ、ため息をついた。
 私にとってこの世の中は、生きにくい。

 足が重い。用事は済ませて心は軽くなったのに、それとは関係なく、体は重かった。健康だった頃には何でもなかった道が、この体になると、厳しくなる。
「ん?」
 通りに面して公園があった。そこに、ベンチもある。
「ちょうどよかった、休んでいくか」
 ゆっくりと歩き、ベンチに腰かける。駅までの、ほんの二、三十分の距離が、辛い。
「情けないもんだな」
 普通の人とは、違う体。この体をうとましく思わない時はない。いつだって、この体は私の重荷でしかなかった。
 じっと、足を見る。見た目には少し細いだけで、普通の人の足と違わない。なのに、動かない。
 チリン――
「何を見ているの?」
 声に、私は顔を上げた。私の目の前に、いつの間にか女の子が立っていた。
 夜空色のワンピースに、カラーコンタクトでも使っているのだろうか、綺麗な深紅の瞳。年の頃は小学生くらい、長い黒髪を腰のあたりまで流している。腕には鈴のついた腕輪を揺らしていた。
「――、何を見ているの?」
「ああ、ええと、別に」
 女の子は首を傾げ、私の隣に座った。
「足が悪いのね」
 女の子は杖を見ながら、そう言った。隠しても仕方ない、私は正直に答えた。
「ああ。もう何年も前から悪くてね」
「それで、苦しんでいる」
 否定はできない。いや、むしろ肯定するしかない問いだ。
 私は口の端を持ち上げ、答えた。
「こんな体だと、色々と苦労をするからね。苦しんでいると言えない事もないかな」
「自分にはどうにもならない理由で他者から拒絶される。苦しむのも当然、むしろ苦しまない方がおかしいくらいね」
 その通りだ。
 私だって好きでこんな足をしているわけじゃない。できるなら、健康な体に戻りたいと思う。
 けれど、私にはどうしようもない。なのに、こんな体のせいで、嫌な顔をされる。迷惑をかけてしまう。
 皆は、私にどうしろと言うのだろうか。
「それでも、貴方は生きている」
 女の子の顔を見ると、じっと見つめ返してきた。ゆっくりと、口が動く。
「ねえ。貴方は、どうして生きられるの? 苦しみ、悲しみ、憎まれ、嫌われ、それでもなお生きていける理由は何?」
「……たいした理由はないよ」
 なんとなく。この子には、正直に答えなければいけない気がした。この子の質問には、真摯しんしな想いが感じられた。
「世の中、体が悪いのは私だけじゃない。年寄りになれば誰だってこうなるし、体に障害を持っている人、ケガをしている人、そんなのはいくらでもいる。私だけが不幸ですって顔で歩くのは、気が引けるだけだよ」
 私は、生きているだけで他人の迷惑になる。でも、それは、私だけじゃない。
 誰だってそうだ。誰もが、誰かに迷惑をかけて生きている。なのに、私だけが死ななければいけない理由なんて、何もない。
 女の子はじっと私を見つめ、優しく表情を和らげた。
「貴方は、強いわ」
「特別じゃないってだけだよ」
 何もかも。私は、普通の人間だ。
「アンジェラー!」
 女の子が顔を上げた。私も同じ方向を見る。
 高校生くらいの女の子が、手を振っていた。桜色の着物に白いミニスカート。肩のあたりに、黒い何かが乗っていた。
「私は、もう行かなければいけないわ」
「そうかい。気をつけて」
 社交辞令を口にすると、女の子は頷いた。
「貴方もね」
 立ち上がり、公園を駆けて行く。その後姿は、どこにでもいる子供のようだ。
「強い、か」
 私は、それほどの人間じゃない。

 数日後、また出かけねばならない用事ができた私は、家を出て駅に向かっていた。
 駅に向かう途中、左右を工事現場に挟まれた道に出る。と言っても、今は工事をしていない。途中で計画が煮詰まったとかで、現在は無期限延期中の場所だ。
 何を作るつもりだったのかは知らないが、今は白い鉄板に覆われ、関係者以外は立ち入り禁止になっている。無駄に広大な、空いた土地だ。
 歩いていると、
「おーい!」
 子供の声が聞こえた。どうやら、工事中で立ち入り禁止となっている場所に、子供が入り込んでいるらしい。
「仕方ないヤツらだな……」
 言いつつも、自分もそうだったな、などと思い出す。他人の事は言えない。
 そのまま歩みを進めようとすると、閉ざされた入り口の隙間から、子供が這い出てきた。幼稚園か小学生か、といった具合の、まだ幼い女の子だ。
「あ! だれかいた!」
「ホントだ!」
 続けて、男の子も出てくる。友達だろうか。
 ふたりは私のところに駆け寄ってくると、何やら慌てた口調で言った。
「あの! あそんでたら、しらないとこにカズキがおちたの!」
「はやく、はやくたすけないと!」
「――?」
 いまいち要領を得ない。私はふたりに落ち着くように言って、じっとその目を見つめた。
「中で何かあったのかな?」
「えっと、ともだちが、あなに、おちちゃったんです。ぼくらじゃたすけられなくて、だから、たすけをよぼうって、それで!」
「穴に、落ちた?」
 工事中の場所だ、何があるかわからない。それに子供だから、何も考えずに危険な場所にも行くし、考えられないような狭い隙間にも体が入ってしまうかもしれない。
「――わかった、一緒に行こう」
 この道は人通りが多くない。誰かが通るのを待っていたら、子供が危険に晒されてしまうかもしれない。
 それに、私は携帯電話を持っていない。あれば助けを呼べるが、なければどうしようもない。あまり家から出ないから。こういう事態に陥って初めて、持っていれば良かったのにと思う。
 子供たちが通った隙間を強引に抜けると、現場の広い土地が目に入った。
 まだ基礎工事の途中だったんだろう。大きな穴が開き、その中には鉄骨が網の目のように走っている。
「こっちです!」
 子供たちの案内に従って、私もできる限り急いで向かう。
「ここ! ここです!」
 そこは、電信柱か何かを作る予定だったのだろうか、マンホールよりも小さな直径の穴があった。底の方は暗くなっていて、よく見る事ができない。
「大丈夫かー!」
 私はその穴に向かって叫んでみた。すると、返事が飛んでくる。
『だれかいるのー!? はやくだしてー!』
 どうやら、まだ無事らしい。声には涙が混じっていた。
 側面を見る限り、とても登ってこれるような形状ではない。それに、直径からして、子供でもギリギリだろう。手を伸ばして、届くか?
「これにつかまれるか!」
 私は体を寝かせるようにして、杖を穴の中に突っ込んだ。足は悪いが、体でなんとか持ち上げられるかもしれない。
『だめー! とどかないよー!』
「くッ!」
 これ以上に長い物は、持ち歩いていない。こうなったら、仕方ない。
「君たち。よく聞くんだ」
 私は、私を呼んだふたりの子供に向き直って言った。
「あの子を助けるには、私ひとりでは無理だ。もっと大人の力が必要だけど、私は足が悪くて呼びに行っても時間がかかる。だから、君たちが行くんだ」
「おとなを、よんでくればいいの?」
「……いや、まずは君たちのお父さんかお母さん、いるなら兄弟でもいい、とにかく家族を呼んでくるんだ」
 子供たちは顔を見合わせて頷き、走り去っていった。
 見知らぬ大人に話しかけたところで、状況の説明には時間がかかるし、子供の言う事だからと無視する人も多いかもしれない。その点、家族なら、呼べば来てくれる公算が強い。
 私は再び穴に向き直ると、
「大丈夫だ! すぐに助けが来るぞ! それまで、頑張るんだ!」
『……うん!』
 返ってきた答えは意外と力強く、私は少しだけ安心した。
「これでどうにかなる、か?」
 額に感触を覚え、私は空を見上げた。
 ぽつり。また、ぽつり。
「まず、い!」
 雨が、降り出していた。
 このままでは、穴に水がたまってしまう。そうしたら、誰かが来る前にこの子供は溺れ死んでしまう!
「くそ、何か、何かないのか!」
 鞄をひっくり返し、中をあさる。せめてシートや傘のようなものがあればよかったが、あいにくと、そんなものは入っていなかった。
『ね、ねえ、あめだよ!? だいじょーぶなの!?』
 子供の、怯えた声が響く。
「大丈夫だ! すぐに助けが来るから!」
 返しながらも、私は不安でたまらなかった。あの子たちの家は、どのくらい遠いのだろう?
 ここの近くに家なんてない。あるとしたら、少し離れた場所にある、私の住んでいる住宅街くらいだ。けれど、私よりは早いといっても、子供の足でどのくらいで往復できる? そして、この穴は、それまで持ちこたえられるだろうか?
「信じるしかない、って言うのか?」
 せめて、足が使えれば――。
 足さえ動けば、私が走って応援を呼べるなら、住宅街よりも手前で誰かを呼んでこれる。もっと手早く人を集められる。それなら、確実に間に合った!
 なんで、私の足は!
「動かないんだ!」
 叫んだ。かみ締めた。けれど、悔しさと無気力感は、消えなかった。
 もう、どうしようもないのだろうか。このまま、目の前で誰かが死ぬのを見届けろとでも言うつもりか?
「そんな、バカな!」
 拳を握り締めた、ちょうどその時。
 チリン――
 鈴の音色に、私は顔を上げた。
「そうね。馬鹿げているわ」
 そこには、いつかの女の子が立っていた。
「君は、あの時の? いや、今はそれどころじゃないんだ。この穴の中に、子供がいるんだ」
 私がかたわらの穴を指すと、女の子は首を横に振った。
「知っているわ。けれど、私には手出しできない。私は、人を救ってはならない」
「ならない? どうして!?」
 思わず、声を荒げてしまう。女の子はそんな私を見て、眉をひそめた。
「私には私なりの事情があるわ。私は、生きている人に手出しをしない。代わりに、生きている人を助けもしない。私ができる事、それはただ、導く事だけ」
「導く? 導くってなんだ、それが人を見殺しにしていい道理なのか!」
「そうは言っていないわ。私とて、助けられるものなら助けたい。もし彼が助けるべき人間なら、助ける。けれど、残念ながら彼はどこにでもいる普通の人間。助けるべき人というわけでもない」
 助けるべき人? 普通の人間!?
「君は、間違っている。人は選んで助けるようのものじゃない」
「ええ、私はいつも過ちを犯すわ。私とて、完全ではないから。でも」
 女の子は、にこりと笑った。
「己の信念は、いつだって曲げるつもりはない。生きようとする者を助ける。それもまた、私の仕事よ」
「……? 君は、一体?」
 ようやく。思えば最初からそうだったのだろうが、私は、この女の子が何か違うと気がつき始めていた。この子は、どう見ても、普通の子供じゃない。
 女の子は空を見上げた。つられて、私も見上げる。雨は、ますます激しくなっているように思えた。
「これは、私から貴方たちへのプレゼント。本来は、あまりしないのだけれど。今回は、特別。良い想いのお礼よ」
 くすりと笑った女の子は、私に背中を向けて走り出した。
「あ、君!」
 チリン――
 女の子の姿は、雨煙の中に溶けて消えた。
 その、直後。
「おーい!」
 人の声に私が目を向けると、警官らしい制服の人と、何人かの若者が走り寄ってきていた。その中に、あの子供たちの姿も見える。
「子供が大変なんだって!?」
「この穴か、おーい、大丈夫か!?」
 駆け寄ってきた人たちは私と、そして子供が落ちた穴を取り囲んだ。
「え? あなたたちは、一体?」
「呼ばれたんですよ、この子たちに。最初は要領を得なかったけど、とにかく大変だと思って。で、走っている間に、誰かが状況を説明してくれたんです」
 警官が、律儀に答えてくれる。誰か? この子たちか?
「まさか、あの子か?」
 そんなわけはない。さっきまで、私と一緒だったのだから。
「……なんだ」
 それでも。自然と、口元がほころんだ。
「結局、助かるってわかっていたのか」
 なんとなく、そんな気がした。そうでなければ、あの子でもあれほど落ち着いていられるとは、思えなかった。
 それなのに叫んだり、わめいたり。私は、情けない大人だな。
「何か長いものとかありませんか?」
 いや。そんなものは、今に始まった事じゃない。
「上着を繋げたら長くならないか?」
 誰かが提案し、それぞれに上着を脱いで袖を縛りだす。私も、上着を脱いだ。
「これも使ってください。それに、よければ杖も」
「ありがとう、助かります」
 人様に迷惑ばかりかけて生きてきた。そんな私が、ほんの少しでも誰かを助ける手伝いができるなら。
 それは、目を見張るほどに驚きの事実だ。
 雨は降り続いている。けれど、私の心は、少しだけ晴れていた。


「助かったみたいね。よかったじゃない」
 空に浮かび、ふたりの少女は工事現場を見つめていた。人々に囲まれ、泥にまみれた少年が泣いている。
「ええ、本当に」
 死導者は頷き、空を見上げた。雨は、まだ降り続いている。
「生きたいと思う者が生きられる世の中。幸せな事ね」
「なかなか、そうもいかないけど」
「きゅ?」
 死導者の頭上に陣取った小動物を見つめ、眷族は言う。
「さっきの子供だって、あたしが誰かを呼ぶのを手伝わなきゃ間に合わなかったかもしれない。あの子たちの家まで帰っても、留守だったみたいだし。下手をしたら、本当に死んじゃったかもしれないでしょ?」
「でも。助かった。まだ、生きている」
 チリン――
 鈴を揺らし、少女は空を歩き出す。
「生き難いと生きられないとは、違う。難しいだけならば、できない事ではない。そこでなお諦めない魂は、とても美しく輝いている」
「で、その輝きが、あたしらみたいな変わり者を引きつける」
 少女たちは顔を見合わせ、くすりと笑った。
「輝きがあれば、迷う事はないわ」
「きゅう」
「……あんたの言葉はアンジェラじゃなきゃわかんないわよ」
 雨空を、死導者たちは歩んでいく。
 晴れない世界にも、輝きは存在するから。
 チリン――



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