|
縁石に並んで座り、僕らは肩を寄せ合っていた。さすがにこの季節、この時間ともなると、かなり冷え込む。 「寒くない? 大丈夫?」 「大丈夫」 秋山さんは、僕の目をじっと見返しながら答えた。僕は頷き返し、口を開く。 「それじゃあ、ちょっと昔のお話でもしようか」 どうして、こんな話をするんだろう。この話は、今まで誰にもした事がない。誰かにしたって、嫌われるか引かれるか、冗談と思われるかだ。 なのに、どうして僕は、昼休みにちょっと会話するだけの女の子に、こんな話をしようとしているんだろう? 「兄さんと姉さんの話はしたよね? ふたりとも、真面目で夢のある人だったって」 「うん」 「同じように、父も真面目人間でさ。学校の先生をやっていた。三人が三人とも、普通で真面目で、壊れようのない人生を送っていた」 けど、壊れた。たったひとり、我が家の変わり者の手によって。 「母さんは、ね。とても、感情的な人だった。それに、すごく嫉妬が深い。たまに父さんが生徒と面談するためにふたりきりになるのだって、すごく嫉妬するくらいに」 もう、あれは病気だったのかもしれない。今では、判断のしようがない。 「そして、事件が起きてしまった」 「事件……?」 秋山さんの緊張が、僕にも伝わってくる。ドキドキするような、緊張感。 「そう。事件」 目をつむり、あの日を思い返す。今でもあの日は、あれだけは、まぶたの裏にハッキリと思い出す事ができる。 「あの日。母さんは父さんを殺し、邪魔をしようとした兄さんと姉さんを殺し、そして、自分を殺したんだ」 僕が殺されなかった理由はわからない。末っ子が可哀想だったのか、父さんを殺せた事で興味を失ったのか。とにかく僕だけは生き残り、家族は死んだ。ひとり残らず。 秋山さんが息を飲む気配が、伝わってきた。 「あの日の光景が、今でも忘れられない。寝ても覚めても、頭から離れない。僕はずっと過去に縛られ、生かされているんだ」 望んですらいないのに。 どうせなら、あの時、僕も殺してくれればよかった。そうすれば、何も悩まずに済んだ。 夢や希望なんて、誰かの一時の感情で、簡単に崩れ去る。人の命すら、消える時はほんの一瞬。それを知ってしまった。見てしまった。感じてしまった。以来、僕の中から、そんな言葉は消えた。 この世には、夢も希望も、優しさも暖かさも、全てを消し去ってしまう存在がある。そんなものは幻だったんじゃないかと思わせるものが、存在している。 秋山さんに目を向けると、小さく震えながら、口元を押さえていた。 「気分が悪くなった? 無理する事はないから、今日はもう帰ったら」 僕が声をかけても、秋山さんは立ち上がる事すらできないようだった。 仕方ないと、立ち上がって、立たせてあげる。 「大丈夫?」 「――うん」 小さく、ほとんど唇を動かさずに、秋山さんは答えた。 「送って、行こうか?」 「大丈夫。大丈夫、だから」 ふらふらとした足取りで、秋山さんは歩き出す。その姿は、見ていて不安だった。 「ありがとうね、鍋島君」 振り返った顔は、死人のように白かった。 弱々しい日差しが道を照らす。世界は静寂に包まれ、まるで僕だけがこの世界で生きているかのような錯覚すら覚えた。 朝練開始の声を遠くに聞きながら、僕は教室の扉を開いた。 「……あれ?」 僕の席に、先客がいた。 夜空色のワンピースに、さらさらと綺麗な黒髪。窓の向こうを見つめているその横顔は、どう見ても小学生にしか見えない。そもそも、制服じゃないんだから、この学校の生徒であるわけがない。 「君、は?」 僕が声をかけると、女の子はそっと僕を見た。 ――瞬間、ドキリとした。 見られているだけで緊張するような、ハッとさせられるような、そんな不思議な目が、僕を見つめていた。 「貴方が、“鍋島君”?」 女の子は小首を傾げて問う。僕が小さく頷くと、女の子は席を立った。 「私の名前は、アンジェラ。死を導く者」 そっと歩く。足音は、しなかった。 「死を、導く?」 「安心して。貴方の死を導くために来たわけではないから。私は、ただ、言伝を預かっただけよ」 「ことづて……?」 チリン―― アンジェラは小さく頷き、目を閉じた。 「『昨日はごめんなさい。せっかく話してくれたのに、私、何もできなかった。鍋島君の力になりたいって思っても、行動には移せなかった。 私、鍋島君の現実離れしたところに、憧れてた。初めて会った時、一緒のクラスになった時から、ずっと。その中身もよく知らないで、勝手に。だからその中身を知って、自分は何も知らなかったんだって思ったら、ショックを受けちゃって。 本当に、ごめんなさい。最期にひとつだけ。こんな勝手な私と一緒にいてくれて、ありがとう』」 口を閉じると、アンジェラは目を開いた。 「これで、全て。確かに伝えたわ」 ――昨日は、ごめんなさい。 「言っておくけれど、貴方のせいではないわよ。彼女の生は、単純に尽きただけの事」 ――憧れてた。 「貴方の話を聞こうと聞くまいと、彼女は確実に死を迎えたわ」 ――こんな勝手な私と一緒にいてくれて、ありがとう。 「まさ、か、秋山さんが?」 それは、質問と言うよりも、言葉が口をついて出たと言った方が正しかった。実際、僕は、何も考えられないでいた。 アンジェラは顔を上げず、ゆったりと言った。 「彼女は、死んだわ」 死んだ。秋山さんが、死んだ。昨日、僕と話をした後、死んだ。 「死因は交通事故。おぼつかない足取りで赤信号の道路に進み、車が激突した。それが、彼女の直接の死因。でも、先ほども言ったけれど、それは誰のせいでもない。時間が切れた、それだけよ」 顔を上げ、僕を見つめるアンジェラは無表情だった。なのに、どこか泣きそうに感じた。 「だから、貴方は、気に病まないで」 チリン―― まばたきした次の瞬間、アンジェラの姿は消えていた。けれど、今の僕は、そんな事が気にならなかった。 秋山さんが死んだ。また死んだ。僕に関わった人が死んだ。 死んだ、死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ! 死んだんだ! 「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」 どうして、なんで! たくさんの人がいるこの世の中で、どうして僕の周りだけ! なんで僕の周囲だけ! こんなにも人が死ぬんだよ!? 「なんだって言うんだよ! 僕の何が気に入らないんだ! どうして、他の誰でもない! 僕なんだよ!?」 僕が何をした? 何もしていない! なのに、どうして! もう、じっとなんてしていられなかった。体が勝手に走り出す。 闇雲に、何がなんだか判断できない。とにかく、立ち止まっていたくなかった。全てを忘れ、全てを捨てて、とにかく走っていたかった。 前に、前に、ひたすら前に。後ろは振り返らない。まるで背後から死が手を伸ばしているようで、とても振り向く事はできなかった。 どのくらい、走っただろうか。気がつけば、僕は地面に手をつき、荒い息を吐いていた。 顔を上げる。そこは、日も当たらない、校舎裏の花壇の前だった。 秋山さんと過ごした、あの場所だった。 「なんだよ……。なんだって言うんだ? 僕に何をしろって言うんだ?」 僕は特別じゃない。どこにでもいる、普通の人間だったんだ。 それが、どうしてか、こんなにも人間の死に触れる人間になってしまった。これじゃあまるで、 「僕の方が、“死を導く者”みたいじゃないか」 体を支えるのが急に重苦しくなり、僕は、ごろりと地面に転がった。 切り取られた四角い空は、曇天に覆われている。今にも雨が降り出しそうなのに、まだ落ちる事のできない雨。 どこか、僕に似ていると、思った。 秋山さんの葬式は、慎ましやかだった。訪れている人は、近所の人や親戚らしい人が数人、そして、同じ学校の制服を着た人間ばかり。 僕もその中のひとりとなり、秋山さんの遺体と対面した。秋山さんの死に顔は、決して安らかには見えなかった。 何が、悪かったんだろう。僕の、何が? 僕が僕として、過去に縛られながら生きて。秋山さんはそんな僕に興味を持って、好きになって、そして、死んだ。 誰に文句を言えば、いいのだろう。 斎場からの、帰り道。僕は秋山さんが事故に遭ったという場所に向かってみた。 そこは、片道で二車線の、普通の道路。トラックなんかがよく行き来する場所でもあった。 警察の姿も、血の痕跡もない。あるのは、道路の端に飾られた、菊の花だけ。 それを眺めていると、心が痛む。 チリン―― しばらくそれを眺めていたら、鈴の音が聞こえた。 「何を、するつもり?」 隣を見る。どこから現われたのか、アンジェラが僕と同じように、菊の花を見つめていた。 「何をって?」 聞き返す。けれど、返事はなかった。 「……彼女は、寿命だったの」 何の脈絡もなく。ぽつりと、呟くように言う。 「肉体の寿命ではなく、魂の寿命。いかに肉体が生きようとしていても、魂が死ねば、その人間は生きられない。この世の、普通に生きるだけの人間では気がつく事がない、裏のルールよ」 僕を見上げ、アンジェラは言った。 「前にも言ったけれど、貴方には欠片ほどの責任もないわ。貴方の過去に何があろうとも」 「そう」 アンジェラが言うなら、そうなのかもしれない。あるいは、僕を慰めるためだけの、嘘なんだろうか? どちらかは、わからない。でも、もう、どっちでもいい。 「アンジェラ。秋山さんは、まだこっちにいるの?」 「――今晩には、尽きるわ」 「そう。じゃあ、急がないといけないね」 一歩、踏み出す。僕の後ろで、アンジェラが震えたような、そんな気がした。 「貴方がそんな真似をする事を望む人間は、いないわ」 「僕がいる」 また一歩。目の前を、大型のトラックが通過していった。 「どうしても、進むの?」 「邪魔するかな?」 「……いいえ。どのような生き方を選ぼうと、その人間の自由。私がそれに介入する権限はない」 「そう、よかった」 また、一歩。次の一歩は、もう道路だ。 「その前に、聞かせて。貴方をそこまで駆り立てるものは、何?」 僕は首だけを後ろに向けた。アンジェラは、無表情だった。 「疲れた。そろそろ、久しぶりにゆっくりと寝たいんだ」 毎夜の悪夢を追加するなんて、ごめんだ。 今まで、僕は生かされていた。死ぬ事も許されていないと、そう思っていた。でも、違う。 僕は、やりたい事をやる。 「さよなら。後でまた会えるといいね」 右手から、砂利を乗せたトラックが走ってきた。運転手さん、ごめんなさい。 僕は、死ぬまで、色々な人に迷惑をかけてばかりだ。 最期に聞こえた音は、車の悲鳴だった。 「あんたには、会いたくなかったわ」 開口一番、桜色の眷属は、少年に向かってそう言った。その肩で、黒いオコジョも頷く。 少年は口の端を歪め、答えた。 「アンジェラの、仲間かな?」 「まあ、そんなもんよ」 答えた眷属の後ろから、小柄な少女が顔を出す。 「……鍋島、君」 「や。会いに来ちゃったよ」 それは、軽い口調だった。平和な日常の延長であるような、特に何の気もない言葉。それが、少女の心には、響く。 うつむく少女の肩に、少年の手が重なった。 「秋山さん。秋山さんが死んじゃったのが誰のせいでもないように、僕が自殺したのも、誰のせいでもないんだ」 「――でも、私は、鍋島君に生きていて欲しかった」 少女は少年を見上げる。少年は一瞬だけ泣きそうな目を作りながらも、すぐに笑みに戻した。 「もういいんだ、僕は。赤い夢だけを見続けるのは、疲れた。だから、せめて最期くらい、誰かと一緒にいさせて欲しい。もう、別れるばっかりは嫌なんだ」 少年の言葉に、少女は複雑な表情を浮かべ、そっと肩を寄せ合った。 チリン―― そんなふたりの前に、夜空色の死導者が現われる。その手には、少女然としたその姿にはあまりに不釣合いな、宝剣が握られていた。 「本当なら、貴方まで導くつもりはなかった。生きて、道を探して欲しかった」 「ごめんね。僕は、そこまで強くなかった」 少年を見上げ、死導者は首を振る。 「それは、誰のせいでもないのかもしれない。人間としてはとても、当たり前の選択肢のようにも思える。なればこそ、貴方を責める事もできない」 死導者の剣が、ふたりを指す。 直前、ふたりは、顔を見合わせた。 「ねえ、鍋島君。鍋島君は、私の事、どう思う?」 「眩しくて、優しくて、羨ましいくらいに光っている人」 そっと、ふたりは抱き合う。その身体を、少女の剣が貫き通した。 人の姿は光球となり、離れまいとするかのように、螺旋を描いて昇って行く。 「アンジェラ、落ち込んでる?」 その光景、何度も見たはずの映像を眺めながら、眷属は問う。答えは、明瞭だった。 「これが、私の選んだ道だから」 きゅっと、背後から腕が伸びる。桜色の眷属に抱かれたまま、夜空色の死導者は見上げ続ける。 「アンジェラ。背負うのは、ひとりじゃなくていいんだからね」 「きゅ!」 チリン―― 視線は変えず、少女は口元に笑みを浮かべた。 「ええ。わかっているわ」 強く、まるでひとつになろうとするかのように、少女は少女を抱き締める。 冷たい風が、夜空に流れていた。 チリン―― |