僕の住んでいるアパートは、決して広くない。キッチンと部屋がひとつだけだ。一人暮らしだから、これで十分でもあるんだけど。
 今日は、お客さんがいた。
「先輩、ベッドを使ってください。僕は下で寝ますから」
「えー、一緒に寝ようよー」
「ダメですよ。ほら、駄々をこねないで」
 病院からの帰り、真理先輩は何故か、いきなり『僕の家に泊まりたい』と言い出した。理由はわからないけど、言い出した先輩は止められない。仕方なく、僕は先輩と一緒に帰宅した。
 先輩をベッドに座らせ、僕は客が来た時のために用意してある毛布を取り出す。
 その様子を眺めていた先輩は、ふと口を開いた。
「ねえ、くー」
「何ですか?」
 僕は作業を続けながら、問い返した。
「何を悩んでいるの?」
「悩み? 今は特にありませんよ」
「まーた嘘をついたね」
 顔を上げると、案外と真剣な目で、先輩は僕を見つめていた。
「くーはすぐに嘘をつくね。そんなに信用できない?」
「そんな事はないですよ。ただ、ちょっと、先輩に相談していい事かなって」
「くー。くーの悩みは、私の悩みなの。おーけー?」
 言葉が詰まる。目頭が少しだけ熱を持った気がした。
 ……先輩には、敵わないや。
 僕はため息ひとつ、思っていた事を口にした。
「実は僕、白井さんの病気を治せるかもしれないんです」
「続けて」
「白井さんの病気って、ウイルスとかそういうのじゃない、オカルト的に言えば魂の問題らしいんですよ。だから、僕の能力を使えば、どうにかなるかもしれないんです」
 先輩は、真剣な調子で聞いている。こんなオカルティックな話、ちっとも信じられなくて自然なのに。
 先輩は、僕の話を、疑っていない。僕を、疑っていない。
「僕の能力は、魂を書き換える事ができます。だから、白井さんの魂の悪い部分だけを書き換えて、正しい状態にする事もできると思うんです」
「でも、やらなかった」
 僕は頷き、
「はい。それが、正しい事かどうか、わかりませんでしたから。できるって事も、あのふたりには言っていません」
 下手な期待は、持たせたくなかったから。
 できるのに、やらない。それが正しいのか、それとも、違うのか。それが、今の僕にはわからない。
「どうして、それが正しくないかもしれないって思ったの?」
「アンジェラは、知っていますよね?」
「知り合いの死神ちゃん」
 ちょっとおかしな表現ではあるけど、おおむね間違っていない。
「そのアンジェラが、やらないって。彼女はいつもそうなんです。目の前で死にそうな子供がいても、助けない。それがその子供の人生だからです。彼女は他人の人生を見つめるだけで、手は出さない。そういうルールだからって言っていました」
「それで、迷っているの?」
「――はい」
 目を閉じれば、アンジェラの困ったような顔が思い浮かぶ。
「僕が手を出せば治るかもしれません。けど、治らないかもしれません。失敗した時の落胆は、どれくらいになるか。僕には想像もできません。
 それに、僕が治せば、それは本来ならありえない事です。その事が、他の誰かに影響するかもしれない。そのせいで誰かが傷つくかもしれないし、誰かが死ぬかもしれないんです」
 だって、それは、人の運命を変えるって事だから。
 僕は神様じゃない、人間だ。なのに、今の僕にはひとりの少女、そしてそれに関わる多くの人たちの運命を変えるだけの鍵を持っている。
 これで扉を開けば、白井さんの世界は変わる。同時に、彼女を調べている人たちの仕事を奪うって事にもなる。
 誰かを助ければ、誰かが傷つく。絶対の正解はない、難しい問題だ。
「だから、僕、どうすればいいかわからなくなっちゃって。それで、助けられませんでした」
 正直に、想いを告白しきった。
 先輩はしばらく僕を見つめ、やがて、立ち上がって僕を抱き締めた。
「くー。そんなに、背負う事はないよ。他人の苦しみまで、くーが背負う必要はないの。もしも、くーが何もしなくても、誰にも責める権利はない。くーが何かをして、誰かに責められたら、その時は私が守るから」
 真理先輩は僕の彼女で、妹のような姉のような、母親のような存在。
 その暖かさが、今は少しだけ嬉しかった。

 カーテンの隙間から、月が見える。三日月は闇夜に飲まれそうになりながらも、必死に抵抗しているように見えた。
 ベッドの上からは、先輩の小さな寝息が聞こえてくる。けれど僕は眠れないまま、ただ月を見上げていた。
 僕は、どうすべきなんだろう。
 月が答えをくれるわけは、ない。
 チリン――
「紅葉。どうかしたの?」
 声。聞きなれた女の子の声に、僕は体を起こした。
「アンジェラ……」
 闇に紛れそうな夜空色のワンピースに、深紅の瞳。浮かぶような色白の肌が、やけに目につく。
 異端の死導者。八番目、アンジェラ。僕が最もよく知る、死導者だった。
「あんたの悩みって事は、まさか、まーた重苦しい内容じゃないでしょうね」
 その後ろから、ケイも姿を現す。桜色の着物と白いミニスカートを合わせた女の子で、アンジェラの部下みたいなものだ。
 ケイの肩には、黒オコジョのエルミネアも乗っている。
 僕はふたりと一匹の姿を当分に眺め、言った。
「外で、話せないかな?」
「お安い御用よ」
 チリン――
 アンジェラが腕輪の鈴を鳴らすと、僕の体がふわりと浮き上がった。いや、それは感覚だけだ。僕自身は、そのままでいる。
 気がつけば、僕は横になった僕の体を、天井の近くから見つめていた。
「これ、まさか、魂だけ出したの?」
「似たようなものよ。それなら、外で話しやすいでしょう?」
 アンジェラは微笑みながら小首を傾げる。彼女は、時々、信じられないような事をする。今回のこれが良い例だ。もう何度か経験したから、さすがに驚いたりはしないけど。
 でも、アンジェラの言う通り、外には出やすくなった。僕は窓をすり抜け、空に浮かんだ。
 後から、アンジェラたちも付いて来る。揃ってから、僕は自分を落ち着けるように、しっかりと言葉を選びながら、口を開いた。
「ベルフェゴールに、会ったんだ」
 アンジェラは少しだけ驚いたような表情を、ケイはあからさまに興味津々といった顔をした。
「へー。それで、どうしたの?」
「うん。そこで、白井さんって子に会ったんだけど」
「ああ、あの病気の女の子」
 やっぱり、知っていたんだ。それなら話は早い。
「あの女の子、魂に問題があるって聞いたんだけど」
「その通りよ。私も詳しく見たわけではないから正確にはわからないけれど、彼女の魂には染みのような“よどみ”を感じたわ」
 アンジェラも言うんだ。それは、間違いがない。
「それって、僕の能力を使えば、治せるよね?」
「あー、そうね。あんたの魂の書き換え能力、エルさえ治したんだし、できるんじゃない?」
 ねえ、とケイは隣の上司を見つめる。アンジェラは振り返らず、答えた。
「理論上は、可能よ」
「やっぱりそうだよね」
 そこまで知って、僕は顔を伏せた。
「ねえ、アンジェラ、僕はどうすべきなんだろうね?」
 答えは、すぐにはなかった。何かを悩むような、空白の時間が過ぎる。
「――答えは、ひとつしかないわ」
 やがて、アンジェラの凛とした声が、静寂を破った。
「貴方は、貴方が成すべきと思った事をやればいい。何故なら、それが『貴方の生』だから」
「僕の、生……」
 僕がするべきと思った事をする、それが、僕の人生。
 言われてみれば、当たり前の事だ。けど。
「でも、そのせいで色々な人に迷惑がかかるかもしれないんだよ?」
「その通りね」
「僕が僕の生を好き勝手にするのは、僕の責任でしかない。でも、僕がそれをすれば、間違いなく他人の生にも影響があるんだ。僕のやろうとしている事は、そういう事なんだから」
 そう、それが、僕の悩みの原因。
 僕が白井さんを助ければ、それ以外の人たちは必ずしも喜ばしい結果になるわけじゃない、という事。
 それだけが、僕を、ためらわせている。
 対するアンジェラの答えは、わかりやすかった。
「それも含めて、貴方の生でしょう?」
「それも?」
 アンジェラは頷き、言った。
「貴方の生とは、貴方の生き様の事。そこには、貴方を形作るもの、貴方に関わるその全てが含まれる。それぞれにおいて、当人たちが最もやるべきと思った事をすればいい。それが、複雑で混沌としている、それ故に美しい人間の世界」
 アンジェラの言葉を引き継ぐように、ケイは続けた。
「そんなに悩まなくていいのよ、別に。やりたい事をやる、それって何よりも楽しいじゃない。もちろんさ、他人の迷惑にしかならない事……暴走族だの、犯罪だの、そんなのをしろって言わないけど。マイナスしかない行為じゃないでしょ、あんたのは?」
 僕は、頷いた。僕が何かをすれば、白井さんやベルは、喜ぶだろう。
「どっちに転んでも誰かのマイナスになるだけの行動ってわけじゃない。なら、思い切ってやったもんの勝ちだって。大丈夫、誰もあんたの責任だってわかりゃしないから」
 ケイの肩で、エルも深く頷いている。アンジェラたちの出した答えは、ひとつだ。
 そしてそれは、僕に結論を任せるもの。
 ふー、と長く息を吐いた。それで少しだけ、落ち着いた。
「……ありがと、ふたりとも。いや、三人か」
「どういたしまして」
「いつもの事でしょ」
「きゅ」
 それぞれの返事に、僕は笑った。
「ケイも、アンジェラみたいになってきたね」
「え? そう?」
 ケイは少しだけ頬を染め、嬉しそうに頭をかいた。
 僕は、空を見上げる。三日月は、高くに昇りきっていた。

 翌日、僕はバイトの前に、先輩と一緒に病院を訪れた。
 起きた先輩に、「決めました」と告げたら、先輩は嬉しそうに笑った。やっぱり、くーにはそういう顔が似合う、と言って。
 最上階の最奥の部屋。白井さんの病室に入ると、昨日と同じように、ベッドの上に白井さんが、その隣にベルがいた。
「紅葉か。今日はどうした?」
「少し、話したい事があってね。白井さんにも関係する事なんだ」
 僕は前置きし、僕自身の能力について説明した。
 僕の能力。子供の頃から幽霊を見続けた僕の目は、そのさらに深い部分、魂さえも見切る。それは、生きている人にだって、同様。
 見えてしまえば、書き換えるのは難しくない。ただ、イメージするだけでいいんだから。
 僕が話し終えると、ふたりとも、少なからず驚いていた。
「そんな馬鹿な話があるのか? 人間の身のままで、死導者と同格以上の力を有するなど?」
「あー、僕は、特別だから」
 色々な意味で。
 世界最強の死導者にたまたま目をつけられ、おまけに才能が豊か、だったらしい。詳しくはわからないけど、能力がある、それだけわかっていれば十分だ。それさえわかっていれば、白井さんを、助けられるんだから。
「あの。それをすれば、私も目が見えるようになったりする、んですか?」
「やったわけじゃないから確証はないんだけど、おそらく」
 白井さんは、黙り込んでしまった。
 仕方なく、僕はベルに視線を向ける。ベルは、嬉しいんだか困っているんだか驚いているんだか、とにかく複雑な表情を浮かべていた。
「ベル」
「どうした、百合」
 白井さんは、ベルに顔を向けた。見えているわけじゃないだろうけど。
「私、どうしたらいいと思う?」
「お前の好きにすればいい、百合。これは、お前の問題なのだから」
 ベルの声は暖かくて優しくて、まるで、本当の祖父のようだった。
 白井さんは、なおも考えた後、答えを出した。
「あの。体はこのままで、ベルみたいになる事はできませんか?」
「え?」
 それは、僕にとっては予想外の答えだった。
「私はこんな体だけど、でも、お父さんやお母さんの役に立っているところもあるんです。だから、できれば体はこのままがいい。けど、私だって色々なところに行きたいし、友達だって欲しいし、何より、世界を見てみたい。もう一度、この世界を」
「もう一度?」
「はい。私、小さな頃は普通だったんです。それが、高熱を出した日から、おかしくなっちゃって。段々と体の器官が死んでいっています。そのうち、耳も聞こえなくなるかもしれません」
 それは、なんて酷い拷問なんだろう。徐々に体が使い物にならなくなる、恐怖。
 僕には想像さえもできない恐怖に、こんな小さくて弱々しい女の子が、耐えているって言うのか。
「だから、そうなってしまう前に、ベルみたいに空を飛んだり、誰かとお話したり、そういうのができたらいいなって、そう思っていたんです」
 ……そこまでが、僕にできるだろうか。この子の魂を、死導者のようにするなんて。
 ああ、そうか。できるか、じゃないんだ。
「わかった、やってみるよ」
 僕は一度、隣を見た。僕の隣で、先輩は力強く頷いた。
 だから僕も、頷き返す。
 先輩、今の話の半分くらいしか理解できていないだろうに。詳しい事情とか、そういうのは何もわかっていないだろうに。それでも、こんなにも僕を信頼してくれるんだ。
 やっぱり、先輩と一緒に来て、良かった。勇気を、もらえた。
「じゃあ、行きます」
 僕は、白井さんに、手をかざした。


 どこにでもある、白い普通の病院。その屋上に、死導者たちは集まっていた。
「成功、したんだ」
 桜色の眷属は、どこか驚きを含めた声で、ぽつりと言った。
「私にも、信じられん。これは、神の領域だ」
 枯葉色の死導者も頷く。その隣で、夜空色の死導者は見上げた。
「けれど、これで満足する結末が得られたのだから、何の問題もないわ。紅葉に、また借りができてしまったわね」
 その前で、少女はくすりと笑った。
「私がやってもらったんだから、借りがあるの、私じゃないの?」
 白布に身を包んだ少女は、楽しそうにくるくると回った。
「すごい、すごいよ、ベル! 私、空を飛んでいる! 世界が、見えている!」
 嬉しそうに楽しそうに、回る。そんな少女を、老人は目を細めて見つめていた。
 そんな死導者たちに、青年は声をかける。
「あの、別に貸し借りとか、そんなの気にしなくていいからね?」
「くーってお人よし」
 天才の隣で、恋人は笑みを漏らした。
「僕は、僕がしたいと思った事、僕ができる事をやっただけですから」
 苦笑と共に、青年も返す。
「でも、私が助けてもらったのは事実ですから。困った事があったら言って下さい、私に力になれる事なら、なんでもします!」
「そうだな、私も力を貸そう。百合のこんなにも楽しそうな顔を見たのは、初めてだ」
 天才の青年は微笑を漏らすふたりに、笑顔で返す。
「――じゃ、その時があったら、よろしく」
 そこには、笑顔が満ちていた。誰もが、笑っていた。
「ハッピーエンドってヤツね。今どき、珍しいんじゃない?」
「珍しかろうとも、これが何よりも素晴らしい結末である事には疑いの余地がないわ。少なくても、私は疑えない」
 夜空色の死導者は、呟くように言う。その言葉に、一同は顔や心で頷いた。
「こういう出会いがあるから、人と人の繋がりを見つめていたいと思える。これほどまでに、光が輝いている世界を」
 夜空色の死導者もまた、少女を真似るように舞う。その姿は、儚くも美しい。
 それは、人の苦も楽も知った、少女の舞。
 チリン――



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