勉強をしなきゃと思う。
 何のため? 合格するため。
 じゃあ、私は、何のために合格するの?


 面談室に入ると、担任はソファから私を見つめ、座るように促した。
 私が向かいの席に座ると、担任はファイルから私のものらしい成績表を取り出す。
「えーと、座間は進学希望だったよな」
 確認するように私を見た担任に、私は頷き返した。
 続けて、担任は成績表に目を通す。
「――なるほどな。今の学力がキープできるなら、ここに進学するのは難しくないだろう」
 A判定なんだから、当たり前だ。そう思う。
 だが。続けて、担任は私を見る。
「最近、少しずつ調子を落としてるみたいだな。このペースで下がり続けると、危うくなるぞ」
「はい、わかっています」
 自分がスランプであるという事実も、どれをどうにかしない限りは進学できない可能性がある事も。
 何もかも、理解はしている。
 私に受かる自信がないのも、それが理由なのだから。
 担任は手に持ったボールペンで頭をかいた。
「何か問題でもあったか? 先生でよければ相談に乗るぞ?」
「いえ、特に」
 端的に答える。そして、それが事実の全てでもある。
 答えたくないわけじゃない。答えられないだけ。
 問題なんて何もない、勉強量なんて夏前よりも増えている。なのに、成績は落ち続けている。その理由、私にもわかっていない。
 担任はため息らしきものをつくと、ファイルを閉じた。
「座間ぁ、のんびりと構えるのもいいが、やりたい事をやるためには入学が第一歩だ。そのためにも、今は頑張らないとな」
「はい」
 それも、理解している。高校三年、間もなく冬。町は少しずつクリスマスの飾りが増えているこの時期、それはつまり、センター試験が近づいているという意味でもある。ここを突破しなきゃという想いは、ある。
 そう、やりたい事を、やるために。
 ……やりたい、事を。
 それからいくつかの質問に答え、私は面談室を後にした。

 駅のホームには中途半端な時間のせいか、同じ学校の生徒の姿は見えなかった。少しずつ寒くなっていく気候の中で、今日は格別に寒い。私はマフラーの中に顔を埋め、じっと寒さに耐えていた。
「寒いでしょ」
 声に、目だけで横を見る。そこでは、知らない女の子が私を見ていた。
 桜色の着物に、この寒い季節には信じられない、白のミニスカ。肩にかかる髪は少しウェーブがかかっているように見える。年齢は、私とさほど変わらないくらいか。
「私、ですか?」
 聞くと、女の子は頷いた。
「あたし、志野ケイ。よろしく」
「よろしく……?」
 いきなりの挨拶に思わず返してしまったけど、よくよく考えたら、誰なんだろう。
「あんたさ、悩んでるでしょ? 成績の事で」
「――学習塾の勧誘か何かですか?」
 聞くと、志野さんは顔の前で手を振った。
「あー、違う違う。ま、相談受付係ってところかな。悩みなら聞くよー?」
 そう言われても、漠然とした気持ちを語るわけにはいかないし、何より、初対面の人にそこまで話すほど、私も気安くない。
 チリン――
「ケイ。それでは話してもらえるものも、話してもらえなくなるわよ」
 志野さんの後ろから声がした。覗くと、頭に動物を乗せた小学生くらいの女の子が、志野さんを見上げていた。
「ん。そんな事を言ってもさ、あたし、どう言っていいかってわかんないわよ。あたしは受験とかした事、ないし」
「けれど、彼女の悩みの原因は知っている。なら、それを伝えるだけでいいのよ。それをどう解釈し、どういう道を決めるのかは、彼女次第なのだから」
 言い切って、女の子は私に視線を移した。
「こんにちは。私はアンジェラ、こっちはエルよ」
 女の子は自分と頭の動物を紹介した。そして、続ける。
「貴女の漠然とした悩み。その根たる原因は、人生を賭けてまで成し遂げたいという事柄が、貴女の中には何もないという事。やる気がないのではなく、やりたい事がない。確かにそれでは、歩む足も鈍ろうというものね」
 やりたい事がない。
 ずばりと言われ、内心、驚いた。
 やりたい事がない、それは、自覚している。志望校も私の学力レベルと、家から近いという理由だけで決めたもの。別にその学校に思い入れがあるわけじゃないし、そこに行って何を学びたいというものもない。
 ただ、なんとなく受験して、そのままなんとなく進学するんだろうなと、そう思っていた。それを、初対面の女の子に言い当てられるなんて。
 私って、そんなにわかりやすかっただろうか。ちょっとだけ、自己嫌悪。
「あたしは受験ってよく知らないけどさ、そんなに悩まなくていいと思うわよ。みんな、そんなもんだし」
「そうかも、しれませんね」
 でも、私がそうであるという事実も変わっていない。それでは、何にもならない気がする。
 何か目標を持てば、私も変わるだろう。けれど、何がしたいというわけでもない。とにかく大学に合格できなければ、何もできないという気もする。だからこそ、勉強しているのだが。
 志野さんは私の顔を見つめ、そして、ため息をついた。
「重症ね。ここはひとつ、勉強なんかやめちゃいなさいよ」
「はい?」
 何を言っているんだろう、この人は。勉強をせずに、受験に合格できるとでも?
 対する志野さんはお気楽そうに、
「今のあんたは勉強するだけ逆効果よ。それが重荷になる。やればやるほど、焦りが出てくる。だから、どっかで遊んできなさい。そーすれば、ちょっとは改善されるだろうから」
「……そんな事、できるわけないですよ」
 今は落ち目だから。勉強をやめたら、すぐに失速するに決まっている。
 これ以上、落ち込んだら。もう、地面に墜落してしまう。
 アナウンス、そして、電車がホームに入ってきた。私はちらりとだけ振り返り、一言を残す。
「心配してくれてありがとうございます、でも、大丈夫ですから」
 志野さんは、何も言わなかった。ただ、私を見つめるだけだった。

 しばらくして、模試があった。いつも通りに受け、そして、出た結果は。
「B判定――?」
 その文字を見た時、信じられなかった。落ち目でも、勉強時間だけは落としていない、むしろ増やしている。なのに、どうして判定は落ちるの?
「まだ不調?」
 友達の声も、どこか遠くに聞こえる。それに、遠くの私が答える。
「さすがにここまで来ると、ヤバイかもね」
「少し、息抜きでもしたら? このままのペースで受験に入るより、ずっといいと思うの」
「それは、できないよ。それこそ落ちているんだから、遊んでいる暇なんてないし」
 心配そうに眉をひそめる友人を安心させる言葉は、私の手持ちにはなかった。
「どうしてかなぁ……。夏までは成績、最高だったのに」
 やっぱり、やりたい事がないのが原因か。でも、今からいきなりやりたい事を探せって言っても、無理がある。
「やっぱり、無理してるからだと思うの」
 独り言に、予想外の回答が飛んできた。見れば、割と真剣な顔をしている。
「無理? 私が? そりゃ、勉強に割く時間は増えたけど、それだけだよ」
「本当に?」
 重ねて聞かれると、返事に困る。でも、何を無理しているのかさえ、わからない。そもそも、じゃあ勉強しなきゃ何をするのって聞かれて、答えられないのだし。
「本当だよ」
 だから、そう答えるしか、なかった。

 重い足取りで歩いていると、また現われた。
「こんにちは」
 足元に落としていた視線を上げると、そこにいたのは、やはり志野さんだった。今日も、小学生くらいの女の子を連れている。
「こんにちは」
 挨拶を返し、私は立ち止まった。志野さんはそんな私を見て、笑顔で言う。
「まだ迷ってるんでしょ?」
「そう見えますか?」
 大きく頷かれてしまった。それも仕方ないかもしれないけど。
「あんたは肩に力が入りすぎね。そんなんだから不調になるのよ」
 その言葉には、さすがの私もムッとする。何が肩に力、よ。私の事は、何も知らないくせに。
「何かをやらなきゃって思うから、何もできなくなるのよ。もっと気楽に気楽に。受験なんか自分のためなんだから、自分が良きゃ、別になんだっていいのよ。その程度のもんだって」
「本当に、大きなお世話ですね」
 ぼそりと、声が漏れる。志野さんの動きが、停止ボタンを押したみたいにぴたりと止まった。
「私の事、放っておいて下さい。心配されるだけ、迷惑です」
 違う。そうじゃない。
 志野さんは複雑な表情を浮かべた。泣いてるような、怒ってるような、心配しているような。ただ、少なくても笑っているようには見えない。
「んー。とうとう、あたしまでお節介と言われるようになったかぁ」
 志野さんは頬をかき、言った。
「じゃ、後は自分で頑張りなさいな。どっちにしろ、あたしにしてあげられる事なんて何もないんだし。ただ、気負うのはやめときなよ。自分らしくありなさい。これ、あたしからの忠告ね」
 行こう、と促し、志野さんは連れ立って歩き出す。女の子はちらと私を見上げ、すぐにその後を追う。
 そんな志野さんの背中を見つめていると、心がざわざわした。違う。違う。
 心配される事は嬉しいんだ。ただ、それに答えられない自分が、不甲斐なくて。
 どうすれば、いいのか。それが見えてこない。
 私らしく。じゃあ、私って何?
「――待って」
 自分が何を言ったのか、理解できなかった。志野さんが足を止め、再び私の前に帰ってくるまで、自分が口走った言葉が何か、わからなかった。
「何?」
 子供のように小首を傾げる志野さんを見て、ようやく頭が繋がる。けれど、次の言葉を発する事ができない。
 ただ見返すだけの私を見て、志野さんはくすりと笑った。
「どうせ、自分らしくってのがよくわからないとか、そんなのでしょ?」
 それも、図星。何も言い返せない。
「やりたい事がない。目標がない。ただ、なんとなく受験勉強をして、なんとなく進学して、なんとなく生きる。そういう生き様でいいのかなって思っても、他の道を歩き出す事はできない」
 全部、私に当てはまる。そこまで、見抜かれている。
「いいんじゃないの。目標なんて、歩いている間に見つかるわよ。でも、漠然と歩いても見つかるものじゃない。自分らしく歩かないと、ね」
「自分らしく、歩く?」
 志野さんは小さく頷いた。続けて、付け加える。
「今のあんたじゃ、ちょっと難しいかもしれないけどね」
 くすりと笑い、私の顔を覗きこんだ。違う? と言わんばかりに。
「私、は……」
 その顔を見ながら、けれど、私に答えられるものはない。
 今の私には、目標を見つけられるほどに強い自分がない。何もかもがリアルに感じられず、どこか遠くで自分が悩んでいるようにも思える。
 ふふん、と勝ち誇ったような笑みを浮かべ、志野さんは言った。
「やっぱりできないでしょ。自分らしくとか、目標とか」
「――はい」
 仕方なく、私は頷いた。そうするしかなかった。
 それに満足そうに頷き、志野さんは私の肩に手を置いた。
「それでいいのよ、別に」
「はい?」
「だから。そういう事って、考えてするもんじゃないの。言葉遊びみたいなものよ。自分らしくなんて言うけど、自分がわかるのは自分だけよ。他の人じゃ、その人の全てなんてわかりっこない。だから、自分らしいって決められるの、あんただけなのよ」
 私らしいを決める、私。
 志野さんはじっと私を見つめ、ふと、思いついたように言った。
「ちょっとあたしに付き合う? 大丈夫、受験生に時間なんて取らせないわよ」
 いたずらっぽい笑みに、私は思わず頷いていた。

 志野さんは、私をマンションに連れて行った。オートロックなんてものは存在しない、古いマンションだ。
 そんなマンションの屋上まで行く。給水用のタンクだけしかない屋上は寂しい空気が漂っていた。
「寒いの、大丈夫?」
 平気です、と答え、私は視線を外に向けた。柵の向こう側には、町が見える。ビル郡があるわけでもないから、それなりに町が見渡せた。
 柵に寄りかかる志野さんを真似て、私も柵のギリギリに立つ。
「この町に住む人でさ、どのくらいの人が“自分らしく”生きていると思う?」
 ふと、志野さんはそんな事を聞いてきた。
「わかりません」
「当然よね。あたしだって知らないし、本人だってわかっているのやら。何も知らずに自分らしく生きている人も多いんじゃない?」
 私が見失っている事を、天然でやる人たち。ちょっとだけ、羨ましい。
「人間ってさ、やっぱり歩かなきゃわかんないと思うのよ、そういうの。転んだりしながらも歩いて、ひたすらに前に進んで、それでようやく理解できるものだって」
 町並みから視線を外し、志野さんは私を見た。
「今のあんたが自分らしいって決めれば、たぶんそうなる。すぐにじゃなくて、だんだんとね。言われた事を言われた通りにやるんじゃなくて、自分なりにやればいいのよ。結果は、自分なりの結果になるからさ」
 言って、志野さんは快活に笑った。
「意味、わかんないでしょ?」
「ええ、まあ」
「それでいいのよ。こんなの、口だけなんだから」
 志野さんは、まるで悩みなんてないように思える。こんなにも明るくて、こんなにも無邪気で、こんなにも、自然に振舞う事ができている。
 でも、それは錯覚なんだって、私でもわかる。それが、隣で陽だまりでも見るかのような目で志野さんを見つめる、女の子から伝わってくる。
 私は知らないけど。志野さんも、色々と自分の事で悩んだんだと思う。その結果が、これなんだ。
 それは、志野さんだけじゃない。誰だって、自分の事で悩んで。誰より身近にいるはずなのに、こんなにもわからなくて。それでも、前に進むんだ。そうしなきゃ、わからないって知っているから。
「……ありがとうございます。少しだけ、わかったような気がします」
 私がそう言うと、志野さんは私の目をじっと見つめ、、そう、とだけ呟いた。
「じゃ、後は勉強なり遊びなり、テキトーに頑張ってね。頑張ると気負うは違うって、今のあんたならわかるでしょ?」
 私の中の、微妙な変化まで見抜いている。
 私は志野さんのようには、なれない。ならなくて、いい。だって――。
「私は、私ですから」
 そういう、事なんだって。少しだけ、理解できた。
「ん。いい顔しているよ、あんた」
 言い残し、志野さんは女の子を引き連れて歩いていく。今度は振り返らない。もう、私を心配しなくていいと、わかっているからだと思う。
 屋上から姿を消すまで見つめ、私は思い切り背伸びをした。
「さて、帰ってテレビでも見ようかな」
 足取りは、軽くなっていた。


「ありがとう。励ましてくれて。顔色も、随分とよくなっていたの」
「いいわよ、別に。これが、あたしらの仕事みたいなもんだしね」
 とある神社の片隅で、少女たちは会話をかわす。
「でも、アンジェラ。今回はあんまし口を挟まなかったよね? どうしたのよ」
「彼女の心には、貴女の方が近いと思ったからよ。私が百の言葉を重ねるよりも、貴女の一の態度が彼女を変えるわ」
「……相変わらず、小難しい話をしてくれるじゃないの」
 そのやり取りを、巫女はくすりと笑って見つめた。
 笑われた眷族は、少しばかり頬を朱に染めつつ、
「それより、あんたもいいの? 勉強とか。一応、受験生なんでしょ?」
「これが、私の私らしさだから、大丈夫なの」
「う。あんたも、見た目と違ってけっこー、言うわね?」
「神も悪魔も越える貴女さえも、彼女には勝てないかしら?」
「アンジェラまで!? もう、勘弁してよ」
 ふふ、と笑い、死導者は巫女に告げる。
「では、私たちはこれで失礼するわ。何かあれば、呼んでくれる?」
「それは、こっちも同じなの。私で協力できる事があったら、呼んで欲しいの」
 チリン――
 少女たちは軽く言葉をかわし、そして、ふたりの姿は消える。
 残された巫女は手のほうきを握りなおし、小さく気合を入れて、境内へと戻っていった。
 秋風は、徐々に冷たさを増している。
 チリン――



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