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俺は妻を失いたくない。 妻という存在が消える事が、俺には何より恐ろしい。 だから、死んだって守り抜いてやるんだ。 「ただいま」 ワンルームの狭い自宅に帰宅すると、涼子は布団の上から俺を出迎えた。 「おかえり。寒かったでしょ?」 「いや、大丈夫」 答え、俺はコートを脱ぐと、涼子の隣に座った。 「どうだ、調子は」 「今日はいい感じ。起き上がれているし」 「そっか。でも、無理しないで寝ていた方がいいんじゃないか?」 「過保護だね」 くすりと笑い、それでも涼子は横になった。その、幸せに満ちた顔に向かって、あの話をしなきゃいけないのか……。 「マサくん、どしたの。顔色が悪いよー?」 「そ、そうか?」 いけない。顔にまで出ていたか。俺は頭を振り、覚悟を決めた。 「涼子。ちょっと、話があるんだけど、大丈夫か?」 「ん、いいけど? 大事な話みたいだね?」 俺は頷き、さっき聞いたばかりの内容を、頭の中で繰り返した。 「子供、なんだけどさ」 「うん」 涼子は、純粋な目で俺を見ている。その目を見ていられなくて、俺は畳を見つめた。 「堕胎、しないか?」 「どうして?」 間を置かない質問に、俺は思わず顔を上げた。涼子は、目をそらす事なく、ただ俺を見つめている。 「あたしの、体が弱いから?」 俺は、小さく頷いた。 涼子は、生まれながらに体が弱い。学校も休みがちだったし、卒業した今も、こうして横になる事が多い。 その涼子が、出産する。それは、母体にとっても非常に危険。このままでは、下手をすれば子供が、さらには涼子までもが、耐えられないかもしれない。 医者の言葉が、頭に響く。 「俺は、お前に死んで欲しくない。お前がいなくなったら、俺、どうしたらいいかわからなくなりそうだ。だから、死なないで欲しい。もし子供を産む事でお前が死んじまうかもしれないなら、俺は、無理に産んで欲しくないんだ」 「マサくんは心配性だねぇ」 くすくすと笑い、涼子は布団から手を出した。それが、そっと俺の頬に触れる。 「あたしね、親が子供を産むのって、自分のためなんじゃないかって思うの」 「自分の、ため?」 涼子は小さく頷き、続けた。 「死んじゃった時、自分っていう存在が消えてなくなるのが怖くて、絶対に自分を覚えていてくれる存在が欲しいだけなんじゃないかなって。子供なら、絶対に親を忘れないでしょ? だから、子供が欲しいんじゃないかなって。人間って、利己的だから」 「でも、だったら産むなんて……」 「うん。産んで、子供もあたしも死んじゃったら、意味がないよね。でも」 俺を見る涼子の目に、迷いはない。強い、俺なんかよりもずっと強い意志が、涼子の瞳で輝いている。 「あたしが子供を殺しちゃったら、あたし、たぶんもう産めない。そうしたら、あたしを覚えていてくれる人、いなくなっちゃうじゃない」 俺は、涼子の手を握った。強く握ると、涼子も、弱々しく握り返してくる。 「俺が、覚えている。ずっと、お前だけを見続ける。だから、心配しないでくれ」 「駄目だよー。マサくん、あたしより早く死んじゃうかもしれないじゃない」 白い顔で、笑いながら、涼子は言う。 「それにね、もしあたしの方が早く死んじゃったら、マサくんには新しい恋人を探して欲しいな。いつまでもあたしだけを想うんじゃなくて、色々な人を愛して欲しい。死んじゃった人を想い続けるって、寂しいじゃない」 「――死んだらなんて話、しないでくれよ」 「あ、ごめんね」 てへへ、と舌を出す涼子。年齢以上に幼い動作に、俺は胸を締めつけられるような感じがした。 「とにかく、あたしは産みたいんだ。あたしは弱いけどさ、そんな自分勝手な理由で、この子に死んで欲しくないもの」 涼子はそっと、お腹に手をやった。まだ、大きく目立つほどにはなっていない。けれどそこには、確実に命がある。まだ名前もない、世界も知らない、俺たちの子供が。 それを想うと、手が震えそうになった。何がなんだか、よくわからない感情が俺の中を走り抜ける。 「ね? マサくん」 そんな俺の手を、涼子は優しく包んでくれた。ほんのりとしたぬくもりが、俺の手に伝わってくる。涼子の体温。涼子が、生きている証拠。 俺はぐっと奥歯をかみ締め、涼子を見据えた。 「……わかった。お前に、協力するよ」 「ありがと、マサくん」 涼子の意志は強く、変わらない。なら、俺が涼子をサポートするしかない。 子供も涼子も、俺が守らなきゃいけない。 「一緒に、親になろうな。涼子」 「もっちろんだよ」 そう言って、涼子は笑った。病弱なくせに、その笑顔だけは、やけに力強く輝いていた。 それからの俺は必死に涼子を支え続けた。 仕事はできる限り早く終わらせ、なるべく残業をせずに家に帰る。帰ったら、涼子に食事を作る。 伏せる涼子は、まともに食べられない事も多かった。そういう時はつわりが酷くなりやすいらしいので、夜中にでも食べさせた。そうすれば、起きた時の負担は小さくなる。 安定期に入った後も、油断はできない。とりあえず熱はなかったが、放っておけばすぐに体調を崩すようなタイプだ。俺は気を抜かず、涼子の世話を続けた。 一度、涼子に言われてしまった。『そこまで無理をしなくてもいい』と。それに、俺は答えた。これは、『俺がやりたいからやっている』事なのだと。 涼子は小さく、泣きそうに微笑んだ。けど、その顔に悲しさは感じられなくて、俺は安心した。 忙しくする日々。月日はまたたく間に過ぎ去り、夏になり、そして、再び冬が訪れようとしている。 そんな中で、その日は、とうとう訪れた。俺には手助けしてやる事ができない、戦いの日が。 その日は、朝から雨が降っていた。タクシーで涼子と共に友人の病院に向かう。これで、最近になって増えているたらい回しも防げる。 分娩室には、俺も入れてもらえた。涼子が戦う間、俺は涼子の手を握ってあげる事しかできなかった。目の前で涼子が苦しんでいるのに、俺はただ、手を握るだけ。 奥歯をぎゅっとかみ締めて、ひたすらに耐える。俺の手の方が、小さく震えだした。 「涼子――!」 こんなに近くにいるのに。触れられるほどに近くにいるのに。俺は、無力なんだ。 「頼む、涼子、耐えてくれ。頼む!」 頭の中が真っ白になりそうだ。医者の声が聞こえない。何をするべきなのかも、わからない。 どれくらい、そうしていただろうか。泣き声によって、俺は現実に呼び戻された。 「え……?」 顔を上げる。看護婦の手には、赤ん坊が抱かれていた。 「終わった、のか?」 すぐには実感が沸かなかった。徐々に、ゆっくりと、苦しみの時間が終わったという感覚が出てくる。 そうだ、終わったんだ。もう、涼子は苦しまなくていいんだ。 「涼子! やった、な……?」 振り返り、気がついた。 涼子は目をつむっていた。顔は白く、血の気がなかった。 「涼子?」 声をかけると、涼子はゆっくりと目を開いた。小さく、口元を笑みの形に変えて。 「マサ、くん? あたし、頑張った、よね?」 「ああ。頑張った、お前は、頑張ったんだ」 「うん。ありがとう。そう、言ってくれると、嬉しいな」 俺の手を握る涼子の力が、弱くなっていく。段々と、涼子が遠くなっていく。 「少し、休んで、いいかな。あたし、疲れたんだ」 「待って、待ってくれ。涼子、頼む、待ってくれ!」 「ごめんね、マサくん。あたし、弱くて。でも、ずっと、一緒だからね」 呟くように言って、涼子は目を閉じた。 「……涼子?」 答えは、ない。俺の手の中から、涼子の力が、消えた。 「嘘、だろ? 冗談だよな、なあ!」 失うまいと力を込めて。必死に握り締めて。けれど、何も返ってこない。俺の中で、涼子が消えていく。 「そんな、やめてくれよ、涼子ぉ!」 否定したい。認めたくない。それが現実? そんなの、ひどすぎる。 これから、俺たちはこれから家族になるんだ。夜泣きに苦労したり、入学式で泣いたり、反抗期に手を焼いたり。一緒に笑い、泣き、怒り、楽しむ。それは全て、これからなのに! 誰よりも俺の近くにいる涼子は、誰よりも、遠いままだった。 俺の腕の中で、赤ん坊はすやすやと寝息を立てている。その顔を見つめながら、けれど俺の中にあるのは、絶望感だけ。 涼子は、死んでしまった。あいつは、もうこの世にいない。 俺は結局、涼子を守ってやれなかった。思えば、無理矢理にでも出産をやめさせておけばよかったのかもしれない。そうすれば、涼子は、死なないで済んだ。 ああ、わかっている。そんなの、馬鹿げた考えだ。この子には何の罪もない。子供のせいにする親なんて最低だ。 わかっているのに、考えが消えない。あいつがいないという喪失感が、俺の中で漂い続ける。 俺だけしかいない自宅は静かだった。あいつがいた頃には、手狭ですらあったのに。たったひとりがいないだけで、こんなにも違う。まるで世界には他に誰もいないような、そんな気にさえなってくる。 「どうして、だろうな」 声に答えてくれる人は、いない。 チリン―― 「どうしてだと思う?」 思わず、体ごと後ろを向いた。誰の気配もなかったはずなのに、俺の背後に、いつの間にか女の子が立っていた。 喪に服しているような漆黒の衣。吸い込まれそうな深紅の瞳は、じっと俺を見上げていた。 「こんばんは。私は、アンジェラ」 「こんばんは……?」 アンジェラは俺の隣に立つと、赤ん坊を見つめた。 「貴方と彼女の子供ね」 「涼子を、知っているのか?」 アンジェラの横顔には、何の表情も浮かんでいない。そこから何かを読み取るのは、とても難しい。 「『あたしの話、覚えている?』」 言って、俺を見上げた。 「彼女からの伝言よ。何を意味するのかまでは、私は聞いていないけれど。貴方なら、わかるわね?」 涼子の話。もちろん、あいつの話はひとつだって忘れちゃいない。 あいつの言いたい事。それは、何か。 思い当たった時、けれど俺の体を駆け巡ったものは、ただの暗い気持ち。 「わかって、いるよ。涼子がこいつを育てて欲しいって思っている。あいつが命を賭けてこの世に残した存在を、あいつという存在を忘れないために、育て上げて欲しいって願っている」 赤ん坊を抱く力に、少しだけ力が入った。 「でも、駄目だ! 悲しいんだ、苦しいんだ! 俺はあいつが好きだった、愛していた! あいつも俺を愛してくれた! なのに、俺はひとりでこの子を育てなきゃいけない! それが、たまらなく辛いんだよ!」 赤ん坊が薄く目を開き、泣き声をあげた。俺は不安がる子供を、抱いてやる事しかできない。 「その苦痛は、当然のものね」 俺の隣から、柔らかな声が聞こえた。顔を上げれば、アンジェラは小さく笑っているように見えた。 「それは、それこそが、貴方が人を愛したという証明でもあるのだから。けれど、だからこそ。貴方は、貴方の子供を愛する事もできる」 だって。アンジェラの口が、ささやかな声を紡ぐ。 「その子供は、貴方と彼女が、愛し合ったという証拠なのだから。貴方は彼女を愛したように、その子を愛する事ができるはずよ」 赤ん坊の手が、俺の頬に触れた。その時になって初めて、赤ん坊が泣き止んでいる事、そして、俺の頬を涙が伝っている事に気がついた。 アンジェラはそっと、子供に触れた。子供は何が嬉しいのか、楽しそうに笑った。 「この子は弱い。世界に対して、この子供はまだ何の対抗手段も持ち合わせていない。それを与え、この子がその力を使いこなせるようになるまで守るのは、貴方の役目よ」 つと、アンジェラの視線が俺の瞳に注がれる。 「できるわね?」 確認の言葉。その内容に意味はない。アンジェラは、すでにわかっているのだから。 「……ああ」 俺は服で涙をぬぐい、頷いた。 チリン―― アンジェラが、満足そうに頷く気配が伝わってきた。俺は、それを見上げる事もできない。 「できる。やってみせる。涼子の残したものを、俺が、守り抜く」 絶対に、絶対にだ。今度こそ守ってみせる。今度こそ、今度こそ。 もう、失敗なんてするもんか! 俺の決意が伝わったのか、子供はパチパチと手を叩いて喜んだ。 それを眺めていた俺は、ふと、思った。 「――そういえば、アンジェラって誰だ?」 聞いてみようと顔を上げると、そこにアンジェラの姿はなかった。 部屋を見渡す。狭苦しい部屋に隠れる場所はなく、どこにもアンジェラの姿は見えなかった。 「あれ?」 どこにもいない。文字通り、煙のように消えてしまった。 「……はは」 白昼夢だったのだろうか。それとも、現実? どちらでも、同じ事だ。俺は、もう挫けない。絶対に挫けるものか! 「ありがとうな、アンジェラ」 チリン―― どこかで、鈴が鳴ったような気がした。 チリン―― 赤ん坊と、桜色の眷属はにらめっこをしている。その肩から、黒い小動物も覗き込んでいた。 「この子、あたしたちが見えてるのかな?」 「目で捉えているとは思いがたいけれど、気配は感じ取っているようね」 ベビーベッドに寝かされた赤ん坊を前に、少女たちは顔を綻ばせる。その隣で、女性が笑っていた。 「可愛いでしょ。あたしの子供だもん」 「それは遠回しに自分が可愛いって言ってるの?」 「そうとも言えるかなー」 女性はくすりと笑い、ふっと顔に影を作り出した。 「ごめんね。あたし、君のために何もしてあげられないんだ」 そっと手で触れる。けれど、その手は赤ん坊の顔をすり抜け、空気をつかんだ。 痛ましい表情を浮かべる女性を、少女たちも沈んだ面持ちで見上げた。 「仕方ない事だけど、やっぱりちょっと寂しいな。抱き上げたり、あやしたりさ。すぐに大きくなって、洋服とか悩んだり、よちよちって歩くのを不安げに見つめたり。そういう事、あたしもやってみたかった」 「悔いを残したままに在ろうと願えば、貴女は私たちの敵になってしまうわ」 女性は夜空色の死導者を振り返ると、その小さな頭にぽんと手を置いた。 「大丈夫よ。あたし、もう逝くから。心残りはあるし、まだ死にたくない。でも、もう死んじゃったから。それに後は、マサくんがやってくれるもんね?」 部屋の隅に目をやる。必死な表情で育児書に目を通す男を、女性は柔らかな表情で見つめた。 「信頼しているのね」 「あたしの夫だもん。当然でしょ?」 「羨ましい関係ね」 「あなたにも、いつかできるわよ。そういう相手が」 言葉に、少女はきょとんと見つめ返した。 「……どしたの?」 「私に、恋人?」 「そう。女の子だもん、恋のひとつやふたつ、経験してみたいでしょ?」 まだ理解はしがたいらしく、死導者はしばらく悩ましげに見上げていた。やがて、ゆっくりと口を開く。 「私に、そういう相手ができるとは思わないけれど。それも、楽しそうね。でも」 「でも?」 「誰かひとりを愛するというのは、私には合わないと思うわ。私は、誰かのために在り続けるわけではないもの」 チリン―― 唯、皆の為に。 それが、この小さな少女の逝き様。 「んー、ま、それで満足ならいいんじゃないかな?」 首を小さく傾げ、女性はうんと頷き、少女たちに背を向けた。 「じゃあね。見送ってくれて、ありがと」 軽く手を振り、女性は光となって消え去っていく。その様を見つめ、少女たちは顔を見合わせた。 「お次、行きますか?」 「ええ」 「きゅう」 息を合わせ、歩調を揃え、少女たちも歩き出す。 果てのない道を。 チリン―― |