生きている事が幸せなんて、誰が決めた?
 死ぬ事が幸せの人もいる。生きる事が幸せの人がいるのと同様に。
 そして、自ら幸せを手に取れない人も。


「それは、できないわ」
 夜空色のワンピースに身を包んだ女の子は、私にそう言ってのけた。
「どうしてだ? 君は、死を導くんだろう?」
「ええ。けれど、私が死を導く相手は、死を間近に控えた者にのみ。彼女は――」
 言って、アンジェラは視線を横に向ける。そこには、縁側に呆然と座る、婆さんがいた。
 私の、妻だった。
「彼女は、まだ死が遠い。おそらくは数年、場合によっては十年ほど。彼女には残された時間があるもの。殺す事は、できない」
「けど、婆さんをひとりにしておけないんだ。頼む」
 私は頭を下げた。定年退職を迎えて以来、頭を下げるのは久しぶりだった。
 けれど。肯定の言葉が返ってくる事は、なかった。
「あのさ、どうして無理に殺させようとするの? 普通、奥さんとかがまだ生きているなら、もっと長生きして欲しいって言うところじゃないの?」
 アンジェラの隣、桜色の着物と白いミニスカートを着た女の子は、不思議そうに言った。
「ケイちゃん、だったね」
「“ちゃん”は別にいらないわよ」
 構わず、私も婆さんに視線を送った。婆さんは何をするでもなく、ただ空を見上げている。
「まだ、わからないかもしれないが。婆さんには、私がいないとダメなんだ。私も、婆さんがいないとダメだ。常に一緒でないと、ダメなんだ」
「でも、何も死ななくてもいいじゃない」
「死ぬべき、なんて言わない。私が生き返る事ができるなら、それでもいい。とにかく離れたくないんだ。本当なら、婆さんも自殺を考えていると思う。けど、婆さんに自分で死ぬような勇気はないんだ」
 高いところに行けば足がすくみ、血を見れば気分を悪くするような婆さんに、自殺なんて無理な話だった。飛び降りも、首吊りも、絶食も入水も手首を切る事さえ、婆さんにはできない。
 婆さんは、死を恐れている。
「彼女が生きられるような、あるいは、貴方の望み通り死ねるような。そんな、言葉だけならば届けられるわ」
 妥協案、だろうか。アンジェラは、困ったように、苦しいように眉を寄せながらも、そう言った。
 けれど、私は首を横に振った。
「言葉だけでどうにかなるなら、遺言書でも書いているよ。婆さんは、底なしの意気地なしだからな」
 言って、私は苦笑した。
「なら、せめて婆さんがこちらに来るまで、待っている事はできないか?」
「それも無理ね。あんた、寿命だもん。完全に。たぶん、一週間くらいがこっちにいられる限度だと思う」
 ケイの言葉に、私は歯噛みした。私には、婆さんを迎えてやる事さえもできないと言うのか。私は、婆さんのために、何もできないのか!
「残念だけれど、それが世の中の理。死者は生者に触れ合えない、何もできない、何も成せない。それが、死というものだから」
 アンジェラの言葉が、私の耳に痛いほど残った。

 昔から、私はよく言っていた。婆さんが死んだら、私もすぐに後を追う、と。
 それに婆さんは笑って答えてくれた。ありがとう、わたしもそうしたい、と。
 変わった夫婦だと思う。互いに、互いが死んだ時の事ばかりを考えていた。それほど、別れの時が怖かった。
 結婚して、何十年という時間を共に過ごしてきた。人生の大半を、ふたりで歩んできた。だからこそ、最後のゴールも、一緒に潜り抜けたかった。
 でも、それはできなかった。私の寿命という、それだけの理由で。
 婆さんは私が死んでから、一日中、縁側に座っていた。生前、私が座っていた縁側に、ぬくもりを探すように。
 その、痛々しい姿を見ていると、心が熱くなる。何かをやりたくなる。でも、何もできない。
「きゅー」
 私が婆さんを見つめていると、ふと、婆さんは視線を庭に向けた。私もそちらに目を向けた時、耳が何かの声を捉えた。
 それは、間違いなく声だった。なんだろう、これは。人、ではない。
 婆さんは立ち上がると、サンダルで庭に出た。隅の方、声の方にまで歩いていく。私も、その後についた。
「……猫?」
 そこで鳴いていたのは、子猫だった。まだ目も開いていない子猫だ。
 婆さんはきょろきょろと見渡した。親を探しているんだろう。けれど、近くに親の気配はない。
 婆さんは猫に視線を落とした。猫は親を求めているのか、懸命に鳴いている。
「仕方ないねぇ」
 婆さんは小さく呟くと、猫を拾い上げ、家に上がった。

 婆さんはすぐにスーパーに走った。そこでスポイトやらミルクやらを買い、急いで家に戻る。
 ミルクをやると、最初は嫌がりながらも、結局は吸い付いてきた。食事を与えた後、婆さんは何やら押し入れを引っ掻き回す。
 出してきたのは、古い本だった。昔、ウチが猫を飼っていた時の本だ。初心者向けの、猫の飼い方マニュアルのような事が書いてある。
 婆さんはそれを真剣に読み出した。一心不乱に、それこそ、それ以外は何も見えていないかのように。
 その日は、猫の世話だけで一日が終わった。

 次の日も、その次の日も。猫の世話道具を少しずつ買い足しながら、婆さんは猫の世話を続けた。
 私はそれを、ただ眺めているだけだった。
 子猫は、最初は嫌がっていたが、段々と婆さんに懐いてきた。婆さんは、それを楽しそうに見ていた。
 見ながら、私は気がつき始めていた。けれど、それは口にしなかった。
 口にしたところで、聞く者は誰もいない。仮にいたとしても、口にはできないだろうが。
 そうだ、私は、それを認めるのが怖いんだ。わかっていて、それでも認めたくなくて。それが、口に出してしまったら、現実になってしまうから。だから、私は口にできないんだ。
 婆さんは猫の世話と同時に、欠かさず仏壇にお参りを続けた。それが、私の救いだった。
 そんな日が、しばらく続いたある日の事。いつも通り猫に食事を与えた婆さんは、眠りこけたのを見計らって、仏壇の前に座った。
 線香に火をつけ、手を合わせる。白い煙が、ゆったりと立ち上る。
「あなた。少し、わたしの話を聞いてくれますか」
 婆さんは顔を伏せたまま、口を開いた。婆さんが仏前で口を開くのは、初めてだった。だから私も、少し緊張した。
「わたしは、あなたに会えてよかった。あなたのおかげで、わたしは生きてこられた。もし、わたしがひとりだったら。わたしは、どうなっていたかわかりません」
 婆さんの言葉が、ひとつずつ、私の全身に染み渡るように響いた。
「あなたのおかげで、わたしは“わたし”でいられました。ありがとう」
 それは、私も同じだ。お前がいてくれたから、お前が支えてくれたから、だから私は生きてこられたんだ。
 私がお前の支えだったように。お前も、私の支えだったんだ。
「昔、言いましたよね。わたしよりも後に死んでくださいって。わたしはひとりでは死ねないけれど、あなたにはそれだけの強さがあって。一緒に天国に逝くためには、それしか方法はないって」
 ああ、言った。けれど、私はその約束を守れなかった。
 魂の寿命が、尽きてしまったから。
 私は、終わってしまったから。
「なのに、先にひとりで逝ってしまって。きっと、わたしがそちらに逝くのを、ハラハラしながら待っているんでしょうね。わたしが死ねない事を知っていて、それでも、死ぬ決意をするだろうとわかっていて」
 何もかも、私たちには伝わっていた。婆さんの想いは私に届き、私の心は婆さんの中にあった。
「ところで、ですね。わたし、この間、猫を拾ったんです。まだちーっちゃな、赤ん坊の猫です。名前もありません。わたし、勝手ですけど、その子の面倒を看ているんです。ご存知、ですよね?」
 ああ、知っているとも。猫の事も、お前が、私がそばにいると知っている事も。
「それで、ずっと世話をしていると、必要とされているんだなって思うんです。こんな、あなた以外に誰も必要としてくれなかったわたしを、あの子は必要としているんです」
 目が、そらせなかった。婆さんに注いだ視線は、ぴくりとも動かせなかった。
「ごめんなさい、あなた。わたし、あなたがいないと簡単に崩れてしまうかもしれません。あなたも、わたしがいないと簡単に崩れてしまうかもしれません。本当は一緒にいるべきだって事もわかっています。でも、わたしは、ひとりでは死ねません」
 それに。小さな声でも、私の耳には、はっきりと届いていた。
「あの子を見ていると、もう少しだけ生きようかと思えてくるんです。すみません、あなた。わたし、そっちに逝くのは遅れます。それまで、寂しいでしょうけど、待っていて下さい。わたしも必ず、必ずそこに逝きますから。絶対に逝きますから。もう二度と、離れないように」
 だから、それまで見守っていて下さい。そう言って、婆さんは顔を上げた。
 見えたものは、強い目。あの、弱々しかった婆さんとは思えないほどに強い光が宿った目だった。
「婆さん……」
 わかって、いたよ。お前が、生きようとしている事は。私のところに来れない事に苦しみつつも、もう少しだけ、頑張ろうとしていた事は。
 ああ、わかって、いたんだ。
「わかっているのに――」
 頬に、手をあてる。雫が手を濡らした。
「わかっているのに、どうして私は泣いているんだ?」
 私だけではなかった。婆さんも泣いていた。夫婦で、泣いていた。
 チリン――
 背後に、気配が生まれた。けれど私は、振り向く事もできなかった。
 しばらく、ただ泣き続けた。婆さんがハッとして、慌てて立ち上がっても、私はそのままでいた。
 婆さんが猫の世話をするために部屋を出て行っても、私は動けなかった。
「どう? まだ、死んで欲しいって思う?」
 背後からの声。ケイの声だった。
 私は質問に答えず、ただ、呟くように言った。
「――ごめんな、婆さん。私は、お前を守ってやる事はできないんだ」
 私は、寿命だから。もう時間は残されていないから。
 今、こうしてここにいる事さえも、奇跡のような事だから。
 だから、私は、お前を助けてやれないんだ。
「不甲斐ないな、私は」
 目元を拭い、私は振り返った。
 私の背後では、アンジェラとケイが並んで笑っていた。
 私は、ふと思いついた事を聞いてみた。
「あの猫は、君たちが?」
 アンジェラは答えず、首を後ろに向けた。
「可愛らしい猫ね。逝きたくなくなるほどに、生きたくなるほどに」
 私は思わず苦笑した。これが、生を知る者、というわけか。
「世話に、なったなぁ」
「私たちは勝手に動いただけよ。今回はたまたま良い結果になったけれど、場合によっては、それが悪い結果になる事も十分に考えられたわ」
「そうなったら、君たちは良い方向になるよう導こうとする。だろう?」
 アンジェラは、笑って答えなかった。
 そうだ、この子たちはそういう子だ。何か、自分にできる事を考える。常に前向きに。死という、最悪の絶望を前にしてさえ、諦めない。せめて満足のいく死を迎えられるように、最大限の努力をする。
「本当に、ありがとう」
 私も、そろそろお別れの時間だ。
 婆さん。ありがとう。私も、お前に会えて、よかったよ。
 目を閉じる。意識が、段々と遠のいて――。


 日暮れの空を歩むのは、ふたりの少女。生を知り、死を導く者たち。
「今回は助かったわ、エル。ありがとう」
「きゅ!」
 死導者に褒められ、獣は満足そうに頷いた。
「本当に、よく見つけてきたわよね。あんな条件にぴったりの猫」
「エルの鼻は、よく利くもの」
 獣は自慢げに胸を張るが、桜色の少女は見てもいなかった。
「それにしても、出会っていきなり『婆さんを殺してくれ』なんて言われるとは思わなかったわよ」
「それほど深い愛情があったという事ね。他者には理解しがたいかもしれないけれど、彼らには通じるものがあった。そういう事ね」
「消極的な通じ方だったけどねー」
 ふっと、眷属は目を伏せる。
「あの人、幸せになれるかな?」
「それは、私たちが決める事ではないわ」
 答えながらも、死導者は笑う。
「けれど、そうなるといいわね」
 顔を上げた眷属は、晴れやかに言う。
「うん!」
 少女たちは、果ての見えない空を歩み続ける。
 チリン――



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