誰だって、死にたくないから生きているんだ。
 どうしても生きていなければならない理由がある人は、実はそんなに多くない。
 ま、これは俺の主観だけどな。


 俺は、やはり死ぬんだろうか。
 別に、何があるってわけじゃない。体にナイフが刺さっているわけでも、毒薬を飲んだわけでもない。ただ、緩やかに死んでいる事だけがわかる。
 世界も真っ暗だ。何も見えない。自分の手足さえも見えなかった。
 俺はまだ死にたくない。生きていたら何がしたいというわけではないが、とにかく、死ぬのだけはごめんだ。
 でも、このままでは確実に死ぬ。誰か、助けは来ないだろうか。これだけ暗ければ、俺の姿は見えないかもしれない。だとすると、助けも来ないって事か?
 ……、それは困る。助けてもらわないと、死んでしまう。
 誰でもいい。助けてくれ。満足なお礼なんて考える事もできないけど、死ななければ何でもできる。だから、とにかく、助けてくれ!
 チリン――
 心の中で助けを呼ぶ俺の耳に届いたのは、心を落ち着けるような静かな音色。
 そして、大人のような子供のような、不思議な声。
「こんばんは。私は、アンジェラ。わかる?」
 アンジェラ? 女の子、なのか?
「まあ、その通りね」
 よかった、助かった。俺を助けてくれ!
「それは、できないわ」
 どうして!? これで助かると思ったのに!
「私は死導者。死を導く者。貴方は導きようがないわ」
 そんな事は言わないでくれ! 俺を助けてくれよぉ!
「そうは言っても、私にも可能な事と不可能な事がある。貴方を助けるなんて、不可能よ」
 くそ、くそ! じゃあ、俺は死ぬのか? 死んで、死んで、そして――?
 あれ? 死んだら、どうなるんだっけ?
「人は死した後、魂となる。それはやがて、天に召されるわ」
 そうなのか。あれ? じゃあ、死んでも変わらないのか?
「それは違う。死者は生者と触れ合う事ができない。生者が死者と触れ合えないように。言葉を交わす事も、心を通わせる事も、懸命に未来を目指す事も、必死に生きる事もできなくなってしまう。なぜなら、それが“死”だから」
 難しいな。でも、魂ってのが人間の人間らしい部分だろ? 違うのか?
「それは、貴方の言う通り。魂の抜けた肉体は、人の姿をしているだけの、ただの器に過ぎない。それは、人と呼ぶ事のできない物体」
 そうだよな。つまりは、魂が本体ってわけだ。本体が消滅しないなら、まだいい。俺は生きてやりたい事があるんじゃなくて、ただ死にたくないだけだから。
「どうかしら。魂だけの存在は、死んでいるも同然。いえ、確かに死んでいる。誰とも交流せず、できず、ただそこに在り続けるだけの存在。それは生きていると呼ぶ事のできない存在よ」
 死んだような生き方ってわけか。けど、考える事はできる。その中で楽しさを見出したり、誰にも伝えられなくても、やりたい事もできるかもしれない。
「……?」
 つまり、誰にも言葉が通じなくたって、生きる事もできるって事だよ。そりゃ、他人の中に自分があるってのを喜ぶ人もいるさ。でも、俺ってどっちかって言えば、個人主義だからな。そういう状態でも、自分でいられるなら、俺は満足かもしれない。
「そう、なの。変わっているのね」
 そうかな?
「あるいは、私が変わっているのかもしれないわね。どちらとも言いがたいわ」
 意味ないさ、そんなの。変わっているの基準だって曖昧なんだ、どっちも普通だし、どっちも変わっている。それでいいんじゃないか?
「面白い考えね。ふふ、確かに今の貴方は『生きている』わね」
 そうだろう、そうだろう。ん、少し、眠くなってきたな……。って、ここで寝たら、マジで死ぬんじゃないか?
「大丈夫よ。ほんの少し休むだけ。死導者である私が言うのだから、間違いないわ」
 そうなのか? じゃあ、それを信じて、ちょっとだけ休ませてもらうかな。
「おやすみなさい。貴方に、しばしの休息を」
 ああ、おやすみ――。

 ……まさか、本当に目が覚めるなんて思ってなかった。
 完璧に死んだと思っていたのに、何故だか俺はまだ考える事ができる。あの女の子の話は、本当だったのか。
 相変わらずの暗闇で何も見えないけれど、まだ死んでいないだけマシってものだ。
「起きたのね」
 なんだ、まだいたのか。暇なのか?
「暇というわけではないけれど、貴方は珍しいから、気になったの」
 珍しい? 俺が?
「そう。貴方は、とても珍しい」
 どこがだ。俺はどこにでもいるタイプの人間だぞ? 当たり前の事実に当然のように頷き、政治に文句を言いながらも何もしなかったり、朝も早くから満員電車に押し潰されたり、昼飯に何を食べるか真剣に悩んだり、夜には酒を飲みながらテレビを見ているような、そういう普通の人間だぞ?
「それが貴方の普通なのね。けれど、今、貴方はとても珍しい体験をしている。それは、自覚があるでしょう?」
 珍しい体験? まあ、自覚はあるよ。こんな暗い中で死にそうな目に遭う人なんて、そうそういないからな。
 でも、それだけだ。
 まったくのゼロってわけじゃないし、世界中で死ぬ人間なんか山ほどいる。中にはこういう体験をしている奴もいるだろうさ。
「そうね。けれど貴方、勘違いしているわ」
 何を?
「確かに、世界では今も死んでいる人がたくさんいる。その全てに、私が関わる事はできない。何千、何万、何億という人間の死を、私は見届ける事ができない」
 そりゃそうだ。ひとりでそれだけの人間に会えるような奴がいたら、お目にかかりたいもんだよ。
「だからこそ、私は選ぶの。時に偶然に任せ、時に私を呼ぶ声に応じ、時に私自身が必要と判断して。貴方も、私が関わるべきと思ったから関わっているのよ? 貴方はただ珍しいだけではない。私に会えた、数少ない人間のひとりなのよ」
 ふうん。それって、凄いのかな?
「凄い、と表していいのかしら。それは、私にはわからないわ。でも、私はこういう出会いのために存在し続けているの」
 そっか。出会うために生きる、か。そういうのも生き方だよな。
「ええ。貴方の生き方は、どうなの?」
 俺か? 俺はさっきも言った通り、平々凡々だよ。
 ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通に勉強して、ごく普通に部活やって、ごく普通に進学して――。口にするのも恥ずかしいくらいに普通さ。
「どうして恥ずかしいのかしら?」
 俺は他人に誇れるような事は何一つとしてやってこなかったからな。あんたみたいに、明確に生きようとしていたわけでもない。ただ漠然と、死ぬ事を意味もわからず恐れていただけなんだ。
「けれど、今の貴方は私と通じた事で、死というものの片鱗を知った。その上で、どう? まだ死にたくはない?」
 そうだな。まだ死にたくない。
「どうして? 魂だけの姿になったとしても、貴方は満足なんでしょう?」
 そうだよ。でも、やっぱり生きている方が自由だ。やろうと思った事ができる。魂だけって状態よりも、選択肢がずっとずっと広いんだ。
「それが貴方の、生きたいと思う理由?」
 十分だろ?
「そうね、十分だわ。でも、もう少し強い力が欲しいところね」
 強い力?
「そう。死にたくないと思う力では足りない。生きたいと思う強い欲求。まだこんなところでは死ねない、もっと生き続けなければならない、という狂おしいほどの想い。貴方の言葉を聞く限りでは、そういったものは感じられない」
 そりゃそうだろうな。そんなものはないし、ないものは言えない。
「見つけられない? でないと、この暗闇は終わらないわ」
 え? それって、どういう事だ?
「これ以上は、教えられない。考えてみて。貴方が生きようとする強い理由。死を拒絶するという弱い生き様ではなく、生を渇望するという強い生き様を」
 チリン――
 あ、おい!
 ……いなくなっちまったのか? まったく。これだから最近の女の子ってのは困るんだ。
 ――強い理由、か。
 そんなもの、何かあるだろうか?

 どれくらいの時間が経ったんだろう。時計もない、何もない、動くものなど欠片さえも見つからないこの暗闇の中では、時間の経過というのはまったく理解できなかった。
 チリン――
 久しぶりに、耳が何かの音を捉える。それは、鈴の音色。
 考えた途端、あの子の声が聞こえてきた。
「どう? 見つけられたかしら?」
 見つけられなかったら、どうするんだ。
「これが最後のチャンスよ。これ以上のものは与えられない。貴方は正式に死を迎え、魂だけの存在となる」
 そうか。それも悪くないな。
「……そう」
 でも。
「でも?」
 でも、生きる理由を見つけちまった。だから、まだ死ぬわけにはいかないなぁ。
「あったのかしら? 緩やかに死を否定するのではなく、自ら生を掴み取る想いが」
 あったよ、あったあった。普通すぎて退屈な日常のせいで、すっかり忘れていたぜ。
「聞かせてくれるかしら?」
 ああ、いいよ。
 つっても、たいした話じゃない。言ったよな? 俺、ひとりでいるのが好きだって。
「聞いたわ」
 そうなんだよ。けどさ、最初からそうだったわけじゃないんだ。これでも昔は、気さくって感じの男だったわけなんだよ。友達も多かったし。
「それが、変わってしまった」
 正解。理由はさ、友達が事故死したせいなんだ。
「仲が良かったの?」
 ああ。今でも親友って言える奴は、あいつしかいなかったって思ってる。それが、バカだよな、赤信号を渡ろうとしてトラックに――。
 そん時さ、俺はめちゃめちゃ落ち込んだ。友達がいなくなって寂しいなんてレベルじゃない。本当に、自分が痛めつけられた方がマシって思えるくらいに落ち込んだよ。
 それ以来、なんだ。誰にも関わらない方が楽だって思えるようになった。依存のし過ぎはよくないって骨身に染みたから、さ。付き合いも表面的なものにして、深くは立ち入らないようにしてきた。おかげで、恋人もできやしない。
「それが、貴方がひとりを好んだ理由。なら、生きる理由は?」
 そう、それなんだ。俺はトラウマのせいで、深く付き合えなくなっちまった。それでも毎日は楽しめた。けど、この暗闇の中でその事について考えていたら、ふと、思っちまったんだよ。
 こんな俺を見たら、あいつは俺をぶん殴るだろうなって。
「親友に、ね」
 イエス。ダチを亡くしたからウジウジしていました、なんて言ったら、絶対にあいつは許さない。ブチ切れ確定だな。お前はいつからそんな腑抜けになっちまったんだー! って。
「それが、貴方が生きたいと思う理由?」
 俺は、あいつに恥じない生き方をしたい。そのためにも、まずは死んでなんかいられないんだ。今の俺はあいつに恥じる生き様だ。このままじゃ、あいつに会えない。俺はあいつに、恥じる事なんて何もない状態で会いたいんだ。
「……、確かに貴方の想い、受け取ったわ」
 ありがとさん。で、賞品でもくれるの?
「ええ。貴方を導く事はできないけれど、ひとつだけ、教えてあげる。目を開いてみなさい。そうすれば、世界は全て変わるわ」
 目を開く?
「そう。ただし、これだけは言っておくわ。世界は決して優しくない。貴方は強く生きねば、生き残る事はできない。覚悟しておいてね」
 任せとけ。今の俺に、敵は無い!
「頼もしいわ。なら、またいつか会いましょう。その時は、貴方の誇れる人生を教えてね」
 ああ、もちろんだ。さて、と。ずいぶんとゆっくりしたな。
 さあ、こっからが、俺の人生のリスタートだ!

 目を開くと、誰かの声が聞こえた。ただ、その声がひどく遠い。
『心拍、血圧上昇! 先生、持ちこたえました!』
『よし、ここからだ! 君、生きろよ! こんなところで死ぬんじゃない!』
 ああ、当たり前だろ? 俺はこんなところで死ぬわけにゃいかないんだ。さっさと助けてくれ。俺は、俺にできる事をやるから。
 見つけたんだ、ようやく。俺が生きなければならない理由。生きていないとできない事。だから、俺は、生きるんだ。
 頼むぜ、先生。


 手術室の中は、慌しい空気に包まれていた。医者や看護士がせわしなく動く部屋の片隅に、黒い少女が立っている。
 夜空色のワンピースに、黒い長髪を腰まで流した少女。その頭上では、漆黒の毛並みを自慢げに揺らす獣が尻尾を振っている。
「彼、助かりそうね」
「きゅ」
「消極的な生では、苦境は跳ね返せない。逆境の中でも両の足で持ちこたえるには、強い心が必要になる」
「きゅー?」
「そして、彼はそれを手に入れた。多少の手伝いはあったにせよ、ね」
 チリン――
 少女は柔らかく微笑んだ。とても、嬉しそうに。
「死ななくて、よかった」
「きゅ!」
 少女の視線の先では、多くの人たちが懸命に戦っている。勝利は、近い。
 その姿を、少女は見守り続ける。誰にも見つからぬ、魂だけの存在として。
 チリン――



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