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小さな約束だった。 それでも、守ると決めた。 それまでは、死ぬわけにはいかない。 「なあ、頼むよ。今月、厳しいんだ」 「無理なものは無理よ! ローンに学費、生活費! 私のパート代を合わせたって毎月、ギリギリなんだから! 私がどれだけ苦労してやりくりしてると思ってるの!?」 「いや、それはわかっているけど……」 「全然わかってないじゃないの!」 幸子と光一君の喧嘩する声。大介は2階でもう寝ているだろうから、聞こえていないだろう。こんな会話、聞かせたくはない。 「ただでさえウチにはお荷物がいるんだから……」 「お、おい! 聞こえるぞ!」 「大丈夫よ。もう寝ちゃってるんだから」 ああ、もう寝ているよ。何も聞いてはいない。だから心配しないでいい。 お荷物になっている事くらいわかっているさ。それでも、まだ約束を果たしていないんだ。それを果たすまでは、死ねないんだよ。 「なあ、広子や」 もういない妻、それがワシの生きる理由――。 毎日、公園でその日を過ごす。 午後の公園には子供がたくさん。その無邪気な笑顔を見ていると、幸子にもこんな頃があったと思ってしまう。 広子と結婚して、もう50年。 娘が生まれたのが33年前。なかなか生まれなかった子だけに、可愛かった。 しかし、それは広子の身体には負担だった。子供を産んですぐ、広子は逝っちまった。 広子は死の間際にワシに言った。 「私はこの子に何もしてやれない。だから、この子に千個の幸せをプレゼントして欲しい。それが出来るまでは、こっちに来ては駄目だから」 ワシは広子との約束を守ろうと誓った。それからワシは広子が幸せになるよう、それこそ死に物狂いで頑張った。小さい頃は、プリンを買ってやればそれでとても幸せそうだったなぁ。 そして今、999個。あと、1個。それが達成できるまでは、死ねない。 最後の幸せ。どうすれば幸子が幸せになるだろうか。毎日、それだけを考えている。 チリン―― 「こんにちは」 目を上げると、女の子が立っていた。孫の大介よりはもう少し年上。白い肌に、夜空のようなワンピース。可愛い子だ。 「こんにちは、お嬢ちゃん」 「隣、いいかしら」 「ああ、構わないよ」 ワシの隣に女の子が座った。 「いつもここにいるの?」 「ああ。ワシは家ではお荷物だからね。いない方が気楽だと思ってね」 それが999個目。次はまだ思いつかない。 「寂しくないの?」 「寂しいと言えば寂しいさ。それでも、ワシが我慢すれば幸子が幸せになる。それなら、ワシはいくらでも我慢するさ」 女の子は少し目を伏せた。 「……貴方にとって、その幸子という人はそこまでするほどに大事な人なの?」 「ああ、もちろんだよ。ワシにとって幸子以上に大事なものはない。何よりも大事なんだよ」 ああ、お嬢ちゃんにはまだ早い話だったかな。言ってから気付くとは、ワシも年を取ったものだ。 「ねえ、どうしてそんなに大事になったの?」 「……お嬢ちゃんにはまだ分からないかもしれないけどね」 そう。こんな年の子に言っても分からないだろうに。なのに、話したくなる。ボケたかなあ……。 「ワシにとって大事だったのは妻だった。仕事よりも妻の方が大事だった。その妻が大事にしてくれと言った。それだけでワシにとっては十分に大事にする理由になるんだよ」 「そう、なの……」 チリン―― 女の子はヒラリとベンチから立った。 「なら、止めるつもりはないわ。でも、思い詰めちゃ駄目。分かった?」 「ああ、肝に銘じておくよ」 チリン―― 女の子は走り去っていく。 不思議な女の子……。 いつか、また逢えそうな気がするよ。いや、逢いたいの間違いかな・・・。 家に帰り、部屋に戻る。 小さな仏壇の前に座り、線香に火をつけた。 「広子、今日は変わった子に逢ったよ。不思議な感じの子でね、大人びているというか……とにかく不思議な子だったよ」 今日、あった小さな事を広子に報告する。これがワシの日課。 「おじいちゃん、いる?」 孫の声に振り向く。大介が中を覗いていた。 「どうしたんだい、大介。こっちに来なさい」 大介は子供らしい頼りない歩きで近づいてくると、ワシの傍に座った。 「おじいちゃんはお母さんの事、好き?」 「突然どうしたんだい。もちろん大好きだよ」 「……お母さんがね、おじいちゃんなんかいなくなっちゃえって言ったの」 …………! 「本当、かい?」 努めて同じ、優しげな口調になるように。でないと大介にやつあたりしそうになってしまいそうで……。 「うん、僕……僕、どうしたらいいのかなあ?」 「気にする事はないよ、大介。きっとお母さんも言い間違っちゃっただけだから。ワシは大丈夫だから」 「……ホント?」 大介のあどけない顔がワシの顔を覗きこむ。ワシはできる限り柔和な笑みを浮かべた。 「本当だよ。さ、気にせず遊んできなさい」 「うん!」 大介は安心したように微笑み、部屋を飛び出していった。 ワシは仏壇の前に戻り、手を合わせた。 「もうすぐだからな、広子……。もうすぐ会いに逝くからな……」 ああ、もうすぐだ……。 ふう、今日は暑い。 この枯れかけた爺さんでも汗をかくのだから、大介や幸子は大変かもしれんなあ……。 公園のいつものベンチは木陰にある。そこに座って休むと、風が気持ちよかった。 チリン―― 「また逢ったわね」 「おや……君は昨日の」 昨日、同じ場所で出逢った女の子がワシの前にいた。本当に、いつの間に現れたんだろうなあ? 「ねえ、貴方はどうして生きているの?」 言いながら女の子はワシの隣に座った。凛とした空気が、ワシにはないものを感じさせてくれる。 「ワシはな、妻と約束したんじゃよ。幸子を幸せにする。それができたら会いに逝くとな。だから、それまでは死ねないんだよ」 「……そうなの」 「お嬢ちゃんには生きる理由があるのかい?」 おお。そういえばこんな子供に聞く話じゃなかったかな? 言ってから思ったが、女の子は目を伏せつつも答えてくれた。 「私は、私にしかできない事をするために存在している。この下らない喜劇を終らせる事。それだけが私の存在理由」 「おや……。随分と大変なんだね?」 何を言っているのかは全然、わからないけれど……。 これほど芯の強そうな女の子が目を伏せるような話。なら、この子にとっては大変な問題なんだろう。ワシが安易に口出しできる話ではない事だけは確か。 女の子は昨日と同じようにヒラリと立った。 「お孫さんが来てるわ」 「え……?」 「おじいちゃーん!」 遠くから孫の声がして、ワシは目を上げた。 「大介。どうかしたのかい」 「お、お母さんが……」 「……幸子がどうかしたのかい」 言いながらも、ワシは立ち上がっていた。 気付けば、女の子の姿は消えていた。 医者の話では、過労という事だった。幸子は最近、パートに家事ばかりで疲れていた。当たり前といえば当たり前の話だった。 今は寝室で寝ている。医者の話では、ゆっくり休めば元気になるとか。 安心した。あの子は昔から真面目すぎる傾向があった。今回もそのせいかもしれない。 家のローン。大介の学費。日々の生活費。お金が全然、足りないのだから。 「大介。お母さんを看てあげてくれるかな。おじいちゃんはちょっとお外に用事があるんだ」 寝室の前で、ワシは大介に言った。 「うん! 任せといて!」 大介が頼もしげに言ってくれた。ワシは大介と幸子を残し、家を出た。 「ただいま!」 「あ、お父さん」 一家の父の帰宅を、子供は喜んで迎えた。 「お母さんは大丈夫かい?」 「うん、今は寝てるよ?」 父は上着を椅子にかけ、ネクタイを緩める。 「そういえば……。大介、おじいちゃんはどうしたんだい?」 「えっとね、お外にご用があるって。だから僕がお母さんを見てるの!」 「……いつ頃か、覚えているか?」 「えっとね、夕方くらいかな?」 「なん、だって……!」 今は8時。夕方といえば4時くらいだろう。なのに、まだ帰ってこない。 「大介! ちょっと待ってなさい。お父さんはおじいちゃんを迎えに行ってくる」 「うん? 行ってらっしゃい?」 父は慌てて家を飛び出した。だが、もう遅い。 う、ん……。 ここはどこだ? ワシはどうして……? 下を見る。ワシの下には光が海のように輝いていた。人工的な、落ち着かない海。 「こ、れは……?」 チリン―― 「また、逢っちゃったわね」 耳にした声は、ついさっき聞いたばかりの声。 「君、は……」 「こんばんは。本当は逢いたくはなかったのだけれど」 女の子は何もないところをまるで歩くように近づいてきた。そういえば、ワシも……浮いている? 「貴方の生は元来、あまりなかった。しかも、不運にも貴方は事故に遭ってしまった。ただでさえ少なかった命が、突如として終焉を迎えてしまった……」 そう、いえば……。 コンビニでプリンを買って、それを持って帰ろうとして……。 それで、信号のない道でつい周囲を確認し忘れて。車に、轢かれたんだった。 「そうか……。ワシは、死んでしまったのか?」 「残念ながら」 女の子は無表情だった。でも、年寄りにはわかるんだよ。とても悲しんでいるという事が。 「お嬢ちゃんが悲しむ事じゃない。ワシの運が悪かった、それだけなんだからな。それより、ワシを家まで送ってくれんか?」 「どうして?」 「幸子に会いたいんだよ。幸せにできなかったけど、ごめんなって……謝りたいんだ」 「……貴方は本当に、どうしようもないくらいに愚かなのね。いいわ。死者の最期の望み。私に叶えられる程度なら、叶えてあげましょう」 チリン―― 女の子がくるりと回る。続いて、景色がぐらりと揺れた。 「ここよ」 真下に見える光景が変わっていた。下には家が見える。ああ、ワシの家だ。 「ありがとう。ちょっと行ってくるよ」 礼を言って、ワシは下に降りて行った。 扉はどうしようと思ったが、お化けみたいな今のワシには関係ないらしい。扉をスルリと通り抜けた。 居間には幸子と光一君がいた。 「……じゃあ、死んだの?」 「ああ。確認してきた。横断歩道で乗用車に轢かれたらしい。即死だったようだと医者が言っていたよ。警察の事情聴取は明日にしてくれるそうだから、帰ってきたんだ」 「そうなの」 光一君には迷惑をかけてしまったなあ。 ワシがいる事には幸子も光一君も気付かない。大介の姿は見えないが、部屋で寝ているんだろう。 「――良かった」 ポツリと、幸子が呟いた。 「え?」 「良かったって言ったのよ。部屋は広くなるし、無駄に食費やらを使わないで済むし。せいせいしたわ」 「幸子! なんて口を……!」 「だってそうじゃない! それに事故って言ったわよね!? 示談金も出るわね。それをローンの返済に充てるわ」 「いい加減にしないか! 自分の親が死んで、その口の利き方はなんだ!」 「私が私の親についてどう言おうと勝手でしょ!」 幸子はバンッと机を叩き、部屋を出て行った。光一君は台所の椅子に座り、頭を抱え込んでしまった。 ワシは、黙って飛んだ。家の上空では、まだ女の子が待っていてくれた。 「できれば貴方には知らせたくはなかった。それほどの現実。本当に、どうしようもない……」 「いいんだよ。むしろワシは幸せだ」 「え……?」 女の子がポカンと口を開いた。この子のこんな表情は初めて見るな。 「これで千個。ワシは広子との約束を守れたんだから。ワシは幸せ者だよ。お嬢ちゃん、ここまで送ってくれてありがとうな」 ワシは今までで一番の優しげな笑顔ができた。 またひとつ、生が途切れる。 残滓は少女にまとわりつき、その力となる。 「こんなものが現実。この世の醜い部分と、美しい部分が同居している。いえ、醜い部分があるからこそ美しい部分が引き立つのよね。それにしたって、辛い話」 チリン―― 「……わかっているわ。確かにあの老人は幸福に満ち溢れたままで生を終えた。それは並々ならぬ幸せに違いない。それでも、それでも――私が抱く感情は、不自然なものではないはずよ」 今日もまた、光の海に小さな雫が溶け込んでいく。 誰ひとり気付く事なく。 チリン―― |