僕のバイト先は、とあるファミレスだ。
 翌日、いつもより早めにバイト先に顔を出すと、休憩室に先輩がいた。
「あ、くー。おはよ。早いね」
「おはようございます」
 先輩はいつも通りの笑みを浮かべる。無邪気な、子供のような笑顔。僕も笑い返す。
「んー? どしたの、くー。なんか、変だよ」
「そ、そうですか?」
 どうやら、笑顔にさえもいつもと違う雰囲気が出てしまったらしい。いけない、いけない。
「紅葉。私の事は気にしては駄目よ」
 そう言われても、気にならないわけないじゃないか。
 先輩の目には見えていないだろうけど、僕の隣には、マリアがいる。昨日の約束通り、こうして連れてきてしまった。そこまでは、いいんだけど。
 マリアが何をしたいのか、そもそもどういう人物なのか、僕はいまいち把握できていない。なまじ見た目や口調がアンジェラとそっくりなだけに、把握はますます困難だ。
「彼女が、貴方の恋人なのね。興味深いわ」
 じろじろと、マリアは先輩を眺める。一方、先輩はそんな事に気づかず、僕を見て首を傾げている。
 あああ、もう、どうしたらいいんだろう?
「くー、やっぱり変だよ。熱でもある?」
 先輩が立ち上がり、僕の額に手を当てた。自分の額と、温度を比べている。
「特に熱はない、みたい? なに、それじゃあ悩み事?」
「いえ、そういうのはないですよ」
「ほんとーに?」
 先輩の目つきが、途端に変わる。
「くーは、すぐに隠れて色々とやらかすんだもの。くーの『ない』は、信用できないかも」
「そうですか?」
 ああ、良心が悲鳴をあげている、ような気がする。
 僕は苦笑を浮かべたまま、更衣室に入った。当然のように、マリアも付いて来る。
「それで、先輩に会ったわけだけど、どうだったの」
 僕は外に漏れないよう、小声で聞く。
「なかなか、興味深いわね」
「……?」
 質問に対する答えになっていないような? まあ、いいんだけど。
「僕はこれから仕事だけど、君はどうするの」
「失礼するわ。やりたい事もあるから」
「そう?」
 結局、先輩の顔を見ただけ? 何がしたかったのか、いまいちわからない。
 マリアの顔を見ていたら、背筋がぞくりと震えた。
 その正体を僕が見極める前に、マリアは姿を消してしまった。

 結局、バイトの間にマリアが姿を見せる事はなかった。
 僕は不審に思いつつも仕事も着替えも終わり、休憩室で先輩が来るのを待っていた。
 ちらりと、視線を足元に送る。そこには、昨日の服が入った紙袋が置いてあった。
 今朝はマリアの事もあって渡しそびれてしまった。仕事後に渡す、と話したから、先輩も楽しみにしているだろうな。
 先輩が喜ぶであろう事を考えると、少しだけ心が軽くなった。
「あ、遠藤先輩、お疲れ様です」
 声に顔をあげると、高校生の後輩アルバイトが僕に頭を下げていた。
「志野さん、お疲れ様。真理先輩は、まだかな?」
「もうすぐだと思いますよ」
 言って、志野さんは僕の足元をじっと見つめた。
「な、何?」
「それ、遠藤先輩からのプレゼントですか?」
「違うよ、ただの頼まれもの」
「またまたー、とぼけちゃって」
 とぼけてるわけじゃないんだけど……。言っても信じてもらえないだろうから、まあ、勘違いしたままにしておこうかな。
「遠藤先輩って、本当に田崎先輩を大切にしてますよね。そういう男の人っていいなぁ……」
「でも、落合君も優しいんでしょ?」
 彼氏の名前を出すと、志野さんは急に顔を赤くした。
「いや、裕也はぜんぜん優しくないですよ! デリカシーはないし、成績は悪いし、あの、その!」
 優しさと成績は関係ないんだけどな。まあ、恥ずかしいだけだろうけど。
「と、とにかく! お疲れ様です! 失礼します!」
 赤い顔のままに頭を下げると、志野さんは休憩室を出て行った。本当に、今どき珍しいくらいにウブな子だよなぁ。
「――それにしても、遅いな」
 志野さんと話している間に出てくるかなと思っていたけど、扉に変化はない……、って、あれ?
 いつの間にか、女子更衣室の扉が少しだけ開いていた。志野さんは確かに閉めたはずだけど?
 なんとなく気になって、僕は扉に近寄ってみた。こっそりと、中を覗く。
「――!」
 僕は、思い切り扉を開き、中に飛び込んだ。
「そこで何をしているんだ!」
「あら。見てわからないかしら?」
 くすり、と笑う。その笑みは、子供らしい外見にそぐわず、背筋が寒くなるような妖気を持っていた。
 マリア・キティ・ウェーバー。姿を消したはずの死導者が、真理先輩を昨日の光で縛り、その胸に剣を突きつけていた。
「くー! 逃げなさい!」
「嫌です!」
 即答し、僕はマリアをにらむ。
「どういうつもりだ、マリア。君たちは殺しはしないんじゃないのか?」
「言葉だけの約束を信じるなんて、おひとよしね、貴方は」
 くすくすと笑い、マリアは冷たい視線を僕に向ける。
「私はね、貴方が気に入ったのよ。遠藤紅葉」
「僕を、気に入った?」
 僕の眉根が寄る様を、マリアは楽しそうに眺めている。
「そう。起源を見抜く瞳。それは、ともすれば死導者に並ぶほどの力よ。
 貴方は気付いていないでしょうけれど、すでに極限に近い場所にいるのよ? 最後の壁は、生というものを理解する事。貴方が退魔師であったなら、とっくの昔に死導者化しているところだわ」
 この、僕が……?
 でも、言っている事も理解できる。僕は、普通の人間とはあまりにかけ離れている。
 おばけが見える、それだけならまだいい。化物を人間に戻し、その気になれば人間を霊体に変える事もできる。
 ああ、僕は間違いなく、普通じゃない!
「貴方が死導者になるために、彼女は邪魔なの」
 マリアの声が響く。耳が、身体が震える。
「死導者となる事。それは、絶望の選択。誰も理解できず、誰も共に歩む事はできない。絶対なる孤独の中、人間としての道は捨てなければならない。
 貴方は恋人を愛している。それでは、困るのよ。愛情が深いほど、貴方は自らの才能を進化させる事をためらってしまう。貴方はこちら側に来るべき人間よ、紅葉。こんな女など捨てて、さらに先へ進むべきだわ」
 ぎゅっと、拳を握る。それでも、まだ震えた。この震えは、止められそうにない。
「ただ、私も鬼ではないもの。別に殺さなくてもいいわ。貴方がこちらに来る決意をするなら、それで十分。むしろその方が良いくらいよ。力は想いがあるほど強くなるのだから」
「勝手な事を、言わないでくれ」
 そう、この震えは――怒りだ。
「僕は、死導者になるつもりはない! 僕は普通じゃないかもしれない。それでも、人間の遠藤紅葉だ! 死導者じゃない!」
「いずれはそうなるわ。その時、彼女は貴方と歩む事はできないわよ? 貴方と別れた彼女は、どうなってしまうのかしらね?
 それに、そうすれば彼女の名誉も保たれるわよ?」
 マリアが何を言いたいのか、すぐにわかった。マリアは、先輩の犯した罪の事を言っているんだ。
 僕はその事について何も言っていない。それなのにマリアが知っている理由はわからない。でも、たぶん、その事を言っているんだ。
 今、先輩が死んでしまえば――先輩の罪が暴かれる事は、たぶんなくなる。先輩の名誉も保たれるだろう。
 僕は、奥歯を強くかみ締めた。そうでないと、身体が飛び出してしまいそうだ。
 その前に、言わなきゃ。
「いつかは、別れるかもしれないさ。先の事なんてわからない。でも、先輩は僕に必要な人だ。僕は、今! 先輩と別れたくない! 先輩の隣にいたいんだ! 先輩に降りかかる火の粉があるなら、僕が振り払う!」
「くー……」
 真理先輩を見る。
 先輩を捕まえているのは、マリアが作り出したものだろう。それは、ただの生の集まりに過ぎないはずだ。起源も何もない力の塊なんて、僕には通じない。
 心臓きげんを掴むには身体せいを素通りしなきゃいけない。起源に触れられる僕は、それ以外の全てを、霧散させられる。
「先輩、すぐに解放しますから」
 ゆっくりと、心を押さえつけながら近づく。その前に、マリアが立ちはだかった。
 僕は、黙って握る拳に力をこめた。
「恩人である私に、手をあげるの?」
「ああ、僕は君に感謝している。君がいなければ、僕はこうして生きている事はできなかった。
 それでも、先輩をやらせるわけにはいかないんだ」
「私事のために、力を使うの?」
 僕が押し黙ると、マリアはここぞとばかりに続ける。
「貴方の力は、貴方が思う以上に絶大よ。それこそ、今の貴方は生を操れないだけで、それ以外は私と同じ力を持っているのだから。その気になれば、どんなものでも物理則を越えて破壊できるはず。その力を、私事のために使うの?」
 それは、胸に響く言葉だ。
 これだけの力を、自分のために使う。それは、一歩でも間違えれば、とんでもない事になる。
 武器を持っている人は、それを軽々しく使っちゃいけない。武器を振り回せば、誰かが傷つくのだから。
 あるいは、僕の力も――。
「けど、それでも」
 僕の心は、ひとつなんだ。
「僕は、僕が信じる道のために力を使う」
 いつだって、そうしてきた。それが正しいか間違っているかは判断できなかった事もあるけど、それでも、僕は僕が正しいと思える事のために力を使ってきた。
 これが僕の、僕なりの決意だ。
「そう。それが、貴方の答えなのね」
 ふう、とため息をつき、マリアは片手をあげた。
 途端、パチンと音が響き、真理先輩が床に崩れ落ちた。
「先輩!」
 慌てて駆け寄る。拘束が、外れた?
 マリアを見上げると、さっきまでの冷たい視線じゃない、温かみのある目になっていた。
「貴方は答えが出ているようね。何があろうとも、彼女を守るという決意。ならば、それ以上に何の問題があるの?
 倫理やルールというものは、社会に混乱が起きぬように作られたもの。貴方には貴方の信じる正義があるのでしょう? なら、貴方はそれでいいわ。悩む事などない。貴方に彼女は必要だし、彼女に貴方は必要よ」
 マリアの言葉を聞いて、僕はようやく理解した。
「もしかして、騙していたの?」
「失礼な物言いね」
 僕は先輩に視線を移した。途端、笑顔の先輩が抱きついてきた。
「ちょっと、真理先輩!?」
「んー、くーなら絶対にそう言うって思ってたよ! やっぱりあたしのくーは、どっこまでもくーだね!」
「って、先輩も知っていたんですかぁ!?」
 やられた。完璧に騙された。
 そうか。僕が悩んでいる風だったから、僕の中で決着させるために、わざわざこんな芝居をしたんだ……。
「貴方たちは幸せね。もしかすると、貴方がいたから、悪魔の輪廻は終わりを告げたのかしら」
「え? 僕、何かしたっけ?」
 くすりと笑い、マリアは言った。
「自覚がないのね。とても、貴方らしいわ」
 それって、どういう意味だろう。
「そろそろ失礼するわ。ふたりとも、お幸せに」
 僕に背中を向けて、歩き出すマリア。その、小さな背中に、僕は言う。
「ありがとう、マリア。恩に着るよ」
「それは、こちらの台詞よ。貴方がいたからこそ、私たちは救われたのだから」
 ふと、マリアの足が止まる。首だけで後ろを向き、なんでもない事のように言った。
「そうそう。ここ、女子更衣室よ」
 あ。
 マリアが扉をすり抜けるのと同時、ドアノブが回りだして――。
「せ、先輩! 離して下さい!」
「んー、紅葉、大好きよ」
「先輩ぃ!?」
 この方が、絶体絶命のピンチだ。
 頭の片隅で、そう思った。


 チリン――
 街中のファミリーレストランを、少し離れたところから三人の少女が眺めている。
「なるほどね、紅葉らしい悩みっちゃ悩みだわ。くそマジメにも程があるわよ」
 桜色の眷属はため息をつく。けれど、口元には笑みが浮かんでいた。
「それも彼の魅力ではないかしら」
「あら。貴女はああいうのが好みなの?」
「好み? そうね、私は彼が好きよ」
「なにぃ!?」
 ぐりん、と首を回し、眷属は問う。
「アンジェラ本気!? まさかの浮気!?」
「――? 私は、彼という人間、その生き様が好きと言ったのだけれど?」
「あ、ああ、そういう意味ね……。そうだよね、アンジェラだもんね」
 白い少女と黒い少女は、同じようにくすりと笑った。
「でも、彼はいつか本当に、こちらの世界に足を踏み入れるはずよ」
 白い死導者の言葉に、黒い死導者は頷く。
「彼が死を迎えれば、否応なしに生という存在を魂が理解する。そうなれば、彼は死導者となる資格を得るでしょうね」
「あるいは、このまま死者とかかわり続ければ、もっと早く得てしまうわ」
 そうなった時、どのような道を選ぶのか。それは、彼自身が決める事。
 それでも。
「彼ならば、彼なりに最良の決断を下すはずよ」
 黒い少女は、確信に満ちた声で呟く。
 その言葉に、少女たちも頷く。
 彼は、彼女たちにとっての特別。そして、それ以上に、特別な存在だった。
 太陽が、店を明るく照らしていた。どこかで笑う、青年のように。
 チリン――



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