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どれくらい、そうしていただろうか。 僕は闇夜の中でひざを抱え、じっとしていた。何もする気が起きなかった。 感情って、なんだろう。 美由紀さんの最期を見た後、僕の中に残ったのは、喪失感だけだった。ぽっかりと空間が僕の中に広がり、暗い闇を落としている。 たった一日で、ここまで僕の心に入ってくるなんて。美由紀さんは、すごい才能を持っていたんだな。 なのに、今の僕は、それに対して何のお礼もできない。笑う事さえ、できやしない。 チリン―― 顔を上げたのは、音が聞こえたからだった。 静かな、涼やかな、心を落ち着ける鈴の音色。何か、引っ張られるような魅力のある音色だった。 僕の前には、いつの間にか、女の子が立っていた。夜空色の、溶け込んでしまいそうなワンピース。白い肌に、同年代くらいの顔立ち。頭の上には、不思議な雰囲気とはまるでかけ離れた、動物が乗っていた。 「こんばんは。私の名は、アンジェラ・ウェーバー。貴方の名前、聞かせてくれるかしら?」 女の子――アンジェラは、ほほえみながら言う。 「僕、は、品川だけど。品川啓志」 「啓志。良い名ね」 名前を褒められたのは、初めてだな。 アンジェラは僕をじっと眺め、言った。 「貴方、ずいぶんと心に空虚を抱えているようね。何かあったのかしら?」 「……、あった、と言えるかな。一応」 前置きし、僕は今日の出来事を話した。 電車の事故で、死んでしまった事。 事故現場で、美由紀さんという、明るい人に出会った事。 美由紀さんに、あちこちに連れて行かれた事。 そして、美由紀さんが、消えてしまった事。もう、会えない事。 全てを話し終えた僕に向かって、アンジェラは口を開く。 「けい……」 「はいはい、呼んだー?」 声に、僕とアンジェラは同時にドキリとした。 いつの間にか、アンジェラの背後に女の人が立っていた。桜色の着物と白いミニスカートを組み合わせた、変な格好の人だ。 アンジェラは後ろを振り向き、微妙に表情をこわばらせた。 「ケ、ケイ……。今日は良い月ね?」 「アンジェラー? あたしを置いて行かないでって、どれだけ言えば理解するのかなぁ? んー?」 「ごめんなさい。少し、気になったものだから」 「気になったら足を動かす前に口を動かせ言うてるでしょうがアンジェラ。このお口は何のためにあるのかーなー?」 アンジェラの頬をぷにぷにしながら、ケイは言う。アンジェラは困ったような表情で、小さく『やめてくれるかしら』なんて言っているようだった。 なんだろう。さっきまで、ちょっと近寄りがたい雰囲気だったアンジェラが、ものすごく身近に感じる。 ケイさんはため息をつき、僕に視線を移した。 「で、この子が今回のお相手さん? 大変ねー、君も。そんな歳で幽霊なんてね?」 「え、いや、あの?」 何を言うべきか迷っていると、解放されたアンジェラが改めて口を開いた。 「啓志。美由紀という女性は、末期にどんな顔をしていた?」 「まつご?」 「終わりの時、よ」 終わりの時。消える、瞬間。 その顔は忘れない。忘れられない。 「……美由紀さんは、笑っていた」 とても、満足そうに。 感情を取り戻した僕を、嬉しそうに眺めて。 自分の死にすら悲しまなかった僕。けれど、美由紀さんとの、たった一日の時間で、僕は簡単に思い出してしまった。 僕の周囲には、いなかった人。僕に何も要求せず、僕に選択肢を与え、僕に笑いかけてくれた人。 そんな存在を、僕は失いたくないと思った。別れるのは悲しいと思った。 でも、願いは届かなかった。 いつだって、そうだった。僕が本当に願ったものは、いつだって僕の手元には残らなかった。 僕の人生は、死んだってそんなだった。 僕の頬を、熱い何かが通る。それは、気にならなかった。そのままで、僕はさけぶ。 「なんで、だよ。なんで思い出させたんだ、美由紀さんは。こんなに痛いなら、思い出したくなかった。忘れたままでよかった。そうすれば、痛みを知らずに済んだ! 別れがこんなに辛いなんて思わなかったんだ! 僕がいる場所が世界で最低の場所だって思っていたんだよ! あれ以上の痛みがあるなんて、思っていなかったんだよッ!」 そんなの、幻想だった。今から思えば、それがわかる。あれは、ただの子供の夢だったと。 そこが最下層であれば、もう落ちる心配はなかった。上を見て、うらやんでいればそれでよかった。 けど、僕は最下層じゃなかった。さらに深い痛みに落ちて、僕は、苦しんでいる。なのに、誰も助けてくれない。助けられない。 「なんで僕ばかりがこんな目に!? 僕が何をしたんだ! なんで、僕だけがこんなに痛い思いをするんだよ! 誰か教えてくれよ!」 「啓志。その痛みは、大切にしてあげて。美由紀が、命を賭して貴方に伝えた、人間の中で最も人間らしい部分なのだから」 「そんなのいらない! 人間じゃなくなってもいい! それより、この痛みをどうにかしてくれよ! なんでこんなに、苦しいんだよ!」 一瞬、だった。 一瞬、アンジェラは悲しそうに顔をゆがめた。それはほんのわずかで、次の瞬間には消えてなくなってしまうようなものだったけれど。それでも、僕の心に、突き刺さった。それが、さらなる痛みを呼ぶ。 「そうね。今の貴方が何を得ようと、それを役立てる機会はもう訪れないでしょうし、取り出して楽しむ時も、あまり残されていない。悲しいながらも、厳然とした事実ね。それでも」 悲しみを微笑の下に押し隠し、アンジェラは言う。 とても、強い笑みを浮かべて。 「それでも、死の瞬間、終わりの時、笑って消えられるなら。それは、とても幸せであったと思うわ」 だから、どうだと言うのだろう。 僕は苦しみにあえいでいて、幸せなんか欠片も感じられなくて。 仮に美由紀さんが幸せだったとしても、僕の痛みは消えないというのに。 なのに、アンジェラの微笑を見ていたら、そんな最後だけの、一瞬の幸せは、とても魅力的なものに思えてくる。その一瞬の幸せを、感じてみたくなる。 「貴方が感じる悲しみは、貴方が感じた喜びや楽しみの証。楽しい時に、多くの喜びを感じるほど、痛みも悲しみも深くなっていく。喪失は大きいけれど、そこには確かに、喪失感を覚えるだけのものが存在していたのよ?」 僕は、美由紀さんともっと一緒にいたかった。 初めて僕を、品川啓志という存在を重く見てくれた人。いつも楽しげで、楽しさがなければ、自分で探しに行くような人。 けれど、それはもういない。そして、僕もいずれ、消え去らなきゃいけない。 それは、とても悲しい事なんだ。辛い事なんだ。苦しい事なんだ。 悲しくて、辛くて、苦しくて。それはつまり――。 「生前の貴方までは、私にはわからないけれど。少なくても、今の貴方は、とても生きようとしている。生にしがみつきたいと願っている」 初めての人。僕に、希望を与えてくれた人。 もっとあんな人と会いたいと、思ってしまった。僕もあんな風になれたらいいなと、憧れてしまった。 それは、苦しいだけ。実際にはできなくて、ただ辛いだけ。そんな感情、なのに。 これは、美由紀さんが僕に与えてくれたもの。美由紀さんが存在していた証。 僕が、感情を持っている証。 そう、それは、僕という存在が、まだ生きているっていう証なんだ。 「美由紀、さん……」 この感情は、否定できない。これを否定する事は、美由紀さんの存在を否定する事になってしまうから。 美由紀さん。僕は、あなたと一緒にいたかった。もっと早くに出会いたかった。 せめて、せめてあなたに、言いたかった。 ありがとう、と。 今では、果たせない、願い。 「啓志。今は、ただ泣くといい。辛い事も悲しい事も、救われない事も事実なのだから。それは、泣いていい。 存分に泣いたら、思い出してあげて。彼女が何を望んだか。そして、願いが叶わないとは、どういう事なのかを」 もう、それ以上は、止められなかった。 「う……」 感情が爆発しかけた僕を、そっと包み込む影。ケイさん、だった。 「おうおう。あたしの胸を貸してあげるわよ」 柔らかなかおりが、僕を包み込んだ。心の安らぐかおりは、むしろ僕の涙を誘い込んで。 「う……あああああああああああああ!!」 僕は、泣いた。生まれて初めてというくらい、大声で泣いた。 「あああ、ああ、ああああああ!!」 泣いても泣いても涙があふれて、止まらなかった。 どうして世界は、こんなにも絶望だらけなんだろう。誰が、こんな世界にしたんだろう。 もし、この世界を作った神様に会えるなら、僕は言ってやりたい。 『ふざけるな!』 そう、ふざけている。こんな世界は。 絶望だらけで、終わりには悲しみに繋がる道をセットしといて。まるで、意地の悪いゲームのようだ。 でも、続けられる言葉もある。 こんなふざけた世界でも、僕がいて、アンジェラがいて、ケイさんがいて、そして美由紀さんがいた。 この世界がなかったら、美由紀さんに会う事も、僕が感情を取り戻す事もなかった。こうして泣く事も、幸せという存在を知る事もできなかった。 だから、最後の一言は、決まっている。 『――でも、ありがとう』 月光の下、少年は少女の膝上で、すーすーと寝息を立てていた。そのあどけない寝顔は、彼がまだ幼いという事を、今さらながらに思い出させる。 「疲れたみたいね。そりゃ、こんな子供が背負うには、ちょっと重すぎよ」 少年の頭を優しくなでながら、桜色の少女は言う。 「世界は甘くも優しくもない。事実だけを突きつける。この少年の事実は、あまりに大きく、重かったけれど――」 その隣に立つ夜空色の少女は、眉を寄せながら言った。 「それでも、彼は受け止めてくれた。逃げようとせず、正面から」 「そりゃ、子供だからね。逃げるとか避けるとか隠す誤魔化すとか、そういう大人のテクニックは知らないでしょうよ」 「知らなかったおかげで、彼は進む事もできた」 「最後に、ちょびっとだけね」 少年は無邪気な顔のまま、眠り続ける。夢の中では、憧れの女性に会えているのだろうか。 「いずれ、誰にも訪れるものだとしても、彼にはまだ訪れて欲しくなかったわね」 「そうね。でも、寿命とかは、あたしらが決めるもんじゃないでしょ?」 夜空色の少女は、堪えきれなくなったように、月を見上げた。 「人の命が永遠であればいいなどと、私は思わない。限りがあるからこそ輝けるのだし、人はそういう存在でよいと、私は思っている」 「うん。生きようとする輝きってのは、あたしも何度も見たし、わかってるつもりよ」 「そう。それは、目に見えない輝き。人によっては、感じる事さえもできない輝き。けれど、私はその輝きこそが、万の絶景、億の宝玉より、ずっと輝いていると思うわ」 夜空色の少女の頭上で、きゅー、と鳴き声が聞こえた。 チリン―― 少女は腕輪についた鈴を揺らし、瞳を閉じる。 「願わくば、終わりを迎えた彼と彼女に、幸福があらん事を」 「デッドエンドだからって、ハッピーエンドになっちゃいけないなんて決まり、ないんだもんね」 見えぬ幸せをまぶたの裏に求めるように。 少女は、黙祷を捧げていた。 チリン―― |