いつから、私は締め切りに追われるようになったんだろう。
 いつから、私は売り上げを気にするようになったんだろう。
 いつから、私は大切な事を忘れてしまっていたんだろうか。


『涼子は足を止め、振り返った。すると、そこには』
 そこには……、あー、どうしよっか。
 ぴたりと止まってしまった手の代わりに、頭を動かす。情景を思い浮かべ、キャラクターが動き出す姿をイメージして。
 して……、何も浮かばないなぁ。
「あー、どうしたもんかなぁ」
 声に出しても、何も出てこなかった。
 パソコンの画面を改めて見直す。ここまで進むにもかなり苦労したが、これ以上は何も沸いてこなかった。
 手が止まってしまったのは、今に始まった事じゃない。ここのところは毎週だ。いわゆる、スランプというヤツ。
 原因はハッキリしている。この小説とて、おそらくはほとんど売れないだろう。それがわかりきっているから、手が進まないんだ。
「だいたい、あれが売れなかったのがいけないのよね」
 今、こうして書いていたのは、三部作の最終巻、そのクライマックスに近い部分だった。物語が最高に盛り上がる、書いている方も楽しい場面。そのはずなのに、私はちっとも楽しくなかった。
 それは、この前の巻、三部作の真ん中にあたる作品が売れなかったから、だと思う。
 一作目はかなりの売れ行きだった。ベストセラーにもなった。けど、二巻目に手を伸ばす人は、なぜだか少なかった。
 本が、思ったように売れない。これほどモチベーションの下がる話はない。
 三部作の、一巻目と最終巻だけを買うなんて変人はあまりいないだろう。買うなら、まず間違いなく二巻目の後だ。その二巻目が売れていないんじゃ、これも売れない可能性は高い。
 出版社は、それでも本を出すだろう。三部作として宣伝したのだし、それで人気がないから途中でやめますなんて言えるはずはない。私も一応、それなりに名前の通った作家なのだし。
 けど、なぁ。
 売り出したところで、売れなければ仕方ない。そして、これはおそらく売れない。
 だいたい、本なんてのは巻数が後になるほど、売れ行きは悪くなるもんだ。途中で挫折する読者は多いし、それについて文句を言う権利はこっちにはない。最後まで読んで欲しければ、それだけの話を書けばいいだけの話でもある。
 だからこそ、私は全力で書いた。それこそ、今までの作家人生の全てを注ぎ込むつもりで書いた。のに、売れない。それは、私の人生を全否定されたようなものでもある。
「――だーから、そういう事は考えるなっていつも言われてるでしょうが」
 編集の情けない顔を思い出し、苦笑が浮かんだ。
「しゃーない、寝るか」
 締め切りまで余裕があるわけじゃないけど、パソコンの前に座っていれば話が思い浮かぶなんてものでもない。書けない時は、離れる勇気も必要だ。
 私はパソコンの電源を落とし、ベッドに横になった。目覚ましを三時間後にセットし、軽く目をつむる。
 そのまま、意識は深い闇の底に消えていった。

 あ、ん?
 目を開くと、頭がボーッとした。体がふわふわとしていて、頼りない。なんだか自分の体ではないような気がした。風邪でも引いたのかな? そんな暇はないんだけどなぁ。
 時計を見ると、八時と表示されていた。ああ、もう夜になっちゃったか。いけない、早く続きを書かないと。
 変な気分のままに、私はベッドから起き上がると、パソコンの前に座った。そして、電源ボタンに手を伸ばす。
「あ、りゃ?」
 手ごたえがなかった。文字通り、ボタンを押した感覚が伝わってこないのだ。
 不思議に思いつつ、何度も押す。けれど、やはりボタンの感覚は伝わってこない。
「なによぉ、壊れちゃったわけ? どうしてこう、どいつもこいつも私の邪魔をするのかな!」
 いい加減、イライラしてきた気持ちを抑えつけるようにしていると、
「無駄だから、やめとけば?」
 後ろから声がした。ドキリ、と心臓が跳ね、私は振り向いた。
 部屋の隅に、いつの間にか女の子たちが立っていた。
 ひとりは、桜色の着物と白いミニスカートを組み合わせている、特徴的な服装の女の子。意志が強そうな瞳は、そこらの女子高生とは一線を画している気がした。
 もうひとりは、夜空色のワンピースを着た女の子。ランドセルが似合う年頃だろうに、これまた冷静で落ち着いた雰囲気を持っていて、明らかに同年代の子とは空気が違っていた。
「えーと、泥棒さん? 悪いけど、あんましウチもお金ないんだけど」
「この格好で泥棒しているなんて思うわけ?」
 高校生は不満げに言い、胸を張った。
「あたしはケイ。志野ケイよ」
「私は、アンジェラ・ウェーバー。死導者よ。それと、こっちはエル」
 小学生が足元を指す。よくよく見ると、小学生の足に隠れるようにして、黒い小動物がこっちを見ていた。
 私はふたりの顔を当分に眺め、
「えーと。まず、質問その一。しどーしゃって何?」
「死を導く者の略なんだけどね。生き方に迷った人の相談に乗ったり、死んじゃった人には満足して成仏してもらえるように最期のお願いを聞いてあげたり。あるいは、生きてもいない、死んでもいないバカをぶっ殺したり。そういう仕事よ」
 天使、みたいなものだろうか。それにしては、このふたりはどちらもそれぞれの意味で天使らしくないけど。
 ケイの方は、見たところ明るすぎる。ぺらぺらとよく喋るし、どう見ても天使って感じじゃない。
 アンジェラの方は、さらに天使らしくない。黒いし、表情というものは何もない。
 これでこのふたりが天使だ、なんて名乗っていたら、私は爆笑しながら警察に電話しているところだ。
 気を取り直し、私は質問を重ねる事にした。
「じゃ、次の質問。ここにはどうやって入ってきたの?」
「壁をすり抜けて」
 なるほど。おばけみたいな存在である事は間違いないんだ。
「じゃ、最後の質問。私に何か用?」
「それはむしろ、あんたにあるんじゃないの?」
 ケイの言葉に、私は首を傾げた。
「どういう事?」
「だって、あんた、気づいてないじゃないの」
「だから、何を」
「自分が、死んでいる事」
「――――――――――――、は?」
 言葉の意味が理解できなかった。
 私が、死んでいる? それは何の冗談だろう。
 アンジェラが、無言でベッドを指した。私はそちらに目を向け、そして、見てしまった。
 ベッドの上には、まだ私がいた。ここに私がいるのに、同じように、ベッドの上にも私が眠っていた。
 本当に静かに、まるで深く眠りこけているかのようにして、死んでいた。
「え? う、そ?」
 それが嘘や冗談の類ではないと、わかっていた。どう考えても、ここに私がいて、かつ、ベッドの上に私が眠っているなんてありえなかった。
 できれば、夢か何かだと思いたかった。それを否定する言葉が、私の耳をつく。
「残念だけれど、これは夢でも幻でもない。貴女は間違いなく死んでいる。今すぐに実感は沸かないかもしれないけれど、徐々にそれは貴女の中に浸透していく。
 時間が欲しければ、私たちは席を外すけれど?」
 アンジェラの言葉を、聞いたままでは理解できなかった。頭の中で言葉を繰り返し、そうして、ようやく理解できた。
「あー、いや、ここにいて」
 返答し、私は頭を抱えた。
「あー、そっか、私って死んじゃったんだ」
 元から心臓は弱かった。医者には、激しい運動をすれば間違いなく死ぬよと脅された事もある。けど、最近は体の調子も良くて、死ぬなんて微塵も考えた事はなかった。
 突然に訪れた、死。
 そこで私が考えた事は、ひとつだった。
「死んじゃったら、もう小説も書けないのよね」
 パソコンに目をやった。ブラックアウトした画面には、何も映っていない。私の顔さえも。そこで、改めて死んでいるという事実を実感する。
 電源にすら触れられない今の私では、小説なんて書けるわけがない。それは、書きかけの長編小説も、仕上げられないという事だ。
 それが、残念だった。
 そこまで考えて、ふと気がついた。
「そういや私、スランプだったんだっけ」
 なら、どちらにせよ書けない事に違いはないわけか。ただ、生きていればいつかは完成させられるかもしれない、という点を除いて。
「スランプ、だったの?」
 顔を上げると、アンジェラがじっと私を見つめていた。それに、私は頷き返す。
「最近、なんか書けないのよね。手が動かないっていうか。少しずつ書いているんだけどさ、それでもあんまり進まなくて。さっきも途中でやめちゃったのよね」
「どうしてそんな事に?」
 理由を聞かれ、答えるかどうか迷った。作家として、本が売れないから書けない、なんてのは恥かもしれない。
 一瞬だけそう考えて、すぐにその考えは消した。よくよく考えるまでもなく、私は死んでいるんだ。今さら、名声に固執したって仕方ない。
 私は事情を話した。前作が売れていないのに、この小説が売れるわけはない、という事を。
 本が売れないという事は、この話を読む人もいないという事。せっかく作り上げた作品も、誰の目にも触れないのであれば、あまり意味はない。
 私がため息混じりに話す内容を、アンジェラもケイも、真剣に聞いていた。他人の愚痴なんて聞いて楽しいものではないだろうに、それでも真剣に。
 不思議な子供たちだった。
「そのお話って、もうできあがってるの?」
「ん? まだよ。クライマックスの前のところで、気力が尽きちゃってね」
 思えば、そこで私の命も尽きちゃったわけか。皮肉な話だ。
「……そういえばさ、あなたたちって、死導者だっけ? 要するに、いろんな人と会うのよね」
「ええ。死者も生者も。様々な人々と出会い、私はその全てを記憶するようにしているわ」
 アンジェラの答えは迷いがなかった。本当にそうしているんだろう。
「ねえ。それならさ、あなたたちの話を聞かせてよ。こんな出会いがあった、とか、こんな別れがあった、とか。そういう、今までの出会いと別れについて」
 アンジェラとケイは顔を見合わせた。私の要求が意外だったのかもしれない。
 そして、私に視線を戻し、そろって頷いた。
「おっけ。じゃ、まずは誰の話をしよっか」
「そうね。話の種は困らないわ」
 そうして、ふたりは語りだした。
 今までの出会い。別れ。
 喜び。悲しみ。怒り。楽しみ。
 それは、聞いているだけでも感情が揺さぶられるような、魂のこもった話だった。

「あら。もう朝じゃない」
 ふと、ケイは窓に目を向けた。そういえば、いつの間にか光が差し込んでいる。
 ずっと、ふたりの話を聞いていた。生と死の境にいるふたりは、本当に色々な人と出会っていた。その話を聞く間に、私の中に芽生えるものがあった。
 それは、書きたいという衝動。
 沸いた言葉を形にしたい。知ったばかりの、痛いほどの人々の想いを、私の言葉で文章にしたい。
 それは、作家として最も基本的な衝動。ただ、書きたかった。ひたすらに書きたかった。
「あー、ちぇ。なんで私は書けないのかなぁ……」
 今の私は、書きたいという気持ちがあっても、書き連ねる事はできない。それは、書けるとか書けないとかいう以前の問題。キーボードにも触れられない、ペンすら持てない私は、文章を形作る事ができない。
「……そういえば、あなたたちは実体化できるのよね」
「――? できるけれど?」
「ならさ、私の代筆、やってみない?」
 思いつきだった。実際、やるとは思っていない。
 ただなんとなく、聞いてみただけだった。
「どうすればいいの?」
 その答えは、意外だった。
「本当にやってくれるの?」
「貴女が望むなら」
 アンジェラは真剣な表情で答える。それに慌てたのは、ケイだった。
「ちょ、アンジェラってパソコンとか使えないんでしょ!?」
「ええ。人間の作った機械は、使った事もないわ」
「なら、どうやって代筆なんかするのよ! できっこないじゃない!」
「なら、貴女がやる?」
 アンジェラは、ちらりとケイを見上げた。口元に微笑を浮かべたその姿は、ずるい、と思った。
 案の定、ケイは言葉に詰まった。頬を赤く染め、あさっての方向に視線を送る。
「あー、うー、アンジェラってたまにずるいよね」
 はあ、と軽くため息をつき、ケイは頭を抱えた。
「しゃーない。アンジェラにやらせるわけにはいかないもんね、あたしがやってあげるわよ」
「えーと。私が提案しといてアレなんだけど、できるの?」
 見たところ、ふたりともパソコンなんて触った事もなさそうに見える。
「あたしは機械オンチよ」
 やっぱり。
「それで、代筆は無理じゃないの?」
「使い方は教えて。要するに、ボタンが押せればいいんでしょ? 時間はかかるだろうけど、あんたがそれで我慢してくれるなら、やるわよ」
 要するに。ケイは心の底から明るい笑みを浮かべ、言った。
「あんたが、書きたいかどうか。それだけの問題よ」
 それに対する答えなんて、決まりきっていた。
「なら、お願い」
 とにかく書きたかった。ひたすらに書きたかった。
 迷う理由なんて、何もなかった。

 外がだんだんと賑やかになってきた。通学する子供たちの声だ。
 代筆を頼んで、とうとう丸一日が経過してしまった。それだけの時間を使って、なんとか完成させる事ができた。
「あー、疲れたぁ……!」
 ケイは床の上を、疲労に満ちた顔で転がっている。
「おばけでも疲れるのね」
「当たり前でしょうが。体はなくっても、心はあるのよ」
 ケイは、本当に初めてパソコンに触れたらしい。頼りない手つきながらも、私の指示通りに文章を連ねてくれた。
 時間はかかった。けれど、その時間さえも楽しかった。
 お話を書くという事。文章をカタチにするという事がこんなにも楽しいなんて、どれだけぶりだろうか。
 いつからか、私は初心を忘れてしまっていた。作家として生きる間に、作家として最も大切なものを忘れていた。
 それを、思い出した。それだけで、例えようがないほどに楽しかった。
「ま、後はそのうち編集が見つけると思うわ。私の体もね」
 私の遺作、か。
 うん。とても、満足な出来。まさに、本当の意味で私の全てを注ぎ込んだと言ってよかった。それだけの作品を、死んだ後とは言っても、完成させる事ができて満足だった。
「ありがとね。あなたたちのおかげよ」
 笑いかけると、アンジェラは静かな瞳で私を見返した。
「物語は完成した。けれど、貴女は何も得られない。富も名声も、読者の声さえも。それで、満足なの?」
「満足よ」
 答えは簡単だった。迷う必要さえもない。
「私の言葉が誰かに届く。それがその人に影響を与えるかもしれないし、次の瞬間には忘れてしまうかもしれない。どっちでもいいのよ、そんなの」
 思い出したから。私は、どうして書こうと思ったのか。どうして作家になったのか。その、理由を。
「私は、書きたいから作家になったんだもの。そりゃ、できればたくさんの人に読んで欲しい。そして、面白かったって言ってもらいたい。でも、私が書こうと思ったのは、そのためじゃないの」
 とても昔の出来事。あまりに昔なので、忘れてしまっていたもの。
 ただ、空想する事が楽しかった。頭の中で、たくさんの人が現われて、それぞれが生きていく。そのイメージが、何よりも楽しかった。
 小説を書き始めたのは、そのイメージを残したかったから。ただ、それだけだった。
「書く事が本当に楽しかった。だから、書いていた。そうなのよね。
 これで、いい?」
 アンジェラは小さく頷いた。私は、光が差し込む窓に目を向けた。
「いいわねー、セカイって」
 チリン――
 そっと私の隣に立ち、アンジェラは答えた。
「ええ、その通りね」
 アンジェラの声を耳にしながら、私は目を閉じた。
 清々しい風が通り抜けたような、そんな気がした。


 光を見送り、夜空色の死導者は自らの眷属へと視線を向けた。
「ケイ。いつまでそうしているの?」
「あー、もう少しだけ。本当に疲れるんだからね? パソコンってのは。もう絶対にやんない」
「なら、やらない方がよかったかしら?」
「……それは、ノーだけどさ」
 掛け声と共に体を起こし、桜色の眷属は伸びをした。
「ま、あたしの尽力で成仏できたってのなら、嬉しいけどさ。ただ、できればこーゆーのは、ちょっと勘弁して欲しいわね」
 くすりと笑い、夜空色の死導者はくるりと回った。
 チリン――
 眷属の周囲を光が包む。死導者の舞い踊る姿にあわせるように、光の粒子が眷属を癒していく。
「お疲れ様、ケイ。何事も経験よ」
「けーけん、ね」
 立ち上がり、桜色の少女はちらりとベッドを見た。
 そこには、安らかに眠る女性の姿がある。もう二度と覚める事のない、深い眠り。
「――ま、いっか」
 自分を納得させるように頷き、少女は足を窓に向けた。
 チリン――



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